フォレッタ
世界中の国という国が、戦争に突き進んでいこうとしていた時代のこと。
森と湖に囲まれた川の畔に建つお屋敷に、一人の女の子が住んでいました。
スレート屋根に、白い円塔が美しいお屋敷の周りには、春には虹の花が咲き、夏には金色の光が降り注ぎ、秋には透明な風が吹き、冬には────湖に、銀の氷が張りました。
お屋敷から森へと続く小川には、一匹のカエルが、よくやって来ました。
カエルは、春には虹色の花の間から、夏には金色の光を浴びながら、秋には透明な風に吹かれながら、そして冬には、冬眠中の、暖かくて柔らかい、土のベッドの中で見る夢の中から────その女の子のことを見ていました。
女の子は金髪に青い瞳で、虹の花よりも可愛らしく、金色の光に包まれながら笑い、透明な風よりも、清楚に見えたのです。
冬の湖なんて、女の子には似つかわしくはない。
カエルは、女の子を眺める度に、そう思っていました。
ある日、女の子は母親にせがんで、ようやく買ってもらえた白い帽子が嬉しくて、大好きな歌を口ずさみながら、川辺りのあたりを散歩していました。
その時、川面を吹いていた風が気紛れを起こし、少し横道にそれたのです。風は、女の子の髪を少し撫でた後、被っていた白い帽子を、静かに流れる川面へと落としたのでした。
「どうしよう……」
女の子は、自分が母に叱られる姿を想像しながら、オロオロと周囲を見回しました。ですが、辺りには帽子を引っ掛けるための、手頃な木の枝一本、見当たりません。
女の子は意を決し、川辺りの草を掴んで、精一杯身を乗り出しました。そして、思い切り手を伸ばしてみますが、まったくダメ。とても、届きません。
女の子は、いよいよ涙目で、もう一度、今度は頭の中で「どうしよう」と繰り返した時、いきなり、「ゲコ」という声が聞こえました。
水面から顔を出し、こちらを見ているカエルでした。
「カエル…」
という女の子のつぶやきに、カエルは不本意そうに名乗ります。
「カエルではなく、ギュスターヴと呼んで下さい」
カエルは、実に人間くさい挨拶をしました。帽子でも被っていれば、礼儀正しく、取って挨拶したでしょう。
「立派なお名前ね」
カエルのくせに、と思いながら、女の子も名乗ります。
「私は、スリジエよ」
「ステキなお名前だ」
カエル────ギュスターヴは、感じ入ったように言いました。
意味がわかって言っているのかしら?と思いながら、女の子が吹き出します。
「あなた、ここに住んでるの?」
「いいえ。あそこに、森が見えるでしょう?」
ギュスターヴの指し示す先には、入道雲のように沸き立つ、黒い森が見えます。
「森の中に、ここに咲いているのと同じ、虹色の花が咲く沼があります。私は、そこに住んでいるのです」
ギュスターヴの話では、その先には恐ろしいケモノが、さらに先には、さらに恐ろしい魔法使いが住んでいるのだといいます。この時代、昏い森の奥には、魔法使いが住んでいるというのは常識でした。
女の子は、カエルに、川に落ちた帽子を取って来てもらうと、彼と友達になりました。
女の子がお礼を言うと、お屋敷のほうから、女の子を呼ぶ声が聞こえてきます。
「いけない!今日は大事なお客様がいらっしゃるから、あまり遠くへ行ってはダメと言われていたんだっけ」
「お客様?」
「嫌な兵隊さんよ」
そう言うと、それから女の子は、アレ?と、首を傾げて言い直します。
「もっと偉くて、しょうこうさん……だったかな?少し前から、よく家に来るようになったの。それじゃあね」
カエルは、「ゲコ」と一声鳴くと、帽子を抱えて走ってゆく、女の子の後ろ姿を見送りました。
ばあやに出迎えられると、女の子は、お屋敷の一番奥にある応接間へと連れて行かれました。
