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長めです。
「まずは殿下。私たちの婚約は政略的なものです。そこに私たちの意思はありません」
「……ああ」
先ほどはいつもとは違う空気だったが、もういつもと同じに戻ってしまった。私が一方的に話をして、殿下が相槌を打つというものに。ただ、いつも退屈そうな表情の殿下が、今は険しい顔をしている。何か苦々しいものを含んだかのような。
「ですが、思ったのです。いくら何でも私たちの相性は最悪なのでは、と」
「……何が言いたい?」
「私に義弟が出来たのはご存知ですか?」
「ああ。それが?」
「義弟は優しく賢く、そして世話焼きです。私のことも心配してあれこれ面倒を見てくれたぐらいに」
「……で?」
「さらには、行動力もあります。……義弟は今、私たちの婚約を解消しようと奮闘しているところです」
「……なんだって?」
不機嫌丸出しの低い声に、不覚にもびくりと肩が揺れてしまった。鋭い視線を受けてきたことは数あれど、ここまでの怒気は初めてだ。威圧感が半端ではない。
「何の権限があってそんなことを」
しかし殿下が怒るのも無理は無い。私たちの婚約、ひいては結婚は政治や策略が絡むもの。それを一方的になかったことにするなんて、笑って流せるものではないだろう。特に殿下は、家の後ろ盾が欲しくて私と結婚するのだから。
殿下は第一王子ではあるが、側妃から生まれた同い年の第二王子がいるのだ。貴族たちは第一王子派と第二王子派に分かれて争っている。我が侯爵家の力添えもあって、今のところは第一王子が優勢で、実は立太子も控えている。
「家と家の契約ですから、そう簡単に揺らぐこともないとは思いますが、万一のために聞いておきたいのです」
「何をだ?」
「殿下は実際のところ、私と結婚したくないのではないですか? 政治的なことを抜きにして、感情だけで考えた時の話です」
「どうして、そう思う? ――いや、貴女がそう思っているという話か?」
「……そうかも、しれません。私といても、殿下は不機嫌になるだけですから。私も殿下も、一緒に居て楽しいと思えたことはきっと一度もないのではないでしょうか?」
それが不満だと言うわけではない。ただ、私たちは性格が合わないというだけだ。
私と居たときのことを思い返すように、殿下は目を瞑る。やがて目を開けるとゆっくり頷いた。
「そうだな。貴女と居るとき、私はイライラする。何故だか自分でも分からないが」
あまりにも正直な言葉に苦笑するしかなかった。まあ、ずっと知っていたことだけれど。
「だが、それと結婚の件は別だ。そもそも何故貴女の義弟はそんな真似を?」
「……非常に言いづらく、不敬極まりないことなのですが」
「いい、言え」
「私が我が儘を言ったのです。殿下と結婚したくない、と」
「……は」
先ほども似たようなことを言ったばかりのはずだが、あまりにも率直な言葉に面食らったようで、殿下は数秒固まった。硬直が融けた殿下はそれでもゆっくりと頭を抱えて大きなため息を吐いた。なんだか落ち込んでいるように見える。酷いことを言った自覚はあるので少し罪悪感が湧く。
「で、ですが、私の意思だけで話を進めるのは良くないかと思いまして、こうして話を聞きに来たわけです」
「話を聞いて、どうするんだ? 俺が望めば貴女は大人しく結婚するのか?」
「え? はい、それはもちろん」
「……なんだそれ……」
「すみません。自分でもよく分からなくなってきました……」
政略的に見て、殿下が私との婚約を解消するメリットはないのだ。当然、殿下は私と結婚する意思があるのだろう。私が結婚したくないと断固として抵抗すれば話は別かもしれないが、そうではないのなら、やはり殿下の答えは一つしか無い。ただ私が結婚したくないと言ったのが問題で、それを聞いた上で私に結婚を望むというのは、罪悪感みたいなものが湧くだろう。私が今言ったことは殿下に余計な負担をかけるだけのことだった。
