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最終話です。
「来たか、ミシェル。待ってた」
「え、ええ。ごきげんよう、殿下」
慣れない。
あれ以来、殿下が私を迎えるようになった。分かりやすく嬉しそうな顔をするわけではないが、鋭く冷たい視線を向けられることもない。あ、でもちょっと口元が緩んでいる?
「フィルと呼んでくれと、何度も言っているだろう。……それとも嫌か?」
「い、え。……フィル」
慣れない。
殿下は、私といるときは極力王子をやめることにしたらしい。だから、殿下ではなく愛称のフィルと呼んで欲しいと。王子でもなく婚約者でもなく、ただの一人の男として接して欲しいと言われた。
フィルと呼べば、殿下は満足そうに頷く。ああ、慣れない。
でも、嫌じゃない。殿下と、フィルと話をするのは意外と楽しいのだ。
今までは当たり障りない話しかしていなかったけれど、今は、以前ではあり得ないほど、仕事の話をしている。どこそこの領の報告がおかしいだとか、第二王子派がなかなか大人しくならないとか、隣国との外交が上手く行っているとか、国内から国外までの政治の話が主だ。私も王妃教育を受けているせいか、そこまで難しく感じることもない、どころか、庭を歩くよりも楽しかった。どう動けば自分たちに益があるか考えるのが。
私の前では王子をやめているはずなのに仕事の話をするのはこれ如何にと、殿下は初めは微妙な顔をしていたけど。私が活き活きしているのを見て、他の話をする気にはなれないようだ。まあ、殿下も仕事人間だから、活き活きしている。
「――姉上!」
今日は何の話だろうかと殿下に近付いたところで、乱暴に扉が開いた。遠慮もなく入ってきたのは義弟だ。
「レオン。ノックもなしに入ってきてはダメよ。私の部屋ではないのだから」
驚いたものの、こういうことはたまにある。義弟のレオンは私が思っていたよりも猪突猛進なところがあるみたいで、すぐに周りが見えなくなるみたいだ。私のことを心配してくれているというのは分かっているので、強く言う気はないが。
「まだミシェルの部屋に踏み入っているのか。義姉とはいえ女性の部屋にそう簡単に入っていいものではないぞ、レオン。ミシェルも簡単に許すな」
「え、ええ。ですが、レオンは私を心配してくれているだけですから……」
「はぁ。本当に義弟に甘いな、ミシェルは」
ため息を吐いて、拗ねたような子供っぽい表情をする殿下。
そうなのだろうか? 私が義弟に甘いという自覚はない。
なんて思っていたら、義弟が私と殿下の間に割り込んできた。
「姉上、僕が心配していると分かっているのならあまりこの男に会わないでください。王になるために姉上との結婚が必要だから姉上に優しくしているだけに決まっています。信用出来ません」
「……本人の目の前でよく言えるな」
目の前は義弟で塞がれているため殿下の顔は見えないが、苦々しいものを含んだ声が聞こえた。義弟が私を心配しているのは十二分に分かったが、殿下に対しての言い分があんまりだと思う。しかも今、殿下に背を見せているわけだし。無礼不敬と言われても文句を言えないし庇えない状況である。
「だが、レオンの言い分も尤もだ。以前の俺たちを知っていればそう考えるのは自然だからな。すぐに信用を得られるとは思っていないが……俺がミシェルを騙しているかどうかはこれからを見ていれば分かるだろう」
……思ったのだが、殿下はかなり器が大きいのではないだろうか。イライラしている殿下ばかり見ていたのでもっと怒りっぽい人なのかと思っていたが、レオンにどんな態度を取られても全然怒る気配がない。他の人間に対してもそうだ。殿下が私に対して苛立ちを見せていたのが、かなり例外的なことだったのだと今なら分かる。何がそんなに彼の神経を逆なでしていたのかは未だよく分からないが。
くるりと義弟は向きを変え、殿下と向かい会う。
「何かあってからでは遅いのですよ、これからなんてそんな悠長なこと言ってられません。姉上は一度確かに貴方と結婚したくないと言ったのです。一度でも姉上にそう言わせた男に安心して任せられるはずないでしょう」
「レオン、それは別に殿下が悪いわけではないし、もう解決したことよ」
