17. 黒の追想
「グ…………レア……?」
目を覚ましたグリーフは状況が飲み込めず、ただただ声をこぼす。走れば届く距離に2人が立っている。片方はグリーフが見知った顔。
今確認できるのは、何もない野原が続いていること、そして誰かに抱きとめられているレグレアがそこにいるということだけ。
しかしレグレアは人形の如く動くことも反応もない。
代わりにグリーフの声に反応したのは、レグレアを抱きとめている、自分に似た大柄な男。
着ている鎧が大きく、何をしているまでかはわからないが、何かをしているというのはわかる。
「くすくす…………到着が……遅かったようですね」
その男の顔がドロドロと溶けるように、メッキが剥がれていくように姿を変え、ゆっくりとこちらを振り向く。
妖艶でありながら、底の知れない不気味な女性。
着ていた鎧がボロボロと崩れ落ち、音もなく地面に吸い込まれていく。そして露わになる華奢な身体。並の男なら庇護欲を掻き立てられ、虜になってしまうような身体付きだ。
そして同時に、明らかに不自然な右腕が露わになり、見せつけるようにその右腕を勢いよく引き抜く。
びしゃっ……と滴る音。そこに紅い花が咲く。
それが何を意味するのか、一瞬で理解した。
だが、それを飲み込むまでに時間がかかる。
そんなグリーフの様子を恍惚な様子で眺め、女性は右手の指にこびりついた血を、愛おしそうに1本ずつ丁寧に舐める。その仕草を呆然と眺めることしかできない。最後の1本を舐め終わり、口周りをペロリと舐める。
「くすくす…………折角ならば殿方の胸で……眠らせてあげてください……」
そういって、ゆっくりと消える女性。
残ったのは重力に従って落ちていく、最愛の妻。
走る。ただ走る。持っていた大剣を捨て、自分が出せる最大の速度で走る。落ちていくレグレアは今にも消えそうで辛そうな顔。そんな時に自分がいてやれなくてどうする。ただその一心で走る。
「だ…………め……!」
その手と手が触れる、寸前。
掠れた声で聞こえた制止の言葉。だが、止まれない。
今止まれば、彼女はどうなる?
あの鎧の様に地面に呑み込まれたら、どうする?
制止を振り切り、手を取ろうとした時。
ぱんっ……と弱々しく跳ね除けられる。
「最後くらい……聞いて…………!」
それでも手を取ろうとしたグリーフに対して、レグレアは怒る。しかし表情は嬉しそうに笑顔と涙を浮かべていて。
グリーフは跳ね除けられた反動で姿勢が崩れ、後ろに座るように落ちていく。目の前の笑顔は焼き付いて離れない。
ゆっくりと2人で落ちていく。ゆっくり、ゆっくりと。
そしてその時間を切り裂くように、目の前を複数本の槍や剣が、豪雨のように降ってくる。もう一歩前にいれば巻き込まれていた。それほどの至近距離。
「グレア!!!」
はっとして叫ぶ。豪雨の下敷きとなってぐったりと倒れ込むレグレア。しかし微かに動く指先が、まだ生きている事を示している。
豪雨は何も無かったように影に溶けていき、水溜まりのように鮮やかな赤が広がっている。
「くすくす…………抱きとめてあげれば、仲良く眠れたのに…………」
そんな2人を見下ろすように、女性が影から現れる。
表情を楽しむように、じっとりと見る。
初めてこちらに顔の全貌を見せた女性……。
「まさか…………お前……!」
その女性をグリーフは知っている。この話し方、この表情、仕草、何もかも覚えている。
「ようやく気づきましたか…………? くすくす……」
焦らすように、たっぷりと時間をかけて話す。
「そう……貴方が殺し損ねた……アルタハですよぉ……?」
くすくす……と笑うアルタハを忌々しくグリーフは見る。
致命傷を与え、あと一撃で仕留めれた所を邪魔されたことによって逃がしたのだ。
「まぁ……貴方が弱くて助かりました……貴方のお陰で今こうして、生きていられて。……貴方のお陰で、彼女を殺せましたから」
