そこに居ない君
それはもう、いつの頃かも分からない昔の話です。
「俺の方が人間どもの役に立っているさ。なんてったって昼間は俺が居ないと夜みたいに真っ暗なんだからな」
「お前が居ない人間たちの夜を照らしているのはこの僕なんだぞ? 私が居なけりゃ、人間どもは夜道もうかうか歩けやしない」
太陽と月が、些細な言い争いから大喧嘩を始めたのです。
そりゃあもう酷いものです。太陽も月も空一面を暴れ狂い、お互いに噛み付いて、引っ張り倒して、突き飛ばして。
昼も夜も春夏秋冬もごちゃ混ぜになって、世界中の人々が迷惑しました。
そんな日々が一週間ほど続いたある日、太陽と月は休憩しておりました。息を切らしたふたつの天体が、昼の空に並んで浮かんでいます。ほぼいつも、お互いがお互いの居ない間の地球を照らし合っている今の様子からは、想像のつき難い奇っ怪な光景でした。
「この休憩が終わったら、お前なんてけちょんけちょんだからな。俺の方が強いんだからな」
「この休憩が終わったら、お前の方がけちょんけちょんだからな。僕の方が強いんだからね」
太陽と月は息の上がった苦しそうな様子で、それでもお互いを睨み付けながらお互いを罵り合っていました。
「二人とも、何をしてるの?」
そんな二人が不意に聞いたのは、悪意のこもっていない澄んだ声でした。彼らは自分たちの真下の、小高い丘の上を見下ろしました。するとそこには、まだ十歳にも満たなそうな少年が一人、丸々とした黒目で不思議そうにこちらを見上げていたのです。
太陽と月は口々に説明しました。
「見て分かるだろう。喧嘩だよ」
「僕と太陽の奴のどっちが優秀か、一週間もずっと言い争っているんだ」
「ふうん……」
少年はまるで興味の無いような素振りでした。
「ちょっと待っててね、喉が渇いたでしょう。水を持ってきてあげるよ」
そう言うなり、少年は坂の上のほうにある小さな小屋へ駆けて行きました。自分たちの喧嘩をどうでもいいようにされたので、太陽も月もぽかーんと口を開けて、ただただその背中を見つめていました。
しばらくすると、少年が水の入った二つのコップを持って戻って来ました。
「はい。冷たいよ」
「い、いただきます」
「いただきます」
太陽も月も丁寧にそう言ってから、あっという間にコップの中身を空にしました。
「やっぱり、のど渇いてたんだね」
コップを受け取った少年は、太陽の方を向いてにこにこ笑います。
「そりゃあ、一週間もずっとお互いの悪口を言い合っているんだからな。それにそれだけじゃない。お互いを引っぱたいたり、つねり合ったりもしたぞ」
太陽はそう言って月をじっと見ます。
「そりゃあのども乾くし、息も上がるよ。なんてったって、太陽と月の喧嘩なんだからね。太陽のやつは、力が無駄に強いから疲れるんだ」
そう言って、月も太陽の方を睨みます。お互いの視線がぶつかって、今にも火花を散らしそうです。
「どっちがえらいかなんて、そんなに大切なこと?」
彼らの険悪な様子を見て、少年はポツリと言いました。
「そりゃあ、えらい方が良いだろう? えらい方が強いんだからな」
「そうだよ。強い方が格好良いに決まってる」
彼らの意見に、少年は少し考えるような素振りをしてから言いました。
「……どっちも僕にとっては大切だよ。太陽さんのおかげで僕は野菜や果物を沢山食べられるし、月さんのおかげで、ランプがなくても僕は夜道を歩けるんだ。だから、太陽さんも月さんも僕は好き。仲良くして欲しいな」
少年が笑いかけてくるのを見て、太陽と月は黙り込んでしまいました。
「……やっぱり駄目だ」
そう言って真っ赤な首を横に振ったのは太陽でした。
「……ちょっと頑固じゃないか、太陽。小さな男の子がこんな風に言ってくれてるのに」
「そんなことを言ってお前はまた逃げるのかよ?」
「なんだって? 僕がいつ逃げた?」
「だから喧嘩は駄目だよ!」
言った傍から喧嘩腰になった彼らに対して、少年は笑顔を崩してとうとう怒り出しました。
「もう、ちょっと待ってて!」
少年は口を尖らせながらまた小屋へと駆けて行き、何やら袋のようなものを携えて戻ってきました。
「はいっ! これ食べて仲直り!」