私が理想の王妃像にこだわっていたことが根本的な原因だし。義弟にもその事情はしっかり話したはずだ。
「――ミシェル、フィルと」
「え? あ、ごめんなさい、フィル」
ここで呼び方を指摘するとは。殿下は余裕たっぷりのようだ。
「レオン。それなら俺がミシェルに、俺と結婚したいと思わせれば良いだろう?」
自信もたっぷりみたいだ。王になるのだから、余裕も自信もあって困るものではないけれど。堂々とそんなことを言われると、どんな顔をしたらいいのか分からない。なんだろう、ちょっと恥ずかしい。
「……い」
しばらく黙りこくった義弟はふるふると背中を振るわせ。
「良いわけないだろっ! 姉上が望んで嫁に行くなんて、絶対反対できない!」
大声で叫んだ。いや、敬語。今までかろうじてあった敬語が忘れ去られている。
それを咎めようとしたところで、義弟に腕を掴まれた。
「姉上っ、帰りましょう。やはりこの男に近付くのは危険です。姉上が洗脳される!」
「え、きゃっ」
半狂乱の義弟に引きずられそうになり、慌てて踏ん張る。
仕事人間の殿下がせっかく空けてくれた時間なのに、これだけで帰ってしまうのは、なんというか、もったいない。私は殿下と策略を練ったり陰謀を暴いたりしたい。
助けを求め、殿下に手を伸ばす。
「でん――」
「フィルだ」
慣れない。殿下は細かい。こだわりが強い。
「ふぃ、フィル!」
「ああ、ミシェル」
満足そうに頷いて、簡単に私を引き戻し、腕の中に収めた。温かい。
「あ、姉上……」
義弟はショックを受けたように蒼白になっていた。恐らく私が殿下に助けを求めたせいだろう。義弟の目には私が殿下を選んだように見えたのかもしれない。
「レオン、俺はおまえがミシェルの意思に反することはできないと知っている。そのミシェルはまだここに居たいらしい。――もう諦めて今日は帰れ」
何故だろう、腕の中にいるから殿下の顔は見えないが、勝ち誇った表情をしている気がする。ちょっと見てみたかった。
ショックが大きいらしい義弟はフラフラと部屋から出て行った。あとで慰めないといけないかもしれない。
「……行ったか……。はぁ、何であんなに懐かれているんだ、貴女は。出会ったのは最近のはずだろう?」
「私もよく分からないうちにあんな感じでした。でも、世話好きみたいなので、そのせいかもしれません。出会った頃の私はかなり無気力状態だったので、自分がなんとかしなきゃ駄目だ、と世話焼き魂に火がついてしまったのではないでしょうか」
「なんだそれ……」
言うなれば、庇護対象。姉としてどうかと思うが、ずっと姉弟として暮らしてきたわけでもないので、姉とか弟というのは年齢によるものでしかない。無理に姉弟っぽくなる必要もないだろう。少なくとも私は今の関係が心地良い。
ふふ、と笑みがこぼれる。そう、心地良い。今の殿下との関係も。この腕の中も。
「ミシェル?」
「いえ、楽しいなって、思ったんです。レオンといるのもですが、でん――フィルといるのが」
「そうか。俺もミシェルといるのは楽しい、というか癒やしだな。理由が分かってからは苛つくこともないし」
殿下も楽しいと思ってくれているのか。そう分かると益々嬉しくなって、緩んでいた頬がさらに緩む。
未だ私を抱きしめている殿下は、すっと私の顔を覗き込み、穏やかに笑った。
「――可愛いな。本当に、ミシェルはその顔がよく似合う」
囁くように言われた言葉に頬が熱くなるのは仕方ないことだろう。誰だってそんな風に言われたら、嬉しくて、恥ずかしい。
殿下の大きな手が私の髪に優しく触れる。それから一房を手に取って。
「ミシェル。俺は逃がす気はないからな。俺の目指す王はミシェルを笑顔にする王だから」
誓うように口づけた。
私は照れを誤魔化すように、言う。
「私だけではなく、国民も笑顔にするような王になって下さい。私は、そんな王と一緒に前を向ける王妃になりたいですから」
私は一緒に歩みたい。対等に、政治の話をしているときのように。ただ支えるよりも、寄添うよりも、一緒に挑みたい。
そうか、と短く言って未来の王は嬉しそうに笑う。
私もきっと柔らかく笑っている。あのときの母のように、幸せに満ちた顔で。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。