今夜もスカイフィッシュにうってつけの夜
山田の惰眠は吉野の退去命令によって終わった。時はまもなく十九時二十分になろうとしていた。吉野に尻を叩かれつつ山田たちは部室から出て行った。目を擦りながら山田は暗い廊下と階段をふらふらと歩き、部室棟から退却する。黒瀬と中田はそんな彼女の後ろを付いていった。部室棟に最後まで残っていたのは彼らだけだったようだ。当然である。期末考査が八日後に控えているというのなら、さっさと家に帰ってその対策を講じるのが平均的文化系部員の姿であろう。活動目的があいまいなら尚更だ。ミス研などという目標も計画も何も抱かない部などはその筆頭である。にもかかわらずしっかりと部活動を行うのは、彼らの性根がよほど暇に汚染されているか、どうかしているからだろう。
部室棟を後にした彼らは天体観測をしつつ、ゆったりと石畳の上を歩いていく。澄みきった夜空が音も無く広がっていて、星辰は存在を確固たるものとしていた。その光景は、どうかしている彼らにも無言を強いるものだった。それゆえに虫の音がよく響いて、彼らはさらにぼんやりとした心地にさせられた。夏の夜の大気に撫でられながら彼らはとことこと歩いていき、技術家庭科棟と特別教室棟の間を通って中庭へと至った。ここで虫の音はある声によって掻き消される。
「お~い」と女の大声が天から降ってきた。三人は怪訝な面持ちでその声のもとをみる。音源は技術家庭科棟三階、被服室からだった。教室内からの明かりをその身に受けつつ、窓から暗闇に身を乗り出して、三人を招くように女が手を動かしていた。山田は目を凝らして、それが桑野であると認知した。
「りさちーん、どーしたーのー」と山田は間延びした大声で訊いた。
「さかなが泳いでいるんだ。あがってこーい」と桑野は同じく大声で宣う。山田は首を傾げつつ、後輩二人を引き連れて技術家庭科棟に侵入した。三人は、山田を先頭にして月明かりを頼りに階段をのぼる。その道中は無言である。さすがに夜となればどうかしている閑人たちも静かになるのだろう。しかし、ついた先は少々色めき立っている。三人はサングラスをかけ忘れたモグラのようになりながら、暗がりから明るい教室へと立ち入った。
中では二十数人の生徒が窓際によってなにやらわやわやと騒いでいる。その群れのなかにはことさら元気そうな桑野がいた。彼女は山田を手招きして呼ぶ。山田は素直にとたとたと彼女のもとへと赴いた。中田も同様に、知人らしき女子生徒に呼ばれてすたすたとその群れに加わる。黒瀬はぽつねんとドアの前で立つことになる。そんな彼が観察するに、教室内男女比は女子の方が高かった。おそらくだが、今ここにいるのは手芸部員、料理研究部員がほとんどだろう、とも彼は推測した。数人だが、黒瀬のいる出入り口とは反対側の端のほうに男子生徒が疎らになって存在していた。その小さな群れから一人の男が抜け出して、黒瀬のほうにやってくる。その男は稲沢だった。
「どうしたんだ」と黒瀬は近づいてくる稲沢に聞いた。稲沢はニヤリとして、
「スカイフィッシュの観測会さ」と言う。
「魚が空飛んでんのか?」黒瀬は眉を顰めて、疑念を提示した。
「いや、正確には教室内を浮遊してる。とにかく、見れば分かるさ」稲沢はそう笑って、黒瀬を窓際に誘う。黒瀬は稲沢に着いていき、マイノリティに加わった。
「あそこだ」と稲沢は教室棟三階の一画を指差す。管理棟側に最も近い教室であった。そこは三年一組の教室であったはずだと黒瀬は記憶している。その教室は当然暗く、誰もいなかった。存在するのは、机と椅子と黒板と、それからシーラカンスだった。シーラカンスはゆったりと、黒板の前辺りを大きな楕円を描いて旋回しているらしかった。
「なんだ、あれ」と黒瀬は呆然とした感じで小さく言う。
「スカイフィッシュなんだろ、あれが」耳聡い稲沢は愉快そうに答えた。黒瀬は顎を撫でたのち、それをじっと観察する。彼から見て遠くにあるが、あの特徴的な形状は確かにシーラカンスだと分かった。それが雑然と揃えられている机たちから二メートルほどの上空辺りを悠然と飛行していた。くねくねと胴体を動かしながら、ゆらりゆらりと進行方向を折り返したりしている。生きているように見えた。とりあえず黒瀬は記念にそれを撮っておくことにした。ズボンのポケットから携帯電話を取り出して、彼はピロリンと写真をとる。ついでに、動画も撮ろうとしたのだが、思わぬところから妨害はやってきた。
