二話 始まりは牢獄の中で
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私は重たい頭を持ち上げた。
「あ……う…」
掠れた声が洩れた。
長い金の髪がぴたりと顔に張り付く。
頭の奥で赤の色彩が揺らめく。
「痛っ……」
痛みを伴う激しい吐き気とフラッシュバック。
知覚していると言う認識をする間もなく、映像の洪水は呼吸することさえも許さなかった。
ただただ断片的な映像が溢れ脳を浸蝕していく。
まずは色彩。
そこに浮かぶ白、赤、黒の鮮烈な印象が痛みを誘引しているのだと解る。
私は目の奥が熱く、網膜が焼けて剥がれ落ちる錯覚を味わう。
ゆっくりとその色彩に焦点が合う。
あれは恐ろしいものだ。
そう判っているのに目が反らせない。
何故ならば、これは私の記憶だからだ。
肉の塊、白く精気のない肌、濁りきった緑の瞳、瞳孔は開ききり、羽根が点々と落ちている様子が映し出される。白と赤の斑模様。
あれは死体。
そして、その横にはにんまりと唇を左右に引き伸ばし、嗤う顔があった。
私はその顔をよく知っていた。
否、私だけではない。
おそらく、この世界に住む者なら誰もが知っている顔だろう。
恐ろしく整った顔。
白く滑らかな肌。
アメジストの瞳。
フードから零れる艶やかな黒髪。
「許さない」
呪いを舌に乗せる。
苦い言葉に舌は麻痺を引き起こす。
唇が引き攣る。
体温が失われる。
苦し紛れのように重い扉を蹴飛ばすと、頭を抱えた。
どのくらいそうしていたのだろう。
少し経つとゆっくりと痛みも和らいでくる。
捕まったみたいだと今更ながら現状を把握する。
幸い、拘束具等は一切無い。
人間の女とでも思われたようだ。
いつもなら怒ってるところだけど、今回ばかりは有難い。
私はすっかり冷静さを取り戻していた。
私?
私の名前はスクルド。
元、魔族。いや、今も魔族なんだけど。
辺りを見回す。
薄暗い部屋の中にテーブル。
その上には小さな明かりが一つ。
手を翳すと温かさを感じないことから、魔法による明かりであることが分かる。
簡素な部屋。
いや、これは牢獄だ。
白い壁に覆われた牢。
叩いてみると鈍い音がした。
硬質プラスチックで出来ているのだと分かる。
鉄より壊れにくい上、衝撃を吸収するそれがこんな牢に使用されているのは自殺を防ぐためなのか、或は脱獄する気を削ぐためか。
まるでどこぞのエロ小説のようなシチュエーションね。
拘束具がないことだけが救いだが、二進も三進も行かない状況に臍を噛む。
溜め息が洩れていくのが分かった。
カチャリ。
不意に音がした。
目を細め、そちらを見やる。
自然と身体は半身をとっていた。
あわよくば逃げ出せると思ったし、自分の腕に覚えがあったから。
今ではすっかり人間のような格好ではあるが、元は魔族だもの。
ゆっくりと金属が擦れ合うような嫌な音が響く。
眩い光。
それを合図に、扉とそれを開けた主の間を擦り抜ける。
運動神経はけして悪くない。
小柄な身体は加速する。
素早く背後へ回ると、その者の首に腕を回した。
そのまま勢いよく締めれば首は折れる筈だ。
勝利を確信し、唇からは笑みが零れる。
だが、刹那、私の身体は空を切っていた。
こんなに私の身体って軽かったかしら?