アルハタは煽るように、痛い所を突く。
自分が弱い、そんな事はグリーフが1番わかっている
弱いからこそ、目の前で笑う者を殺せず。
弱いからこそ、結果として最愛の妻を失った。
全ては自分が、弱いからこそ起きた事だ。
広がる赤の湖が、黒く淀んでいく。
何もない平野に、雨が降る。
黒く淀んだ湖が、海に変わる。
「くすくす…………もっと怒っていいんですよ……憎い私を、殺したいって。笑う私を、ぐちゃぐちゃにしたいって」
誘うように、嘲笑うように。戻ることのできない闇へと、引きずり込もうとしている。
「ほら……殺す道具は沢山あります……」
周りには、いつの間にか様々な武器が突き刺さっている。
これを取れば、これを使えば……あいつを、目の前の奴を……殺せる……。そんな衝動に駆られる。
グリーフは立ち上がり、歩みを進める。
「………………め……」
その歩みを止められる。か細い声で、しかしはっきりとグリーフには聞こえた。
震える手で、ほぼ触れているだけの握力で、グリーフの足首をレグレアが掴んでいる。
「そ…………ちは……だめ…………」
今にも消えそうな声で、それでも必死に。
振り解けるほど弱いのに、その意思は誰よりも強い。
「だ…………ん……は……『 』……から」
その言葉ではっとする。誰にも聞こえない。グリーフにしか聞こえない。レグレアが、ずっと自分に言ってくれた言葉。その言葉で、グリーフは踏みとどまる。
「何やってるんです……? さぁ、早くその武器を……」
「武器は取らねぇよ」
初めて、アルタハの表情から笑みが消える。
本当に意味がわからないとでも言いたげな表情で。
「馬鹿ですか? 弱いくせに頭も……」
「うるせえよ。あれを使ったら、てめえと同じになるだろうが。だから…………」
徐々にアルタハとの距離を縮める。
何もできないと思っているのか、アルタハは構えることもせず、グリーフの行動を眺める。
グリーフはその視線を睨み、右腕を後ろに反動をつける。
「こう……すんだよ!」
噛みちぎるように歯を食いしばり、大地を砕くように足を踏み込む。全身を利用した全てを込めた一撃。
視線を、空を、その一撃で切る。
それは渾身の右ストレート。
意外な一撃にアルタハは反応できず、正面からその拳を受ける。華奢な身体は吹き飛び、影から現れた武器を軒並み壊していく。
いつの間にか雨は止み、代わりに壊れた武器の破片がアルタハの上に降っていく。
「よくも……私の顔に……覚えておきなさい……貴方は、彼女よりも酷い殺し方をしてあげる……」
「勝手にしろ。それにグレアはまだ死んでねぇ」
殴られた箇所を抑え、アルタハは忌々しくグリーフを睨みつけて影に溶けていく。その影は眩しい日差しから逃げるように消えていく。
アルタハの異質な雰囲気が消え、緊迫した空気が無くなる。グリーフはふぅと息をついて、倒れているレグレアの元へと急ぐ。
「だ……りん、あ……たしの…………きい……てくれた」
「無理に話すな。今はゆっくりしてろ」
「うん…………」
うつ伏せでは呼吸がしにくいだろうから、レグレアの身体をゆっくりと仰向けにして頭を太ももの上に乗せる。
「すまん、枕が固くて寝れんだろう」
「ううん…………そんなこと……ない」
泥と血で汚れていても、レグレアの笑顔は変わらず綺麗だった。先程よりは息をしていることに安堵する。弱々しい呼吸でも、まだ生きている。
「よし、じゃあ帰るぞ」
「ん…………っ……」
ゆっくり持ち上げたが、やはり傷に響いたようでレグレアは小さく声を漏らす。
顔が見れるように横抱きをして、帰り道を歩く。
ぴちゃ、ぴちゃと水溜まりを歩く。
転ばないようにゆっくりと。
「ごめん……ね、だー……ん。色々と……汚れて……るし」
「気にすんな。むしろお洒落だ」