本当に、自分でも何がしたかったのか分からない。ただ一方的なのは良くないと、義弟が行動し出して思ったのだ。このままでは殿下にばかり不利益が発生してしまうと。こんなのは私の我が儘でしかないのに。
――それから、もう一つ殿下に伝えておきたいことがあった。
「殿下。私は恐らく王妃に向いておりません。王妃様というのは、国王陛下に寄り添い、一番傍近くで支える人なのだと聞きました。ですが、私ではきっと殿下の邪魔になってしまう。殿下の傍近くにはもっと気の許せる人を置くべきだと思うのです」
私ではきっと理想の王妃様にはなれない。母の言う、素敵な王妃様には。
殿下は再び深くため息を吐き。
「――それは王妃の一つの形だ。必ずしも王妃がこうでなくてはならないということはない。あれはただの役職であり称号だ。そこにいるのは一人の人間なのだから、いろんな形があるはずだ」
私の言葉を何でもないことのように否定した。否定とは少し違うのかもしれない。母の言った王妃様が数ある王妃様像の一つに過ぎないと言っただけなのだから。
「貴女には貴女の、貴女にしかできない形の王妃があるはずだ。――それから一つ、間違いがないように言っておくが、私は貴女といるとイライラするが、貴女が嫌いなわけではない。貴女の傍が嫌なわけではない」
それ以降、殿下は口を閉じ、黙り込んでしまった。顎に手を当て考え込む姿は、まるで難しい問題に直面して解決策を探っているかのようだ。
その時間を使って、私も考えてみる。
――私にしかできない、王妃の形。
考えてみたこともなかった。私はずっと母の言う、人から愛され尊敬される素敵な王妃様を目指すことしか頭になかった。いつもその理想は遠いところにあって、理想と現実の自分とのズレに焦って言い知れない不安を抱いていた。
だって私は、本当は、母や王妃様のように感性豊かな人間ではないから。
母の言う理想が、現在の王妃様なのだということは痛いほどに分かっている。彼女は庭園の花を慈しみ、情緒を感じ、心の底から美しいと笑うそんな女性だ。それが、母の理想。
だけど私はそこからとてつもなく遠いところにいる。花を見ても、ああ花だなとしか思わない、思えない。そこに感動を見出せない。人間的に欠けているとまで思ったことはないが、それでも王妃の素質はないのだと思っていた。
私が目指していたのは、母の言う王妃様だから。そんな人物には到底なれないと心の底でずっと確信していた。
でも、目の前で唸り声をあげている殿下は、違うのだと言った。目指す形は一つではないのだと。
そうなのかもしれない。
私は母の言葉に囚われすぎていたのかもしれない。
母の言う王妃様にはきっとなれない。けれど、私なりの形で王妃を務めることは可能なのかもしれない。――殿下はそれを望んでいるのだろうか。
そっと顔を上げれば。
――殿下と瞳がかち合った。
殿下は嫌がる顔はせずそのまま真剣に私を見つめていた。こんな風に見つめ合ったことなどないので、戸惑ってしまう。
「この際、互いに全て話してしまった方がいいみたいだな。恐らく私たちは互いのことを知らなすぎる」
「……そう、ですね」
そうだ。私は殿下のことを何も知らない。付き合いは長いが、一緒に居た時間は驚く程短い。殿下はいつだって忙しく、私も暇ではなく、そして互いに時間を欲しなかったから。お互いを知る機会なんてなく、いつまでも他人行儀のまま。
「ではまずは私から。先ほども言ったが、私は貴女のことが嫌いではない。貴女に対する態度が悪かったのは自覚している。どうも貴女の前では苛立ってしまい、感情の制御が難しい。だが、私は嫌いな相手に苛立ちをぶつけることはしない。笑って適当にやり過ごすだけだ。それに、貴女といる時間は……これは最近気付いたことだが、案外好きだったみたいだ。信じて貰えないとは思うが、貴女が寝込んで王宮に来なかった間、私は寂しさを感じていた。そして、貴女が早く良くなって会えるのを楽しみに……あ、いや」
しまった、みたいな顔をして殿下は言葉の途中で顔を背けた。照れているように見えるのは気のせいではないのだろう。