そんなことをぼんやりと思う。
目の前が白い。
床だ。
当然の如く、床に叩きつけられることを予想し、固く目を閉じた。
ところが、何時まで経っても衝撃らしいものはない。
一体全体、どうしたことだろう。
「どうした?」
聞いたことのある低い声が響く。
私は怖々と目を開けた。
そこには、漆黒の髪を持つ美丈夫のドアップがあった。
素敵なシチュエーション……なはずもない。
私は目を凝らして彼を見つめた。
瞳に映った顔。
ブルーブラッドの名に相応しい高貴な顔立ち。
見間違いなんかじゃなければ、私はこの人を知っていた。
透明感があって、思わず触れてしまいたくなるほど白い肌。
何より目を惹くアメジストの瞳は、その淡い紫色は血管の色さえ判る肌に映え、何処か憂い帯びていた。
パンドラの匣を思わせるようなと謂えばよいのだろうか。
禍と混沌、甘い誘惑を兼ね備えた切れ長な目からは純白と謂うより青みがかった白目が覗く。
静かに影を落とす長い睫毛はまるで汚れを知らぬ少女のようと言っても過言ではない。
淡い薔薇色の唇からため息が洩れた日には世界三大美女だって恋に堕ちるはずだ。
非のうちどころがない造詣は、流石、貴族様と言ったところだろうか。
嗚呼、こんな顔なら簡単に恋に落ちちゃうわ。
「あのぅ?」
私は頬を抓った。
僅かにそこは赤くなり、痛みが残る。
痛いから夢じゃないみたいね。
そう私はひとりごちた。
「なんだ?」
彼は無表情の儘、私に言葉を返す。
やっぱり幻覚ではない。
幻覚だったら良かったのに。
「貴方、魔王様ですよね?」
「一応」
読めない表情で魔王は答える。
よくよく見ると、無表情と言うよりぼーっとしていると言った方が正しい。
いや、マヌケな顔と言い切ってもいいような顔だ。
まさか、影武者とかではないわよね。
自分で魔王と認めたし、偽者でもこんな美貌が世の中に2つあるだなんて信じたくない。
「私は暗殺しにきましたよね」
「多分」
その言葉を聞いて思わず、私は笑い出してしまった。
他人からすれば気でも狂ったのかよ、ねーちゃんとでも突っ込むところであろう。
しかし、魔王も私もツッコミを入れることはなかった。
さっぱり意味が分からない。
何で魔王陛下ともあろう者が此処で呑気に罪人と話しているのだろう。
この状況は笑うに値するものだ。
「ハッハッハ! 此処であったが12年目! 我が積年の恨み晴らす時が来たようね!」
高らかに叫んだ後、妙な違和感を感じる。
視点が高い。
天井に手が届きそうなくらい。
身長が急に伸びるわけもない。
ということはつまりだ。
「……なんか格好がつかないわね。ちょっと降ろしてくれる?」
私は魔王の野郎にお姫様抱っこされているのだった。
確かに、格好がついていないのは誰の目にも明らか。
お姫様抱っこの儘叫ぶなんて、恥ずかし過ぎる。
これじゃあ、ただの痛い子だわ。
魔王は頷いて降ろしてくれる。
うん、何か魔王っていい人じゃない。
否、私も奴も人じゃなくて魔族か。
そういえば、床直撃を免れたのは奴のお陰だ。
どんな奴でも助けてくれたんだから御礼は言うべきだろう。
「ありがとう」
私は白い踊り子衣裳の裾を摘むと恭しく頭を下げた。
ふんわりと薄い生地が揺れる。
「どう致しまして」
そこで私は我に返る。
すっかり自分の立場を忘れていたところだったわ。
「此処で会ったが12年! 今こそ我が積年の恨み晴らす時が来たわ! 覚悟なさい! 魔王!」
人差し指を魔王に向け片手を前に突き出し、もう片方の手を腰にやりながら高らかに宣言してやる。
舞台女優さながらに、これでもかと言うくらい感情を込めて。
魔王はきょとんとした顔のまま、首を45度傾けた。
腹立たしい顔だ。
身に染みてないな、この野郎。
確かに、見た目24、5の男性がきょとんとした様子はギャップがあり、愛らしいかもしれない。
認めたくないけど、魔王の方が美形だし、睫毛長いし、肌はすべすべで綺麗だ。
