徒然:とあるエッセイと、その感想欄を読んで感じたことなど。
まぁ、「そのエッセイの感想欄に書けよ」という話かも知れませんが……
多分エッセイの作者さんは感想を読むだけでも疲れてしまうだろうと思うので、それなら自分の場所で自分が好きなように書こうかなぁ……と思った次第です。
件のエッセイについてですが、一読した時には、その感想欄に書き込んだ彼のような激しいショックは受けませんでした。
それは、わたしがエッセイの対象者ではなかったからかも知れません。また、身近にもそのような診断を受けた人が(現在は)いないから――極端な言い方をすれば現在のわたしにとっては『他人事』だったから――かも知れません。
「随分乱暴な決めつけをする文章だなぁ」とは思いましたが、『一生施設の中でいてください』という内容には受け取らなかったから、かも知れません。
ここで既に、エッセイの内容について、感想を書いた人とわたしとでは、受け取り方が違うのです。
それくらい文章が、つまり作者の主張が『ぼんやり』としていて曖昧だったのだと思います。
元来誰でも、物事に対してはそれなりに、『自分にとって都合のいい』受け取り方をするものです。
そのため、今回のような曖昧な主張を聞いた場合は、『最大限に自分にとって都合のいい』受け取り方をしてしまうのです。
ここでの『都合のいい』というのは、『ラッキー☆』という意味ではなく、『自分の中の常識』や『価値観』や『経験』と照らし合わせて、それに対して『自分がどのような判断・反応をすべきか』というような意味です。
例えば、白黒はっきりしない、ぼんやりした表現の文章を読んだ時、「ぼんやりしていてまったく理解できん」と思う人もいれば、そのまま「なんかもやもやした文章だなぁ」と受け取る人もいれば、「ふっ……未熟な文章だが、好意的解釈をすれば、こういうことを言いたいのだろうな」と先回りして読もうとしてくれる人もいれば、「これは白か黒か、と言われれば、『黒』であろう。つまり宣戦布告だ」と、二択で受け取る人もいるわけです。
(わたしの身近に、ほぼ『白か、黒か』でしか判断できない人がいます。)
ざっくりとした分け方をしましたが、もちろん、これ以外の解釈をする人たちもいます。
わたしは、できるだけ争いは避けたい性格です。また、自分とはまったく違う思想や価値観なども、共感の有無は別にして「なるほどね」と理解しようとする性格です。
理解できない場合は、心の中の『保留箱』に入れておいて、また同じようなことに出会った時や、解決策が見えそうな時に保留箱から取り出して、改めて噛み砕こうとします。
どうしても意見や価値観が合わないのがわかり、理解もしがたく、見ていて不快だと思うような相手に対しては、『さり気なく離れる』という手段を取ります。
この『なろう』では、わたしとは違うタイプの『積極的に意見を述べたい』、『積極的に議論したい』、『積極的に白黒つけたい』人たちもいます。
彼らはエッセイの主張について、議論の場に出すための『積極的な受け取り方』をするわけです。
更に当事者や関係者ともなると、その立場でしか見えて来ない、聞こえて来ないエピソードや、常日頃から感じていることなどもあります。
「この作者は私たちを理解していない!」と感じてしまえば、そこには怒りや悲しみ、憤りが生まれるのも当然だと思います。
内容よりも作者自身に対し、自分たちの環境や心情について訴えたくなるのも当然のことだと思います。
エッセイ自体の矛盾なども指摘されていましたが、普段から書き手さんとして活動していたかたではなく、普段は読み手さんであり、「あ、ちょっと思ったことを書いてみよう」という軽いものだったようですから、あまり深くは考えてなかったのでしょうね……
例えるなら……日記とか、メモとか。
小説の場合でしたら『下書き』に近いような。その程度の。
まぁ、エッセイなので、『つらつらと思い浮かんだことを書き綴った』という行為自体には、特に間違いも問題もなかったのですけども。
『考えたこと』というよりも『感じたこと』だったのかも知れない、という解釈をするなら、理路整然とせず、主観的、感情的な内容に偏りがちであっても当然なのでしょう。
そして、作者さんは『なんとなく』感じたことを『なんとなく』書いただけなので、そんなに激しい反発が来るとは考えていなかったのだろうな、と思いました。
一方、エッセイよりもその感想を読んでいて胸が痛みました。
「あぁ、この人たちはこんなにも傷ついているのだ」と感じたのです。
更に、その傷も痛みも、エッセイの作者さんにはあまり届いていないのだろう……とも思いました。
作者さんの身内や親しい人の中には、該当するような人がいなかったのかも知れません。
作者さん自身は、精神的にも肉体的にも健康そのもので、今まで大きな挫折やひどく傷ついて心がボロボロになったという経験がないのかも知れません。