「ねえ、黒瀬くん。あれってなんなのかな?」そう背後から問いかけがあった。女の穏やかな声だった。黒瀬は手に多機能小型電話機を持ったまま振り向く。級友の前田だった。セミロングの黒髪と丸い顔、柔和なたれ眼が特徴的な女子である。黒瀬は前田を見やってから、
「シーラカンスっぽい、よな?」と隣にいる稲沢に助けを求める。
「ああ、図鑑で見たことがあるような奴だ」黒瀬の右隣にいる稲沢はじっと窓の外を望みながら言った。前田は黒瀬の左隣に立って、
「しーらかんすって空中浮遊できたっけ?」と和やかに愚問を提示する。
「出来るわけ無いよ、前田さん……」黒瀬はそう言いつつ携帯電話をポケットに仕舞った。
「だよね。じゃあ、あれってなんじゃ?」前田は首を少し傾げた。黒瀬は、なんだろうねと呟くように言って、正体不明の存在を見つめ始める。シーラカンスの動作は、先ほどより生きている感じが失せてきていた。彼の感覚は正常値に戻ろうとしていたのだ。なにかをつかめそうな気がした。だが、結局彼はそれを捉えることはなかった。なぜなら、唐突に彼の周りから光と平静さが失われたからである。
まず、被服室の蛍光灯が力を失った。短く、甲高い悲鳴が教室を充填する。前田もきゃっと叫んで、黒瀬の手首を掴んで屈んでしまった。黒瀬はそれにつられて稲沢の腕を同じく掴み、稲沢をも屈ましてしまった。こうして、三人仲良くしゃがんだ。彼らだけがしゃがんだわけではない。教室にいたほとんどの生徒が、反射的に身を低めて丸くなったのだ。夏の夜の魔力がそうさせたのだろうか。学校という場はその魔力をより増幅させるように思える。しかし、現代の懐疑深い人類はその魔力に長く魅せられるわけではない。稲沢は黒瀬の手を振り払って、スイッチパネルのもとへと駆けていく。黒瀬は前田に腕を捕られているため、身動きできずにそれを見送った。パネルのもとにたどり着いた稲沢は幾度かカチカチとスイッチを操作する。しかし、電灯に明かりが灯る様子はなかった。ブレーカーを落とされたに違いない。稲沢はそれを悟って外に出ようとしたが、桑野が諦めずにパネルを操作するとパチパチと蛍光灯に光が灯った。おかげで、まぶしいと方々で呟かれる。なんだったんだとも囁かれる。スカートをはたく音もしたりする。前田はそれでも黒瀬の腕を放さずに、こごまっている。
「前田さん、電気点いたけど……」黒瀬はなぜか申し訳なさそうに告げる。
「もう少し、待って」と前田は俯いたままか細い声で答えた。おかげで黒瀬は少しおろおろする。そんな彼の鼓膜を山田の声が震わせた。
「いなくなってる!」山田は三つ編みを揺らして、外を見て叫んだ。それから言うが早いか駆け出して、被服室から出て行った。人々もその声と行動に呼応して窓の外を見る。三年一組の教室から、シーラカンスの姿は消えていた。そこには空っぽの校舎が佇んでいるだけだった。
黒瀬はしゃがみながら周囲の状況を把握した。生徒たちはわらわらと窓辺に集まって、少し興奮した感じでなにやら論じ合っている。その中に中田は居なかった。どうやら中田は山田の後を追ったらしい。自分もそうしたいが、と黒瀬は思う。手首を掴まれたままでは、そうすることもままならない。黒瀬は前田の控えめな旋毛を眺めつつ、前田が立ち上がれるようになるのを静かに待った。気の優しい、素直な男である。
黒瀬が優しさを発揮しはじめた頃には、山田はすでに中庭の芝生を駆けていた。それから、ペースを落とさずに教室棟に侵入して、階段を三階まで一息に駆け上がる。その道中、彼女は人っ子一人見なかった。彼女の耳を打つものも自分の足音だけであった。三階に到達した彼女は、がらんとした空間に迎えられる。月や星の微かな光線が廊下を照らしているだけで、すべては静まっていた。立ち並ぶ木製のロッカーの呼吸すら聞えそうだった。山田はそんな雰囲気に少し震えるが、気を引き締めて、シーラカンスが飛んでいた教室の黒板側にある黄色いスライドドアに手をかけた。力を入れて横に引いてみる。が、開かなかった。山田はもう一つの引き戸の方に急いで向かう。祈りを込めてその取っ手を右に引いた。だが、開くことは無かった。教室は施錠されていたのだ。