そこでは、母と、母と楽しそうに談笑する、胸のあたりを金ピカの勲章で飾り立てた、若い軍人の姿がありました。
その光景に、女の子は、胸を鷲掴みにされるような不安を覚えます。
「ですから最近、陸軍は雨の降らない地域に雨を降らせるため、雲の中に何百発もの砲弾を撃ち込む、という馬鹿な計画を立てているのですよ」
という軍人さんのお話に、滅多に笑った顔など見せない女の子の母親が、追従するように笑っています。
娘が帰ってきたことに気が付いて、母親は、手招きするような声で言いました。
「あら。皆、貴女を待っていたのですよ?さぁ、いつまでも、そんな所に立っていないで」
母親の言葉に促されて、スリジエは、一番近くの椅子に腰を下ろします。
そんな、お芝居の練習でもしているかのような談笑は暫く続き、やがて軍人さんの口から出た言葉は、貴女を貰いに来ましたという、プロポーズの言葉でした。
唇を固く引き結んで、一言も返そうとはしないスリジエに業を煮やして、スリジエの母は、娘を叱りつけるように語りかけます。
「まだ15歳の貴女には急すぎるお話でしょうけれど、軍人さんは、いつ戦地へと赴かなければならなくなるか、分からないのだから…ね?」
「お母様……」
聞き分けのない子。
そう言いたげな母の態度に、スリジエは声を震わせます。
「そうだスリジエ、ご一緒に、お庭の枝垂れ桜を見てきたらどうかしら?もう、陽がだいぶ傾いてしまってはいるけれど、軍人さんは、何かあれば、戦地へと赴かねばならないのだから……ぜひ、そうなさい……」
母の顔が青ざめている。
そんな母を見るのが嫌で、スリジエは言われた通り、軍人さんと連れ立って、庭へと出て行きました。
お屋敷の庭は、ちょっとした、小さな森になっています。元々ここは「庭園」になる予定だったのですが、世界的な不況の「あおり」を受けたとかで、作業は、中断されたままになっているのでした。
庭の中心には大きな池があり、その畔りには、女の子の名前の由来にもなった、大きな枝垂れ桜が一本、水面に枝を張り出すようにして、根を張っています。はるか東の果ての国から、海を渡って、はるばると長い旅をしてきた桜の木です。
鼻をくすぐる水の匂いが夜気に溶け出し、草と土の匂いと混ざり合って、いやが上にも、女の子の心をザワつかせます。
まだ夕焼け空の名残をのこす藍色の空を見上げると、女の子の瞳は、ポッカリと浮かんだ、金貨のように明るく輝くお月様を見上げるのでした。
「さて、随分と手こずらせてくれたが、これでもう、お前は私から逃げられないぞ、スリジエ」
軍人が、ズル賢そうに舌を出して、自分の唇をひと舐めしました。
「そもそも、これだけの屋敷だ。私の家の力添えが無くては、とうてい、維持してゆけるものでは無いんだ」
そうだろう?と、求婚者は詰め寄ります。
事実を指摘されて、スリジエは身を固くしました。
「君の母上はなぁ、そのことを、ちゃんとわきまえているのさ!」
自分の勝ちを宣言するような軍人の言葉は、スリジエに、先程の母親が見せた、いかにも作ったかのような微笑みを思い起こさせます。
衝動的に、スリジエは、その場から走って逃げ出しました。
色々な思いや感情が激しく渦を巻いて、逃げなければ、女の子の心は壊れて、その場で朽ちてしまっていたかもしれません。
「貴女は、どこにも逃げられない!この辺りは、森と湖ばかりですよ!ハハハハ!」
背後に、高笑いと共に遠ざかってゆく自分の婚約者の声を聞きながら、女の子は走り続けました。今日、友達になったばかりの、ギュスターヴの棲む、沼のある森に向かって。
スリジエの友達は、ギュスターヴだけでしたから……。
あんな人キライ!母様もキライ!みんなキライ!大人になんかなりたくない!もっと、子供でいたい!望まない結婚なんて、イヤだ!