そう言って少年が突き出した子袋の中には、クッキーが入っていました。何やらオレンジ色ですが、袋の中からは砂糖とは違った甘い匂いが漂ってきます。
「これは……かぼちゃのクッキーか?」
太陽はクッキーに嚙り付きながら尋ねました。
「そうだよ。これも太陽さんが育ててくれたかぼちゃから出来たんだ」
「へえ……美味しいね」
月も一緒になってもぐもぐとクッキーを食べます。
いつしか、丘の上ではクッキーのさくさくという音だけが鳴り続けていました。三人とも、夢中になって食べました。
「ほら、今二人とも凄く幸せそう」
少年がそう言うと、太陽と月はお互いの顔を見合わせました。どちらもクッキーに顔を綻ばせていたものですから、思わず笑ってしまいました。
「あっはっはっはっは! 月! すっかり満月じゃないかお前!」
「お前こそいつもより膨らんでるぞ太陽! あっはっはっはっはっは!」
太陽と月はお互いを見て大笑いします。けれども、こんな軽口をたたいても、さっきまでのようにお互いを嫌に思うことは無くなったのでした。
それ以来、少年と月と太陽は時々一緒に遊ぶようになりました。丘の上でたった一人で住んでいる少年が、いつも少し寂しそうにしていたので、太陽も月も心配になって時々様子を見に来るのです。そしてその度に、少年は野菜や果物なんかを取ってきて美味しいご飯やおやつを作ってくれました。
「今日は何して遊ぶ?」
太陽と月と一緒に居る少年は、いつも楽しそうです。
「そうだなあ……かくれんぼなんてどうだろうか」
「おいおい太陽。僕たちは天体だから、大きすぎてどこに隠れてもすぐに見つかっちゃうじゃないか」
「ああ、そうか。どうしようかなあ……」
「じゃあ太陽さん月さん、かけっこはどう? 楽しいよ」
「でも、そんなの俺たちが勝っちゃうに決まってるじゃないか」
太陽の言葉に、少年は笑顔で言いました。
「じゃあ、僕が丘のふもとからこの小屋に帰ってくるまでに、太陽さんと月さんは地球を一周してきて!」
「そ、そんな無茶を言わないくれよ……」
月が慌てて少年の案を止めようとしますが、一方で隣の太陽は既に乗り気です。スタートしようと構えています。
「よーし行くぞ! よーい……ドン!」
「ちょっと待ってくれよ太陽!」
太陽と月が急いで回りだしたのを、少年は少しの間その場で見つめていました。
「けほっ……僕も行こっと!」
少年も丘の頂上に向かって駆け出しました。
しかし、月日が経つに連れて、少年は少しずつ小屋の外に出ることが少なくなってきました。風邪を引いたり、頭が痛かったりして、彼らと一緒に外で遊びまわったりする事ができなかったりするのです。そんな時太陽と月はいつも、世界中を巡って栄養のある野菜や果物を届けてやるのでした。
「大丈夫なのかな……彼、最近からだが弱っていないかい?」
「大丈夫さ。ジャガイモだってダイコンだって、リンゴだってミカンだって届けたんだ。皆栄養たっぷりの食べ物だ。元気になったらまた、クッキーを焼いてくれるさ」
気弱になる月を太陽は励まします。野菜と果物で一杯になったかごを扉の前においてから、二人は明日の朝、もう一度少年の小屋に集まろうと約束しました。
ところが翌朝、太陽と月は少年の小屋まで集まって、おかしなことに気がつきました。昨日家の前に置いておいた、野菜と果物のかごがそのままになっているのです。
「アイツ、ずっと寝たままだったのか」と、太陽が呟きます。
「僕、心配になってきたよ。ちょっと呼びかけてみよう」
そう言った月は、すぐさま戸を二回ノックしました。しかし、少年は返事をしません。
「おーい、太陽と月だ。遊びに来たぞう」
太陽が大きな声で呼びかけます。やはり返事はありません。
「心配だ。少し中を見てみよう」
「僕も賛成だ」
二人はゆっくりと戸を開きました。するとそこには、ベッドの上に汗をかいて苦しそうに眠っている少年の姿がありました。月が右手を戸の中に差し入れて、少年の額にひたりと手を当てました。
「――酷い熱だ! 大変だよ太陽!」
「なんだと!」
「すぐに綺麗な水を汲んできてくれ! 目一杯冷たいの! 僕は栄養を取るための食べ物をこしらえるから!」