または、超ポジティブシンキングで、いつどのような逆境に陥った時でも、「むしろこれは大きな好機だ」と考えられる人なのかも知れません。
そのようなタイプの人は心が非常に強く、その目は太陽のように強い光を放っていることでしょう。
ただ、(あくまでもわたしの経験上、という前提ですが、)そのような『心が強い』人の多くは、『心が弱い人』の傷つきやすさを知りません。また、知ったとしても、なかなか理解できません。
太陽並みのスーパーポジティブシンキングな人は、小さな石につまづいたことを五年後、十年後まで覚えているような繊細な人のことを理解できません。
理解『しない』んじゃなくて『できない』んです。
何故自分が責められているのか、自分のどこが間違いだったのか――もしくは、自分は間違えているのか――それすらも、気付けないかも知れません。
そういう人も、実際いるのです。
そうではなく、作者さんが『今はまだ理解できないだけ』だったら。
『今すぐ理解しろ』、と言っても、人によっては難しいかも知れません。
でも理解できないながらも、これだけの反応があったということは心の中に残ります。そしていつか、そのことを理解できるタイミングが必ず来ます。
その時が来たら、あのエッセイを書いた時の自分に対して、それを読んで感想を書いた人たちに対して、何かしら思うことがあるはずです。
あの作者さんは、既に職を持っているような『大人』です。
ならば、赤の他人がしつけることも諭すことも、今更できるわけはないのです。
いつの日かあの人が自分自身で気付くか、もしくはあの人が素直に話を聞ける立場の人(両親や恩師など)でもなければ、諭すことなど不可能ではないでしょうか。
* * *
逆に、作品一発目で、しかもエッセイで、炎上を狙って書いたとしたら、それはそれですごい才能だと思いますが……という冗談は、置いとくとして。
あの作者さんは、自宅にひとりでいることを『孤独』と感じる人なのでしょう。
大勢の他人の中で生活することを『苦痛』とは感じない人なのでしょう。
この点においては、わたしとは正反対の人なんだなぁ……と思いました。
ちなみに、ネットにはリアルの生活圏内で出会うよりもずっと多くの『精神障害者』の人たちがいるんですよね。
わたしが知る精神障害者さんたちは、九十八%くらいが、ネットによって知り合った人です。
彼らにとっては、直接知らない人に会うのは怖いけど、『文字』を通してなら自己主張もしやすいし、トラブルが起きたらネットを切って少し離れてみたり、それでもトラブルが続く場合は、一度退会してアカウント取り直したり……という対策もできるため、お互いにとっての『いい距離感』を保てるのでしょう。(両者がお互い、相手を思いやる気持ちがあるのならば、ですが)
年齢も性別も職業もバラバラですが、ざっくり分けると特に多いのは鬱病、その次に双極性障害、それからパニック障害……という感じでしょうか。
鬱と双極性障害のかたの多くは、元は真面目で神経が細やか、仕事などに対しての責任感も強く、自分を律することにおいては非常に厳しい、と見受けられます。
だからこそ無理をしてしまい、自分を追い詰めてしまう。そして病気で仕事ができない自分を責めてしまう、というかたも多いです。
普段からいい加減で、責任とか背負いたくないし、できることなら好きなことだけして生きて行きたい、っていうわたしみたいなタイプとは全然違う人たちなのですよね……
あぁ、ひとつだけ作者さんについての意見を述べさせていただくと、このかたは『無意識の差別』を持っておられるのだなぁ……と思いました。差別しているつもりじゃないのに、差別してしまっている。だから、相手が怒っても傷ついても、その理由が理解できないのだろうな、と。
感想欄の返信にて書かれていた『(感想を書いた人の状況でも)職に就いていることは素晴らしい』(※意訳)という部分など、本人は多分嫌味でも差別や偏見でもなんでもなく、素直に称讃したつもりだったのでしょうけど。
最後に超個人的、かつ、超主観的意見になりますが、エッセイのタイミングも、あまりよくはなかったかも知れませんね……春というのは精神的な動きも活発になり、年中低空飛行なわたしでさえ、浮かれ気味になるのですから。
更に、季節性の双極のかたなどは、割と顕著な躁転の時期にもあたったりするわけです。(個人差は当然、ありますけど)
この時期は、その人本来のフラットな状態とは違い、良くも悪くも、ちょっとしたことに対して非常に過敏になってしまう傾向にあります。
過敏な反応が楽しいことだけであればいいのですが、ちょっとした行き違いなどでの口論や仲違いもこの時期に多いですね。
その筋の専門家でもなんでもないど素人ですが、必要に迫られて読んだ何冊かの本や、体験者さんのブログや、またこの二十年近いネット生活(チャット&SNS&オフ会)で出会ったさまざまな人たちを見て来て、「春は……楽しいけど、色々危険だ」という認識でいます。