女の子の心の叫びを聞いたかのように、森の木々は、ザワザワと揺れ続けます。
女の子は一晩中、森の中を彷徨い続けました。
そして、とうとうギュスターヴの言っていた、最初にギュスターヴと会った川辺りに咲いている花と、同じ花が咲いている沼の前まで来たのです。
スリジエは、ギュスターヴの名を呼んでみました。
すると、水面から一匹のカエルが顔を出します。そのカエルは「ゲコ」と一声鳴くと、再び水の中へと潜っていきました。
「ギュスターヴじゃなかったのか……」
スリジエが残念そうに沼の水面を覗き込むと、
「おや、これは驚いた。本当にスリジエじゃありませんか」
と、今度は本当に、ギュスターヴが顔を出しました。
スリジエはギュスターヴに、自分がギュスターヴと別れてから、何があったかを話し始めます。ですがカエルのギュスターヴは、戻ったほうがいいと、スリジエを説得しはじめたのです。
「今回ばかりは、叱られて、お尻を叩かれる程度では済みませんよ?」
「だったら守ってよ!私を、嫌な結婚相手から守ってくれないの?」
「う~ん……」
ギュスターヴは、人間のように腕を組んで考え込みます。これは、カエルの彼には難題でした。
「そうだ!守ってくれたら、私、あなたのお嫁さんになってあげるから」
「えっ⁉︎」
「それなら、いいでしょ?」
スリジエは、相手は所詮カエルだし、人間と、沼に棲むしかないカエルとでは、結婚なんて、どうせ出来っこないと思ってカンタンに言いました。
「……本気ですか?」
「はい、本気です」
女の子が、カエルに顔を近づけて微笑みます。
すると、いつの間に顔を出していたのか、数え切れない程の沢山のカエルが水面から顔を覗かせ、スリジエのことを、ジッと見つめているではありませんか。
スリジエは、ゾッとして顔を上げました。
「わかりました。では、貴女の望み通り、その軍人とやらを追い払ったら、その時、貴女は私のものになります。いいですね?」
「う、うん……」
スリジエが返事をすると、水面から顔を出している沢山のカエル達が、一斉に、ゲコゲコと鳴き始めました。
その様子に、スリジエが軽い後悔を抱き始めると、一晩帰らなかった彼女を捜しに、結婚相手の将校が、集められるだけの兵士を集めて、ギュスターヴの棲む沼のほうへと、分け入ってきたのです。
それを見たカエル達は、ギュスターヴの号令のもと、一斉に沼から出て、飛びかかって行きました。
数では圧倒的にカエル達が上ですが、兵隊たちは、銃と剣で武装しています。
カエル達が次々と兵士達に斬り殺されていくのを目の当たりにして、スリジエは、この森の、さらに奥に棲んでいるという「ケモノ」たちに助けを求めようと、森の、さらに奥深くへと入っていきます。
しばらく進むと、木々が鬱蒼と生いしげり、辺りは、まるで夜のように真っ暗になっていきます。
恐る恐る歩いてゆくスリジエは、いつしか暗闇の中に、いくつもの光点が灯っていることに気が付きました。
それは瞬く間に数を増やしていき、いつの間にか、スリジエは自分が、その光の群れに、ぐるりと取り囲まれてしまっていることに気が付きます。
やがて、闇の中から二つの光点が、スリジエのほうへと進み出てきました。
光を放っていたのは二つの目で、姿を現したのは、スリジエなど簡単にひと呑みにしてしまいそうな、とても大きな口を持った狼でした。
「こんな所に人間だ」「女の子だ」「喰いたい」「珍しい」「何の用だ?」「喰いたい」「喰っていいのか?」「喰いたい」「最後に、何か望みがあるなら聞いてやれ」「喰うんだからな」
そう意見がまとまったようなので、スリジエはガタガタと震えながら、森の中へと入ってきた軍隊を追い払ってほしいと、目の前にいる大きな狼に頼みました。
「よし、待っていろ。お前の匂いは覚えた」
そう言い残すと、狼達は風になって姿を消しました。
しばらく腰を抜かしていたスリジエでしたが、慌てて起き上がります。このままでは、きっと自分は今日中に、ケモノ達の食卓へと供されてしまうに違いありません。腰を抜かしているどころでは無かったのです。
スリジエはあまり気が進みませんでしたが、この森の、さらに更に奥に棲んでいるという魔法使いを訪ねてみることにしました。
