21. 黒の決意
「明日……ね」
空を、月を、真下から見上げるシルフィア。
ノワールの城の頂上。びゅうびゅうと吹く風は嵐のようで、油断すれば飛ばされてしまいそうだ。
そういえばあの日もこんな嵐だった。
見送った2つの背中、酷い嵐なのに2人の周りだけは穏やかだった。いつだって、どんな嵐だって、穏やかな風に変えて、笑って帰ってきてくれる。だから大丈夫だと思った。
実際、嵐は止んだ。澄み渡るような青い空に変わって、穏やかな風も吹いていた。でも、帰ってきたのは1人だった。
血だらけの……を抱えて、帰って、嘘だ。これは嘘だ。
ガシャ……グシャ……カラカラコロロ。
まるで何かが潰れて、壊れて、こぼれ落ちてしまったような、そんな音でシルフィアは我に返る。
気づけば息は乱れ、顔にはべったりと塗りたくったような酷い汗。軽く呼吸を整えながら、徐々に顔をしかめる。
時々ある。自分の記憶にない事を断片的に見ることが。
そこでは必ず、自分と似た黒髪の女性がいる。顔は見えないからわからない。その女性の顔を見ようとすれば、それを拒むように現実に引き戻される。でも自分と同じ黄金の瞳である、ということだけは何故か知っている。
いつからか見始めた「これ」は非常に不愉快で不可解だった。特に最近……グリーフの悲しそうな表情を見てから、「これ」を見る頻度も、見ている長さも増えた。
記憶には無いのに、どこか懐かしさがある「これ」はシルフィアに思い出させようとしているのかと思えば、肝心な所は欠けていたり、あと1歩という所で邪魔をしたりと矛盾が多くて不快であるし、「これ」を見た後は今のように体調も悪くなるし、酷い時は立っていられなくなる。
文句を言ったらキリがない。そう思えるほどには不満がある。しかし不満を述べた所で何も変わらないから、ため息しか出せない。
「ため息は幸せが逃げちゃいますよ。シルフィアちゃん」
そんな大きなため息を聞かれたようで、後ろから肩をぽんっと叩かれる。自然に振り向けば、頬が指に刺さる。
このなんとも言い難い気持ちをどうすればいいだろう。
「ジュリエッタ……あのね…………」
目の前でにぱーっと笑うのはジュリエッタ。
シルフィアと同年代……もしくはそれ以下の見た目で、大人しくしていれば清楚で可憐な花のような少女なのに、こういったイタズラが少し残念な子である。
「怒ると折角の可愛い顔が台無しですよ?」
「怒ってないし…………」
マイペースというか、振り回し体質というか……。
キラキラ輝く2つの琥珀からは悪気は感じられない。
この悪気は無い、というのがタチが悪い。おかげで怒るに怒れない。再度ため息を吐いて、呆れたようにジュリエッタを見れば、鼻歌なんかを歌っている。本当にマイペースだ。
「それで? 何か用なの?」
「用といえば用ですけど、あんまり気にする事でも」
「もったいぶらなくていいわよ……」
「うーん、遂に明日ですねぇって」
本当に気にする必要がなかった。しかしジュリエッタにとっては、今回の戦いには決意がいるのだろう。
「私情抜きで、純粋にブランと戦わないといけない理由が未だに理解できません」
「私達ノワールは軍事力はあっても、生産力はない。だからそれを、ブランで補う」
「だとしても……」
「……戦いたくないなら、無理に参加する必要はないのよ」
ジュリエッタの曇った顔を見れば、そう言わずにはいられなかった。無理もない、ブランは彼女の産まれ育った場所なのだから。災厄が無ければ、争うことも無かった。それに仮に争っても彼女はブランに加勢しただろう。
「……父もそう言ってくれました。でも、いいんです。先輩達や師匠に顔を見せたいですし、それに……」
「どうせ終わらせるのなら。私の手で、終わらせます」
儚げなその表情は、静かな決意で満ちている。
しかし、やはりどこか無理をしているようにも見えた。
「……無理はしないように。追い込みすぎれば、自分自身を壊すことになるから」
「わー!いつにも増して優しいですね、シルフィアちゃん」
「…………優れた戦力を失いたくないだけよ」
「照れてるシルフィアちゃんも可愛いですねぇ」
「あっそ。……なんで抱きついてんのよ」
急に抱きついて頬をくっつけようとするジュリエッタを手で止めようとするが、無駄なようだ。筋力で勝てるはずもなく、謎のうりうりを許してしまう。
そんな仲良さげな2人を微笑ましそうに眺める1人の姿。
その女性……レグレアは肩まで下りた黒髪を風に遊ばせて、空を見上げる。輝くは十四日月、満月の前日に見える月。
「気づけば明日。セフィアから予測は教えられても、やっぱりドキドキするな」
