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ずっと変わらないものなんてない。
けれど、変わらないでと願うことは誰にだってあるだろう。だって変化のない日々は、退屈で、楽で、平穏だから。
ぽたり、と雫が垂れる。
落ちた先は、柔らかい手。温かい、はずの手。私の頬を撫でてくれた母の手。それはもう動くことはない。私に触れることはないのだ。
恐る恐る触れた指先は、ひやりとした感触を伝えてきた。冷たい。
「お、かあさま……」
喉が、引き攣る。涙が、止まらない。
心の中で、苦しいとか悔しいとか酷いとかよく分からない感情がぐるぐる渦巻いた。
静かに瞳を閉じる母の姿は、眠っているのと何も変わらない。今にも起き出して「ミシェル、どうして泣いているの?」と困ったように笑いかけてきそうなのに。母はもう、ピクリとも反応しない。目を覚ますことはもうないのだ。
「リアーヌ……すまない」
私が母の手に縋る傍ら、父もまた悲痛な表情で母の名を呼んだ。その謝罪が何に対してなのかは分からない。けれど父の悲しそうで、悔しさの滲む顔は嘘ではないのだろうと思った。そこには確かに母を想う心があったのだと。
ならばどうして、生きている間に母に向き合ってあげなかったのだと、思わないでもなかった。
でもそれはきっと私も同じなのだろう。
両親が嫌いあっている訳ではないと気付いていたのだから、双方に話し合うように働きかければ良かったのだ。彼らの子供である私だけが出来たことだったのに。変わることを拒んだ私は、そうはしなかった。私にとって心地よい環境を手放すことをしなかった。
こんな卑怯者が、人々に愛され尊敬される王妃になんてなれるのだろうか?
***
母の葬儀を終えて、私は部屋から出なくなった。王宮に行って、教育を受けるのも、義務のように殿下に会うのもばかばかしい。私は王妃になる目的を失ってしまった。やる気をなくしてしまった。
「姉上、入ってもよろしいですか?」
「……」
返事を待つことなく、開いた扉から一人の男が入ってくる。彼は、母が亡くなった後にようやく父が連れてきた養子。年齢は私の一つ下だから弟だ。
義弟は父の子供ではなく、遠縁の子なのだという。父は余所で子供をつくる気なんてさらさらなかったらしい。最初から養子を取るつもりだったのだ。
母が亡くなってようやく、というのはたぶん、母に誤解されることを恐れていたからじゃないかなと思う。小心者の父らしくはあるが、既に誤解されていたのには気付いていなかったのだろうか。
「姉上、カーテンは開けないと身体に悪いですよ。朝はきちんと食べましたか?」
義弟は遠慮なく部屋に踏み入り、勢い良くカーテンを開いた。義姉とはいえ、仮にも女性の部屋なのに遠慮がない。
急に日の光が入って眩しい。慌てて窓に背を向ける。
「姉上、聞いてますか? ただでさえ細いのに、食べないとなくなってしまいますよ」
なくなるって、何が。
ともあれ、義弟は世話焼きだった。彼は毎日こんな感じで私の部屋にやって来る。
「食べたわ、少し」
「そうですか……少しでも食べたのなら良かった」
ほっと息を吐き、少し目元を緩める。何がそんなに嬉しいのかさっぱり分からない。私が朝食を食べようが食べまいが、関係ないことのはずだ。
「貴方は……忙しいのではないの? 父の仕事を手伝っているのでしょう?」
毎日訪ねてくるのもさっぱり意味が分からない。家族になったとはいえ、私たちはそれ以上でも以下でもないし、なんなら知り合ったばかりだ。いくら世話焼きでも毎日毎日飽きないのだろうか。それとも暇なのだろうか。
「忙しくは……ないですね。残念ながら、まだ任せて貰える仕事はそう多くはないので」
「だったら余計に、出来ることを増やすために勉強に時間を当てるべきではないの?」
私に構っている暇なんてないだろうと言外にほのめかせば。
「それなら、問題ないですよ。ここに来るのは空いた時間ですから」
「そう……」
つまり、勉強も仕事もこなした上で、私の世話まで焼きに来ている、と。
父はかなり優秀な人間を養子にしたみたいだ。
「姉上は、嫌ですか?」
少し申し訳なさそうに、眉を下げる。強引なのは自覚があるようだ。
嫌か、と言われれば。
「……いいえ。嫌だったらさっさと貴方を部屋から追い出すわ。嫌と言うよりも、何というか……困るわ」
「困る?」
そう、困る。戸惑う。
「こんなふうに構ってくる人なんて、今まで居なかったから」
もちろん使用人は私の世話を焼くけれど、それは仕事だ。でも、義弟にはそんな仕事は与えられていない。彼の善意、厚意、優しさは、新鮮で戸惑いしかない。まあ、嫌なものでは、ないのだけど。
義弟はその言葉に何かを思ったのか、
「……姉上。昼は一緒に食べませんか?」
おずおず、といった口調でそう言った。
私が昼食の席に着いてすぐに、義弟もやって来て私の向かいに座った。
何の気まぐれか、私は義弟の誘いを受けていた。私は久し振りに部屋から出た。
義弟は私と昼食の約束を取り付けた後、すぐに仕事だか勉強だかに戻っていった。「また後で」と嬉しそうに笑いながら。本当に世話焼きだ。
「――姉上は、殿下のことをどう思っているのですか?」
「殿下?」
食事の終わり頃。デザートが運ばれてきた頃に、義弟はそんなことを聞いた。
唐突に、何故、殿下?
どう思っているか、という質問は些か具体性に欠けるのではないだろうか。
「すみません。質問を変えます。殿下と結婚したいと思っていますか?」
どう答えればいいのか考えていると、それに気付いたのか義弟はそう言った。
これもまた、難しい質問だ。先ほどとは別の意味で。
「……すごく、答えにくいし不敬なんだけれど。したいか、したくないかと言われれば、したくないわ」
したくない、というよりもすべきではないと言うべきか。私はもう王妃になる理由を失ってしまったから。こんなやる気のない人間が、王を支える立場にあれるはずがない。それに、元々私は王妃には向いていなかったと思う。
「殿下と私は、絶望的に性格が合わないのよ。一緒に居ても空気が重くなって、お互い疲れるだけだもの」
そんな有様では王になる殿下を支えるなんてことは難しいだろう。
それでも母がいなくならなければ、なんとか折り合いをつけ、やっていくつもりだった。でも、もう頑張っていける自信がない。だって何のために頑張るというのだろう。喜ばせたかった母はもういないのに。殿下に会いに行ったところで、あの空気にもう私は耐えられない。疲れる。ううん、疲れた。
こんなことを思うなんて、やっぱり私は王妃に向いていない。そう認めたら少し楽になった。
「――……少し、スッキリしたわ。お母様の前では絶対に言えなかったから」
母は私が王妃様になるのを楽しみにしていた。殿下と仲良くしている話を聞きたがった。そんな母の前で、本当のことなんて言えるはずがなかった。
「――姉上」
義弟は真剣な瞳で私を見つめる。なんとなく、居住まいを正す。
「それでは姉上は、王妃になる気も、殿下と結婚する気もないんですね?」
「え、ええ」
なんだろうか。世話焼きで少しのほほんとした義弟から謎の迫力を感じる。
「分かりました。それなら、僕がなんとかしますね」
「え?」
義弟は、柔らかくにこりと笑った。