「んへへ……」
目を細めて笑う。寝言のような、笑い方だ。
本当にレグレアは綺麗だ。花のように笑う顔はかわいいし、今のように儚く笑っても綺麗で、いつ見ても飽きさせない。自分には不釣り合いな、自慢の妻だ。
水溜まりが少なくなり、湿っていた音は徐々に乾いた音へと変わっていく。
滑らない事を確認して、少し早足にする。
勿論、レグレアの負担にならないように。
「ごめ……んね? あたし……ヘマしちゃって……さ」
「ミスは誰にだってある、逆にグレアはミスし無さすぎだ」
「だー……ん、に化けてるの……見抜けなかった」
「……そうか」
アルタハが言っていた、貴方のお陰、というのはこの事か。レグレアが唯一心を許せる場所だったからこそ、油断したのだろう。無理もない。
「あたし……だー……り……に……似合ってる?」
「似合うも何も、俺にはグレアが必要不可欠だ」
「そっか……よかった」
レグレアは満足そうな顔をする。
今レグレアは体重を全てグリーフ預けているのだが、そんな重さを感じさせないほど、レグレアは軽い。
華奢で、小柄な身体はグリーフが強く抱けば壊れてしまいそうで、今にも消えてしまいそうなほど繊細なのだ。
「ね……。だー……りん? あたし……こと、好き?」
「当たり前だ。今でも、これからも好きだ」
「ん…………」
レグレアは嬉しそうに、照れながらはにかむ。
細い指で、グリーフの胸元をぐりぐりとする。
そして、じーっとグリーフを眺める。
「……なんだ」
「ん? …………かっこいいなって」
「急に言うな」
「ね、だーりん。止まって?」
「……ああ、わかった」
言われた通りに速度を緩める。
湿っていた音は既に無くなり、乾いた音も歩みを止めると次第に消えていく。
何の音も聞こえない中、か細い声が響く。
「顔、近づけて」
「……?」
言われた通りに顔を近づければ。
ゆっくりとレグレアも顔を上げて。
優しく、唇が塞がれる。
顔を上げることも辛いはずなのに、それでも今までで1番長く、その時間は続く。
まるで時間が止まったように、その時間がずっと続けばいい、そう思えるほど幸せな時間だった。
やがて、レグレアからきゅっと袖を握られる。
それが合図となり、幸せの時間は幕を閉じる。
「えへへ、今、凄く幸せだよ?」
「……グレア?」
「……ありがとね、強くて、大好きなダーリン」
精一杯の笑顔を見せるレグレア。
それは一番星のように輝いていて。
その目尻からは流れ星が落ちる。
その星に彼女が何を願ったのかはわからない。
しかし、幸せな事を願ったのだろう。
安心したような笑顔で、全てをグリーフに預けてレグレアは眠りにつく。
その顔を見て、グリーフはしっかりとレグレアを抱く。
こうしていないと、消えてしまいそうな気がして。
声を押し殺す。その目には涙。しかし溢れることはない。
ゆっくりと目を閉じれば、溢れてしまったが……。
「…………夢、か」
目を開くと、そこは真っ暗な夜。
妙に抱いた感覚があったのだが……と思えば、自分の上に何かが乗っている。
月明かりが照らす先、自分の腹にはレグレアが眠っている。離さないように、しがみついている姿がなんとも可愛らしい。手を背中に置いて、起こさないように頭を撫でる。
ひんやりと冷たい身体だが、背中に当てた手からは、しっかりと鼓動が伝わる。小さな吐息が腕にかかる。
再び頭を撫でてやれば、小さく声を漏らす。それに反応するように纏う星が光る。
夢の中の消えそうな光ではなく、淡く光り輝いている。
今、レグレアは生きている。そう実感する。
様々な苦労はあったが、目の前の大切な妻と比べれば安い代物だ。あの夢を見たからか、余計にそう思う。
込み上げてきた何かを誤魔化すように、ぐしゃっと撫でる。さらさらとした肩下まで伸びた黒髪は指通りが良い。