「そんな」と山田は虚空に呟く。スライドドアにはめ込まれている物見窓から、彼女は中を覗いてみる。無人の教室がじっとしているだけだった。中に誰もいないとなると、シーラカンスは独りでに教室に入ってきて、暗闇に霧散してしまったのか。いやシーラカンスは、誰かが飛ばしていたのだ。山田は駆け出した時からそう結論付けていた。そうとなれば、人がここにいたはずであろう。山田が被服室の電気が消えた後から、ここに来るまでの時間はそう長くはなかった。せいぜい四分程度である。実行犯はその間に仕掛けを崩し、回収し、逃走したのだ。山田はスライドドアから引き離れて廊下の真ん中に立ち、左右を見回す。閑散とした廊下は無言の空気を漂わせている。人の気配は感じられない。つまり、すべては終わっていたのだ。
窓からもれる暖かな月光がきらきらとほこりを舞わせるなか、山田はシーラカンス浮遊犯の現行犯逮捕を諦めた。
山田が諦念を感じた頃には黒瀬は前田から開放されていて、中庭を歩いていた。前田はあのあとすぐにけろっと立ち上がって、ありがとうと笑顔で言ってきたのだった。黒瀬はその言動の意味を彼の乏しい経験の中から見出そうとしながら、教室棟に足を踏み入れ、薄暗い校舎の中をすたすたと歩んでいき、二階フロアに至る。彼はそこで気まぐれを起こして、立ち止り、階段から廊下の方に出た。のっぺりとした廊下が左右に続いている。黒瀬は水飲み場の前から二年生の使用する教室たちを見わたした。水飲み場の右隣には二年一組があり、それから中庭にあるプールのレーンに沿うように、二組から六組までの教室が物言わずに立ち並んでいる。六組側の突き当りには非常階段にでる扉があり、そこはいつも施錠されている、とされていた。実際には、シリンダー錠にプラスチックのカバーが被せられているだけである。そのカバーを破壊し、摘みを捻れば鍵は開くようになっている。開けようと思えば、誰でもいつでも開けることが出来た。黒瀬は奥に行って、カバーが破壊されていないか調べてみようと思った。誰かが逃げ出すならあそこほど人の盲点をつけるところはないのだ、という考えによる。彼がぱたぱたと奥に向かおうとすると、背後から音がした。彼は立ち止って、管理棟から通じる渡り廊下の接続部分を監視する。控えめな足音が徐々に響き渡って、人の影が黒瀬の前に立ち現れた。スカートのシルエットで女だと分かる。よく目を凝らせば、何となく伸びてきた短髪が印象的な中田であった。中田は黒瀬を見て、首を傾げる。黒瀬も中田を見て首を傾げた。
「何で、ここにいるんだ?」と黒瀬は先に問う。
「犯人探しのため。黒瀬くんは?」と中田は黒瀬に近づきつつ言った。
「おれはシーラカンスを探してるんだ、たぶん」
「そうなの。じゃあ、向うのトイレ見てきてくれない? 犯人が潜伏してると困るから」と中田は黒瀬の背後を指さして言う。黒瀬は振り返って、トイレの場所を確認する。それから、彼は、
「女子トイレもか?」と尋ねた。
「うん。もし捕まったら弁護してあげるから。シーラカンスを探してたんですって」
「それは弁護になるのか?」
「ならなかったら仕方が無いね。そのとき黒瀬くんは停学だ」
「はあ……。中田はどうするんだ?」
「あたしは、あっちのトイレを見てくる」と言って中田はすたすたと大教室のある方へと向かった。大教室は二年一組と渡り廊下を挟んで反対側にある。中田の背中を見送った後、黒瀬はすたすたと廊下を歩いて、中田に行けと言われたトイレへと赴く。四組の教室を背後にして、トイレ空間の前に立つ。学校の、夜のトイレである。昼間よりも恐怖は倍増されるだろう。しかし彼は、気軽にまず女子トイレから侵入する。いやらしい奴である。電気を付け、個室トイレの立ち並ぶ室内を見る。がらんとして、せいぜい水道管から聞える水流の音しかない。だが、黒瀬は急に真面目になったようで、個室の扉を一つ一つ開けて調べていった。すべてが洋式だった。そのうえ、便座はなにやらハイテクな感じを醸しだしている。