渋谷 18時
目の前にいる女の甲高い声が頭に響いた。なんで、こんなにテンションが高いんだろうか、と目の前にいるその女を奈々子を見下ろした。「外寒いから気をつけてくださいねぇ!」と言い、甲高い声の女は笑顔で奈々子を見送る。笑顔とは裏腹の気持ちを悟られることがないよう精一杯口角を上げて、奈々子は微笑む。
「また来ますね。」
エレベーターのドアが無機質な音を立てながら閉まって、甲高い声の女がみえなくなった。
出来たばかりの新しい指先には、薬指に縦に一列敷き詰められた白いラインストーンが光っている。光の反射を楽しむように手をかざすと、薄暗い空間の中で、それは綺麗に光っていた。会社勤めをしていた頃は、三週間に一度変わるこの指先をよく褒められた。髪型やネイルを変えたことを気付かれるのは嬉しかったが、どこにいても目立つ奈々子にとっては、綺麗だって言われることなんて当たり前のことだった。
よくみると、ネイルの端に小さなくぼみができていた。自分にしかわからないだろうけど、初めて来たこのネイルサロンをもうリピートすることはないだろうと、下へと降りる古いエレベーターの中で奈々子は思った。
三ヶ月前まで通っていた恵比寿のネイルサロンでは、一度もそんなことはなかった。二年ほど奈々子を担当していたネイリストの島田さんが郷里に戻って結婚することになったことをきっかけに恵比寿のそのお店には行かなくなっていた。一回一万円のネイル代は、外資系企業に勤めていた頃の奈々子にとっては痛くも痒くもなかったけれど、半年前に職を失ってから年齢の割には少なすぎる貯金を崩す生活で最近はネットで安いネイルサロンを探して通っているのだ。収入が減った今でも三週間に一度のネイルサロン、まつ毛エクステ、一ヶ月半に一度の美容院だけは欠かさないようにしていた。自分が落ちぶれてしまったことを感じないための奈々子の抵抗だったのかもしれない。
三十歳を境に友人の七割は結婚し子供が生まれ、最近では二人目が出来たなんて話も珍しくはなかった。「仕事はいそがしいの?」なんて社交辞令のように言いながら目線ではしっかり子供を追っている友人に会う度に奈々子はなんだか馬鹿にされているような気持ちになった。だから彼女たちが今では買うことができないようなものをわざと身に付けて「子育てって大変だよね。」と、思ってもいない言葉を吐くのだった。
そんな奈々子にも結婚を考えた男がいた。三十歳までになんとなく結婚をしておきたい気持ちは奈々子にもずっとあったが、ちょうど仕事がのっている時期と重なりあっという間に三十歳になってしまった。
当時付き合っていた圭司は聞いたこともないような大学を出てIT関係のベンチャー企業に勤めていた。普段は優しい男だった圭司だか、お酒を飲むと途端に愚痴っぽくなり、奈々子に絡んでくることもあった。圭司の会社の話なんて正直興味がなかったし、圭司よりも有名大学を出ている同期に社長が期待するのも仕方がないことのような気がした。大手企業にしか勤めたことがない奈々子にとっては、人数の少ない会社特有のディープな人間関係や変な連帯感を聞かされるだけでうんざりだったのだ。何より、なんだか妙に熱い感じが奈々子にはとても暑苦しいものに思えていた。自分にしか出来ない仕事なんて世の中には存在しないし、自分の変わりなんていくらでもいる、と奈々子は思っていたからだ。圭司と付き合いながらも誘われれば飲み会に参加していたが、また1から誰かと付き合うのも面倒に思えたし、ルックスが良く、共通の趣味が多い圭司と一緒にいるとそれなりに楽しかった。この人と結婚したい、と心から思えたわけではなかったが、こんなものなのかもしれないと、奈々子は徐々に結婚を意識するようになっていた。交際を始める際に「お互い年も年だし結婚も考えよう」と言ってきたのは圭司のほうで、一人の男に結婚を意識させているんだと思うだけで奈々子の自尊心は満たされた。半年前に勤めていた外資系企業が突然日本撤退を決め、奈々子は職を失った。それをきっかけに圭司がプロポーズをしてくれるんじゃないかと期待していた奈々子だったが、圭司から「独立したい」と相談をされた。とてもじゃないけど、圭司にそんな度量があるようにはみえなかった奈々子は一生懸命夢を語る圭司をどこか冷めた目でみていた。なんで、奈々子が仕事を失ったこのタイミングなんだろう?とも思った。奈々子が仕事を辞めた三日後に些細なことで喧嘩になって以来、圭司とは会っていない。不思議と圭司を失ったことへのダメージは大きくはなかった。また相手を一から探さないといけないという事実だけが奈々子に重くのしかかったのだった。
渋谷の一角にある小さなビルの外に出ると、風がとても冷たかった。耳や頭に冷たい風が当たって、つんとした痛みを感じる。この時間の渋谷駅の人の多さは好きになれない。遠くなってしまった東横線のホームの地下に潜るのも億劫に感じて、大きなバスターミナルの端にある目立たないバス停から小さな赤いバスに乗った。
せっかく指先が変わって、少し良くなった気分を出来るだけそのままにしたかったし、この小さなバスの車窓からみえる景色が奈々子は好きだったのだ。
国道246号を抜けてその小さなバスがギリギリ通れるくらいの狭い道に入ると、急に景色が静かになる。スマートフォンを片手に急いで歩く人々もうんざりするくらいの量の車もみえなくなって、時に息が詰まりそうになる都会での暮らしを少し和らげてくれる気がするのだ。静かな住宅街の中を通って、バスが坂を降りて少しのところにある公園の前で、奈々子はバスを降りた。