明日は全ての始まり。どう転ぶかは、小さな彼女達次第だが、これが終われば胸の中にある後悔もようやく晴れる。
「待っててね、シルフィ。もう少しで全部話せるから」
仕方の無いことだったとしても、やはり心は傷んだ。
自分自身のせいで、心を壊した妹を救うため。
妹から、姉の存在を消す。そう思い込ませた。
それでも、必死に思い出そうとしている。
それに、グリーフやリエンにも辛い思いをさせただろう。
ふさり……と柔らかいものが肩にかかる。
感傷に浸っていたせいか、背後の気配に気づけなかった。
慌てて振り返れば、そこにはグリーフが。
「毛布……ありがとう」
「風邪引かれても困るからな」
素っ気なく返されるが、彼なりの照れ隠しだろう。
毛布をかけに来た……それにしては息が少し荒いグリーフにレグレアは疑問の顔をしていれば、グリーフは困ったように指で頬をかく。
「……どこか行くなら、一言くれ」
「……なーんだ、そういうこと?」
その一言で察する。心配なんだと。
あの日も、何も言わずに先に行ってしまったから。
「そういうことだ。……またいなくなられても困る」
「ごめんごめん」
やれやれと言ったようにグリーフは隣に座る。
やはりその視線は、仲良さげに話しているシルフィアとジュリエッタの元に止まっている。
「あの2人。元気そうにしてて良かった」
「元気が取り柄のあいつらだからな」
なんだかんだ文句を言いながら、その顔は笑っているシルフィアに、枯れることなく満開の笑顔のジュリエッタ。
レグレアという大きな存在を無くしても、強く立派に育っている。それだけでも今日はここに来て良かったと言える。
「まぁ、だからよ。グレア1人で背負う必要もないし、あの時の選択も間違ってないんだ」
「うん……。ありがとう」
本当にグリーフは自慢できる夫だと思う。当たり前の事かもしれないが、それを当然のように続けてくれるというのは中々できない事だと思うし……。
「まぁ、今の現状も明日からの戦いが終われば……なんだろう?」
「うん。流石に今のあたしじゃ、これ以上は無理だから」
生前のレグレアならできることは、基本的に今のレグレアではできない。生命を魔力で補っているからだ。
七天の創始者の特異な力である「権能」は恩恵のように一時的なものというより、持続するものが多い。だから魔力の消費が激しい。
レグレアの権能は、対象者を思い込ませるという力であり、例にあげればシルフィアに対して「自分に姉はいない」であったり、エルメルアに対して「レグレアの言うことには従わなければいけない」というものだ。
そして今の権能の範囲はブランとノワールの2つの国。
2人への干渉に加えて、2つの国への干渉を維持させる、これだけでも負担は大きいのだ。そこから更に干渉を増やすのは無謀であるし、それにいつかはシルフィアには真実を教えなければならない。丁度いい頃合いだろう。
「だから明日から頑張ってね」
「ああ……なるべく早く、と言いたいところだが」
「うん?」
「結末の予測は……出てるんだろう?」
セフィアによる予測。ブランとノワールが争う事によって起こる全ての事柄。それらは既にレグレアは知っている。
だからこそ、争う意味を聞きたいのだろう。
「1番は黒幕を欺くため……だからダーリンは気にせずに全力で戦ってほしい、かな。久しぶりに私が見たいってのもあるけど」
「後は恩恵がどこまで戦えるか……とかか」
「そう。主にブランのね。ダーリンには悪いけど、向こうの恩恵の対策はノーヒントで」
「まぁ……今更何を見せられても驚かんがな……。グレアの何でも思い込ませる力だったり、全てを予測してるやつとかいるし……。まぁやるだけやるさ」
そう言って、グリーフはニカッと笑う。レグレアもそれに釣られて笑えば、グリーフは「先に部屋に戻る」と言ってその場を去っていく。辺りは既に音も光もない。
そんな風に周りを見ていれば、既にグリーフの背中は小さくなっている、1人でいたい時もあるだろうという配慮だろう。
「今回の作られた『盤上』で姿を見せてくれるといいけど」
災厄の元凶。災厄を起こした目的はわからないが、災厄によって起こる混乱を確かめには来るはずだ。その確かめに来た所を仕留める……それが七天の創始者本来の目的。
セフィアが完全な権能を使えないとは言え、彼女の予測でもその正体が掴めないとなると、余程の強敵なのだろう。
こちらは魔力が枯渇してもいけないというハンデ付き、気を引き締めないといけない。
顔を両手で叩いて、レグレアはグリーフの後を追う。
盤上で踊るは白と黒、その下で行われるもう1つの戦い。
始まりの一手はどちらも同じ。