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そんなわけで、私にはこの家にいること自体が苦痛でならなかった。深夜でも怒鳴り散らす父、色欲狂いの母、色の味を知った兄。どれも同じようにグロテスクで、同じ人間だとは思えなかった。父は消えたが、母と兄が家から出ていくことはあり得ない話だった。
同じ屋根の下で暮らすといった行為に耐えきれなくなったのは、中学一年の後期期末試験が終わってからだ。
テストの日は昼前に学校は終わるから、すぐに帰宅できるようになっている。だが家が嫌いな私は、まだ勉強のできる学校の方が救いがあると考えていたため、早上がりはできるだけ避けたいと思っていた。
チャイムが鳴った途端に生徒は散り散りになって帰宅する中、私は通学鞄を整理しながらこれからのことを考えた。
そして思い付いたのが、誰にも邪魔されることのない小さな冒険だった。
学校に残っていた教師に最寄り駅の場所を聞き、嬉々として鞄を肩に掛けて学校から出た。
だがしかし校門を通り抜けた途端に、冒険への興味が薄れてゆくのが分かった。その頃はもう冬に近付いていたため、風がナイフのように服の隙間から皮膚を裂いた。鏡で顔を映すと、耳と鼻は真っ赤に染まっていた。
しかし帰ったとて自分には何も待っていない。暖房はリビングにしかついていないし、自分は部屋で布団に包まるだけだった。
自分をどうにか奮い立たせ、最寄りの駅に到着した頃には最後のチャイムから小一時間程過ぎていた。
駅の待合室は、自室には決してつくことのない暖房が私を迎えてくれた。一通り身体を温めたら、電車の時刻表を覗く。恥ずかしながら私はこの日になるまで電車に乗ったことがなかったから、当然時刻表の見方が分からなかった。
親切な駅員さんが色々と教えてくれ、あと三十分後には電車が来るのだと云った。
私には三十分という時間の長さが途轍もないものに思え先程の駅員に訴えたが、それは日常茶飯事のことで先刻電車が発車したにも拘らず、また三十分待てば来るのはこの時間だけなのだと笑いながら云った。
いつもは一度電車を逃せばそれから一時間から二時間は待たないといけないらしく、田舎を恨むと共に自分の幸運を密かに喜んだ。
中学生には勿論携帯電話など与えられていなかったし、難しい文章が連なる本も読むことができなかった。従って時間を潰すには考え事をするか、鞄の中に入った教科書を眺めるくらいしか暇潰しするものがない。
私は温かな待合室で暫く数学の復習をしていたが飽き、一つ椅子を飛ばして座っていた老婆と談笑した。
ようやく外気に晒されながら電車に駆け込んで乗り込むと、そこもまた暖房の効いた密室だった。
自分が今まで生活してきたあの部屋こそ異常だったのだと気付かされた瞬間だった。それから私は更に家が嫌いになったのだ。
がたんと揺れる車内は驚く程人が少なく、ここが本当に田舎なのだと実感した。この人数では電車の本数がここまで少ないのも頷ける。鉄道会社もこれでは儲からないだろう。
そんなことを考えながら、ボックス席から流れる風景を見ていた。
田圃や森林など長閑な景色がどこまでも続いている。住宅街は疎らで、本当に人が住んでいるのかどうかも怪しい屋敷がぽつんと建っているのも見受けられた。
自分が住んでいる場所は団地だったから嫌でも人に出くわす。人のいないこの場所に自分が住めたらどれだけ幸せなのだろうと想像した。
目的の駅は特になかった。取り敢えず来た電車に乗り、気になった場所で降りて暫く遊んだら帰宅する。そんな中途半端な計画で開始されたそれは、なかなか自分の胸を踊らせた。
知らない町を一人で歩き、一人で気儘に旅をして、飽きたら帰る。中学生にしては贅沢な遊びだと思った。
車内アナウンスは駅の名を告げる。「カブラギ」と聞こえたが、漢字は分からなかった。
私は座席の上のネットに置いた鞄を持ち、開いた扉から飛び降りた。入って来る者も降りる者もおらず、寂しげな駅だった。
ここで降りようとしたのは、ただ単に名前が面白かったからだ。その程度の理由で行き先を決めるなど、やはり私はまだ子供のような無邪気な心も持ち合わせていたようだ。
駅を出ても緑は無く、道と云えばただアスファルトで一直線に塗りたくられているだけだ。暫く歩くとちらほらと住宅は見えてきたが、人影はない。こんな辺鄙な場所には人が寄り付かないのだろうか。