正直、半信半疑で殿下の言葉を聞いていたのだが、その態度で、嘘を言っているわけではないのだと思えた。私を引き留めるための演技なのだとしたらかなりの演者だ。
「す、まない。取り乱した。とにかく私の方は以上だ。貴女の話も聞かせて貰えるだろうか? 不満があるのなら好きに言ってくれ。不敬などとつまらないことは言わない」
口元を手で隠しながら再びこちらを見た殿下は、やっぱり照れているようで耳が少し赤かった。
「私は、ずっと殿下が私のことを不満に感じているのだと思っていました。仕事の邪魔をすることが多かったので、それも当然だと。ですが私は殿下に話しかけないといけないと思っていたのです。だから迷惑だと知りつつ会いに行きました。それが私の、婚約者の、殿下を支える者の役目だと思って。……でも、ずっと息苦しかった。笑顔を取り繕って、心にもないことを言って。これでは殿下の機嫌を取っているみたいだって。私の目指す王妃様とはかけ離れているって。殿下と会うたびに、上手くできない自分が嫌になった、のです」
私は俯く。口に出して、知った。私はなんて自分勝手なのだろう。
ずっと殿下が私と向き合ってくれないのだと思っていた。でも、殿下に向き合っていなかったのは私自身の方だ。私はずっと殿下と会うのはそうしなければならない義務だと思っていた。それだけでも失礼ではあるが、本当は私の理想の王妃像に近付くために利用していただけだ。それで息苦しく感じているのだから世話がない。
「え、っと……、終わりか?」
「? はい」
ゆっくり顔を上げると、微妙な顔をした殿下。どういう表情なのだろう。というか今日は殿下の表情が豊かだ。いつもは不機嫌な顔か、退屈そうな顔しかしないのに。
殿下は微妙な顔のまま額に手を当てて、ううんと唸るような声を出した。
「ずっと気になっていたのだが、貴女は私のことをどう思っているんだ? 結婚したくないとは聞いたが、それは貴女が私に相応しくないと考えたからだと受け取って良いのか? 貴女が私のことを、人間的に嫌いだとかそういうわけではないと思って良いのか?」
「え? はい。殿下のことを嫌いだなんて思ったことはありませんよ。そもそも私は人であれ、物であれあまり好悪を抱かない人間なのです。自分でも冷たいとは思いますが」
「そんなことはないだろう。貴女が貴女の母上を随分慕っていたのは知っている。なにせ寝込むくらいだからな。それに、先ほど庇った義弟のことも好ましく思っているのだろう? 自分のことを感情のない人間のように言うな」
……なんだ。手紙を隠した犯人に殿下も気付いていたのか。追及する気はなさそうだから良いけれど。
それにしても、そうか。私はちゃんと母を愛していたし、何かと世話を焼いてくる義弟のことも大切に思っている。これは私の感情だ。
私の言葉に反論した殿下の表情は、困った子供を叱る親のようだ。自分を否定するようなことを言う私を心配してくれたのだろうか。
「……ふふ、ありがとうございます。殿下の方が私のことを知っているみたいですね」
いつもだったらありえない、変な状況に笑いが漏れた。笑うところでないのは分かっているが、抑えられなかった。
「……いや、私は貴女のことを何も知らない。貴女がそんな風に笑うことも、苦しんでいたことも」
「うーん、でも悩みはもう解決してしまいました。殿下が話を聞いて下さったので。それに私も全然殿下のことを知りません。仕事熱心で生真面目で私にイライラしているってこと以外は」
ふふふと笑みを深める。だって、本当にもう殿下が気にするほどのことはないのだ。今は、殿下といるあの息苦しさは感じない。
「……いや、いつもイライラしている訳ではないからな。現に今は――――……ああ、そうか。分かった」
何か腑に落ちたのか、ハッとしたあと、殿下は頷き、口角を上げた。愉快そうに。
初めて見る表情に驚きよりも、背筋が寒くなった。何故か眼光が獲物を捉えたように鋭くなったような気がしたから。
「俺はどうやら貴女に、ミシェルにそうやって笑って欲しかっただけみたいだ」
なるほどなと、一人納得して、嬉しそうに私に笑いかけたのだった。