二人は慌ただしく動き始めました。太陽は目にも留まらぬスピードで空を駆け巡り、世界で一番綺麗な泉からたっぷりの水を持ってきました。月は家の外から手先を器用に動かして、栄養の取れるおかゆや野菜のサラダなんかを作りました。それぞれのやることを終えて、二人は少年を起こしました。
「……あれ、太陽さんと、月さん」
少年の声は、明らかにただ起きたせいではない弱弱しさに包まれていました。
「お前、どうして調子が悪いって言わなかったんだ! 俺たちが気付かなかったら、何も食えずにそのまま熱で死んじまうところだぞ!」
「太陽、あんまり大声出しちゃうとこの子の頭に響くよ。……ほら、僕がおかゆとサラダを作ったから、これを食べてちゃんと栄養を取るんだ」
「わあ……おいしそう。いただきます」
少年はゆっくりと、ゆっくりとではありますが、おかゆもサラダも全部食べました。食べ終えた少年は、とても満足げでありました。
「後は、ゆっくり寝な。水ならまた俺が汲んで来てやるから」
「ご飯や洗濯なら僕に任せて」
「……ありがとう、二人とも。おやすみなさい」
そう言うと、少年は再び布団の中にうずくまる様にして眠り始めました。
「太陽、僕たちもここを出よう。僕たちがここであわあわしていても仕方が無い」
「ああ、そうだな……また来るよ」
そう言って、二人は空のどこかへと戻っていきました。
少年の病がただの風邪ではないことは、その日の様子から二人も感じていました。それでも、自分たちが弱気になってはいけないと思い、少年がいたたまれない姿になっているのを見ても、可哀想になって泣いてしまいそうになるのを必死にこらえていました。しかし、太陽と月がどんなに気丈そうに振舞おうとも、少年はみるみる憔悴していきます。しばらくすればもう、少年は以前に比べてすっかり痩せてしまっていました。
「駄目だぞ、死ぬのなんて許さないぞ! ……ほら、今度は水じゃなくて、雪雲の奴に頼んで氷を貰ってきたんだ。これで頭を冷やすんだ」
「もっと栄養のあるご飯を考えるから、美味しいのが出来たらまた食べておくれよ」
太陽も月も、一生懸命に少年を励まします。
「……太陽さん、月さん」
少年はもうすっかり元気が無くて、金魚のように口をパクパクさせながら力なく喋ります。
「元気に……なったら、……また、遊んでね」
「……もちろんだよ」
「……約束だよ」
三人の交わした最後の会話でした。
もう、布団の中から少年の息遣いは聞こえてきません。
太陽も月も一晩中泣きました。
その夜、丘は大洪水でした。
ずっと、ずっと、泣いていました。
二人は、少年の小屋の近くにお墓を作りました。丁寧に石を彫ったわけでもなく、木で十字架を作っただけの単純なお墓です。
二人はじっとお墓を見つめています。そして、喋りだしました。
「俺は太陽だ」
「僕は月だ」
「お前が居ない昼の間は、俺がこの丘を照らそう」
「じゃあ僕は、君が居ない夜の間に、この丘を照らそう」
「また、三人で遊ぼう。この丘に集まるんだ」
「ああ、約束だ」
二人は、小指を結んで指きりげんまんをしました。
右手の小指は太陽と月がお互いに結び合い、二人とも残った左手の小指を、小さな墓の十字架に絡めていました。
ゆびきりげんまん
うそついたらはりせんぼんのます
ゆびきった――
約束を終えて、二人はそれぞれの真反対の空を回るようになりました。
少年が亡くなって、暫くの月日が経ちました。
皆でお墓を作って以来、太陽も月も、お互いに顔を合わせることは滅多にありません。しかし、一年に一度だけ、彼らは少年の墓の前に集まって、一晩中彼の墓の周りだけをぐるぐると巡り続けます。
少年がこの丘で一人寂しくないように。そんな太陽たちの思いと行動に惹かれる様にして、近くの村が年に一度、この丘で祭りを開くようになりました。
太鼓が鳴り響き、笛の音に合わせて皆が踊ります。鳴り響く祭囃子が何を願ったものであるのか、知る村人はただの一人も居りません。それでも村人たちは、墓の周りを巡ることで少年を弔う太陽と月に、祈りを捧げるのです。
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