雨の足音(夏のホラー2018用)
足音というのは様々な種類があります。
軽快な足音、鈍重な足音、規則的な足音、まばらな足音。
多少やかましいと思う時もありますが、この足音の主は一体どんな人物なのか。想像してみるのもまた一興かもしれません。
ですが、そんな足音も時と場所によっては少々奇怪な存在にもなりえます。今回はそんなお話です。
* * *
ヒタ…………
ヒタ…………
ヒタ…………
その足音はいつ頃からその女につきまとうようになったのだったか。今となっては知ることはできない。
強い雨が降り注ぎ足音が水に跳ねてよく響く、そんなとある日に初めて女は自分の後をついてくるような足音に気が付いたのだった。
女の名前は伊勢富子。S県S市に住む一般的な大学生になりたての女性である。
この春、行きたかった大学に合格してT県から上京してきた身。
家は賃貸アパートの一人暮らしで生活費と学費を仕送りとバイト代で賄う特に何の変哲もないごくごく普通の学生であった。
さて、富子も最初はその足音を自分の足音が水たまりや濡れた床で辺りに響いている音だと思った。富子がよく履く靴は濡れればキュッキュと床とこすれあう音が鳴るような普通のスニーカーであったし、ここ最近は雨が多かったのでその結論にたどり着くのは普通の帰結でもある。
しかし、しばらくして聞こえてくる足音が自分の足の動きより一拍遅れて聞こえてくることがわかった。
ならば、何か音が反射して遅く聞こえてくるのではないかと富子は予想を立てる。
実際、人通りの少ない小さなトンネルを通った時にも足音は聞こえてきたので、その予想に頷ける部分はあった。
ただ、トンネルもない普通の夜道でも聞こえてくる事に対しては説明がつかなかったので、その予想を富子は考えから追い出すことにした。
ならばと最後にたどり着いた予想。それはやはりストーカーの類である。
女性をつけ狙い、夜道を後ろからぴったりついてくる不審人物の影。
そんなストーカーの幻影を想起させるほどには足音はいつもついてきており、更にその音が自分の歩く速度に合わせてピッタリついてくるように聞こえてきている事に気づけば、富子が恐怖を覚えるのに十分な理由であっただろう。
一度警察に相談しようとした際どんな姿かも分からなければ警戒しようがないとのことで、一度足音の主を確認しようとしたことがある。
これで勘違いだったら困るのもあって懐中電灯に護身用のアラームや催涙スプレーなど念入りに準備してから富子は足音が聞こえる時まで時を待った。
されど、振り向けども姿は見えず。足音も聞こえず。ただ気配のような何かだけは感じて、そのまま駆け足で家まで逃げ帰った結果となった。
その際、足音の主がまるで玄関先に留まっているような気がして雨が降っている間、しばらく家から出られなくなったのは富子にとって苦い経験である。
ヒタ………
ヒタ………
ヒタ………
足音は決まって雨の日の静かな夜に聞こえてくる。
雨の降る日に外に出なければ足音が聞こえることはないのだが、大学へ通うために上京してきた身としてはずっと閉じこもるわけにはいかず。学業のための大学なり、学費や生活費を稼ぐためのバイトなり、友人同士の付き合いなり、必ず出かける用事はできてしまうもの。
しかも今がちょうど梅雨の時期であったものだから、ここしばらくは出かけるたびに雨にぶち当たり、富子は足音との恐怖と毎度戦うことになったのであった。
その度に足音の主を確認しようと周りに注意を向けたりしたけれど、手がかり一つ掴めずじまい。気配だけはより近くに感じられるようで、さらに恐怖が増すという悪循環。
徒労によって富子は肉体的にも精神的にも疲労が蓄積していった。
ヒタ……
ヒタ……
ヒタ……
足音が聞こえた時に走ったとしても振り切ることはできず。富子のは知る速さに合わせて足音は鳴り響く。
いつも通る道から変えても、足音は変わらず聞こえてくる。
途中、人通りの多いところを通った後でも、足音は変わらず聞こえてくる。
バスや電車などの交通機関を突発的に利用した後でも、足音は変わらず聞こえてくる。
その足音は静かな道で後ろからずっと変わらず聞こえてくる。
