プロローグ:星の降る夜に
星の降る夜、とは今日のようなことを言うのだろうか。
甲斐雄太郎は部屋の窓から星空を見上げていた。
時刻はすでに夜中の2時を回っており、道をゆく人は数少ない。街灯の少ない田舎では、都会とは比べ物にならないほど、星がよく見える。
大学3年の冬休み、来年には就職活動を控え、のんびりできる最後の帰省は思っていたよりもいいものだった。
大学の近くにあるアパートにほとんどの荷物を送ってしまったため、実家の部屋には家具のようなものがほとんど残っていない。
あるのは小さな机に、一人で寝るのには少し大きなセミダブルのベット、そして買い換えるまで使っていた小さなテレビぐらいだった。
2階にある雄太郎の部屋には小さくせり出した窓があり、そこに腰掛けて星を見ることができる。彼はそんな部屋を気に入っていた。
空を見上げていた目を、手にした文庫本へと落とす。目に悪いことは重々承知していたが、この月の下の読書は何者にも変えられない至福の時間でもあった。
「…………ふふ」
静かな部屋の中、一人笑みをこぼす。
雄太郎の頭をよぎったのは幼馴染の少女の顔。生後まもない頃からから中学校卒業までを共に過ごした少女、お互いに淡い恋心を抱いているのは気づいていたが、関係は友達以上恋人未満。
雄太郎が遠く離れた高校へ進学を決めたことをきっかけに疎遠になり、今回の帰省でも未だ一度も会えていない。
その少女、松野希衣に言われていたことを思い出した。
「だからゆーたろはメガネなんだよ!本読むの禁止ね!!私と遊ぶの!」
幼い頃の記憶だが、それは雄太郎の中にしっかりと眠っている。美しくも儚い記憶。
サラサラとページをめくる彼を冬の冷たい風が撫ぜる。眉ほどにまで伸びた前髪が少しなびいた。
薄く開いていた窓を閉めると、本に栞を挟みゆっくりと立ち上がる。
眼鏡を外し、枕元へと置くとベットへと潜り込む。冷え切った指先が布団のぬくもりによって少しづつ温かみを取り戻していった。
その温かさは雄太郎を優しく眠りの世界へと導いていった。
翌朝、目を覚ました雄太郎は軽く伸びをすると体を起こす。体をひねって眼鏡を取るべく左手をベットへと置く、そして直後、その手が止まる。
左手が布団ではない何かを掴んでいた。
柔らかいそれは確かに昨夜まではなかったものだ。大きさは雄太郎よりも少し小さい位、まるで人間が入っているかのような膨らみ。それも豊かに突き出た双丘は女性のそれを思わせた。
しかしこの場所に、母親以外の女性はいない。そして母親が息子である雄太郎の布団に入る可能性は限りなくゼロに近い。
雄太郎は意を決し、ゆっくりと布団をめくる。
「ん……んんぅ……」
そこにいたのは、昨夜雄太郎の脳裏に浮かんだ少女、松野希衣だった。
昨夜と違っていたのは、少女が成長していたこと、雄太郎が思い浮かべた希衣は10歳前後、しかし当然ながら彼女もまた雄太郎と同じように成長しているのだ。
布団の上からでもわかった豊かな胸と、細くくびれた腰は女性らしさを感じさせた。
パジャマを着たままむにゃむにゃと口を動かす希衣は、たった今めくられた布団をつかみ、自分の方へと引き寄せる。
「……………??…………???」
雄太郎は声が出せずにいた。目の前の出来事が全く飲み込めない、予想以上に育っていた幼馴染のこともそうだが、何よりもなぜ彼女がここにいるのか。
なぜこの布団で幸せそうに眠っているのか。全く見当がつかない。
何もわからないままゆっくりとベットを抜け出すと洗面所へ向かい、顔を洗う。
「いや、ありえないだろ……ん?あれ?」
頭を掻きながら向かった居間に両親はいなかった。
青果店を営む両親は雄太郎よりもずっと早く起床し、開店準備を始める。
見ると、中途半端に開けられたダンボールや篭に盛られた果物がそのまま放置されていた。よほど急いでいたのか、玄関の鍵さえも締めていない。
雄太郎は不思議に思いながらもそれらを片付ける。最後のダンボールを積み上げたとき、両親が帰ってきた。
「雄太郎………っ!!」
母親は雄太郎の顔を見るなり、両手でその肩をつかむ。瞳にはなぜか涙が溜まっていた。後ろにいる父親はうつむいたまま動かない、額には大粒の汗が浮かんでいた。
「ど…どうしたんだよ………」
話を聞くのが怖かった。こんなにうろたえている両親ははじめて見た。
次に放たれた言葉は、雄太郎の予想のはるか上を行く言葉。
「希衣ちゃんが、昨日車にはねられて死んだ」
「…………は?」
だって希衣はさっき俺の布団にいて、でも車にはねられて、死んだ?
あまりに唐突すぎて頭がついていかない。
「だって、希衣は……さっき……」
雄太郎はフラフラと自分の部屋へと足を向ける。ドアノブに手をかける、するとそのドアは力を入れるよりも早く、勝手に動き、開いた。
「ふわぁ………おはよ、ゆーたろ」
そこには希衣が、死んだはずの幼馴染が立っていた。