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「貴女は王妃様になるのよ」
頭を優しく撫でる手が気持ちいい。穏やかな視線が注がれ、頬が緩んだ。
「おーひさま?」
言葉の意味が分からない私はオウム返しに聞いた。
こんな穏やかな時間は初めてだった。滅多に一緒にいられない母親と会話ができることが嬉しかった。
「そう、王妃様。たくさんの人に尊敬され愛され、王様を一番近くで支える素敵な人よ」
「よくわかんない……」
とても素敵な人だとは分かった。けれど、自分がそんなふうになる想像はつかなかった。なれたら、素晴らしいことなんだろうけど。
「おかーさまは、うれしい?」
「ん?」
私の言葉足らずな質問に母親は小首を傾げた。柔らかい手のひらが頬を撫でる。
「おーひさまになったら、おかーさまはうれしい?」
再度問いかければ、彼女は柔らかく笑んで、私の頬を両手で包んだ。温かい。
「もちろんよ」
お母様のその笑みは、今でも私の頭から離れない。
***
「また来たのか」
私に向く、冷たい視線を曖昧に笑うことで受け流す。
殿下はいつだって忙しそうにしている。私はきっと彼の邪魔をしてしまっているのだろう。
「仮にも婚約している相手に随分冷たいのですね」
邪魔をしている自覚はあっても申し訳なく思う気持ちはない。私がこうして何度も訪れるのは、理由がないことではない。きちんと向き合わない殿下も悪い。
「貴女が懲りずに何度も訪ねるからだ。そんなにも不安か?」
「そうですね、少なくとも私の父は不安に思っているみたいですね」
政略が絡む婚約とはいえ、次代の王とその妃が不仲であるのはよろしくない。私を王妃候補の座から引きずり下ろしたい貴族などいくらでもいる。彼らはいろんな理由をつけて、私と殿下の婚約を取り消そうと必死だ。どうしても私を王妃にしたい父親は、私たちが不仲だという話を聞いては気が気でないみたいだ。
「だろうな。侯爵は気が小さいから。それで? 今日は何をしに来たんだ」
睨むように鋭い視線にはもう慣れてしまった。この人が穏やかに笑っている姿など、私は見たことがない。いつだって気を張り詰めて立っている。
私はクスリと口だけで笑う。
「そこまで警戒なさらずとも。庭園の花が見頃と聞いたので、エスコートして頂けたら嬉しいですわ」
「……分かった」
渋々といった表情で、殿下は私に手を差し伸べた。
「感謝いたします」
そっと殿下の手に自分の手を重ねて。私たちは数ある庭園の一つへと向かった。
王宮の庭園にある植物はどれも計算し尽くされて配置されている。自由気ままに育つものなど一つもなく、人の手によって綺麗に整えられている。美しく、一つの芸術作品でもあるが、自然はあまり感じられない。
といっても、私の家の庭も同じようなものだ。ほとんど外を出歩かない私には、本物の自然なんて分かるはずもなく、庭にある美しいそれしか知らない。
何を言いたいのかと言えば、私は庭になんて興味はない。色とりどりに咲く花を見て、綺麗だとか可愛いだとか思う気持ちはあまりない。整然としているとは思うが。
それでも殿下に案内をねだった以上、退屈そうな素振りを見せる訳にもいかない。楽しそうに笑んでは、あの花が綺麗ね、なんて心にもないことを言う。殿下は思い切り退屈そうにそうだな、なんて適当に相槌を打つ。心にも思っていないのはお互い様という訳だ。
「満足したか?」
一通り庭園を見終わって、不機嫌さを隠そうともせず殿下は私の手を離した。
「ええ。ありがとうございました。それでは、私はこれで失礼致しますね」
いかにも幸せそうな笑みを浮かべて、頭を下げる。殿下は何を答えることもなく、そのまま去って行った。相も変わらず、仕事が忙しいのだろう。
***
「お帰りなさい、ミシェル」
「お母様。起きて大丈夫なのですか?」
家に戻った私は少し慌てた。
伏せていることが多い母親が、私を出迎えたからだ。いつもより幾分顔色は良いみたいだが、それでも健康とは言い難い体調なのは見て取れる。
「ええ。久し振りにお茶しましょう、ミシェル」
「……はい」
嬉しそうに笑っている母親に否とは言えず、私は頷くしかない。
「王妃様とは会ってきたの?」
「はい。お母様のことを心配しておいででした」
母は庭が良いと言ったけれど、使用人にも私にも止められて、結局部屋の中でお茶を飲むこととなった。せめてもと庭に咲くピンクの花がティーテーブルの上の花瓶に飾られている。
「まあ。早く元気な姿を見せてあげなきゃいけないわね」
王妃様と母は仲が良い。とても大切な友人なのだと、母も王妃様も優しい瞳で私に言う。
だから、というわけでもないだろうけれど、王妃様は私にとても良くしてくださる。王妃になる未来が待っている私に、アドヴァイスをしたり、王妃になるための教育の辛さ大変さを理解して励ましたりしてくださる。
庭園の花が見頃だと教えてくれたのも王妃様だ。ぜひ殿下を誘って見に行って欲しいと頼まれた。誰かが連れ出さないとすぐ仕事に根を詰めるからと、苦笑いしていたけれど、本当のところは私たちの仲を心配して提案してくれたのだろう。
「殿下とは、会ったの?」
「ええ、もちろんです。素敵な庭園を案内して頂きました」
さも無邪気そうに私が笑えば、母は子供みたいに瞳を輝かせた。
「まあ! いいわね! 私も若い頃はよくお父様と庭を歩いたのよ!」
「お父様、と……?」
「ええ。懐かしいわ。今でこそあまり会話をしなくなってしまったけれど、昔はもう少し仲が良かったのよ、これでも」
私の知る父と母はどこか他人行儀な関係だから驚いた。たぶんお互いに嫌ってはいないんだろうなと思っていたけれど、仲が良いと思ったことは一度もない。二人が顔を合わせているところを見たのも数える程しかないはずだ。
「でも、仕方ないわね。跡継ぎの問題は深刻だもの」
父と母の間には私一人しか子供がいない。にもかかわらず、私は殿下と婚約することになってしまった。第一王子たる殿下に強固な後ろ盾が欲しかった王妃様の要望だったらしい。王妃様と仲が良い母と、権力にちょっと弱い父は二つ返事で頷いたけれど、そのために問題が発生した。
それが、跡継ぎ。
両親が私の婚約に乗り気だったのは、その頃母が次の子供を妊娠していたから。けれど、承諾の返事をした後で、母は体調を崩し、そのまま子供は流れてしまった。それ以降、母は伏せがちになり、子供どころではなくなった。
跡継ぎが望めなくなってしまった母から父は距離を取り、家に居ないことの方が多くなっていったのだという。家に居ない父がどこにいるのか母は詳しくは知らないようだが、その口振りから愛人のもとに行っているのだと思っているようだ。実際はどうなのか、私も知らない。
跡継ぎの問題をどうにかするのならさっさとして欲しいと思うだけだ。
問題が発生してかれこれ十余年。解決させる気はあるのだろうか。もう、実子ではなく養子を取ったらいいのではないだろうか。
「そんな険しい顔しないで、ミシェル。貴女がいるから、お母様は幸せよ」
そっと柔らかい手が私の頬を包む。優しくそして少し影のある笑みを浮かべた母の手は、変わらず温かい。