最初に聞こえた時よりも幾ばくか足音が近くなってきているように女が感じたのは果たして恐怖のためかそれともただの気のせいだったか……。実際に足音の主が近づいてきているのか。
思い切って振り向くには富子にもう勇気が足りなかった。帰路につく足を速めて早く足音から逃げ出すことが精一杯。
傘もささずにただひたすら全力で誰もいない夜道をひた走り、玄関に駆け込んで息を切らしながら座り込む日々。
富子の限界に近づいていったのは言うまでもない。
ヒタ…
ヒタ…
ヒタ…
とうとうある日、雨の夜道で富子は座り込んで泣き出してしまった。
「もう追いかけてくるのはやめてくれ」と必死に涙ながら訴えかけ懇願するように泣き叫ぶ。周りに人がいれば何事かと驚かれたかもしれないが、あいにくとそこは人通りも民家もない暗い夜道。近くにいるのは足音の主くらいなものだろう。
そうして恥も外聞もなく叫んだ結果現れた人物は――なんと富子の兄であった。
予想だにしなかった人物の来訪に富子はきょとんとしてしまう。
それはそうだろう。田舎で両親の土地で農家をやっているはずの兄。その人がどうしてと富子が尋ねれば、兄は泣き叫んでいた富子に土下座せんばかりに頭を低くしながら事情を説明し始めた。
どうやら兄はたった一人の妹が上京してちゃんとやれているのか心配して都会までやってきた様子。
最初は富子の近しい人物とこっそり会って妹がちゃんとやれているか聞いて回るだけの予定だったらしい。
しかし、ここ最近は妹が夜道を周りを気にしながら帰っているようなので、ならばと怪しい人物がいないか見張るために富子が出かける夜の日はずっと妹について回っていたのだとか。
その兄の所業に富子は呆れるやらホッとするやら。
なにせ、ストーカーと思って気に病んでいた存在が、実は兄の考えなしな行動の結果だと判明したのだから。
当然富子は怒った。それはもう怒髪天をつくほどに怒った。そして安心したように涙を流して兄に抱きつくように崩れ落ちた。
なんにせよここ最近の足音の正体が分かり、肩の荷が下りたように脱力する富子。
「私は大丈夫だからちゃんと田舎に帰って」と富子は兄に告げる。ついでにお盆には私も帰るからとも。
その妹の言に兄は渋々納得し、女の借りているアパートの近くまで一緒に歩き、二人は別れて女はアパートの一室へ。
人騒がせな兄に安堵と呆れの入り混じったため息を吐きながら、女が玄関で靴を脱ごうとした辺りで。
ヒタ
ヒタ
ヒタ――
なんと玄関のすぐ外から、あの雨に濡れた足音が聞こえてくるではないか。
そういえばと今の時間を女が確認すれば、終電の時間は過ぎている。別れた兄がどのようにここまでやってきたかはわからないが、もし電車できたならば自分を頼りに家までやってきたのだろうと予想した。足音も扉のすぐそばで止まっているような気もするし。
終電を逃し、帰る手段も雨を凌ぐ宿もどうしようかと途方に暮れた兄を思い浮かべてくすりと富子は笑みを浮かべた。
まったく世話のかかる兄だとすっかり安堵しきった富子は靴を履き直して玄関を開ける。
雨に濡れながらの玄関そばで、妹に頼るべきかそれとも別の手段を講じるべきか悩み立ちつくしているであろう兄を迎えるために。
どんな形にせよ自分を心配してくれた肉親を朝まで泊めることは富子はやぶさかではなかったのだし。
――そして、そこに立っていたのは……兄ではなかった。
その日から、富子の姿を見たものは誰もいない。
* * *
さて、女が足音を気にしはじめた後の足音の主が女の兄だったとしても……その前の足音の主は何だったのか。
彼女の兄が妹の後をつけ始めたのは富子が周りを気にするようになってから。
つまりは彼女が足音を気にするきっかけとなった大元は兄ではなかったのだ。
では、富子を付け狙った雨の足音の主は誰だったのか。今となっては知ることはできない。
しばらくして、女がいた街に一つの噂が立ち始めた。
雨の日に聞こえる近づく足音の主が誰か確かめてはいけない。
その足音の主に呼びかけてはいけない。
足音の主を玄関から家に招いてはいけない。
それはお前をあちら側へと連れて行こうとするものだ、と。