不安の影を引きずるようにしながら歩いてゆくスリジエの前に、やがて、三角屋根に煙突の突き出た、小ぢんまりとした一軒家が見えてきます。
スリジエが近づいてゆくと、森の木の一本に停まっている一羽の大鴉が、女の子の来訪を告げるように、大きく一声鳴きました。
「ああ、来た来た。今朝から森が騒がしいと思ったら、原因はアンタか」
扉を開けて出てきたのは、スリジエと、まったく同じ顔をした女の子でした。
ビックリするスリジエに、魔法使いは、面倒そうに言います。
「ああ、気にしないでいいよ。私は自分の顔なんて、とっくの昔に忘れちまったからね。手っ取り早く、鏡みたいにアンタの顔を映し込んでるんだ」
それで?何の用だい?と魔法使いがスリジエに訊くと、木の枝にとまっている大鴉が、また一声鳴きました。その瞬間、魔法使いの顔は鴉になり、女の子が事情を話し始めると、その間、魔法使いの顔は、スリジエの顔であり続けるのでした。
「事情はわかったよ。で?」
「え?」
「アンタ、私に何を差し出せるのさ?アンタの体は、もう、すでに方々(ほうぼう)に差し出しちまってるんだろ?私は、借財に興味なんてないしね。だからといって、タダ働きはゴメンだよ」
「……」
「……ま、騒ぎの原因には、早く出て行ってもらったほうがいいか。どうだい?アンタを一時的に男の子の姿にでも変えてやるから、その間に森を抜け出しな。タダで手助けしてやれんのは、大負けに負けて、そこまでさ」
前から一度、男の子になってみたいと思っていたスリジエは、自分の置かれている立場も忘れて大喜びです。
「服装のほうは、サービスだ。あんまり道草喰わずに、とっとと出てってくれよ」
さて、寝直しだ。
魔法使いが大アクビで家の中へと戻ってゆくと、木の枝にとまっていた大鴉が一声鳴いて、遠く、空へと飛び立って行きました。
金髪に青い瞳の男の子になったスリジエが森の出口へと差し掛かると、森の外では、婚約者の将校と兵隊たちが、この森を取り囲むようにしながら何事か話し合っています。
スリジエが聞き耳を立てると、カエルの大群を相手にしているところに狼の群れに襲われて、一旦、森の外へと出ることを余儀無くされたようでした。
それを聞いて、スリジエは一計を案じます。
スリジエはまず、ギュスターヴのいる、カエルの沼へと向かいました。
スリジエはカエル達に、人間の兵隊たちが、この沼に油を流して火をかけてしまおうと話しているのを聞いた、と伝えます。
カエル達は仰天し、この男の子の言うように、この沼から出たほうがいいと、ギュスターヴに持ちかけ始めました。
スリジエは、次に、ケモノ達のいる森の奥へと向かいます。
スリジエはケモノ達に、カエル達が兵隊たちと手を組み、ケモノ達を皆殺しにしようと企んでいる。兵隊たちが、カエル達のいる沼を目指して再び森の中へと入ってゆくのを見たので、今なら、兵隊たちを後ろから襲って、全滅させることが出来ると伝えました。
それからスリジエは、もう一度兵隊たちのところへと戻ってゆくと、今度は、自分の結婚相手の将校に話しかけました。
スリジエは気付いていませんでしたが、この時、スリジエの上着のポケットの中には、急に現れた男の子のことを怪しいと感じたギュスターヴが潜り込んでいたのです。
それだけではありません。
男の子なのにスリジエの匂いがする、この少年は何者だろうと、ケモノ達も、こっそりとスリジエの後を追ってきていたのです。
スリジエは、結婚相手に言います。
「沼に入ったカエルには、ケモノ達も手が出せない。だからケモノ達は、まず兵隊たちを狙ってくる。そうさせないために、まずはカエル達のいる沼に油を流して、火をかけて殺してしまえ!」
そこで魔法使いの魔法が切れて、スリジエの姿が元に戻りました。
スリジエが、カエルと、ケモノと、求婚者の将校を共倒れさせようと画策していたことがバレると、スリジエは、怒ったカエルとケモノと将校によって、体を三つに引き裂かれてしまいました。
求婚者の将校は、金髪に青い瞳の、姿がの美しい首を。
カエルは、白く細い両腕と、ふくらみ始めたツボミのような乳房のついた、スリジエの上半身を。
ケモノ達は、その名に相応しくスリジエの下半身を。
それぞれ、もらって帰っていったということです。
〜お終い〜