「んん…………。あれ、ダーリン……?」
少し強く撫でたからか、レグレアが目を覚ます。
汚れも血も何もないレグレアは、とても綺麗であるし、何より彼女には月の光が良く似合う。月の淡い光が、彼女の纏う儚さと合っている。
「……ダーリン泣いてるの?」
「いや……ちょっとな。懐かしい夢を見ただけさ」
何何ー、どんな夢ーと聞こうとするレグレアをはぐらかせば、間が空いて、察したようにごめんねと返ってくる。
そして少しだけレグレアの抱く力が強くなる。
小声で「あの時できなかったから」と理由も添えて。
「その……さ。あの夢を見ちゃったのって。ブランとの戦争が関係してる?」
「さぁ……どうだろうな。だが心の中で、また大切な何かを失うんじゃないかって気はしていたからかもな」
そのグリーフの言葉にレグレアは目をぱちぱちさせる。
大切なものは沢山ありそうだが、またってなんだ。
まるで1回失ってるみたいな言い方に、まさかと思う。
「もしかして、あたし?」
「まぁ、どっかの誰かさんは最近来てなくて、そろそろ魔力性の貧血で倒れてるんじゃないかなとは思ってたな。扉も開けっぱなしにして、珍しく仰向けで寝たぞ」
完全に、その誰かさんはレグレアの事だし、なんなら状態までバレている。通りで入りやすかった訳だ。
手くらい繋いで何とかなればいいやと思っていたが、わざわざ抱きつきやすくしてくれていたので助かったのも事実で、お陰様で睡眠と魔力の補充を同時にする事ができた。
しかし何もかもバレバレというのは案外恥ずかしい。
そういう所が、たまらなく好きではあるのだが。
「そういえば、やる事は終わったのか?」
「うん、一応。だからしばらくはここで見守ってる」
そうか、と言うグリーフはどこか上の空といった返答だ。月が雲に隠れ、あまり表情はわからないが。
上の空になるのも仕方ない、ブランとの戦争がもう間近に迫っているのだから。
グリーフは戦争面での不安よりも、楽しさが勝りそうではあるが、この戦争に思うことはあるのだろう。
「あのさ、ダーリン」
「……んん、なんだ?」
そんな真剣な表情をしているグリーフを、色々なグリーフの表情を見られる今の自分を愛おしく思う。
本当なら、レグレアという存在は既にいない。
あの時から、自分の運命は既に存在しない。
それを補うように、運命を自ら作って歩いている。
いつ崩れ落ちてもおかしくない、不安定な足場。
それを今まで壊すことなく歩いて来られたのは、紛れもなくグリーフのお陰だろう。本当に感謝しかない。
「今も……凄く幸せだよ」
「そうか、なら良かった。……だが」
もったいぶるような言い方に思わず顔を上げて、レグレアはグリーフを見る。グリーフは真剣な表情でレグレアに目を合わせて、重い口を開く。
「これからも、俺と一緒に幸せを探してくれるんだろう? グレア」
ニッ! と歯を見せ笑うグリーフ。
真剣な表情から出される照れくさいセリフに、レグレアは目を丸くする。というより、今何気にグレアって呼ばなかったか? 不意打ちが多すぎて頭が追いつかない。
こちらの様子を楽しむようにグリーフは笑みを深め、レグレアと目が合えば変な表情をする。こちらの返事を待ちながら、空気の緊張を解こうとしているようだ。
そんなお茶目な最愛の人に、嬉しさのため息を吐いて、そのお誘いに答える。
「当たり前。……エスコートは任せたよ、ダーリン」
「ああ、任せろ」
快い承諾の言葉に抱きしめる力を強めれば。
それを受け入れるように、わしゃわしゃと頭を撫でられる。そんな2人の未来を照らすように月は再び輝き、夜は更けていく。
2人のデートは終わることを知らない。
2人を引き離す運命があるのなら。
2人が離れることの無い運命を歩けばいい。
2人を示す運命が存在しないのなら。
2人の絆を、愛情を、邪魔できるものも存在しない。