代者(かわりもの)
コーヒーを飲み終えて、時計を見るとまだ四〇分も経っていなかった。空っぽになったマグカップにコーヒー特有の茶色いシミが残っている。冷えたコーヒーほど、がっかりさせられるものは無いと思う。香りも無いし、無駄な主張をする苦味だけしか感じないからだ。
「高村くんは、人を好きになったりしないの?」
「ないですね。人に出会う機会が少ないですし」
「そっかぁ。でもさ、歳離れてるとはいえ、男女二人密室にいるわけだから、ちょっとは邪な考えとかないの?」
「僕は……すいません、先生の魅力とかの問題じゃなくて、僕がそういう感情がないだけで」
「ふふっ、いいのよ」
先生のマグカップにはまだコーヒーが残っていた。瞳のような色のブラックとは違う、羊皮紙のようなカラーの甘そうなコーヒー。きっと砂糖が下に溜まっているに違いない。最後の方は飲むのが辛くないのだろうか?
「私もね、実は色恋沙汰に無縁なんだよね。あー、その『あり得ない』って顔やめてよね」
「だって、そうは見えないからですよ」
「ううん、本当。男の人を好きになるって意味がちょっと理解できないかな。理解できないというか、分からなくはないんだけど、私には合わないというか」
「僕もそうですけど、でも僕と先生はだいぶ違って見えます」
こんな人付き合いの塊のような話し方をする人間が、人に好意を向けるだとか、誰かを好きになるだとかしないわけがないと思っていた。人との関わりがある分、そういう出会いもあるんじゃないのか、そこから発展することもあるんじゃないかと。
「恋愛ってさ、私には欲に感じるのよね。ヒトとしての本能というか。動物みたいじゃない? 人も動物なんだけどね。って、変なの。でも、恋愛は人同士の心の通わせ合いじゃなくて、やっぱり繁殖能力から来るものだと思うなぁ」
「どうなんでしょう、僕には本能がないんですかね」
「さあ。隠し持ってるんじゃなくて? なんて、冗談。でもさ、本能だとしたら合点がいくんだ。私も実は病気持っててさ、高村くんぐらいの時に子宮頚がんで子宮取っちゃったの。別にホルモンとかが全くなくなったわけじゃないけど、恋愛感情が無いってこれも関係してるのかもね」
子宮頚がん。そんな単語が出てくるとは思わなかった。それもこんなに軽やかに。僕だって病気になって長いが、それでもここまで簡単に口にすることはしない。この人にとって、もう終わったことだからだろうか。
しかし、確かに恋愛感情とか、男女の関係に興味が無いのも納得できた。僕にだって分かる。子宮という女性の象徴を失って、先生はどんな思いだったのだろうか。
「結局のとこ、性欲に繋げるために恋愛ってあるんじゃないかなぁ。私にはもうその機能がないから。でも、昔からこうだったからやっぱり関係ないのかも」
「関係ないですね。僕だって去勢したわけじゃないですし」
「でもね、『この人って信頼できる!』とかいうのはやっぱりあると思うのよ。でもそれがパートナーである必要はないじゃない? 私だったら、信頼できる人に好意を持っても、恋愛しようとは思えないかなぁ」
信頼できる人。僕にとっては両親だろうか。いや、両親も病気になってから少し気を使われているような気がして、正直言って一〇〇%信頼することはできないと思う。朝の「しっかりするのよ」もそうだ。大切にされているのだろうが、大切にするその仕方が、普通と違うから癪なのだ。
すると、僕には信頼できる人がまるきりいないことになる。それは悲しいことなのだろうか。きっと「普通」なら憐れむべきことなんじゃないか。
「自分が好意を持たなくてもさ、誰かに持たれることはあると思うんだ。高村くんは無い? 告白されたこと」
「無いですよ。友人すらいないんですから」
「ああ、ごめんごめん。そういうつもりで言ったんじゃないんだ。でもさ、もしされたとしたらって考えたらどう?」
「ごめんなさい、ちょっと想像つかないです」
「だよね。私自身、好意を向けられた事はあるけど、よく分かんなかった。高村くんもきっとそうなのかな。もちろん、好意を受けるのは嬉しいんだ。でもそれは、自分の人間としての魅力がゼロじゃないっていう安心感の嬉しさであって、誰から受けたって私にとって同じものだと思う。代わりの人間でもさ。こういうこと言うと嫌われるけど、高村くんだから話せるなぁ」
「代わりの人間……ですか」
「変わり者、かな」
不思議な先生だ。自分のことをたくさん話すくせに、「自分のこと」がほとんどない僕に似ているような気がしてしまう。今までのカウンセラーにはこんな人は一度だっていなかった。型破りと言えば聞こえはいいが、道を外してるのは違いない。
恋愛。考えたことがないわけじゃない。だけど僕にはどうにもメリットが感じられなかった。そもそも僕自身、同級生達が眩しい、羨ましいと思っても、そうなりたい、そうなれると思ったことは無かった。ただ、普通でいたかった。普通でいれる人間が羨ましかった。その要素の一つとして、青春のパーツとしての恋愛ももちろん考えたが、やはり友人を作るのと同様、積極的にしようと思えるものではなかったのだ。
「私のこと、変だなって思う?」
「い、いや」
「ごめんね、君のカウンセリングなのにこんな話して。でもちょっと親近感湧いちゃってさ。……何が言いたかったかって言うと、高村くんみたいな人も実はたくさんいるんだよってこと。普通でいたいと思うこともあるかもしれないけど、そんな人たちたくさんいるんだから。それが『普通』なんだよ」
「そう、ですか。『普通』……そうですね」
時計を見た。驚くほど時間が経っていた。楽しい時間は早く過ぎるというが、まさか僕は会話を楽しんでいたというのか。思えば、他人と話していてここまで楽だったのはそう無いかもしれない。これがカウンセラーとしての能力なのか、それともこの人の天性の力なのかは分からない。だが確実に、僕はこの人に対して興味が湧いた。
初めて人を、知りたいと思った。