自分の心配は杞憂に終わったようで、歩き進めると徐々に道が分かれ始め、建物が大きくなっていった。歩いている途中に小学校もあったし、銀行も見つけた。人だかりのスーパーや、子供たちの声が響く公園も存在する。
そこで自分は、長いこと歩き続けていたことに気が付き、それまで気にならなかった空腹や脚の疲れを感じた。
テストは昼前に終わったから何も食べていなかった。私はお金を使わない人間だったから、月のお小遣いは全て財布に突っ込んでいるだけのただの紙切れと化していた。
それが幸いして、私はお洒落なカフェで色鮮やかなオムライスを頼むことができた。オレンジジュースもつけて、大満足な昼食だった。
カフェにいる店員も客も、皆揃って幸せそうな顔をしていた。不安など窺えぬほどに満ち足りた顔を。
もしかしたら皆ここにいることで、自分の存在を己に言い聞かせているのかもしれない。
誰にでも悩みもあるし、殺したいほど憎い相手もいるだろう。その感情をひた隠しにして生きてゆくことは困難なことだ。
カフェで友人と笑い合ったり、一人で読書に耽ることで自分の価値を確かめているのだ。
私は常にそんなことを考えている、汚らしい人間だ。
急に場違に感じられ、追われるように伝票を取り、会計を済ませた。店の窓硝子から見た客は、変わらぬ笑顔をぴしっと張り付けていた。頬の弛緩もなく、本当に笑っているのか疑わしい笑み──。私には奇妙に思えた。
行く宛てもなく道が続くままにとぼとぼと歩く。そして周りを見下す自分の頬を思い切り張りたくなる、この何とも云えぬ感情に襲われた。
自分は自分が閉じ籠っていた世界から飛び出す為にここまで来たのではないのか。ここまで来ても呪縛からは逃れられない私は、ひ弱な人間でしかない。
人で賑わう通りに差し掛かった頃には、世界を夕焼けが染め上げていた。街が赤く、通りすがる人の顔も赤い。奇妙な色だと思った。鏡を取り出して自分の顔を見れば、同じように赤いのだろう。
この世界に断片でも染まったかのような気分だ。
夜の帳はすぐに下りる。辺りはすっかりと闇に呑まれ、太陽を殺した。
私は闇を厭い、猫のように猥褻なネオンが燈る繁華街に迷い込んだ。
この時間になると電車も少なくなっていることだろう。帰宅ラッシュは当の昔に過ぎていた。徐々に帰る気力も薄れてゆく。
小さな私には猥雑色の街が新鮮でならなかった。過去の母のように派手な化粧をして派手に着飾っている女が、男の腕にそれを絡ませて何やら囁いている。
ゴキブリのようなマスカラ、蝸牛みたいなファンデーションの下の顔は窺えないが、恐らく欲望で溢れているのだろう。
それが端的に表れているのが開け広げられた胸部や、肉厚的な脚部だった。そして、彼女らから零れる呼吸、息遣い、言葉が全てを物語っている。
汚れた街には汚れた者が集まってくるのか、汚れたこの街に人々が汚染されてゆくのかは分からない。
しかし穢れた街故の魅力がそこにはあった。母も淫乱なネオン惹かれ、水の仕事に手を出したのかもしれない。
軟体動物のように身体をくねらせる女たちは、赤い顔をした男たちは、私を見て一斉に眉を顰めた。
大人だけの快楽街に、子供が入ってくることは禁忌であり、彼らにも少しは罪悪感といった感情があるのかもしれない。私はそんなことを考えていた。
突き刺さる視線を拭い去りながら、ぐつぐつと痴情で煮える街を離れる。あの光は彼女たちから発光しているのではないかと思う程強烈だった。少し離れただけで光は弱くなり死んだ。
あの世界で生きる人間は、あの世界だから蝶でいられるのだろう。鱗粉という快楽と笑顔を振りまくことで価値を見出す。一歩街から出れば世間から白い目で見られる蛾と成り下がる。夜の世界は、私には手の出せない独特の劇物で彩られている。
繁華街を抜け暗闇に戻った私は、街灯を目印に道を進んだ。私は次の駅で電車を待とうと決め込み、早足で夜闇から逃げる。
真新しい暮らしを見つめる度に、自分の心が浄化されるどころか荒んでゆくことに気が付いたからだ。
夜の風からは嫌が上でも冬の訪れを感じることになる。決して捕まってはならないと道を急ぐのだが、疲れた脚では上手く歩けない。古びたスニーカーは所々から糸が解れている。
息を吐き出すと白い煙が出た。マフラーを巻いてくるべきだったと後悔した。