でも、彼の実年齢は500歳をとっくに超えているはずだ。
魔族にはざらに居るけれど、人間で言ったらミイラか干物ぐらいの歳だ。
魔王は片方の眉を上げる。
「恨み?」
「しらばっくれないでよ!」
何でもいい。
そう思って手近な壁を叩いた。
魔王はますます首を傾げる。
苛々とした表情をあからさまに足を踏み鳴らしてやる。
タンタンタンと一定のリズムを刻む度に、魔王様の美しい顔は歪ませる。
「もう、埒があかないわね。これならどうよ!」
私は絹の衣装をめくり上げ背中を見せた。
自慢の代理石のように白い肌には焼け爛れた2つの痕がある。
魔王はやはり顔を歪ませて、それを眺めては首を傾げる。
「翼をもぎ取られたのよ!」
私は顰め面で痕に触れた。
「酷い怪我だ。銀のナイフでやられたのか?」
その言葉に私はかっとなった。
ならないはずないじゃない。
12年前、自分が起こしたことさえ忘れているだなんて、どれだけ人を馬鹿にしているのよ。
魔族にとって純銀製のナイフは致命的な凶器だ。
魔族の肌は人間と違う。
銀に触れると皮膚が炎症を起こして焼け爛れたようになるのだ。
触れている時間が長くなればなるほど、炎症は酷くなる。
この傷はじわじわと時間をかけて翼をもぎ取られたことを意味している。
ただでさえ乙女の柔肌なの。
繊細なのに簡単に傷つけられちゃ困るわ。
「知らないだなんて言わせない!」
「そうは言われても我々魔族は銀に触れることすら適わない。それに……ずっと五百年近く、この城の清掃活動に励んできたのだから無理だ」
清掃活動──つまり、お掃除することよね。
城をお掃除、魔王が?
「ふざけないでよ! 大体、魔王サマともあろう者がなんで清掃活動に勤しんでいるのよ! 恐怖の魔王サマ、嗚呼魔王サマと言われ畏怖の対象である魔王様が何をどう悲しくてボランティア活動してるの。空き缶拾いに雑草毟ってるだなんて、農家のお婆さんじゃあるまいし魔王の名前が可哀相すぎるわよ! ましてや、人間どもは魔王様とやらを畏れて聖剣造ったりとか勇者立てたりしてんのよ。あんまりじゃない。人間に今すぐ謝って土下座して裸踊りでも披露してきなさいよ!」
私はまくし立てるように叫んだ。
何よ、それ!
全く腹立たしくて不愉快な話じゃない。
これが魔王。
私が12年間怨んでいた魔王陛下ってこんな腑抜けだったのか。
急に虚無感に襲われる。
12年も怨んでいたものは魔王と名の付いた虚像だったのか。
足元が崩れていくような気がした。
急に足に力が入らなくなり、床に座り込んだ。
「そうは言っても広い城だし、人員削減で人も足りてないし、臣下の者は忙しいし、こう見えて大臣や摂政よりも若いし、一般業務は1日5時間ばかりやれば終わるし、……」
魔王はしどろもどろになって言い訳を始めた。
そんな姿見せないでよ。
どっちが悪者なんだか分からなくなる。
「言い訳は要らない! そんなものするくらいなら、死んだ両親を返してよ!」
言ってることが滅茶苦茶だ。
それは分かっていた。
「死?」
「そう、12年前、殺されたのよ! アンタがやったの! 私は見たんだから!」
魔王は苦しそうに顔を歪めた。
表情は違えど、あの時と同じ顔だ。
間違いない。
私たちは貴族だった。
両親は魔王に忠義を尽くしてきたはずだった。
裁判もなく、弁明の場すら与えられず、あの夜、両親は切り捨てられたのだ。
どう謂う形であれ、主従関係をぶち壊したのは魔王の方だ。
それなのに、何故苦しそうにするの。
「それには……心当たりがある…」
暫く黙っていた魔王はそう呟くと、夜陰色の外套を翻した。
その仕草は他人を寄せ付けない優雅さだった。
「やっぱり、アンタが!」
私は魔王を睨んだ。
胸が憎悪で押し潰されそうになる。
「私ではないが、心当たりはある」
そう魔王は呟いたまま、牢から出た。
そして、鍵もかけずに、考え込んでいる様子で廊下を歩き始める。
私は立ち上がると、慌てて魔王の後を追った。