消音消臭機能が付いているようだ。黒瀬は男子トイレとの格差感じた。侍たる男子は和式で用を済ませということなのだろうか。黒瀬は大なることを和式で出来ないタチであった。彼は男子トイレ洋式普及推進運動でもしてやろうかと思いつつ女子トイレから出る。それで最後に電気を消して、誰かいませんかあと呼んでみる。隠れている奴が返事をするわけがない。無駄な行動である。しかし、黒瀬は返事が無いのに安心して、気の許せる土地である男子トイレへと向かった。そこにもがらんとした空間がある。誰もいないようだった。黒瀬は中を少し覗いただけで、調査を終了した。やはり、いやらしい奴である。黒瀬はトイレの領域から脱し、廊下に出る。それから非常用出口に向かう。幾度か黄色のスライドドアをやり過ごした後、そこへ至った。彼は目を細めて、ドアの鍵の部位を見る。カバーは外れていなかった。誰もここを使っていないのだ。黒瀬は安心して、もと来た道を戻ることにした。水飲み場に前に中田がぽつんと立っている。どうやら向うにも人はいなかったようだった。
「誰もいなかったか」と黒瀬は中田の前に立って確認をとる。中田は無言で頷き、
「そっちも?」と尋ねる。
「ああ。花子さんすらいなかったよ」
「そう。じゃあ、犯人はもう外に出たんだね、きっと」中田はそう呟くように言って階段へと向かった。黒瀬もそのあとを追い、二人して三階へと向かった。
三階には被服室からやってきた生徒たちが幾人か集まっていた。諦めたあと山田は黒瀬らと同じく三階フロアのトイレを見て回っていた。しかし、やはりトイレには誰もいなかった。山田はむーんと唸りつつ、三年一組の前に戻る。丁度そのとき、桑野が吉野を連れてきた。彼女らは管理棟からの渡り廊下からやってきた。山田は、三年一組を指さし、
「この教室でサカナが飛んでたの」と連れてこられた吉野に言う。
「そうか。なら調べないとな」と笑って、吉野は鍵を開けた。山田は飛び込むように中に入って、電気を付ける。幾度か瞬いて、光が教室を満たした。光が点いても無人に代わりは無かった。被服室からやってきた生徒たちは勝手に侵入して、どこら辺でシーラカンスが飛んでいたのかを推定しようと試みていた。そんな中、黒瀬と中田が何食わぬ顔で教室に入ってくる。中田は窓の方に行って、施錠の有無を確かめた。すべて閉まっていた。黒瀬は、何気なく掃除用具入れを開けた。当然、人は入っていなかった。黒瀬は納得したように頷いた後、扉を閉めた。奇行じみている。そんな黒瀬の奇矯なふるまいを山田は普段なら見のがすわけがないのだが、このときはもっと奇怪なものを発見してしまっていたのだ。
それは黒板の真ん中に貼ってあった。山田はゆっくりとそれに接近した。それから、その目の前に立つ。白紙だった。しかし、中央部分になにやら書いてあった。山田はそれを音読する。
「『今夜もスカイフィッシュにうってつけの夜でした。お楽しみいただけましたでしょうか?』。……、なにこれ」
「犯行声明でしょう」といつの間にか山田の隣に立っている中田が答えた。黒瀬はのこのこ彼女らのもとへ行く。吉野や他の生徒もそうであった。山田は振り向いて、興味深そうに紙を眺めている吉野に訊ねる。
「これ、先生が見回りに来たときあった?」
「なかったよ。鍵を閉めたときもなかった」とおかしそうに吉野は答えた。
「それじゃあ、どうやって……」と山田は呆然と紙を眺めた。そう、吉野の言うようならば、この紙はここに存在できないはずである。
「合鍵をつかったんじゃあないっすか」と中田の後ろに立ち、紙を眺める黒瀬は言う。
「それは無理だな。この教室の鍵は一つしかないし、そう簡単に持ち出せない。たとえ教師、職員だとしてもだ」吉野は楽しそうに黒瀬の臆見を否定した。黒瀬はまじっすかと言って顎撫でて、目を細め始める。そうして彼らは奇怪な白紙の前で、名状し難き沈黙を味わうのだった。
それから吉野はあくびをしたのち黒板から白紙を回収して、暇な生徒たちを追い出しその夜のスカイフィッシュ観測会をお開きにした。再度、追い出された山田たち三人はとぼとぼと帰宅の途につく。月の冴える夏の夜であった。三人は学校を出て、街灯に照らされる路地を歩いていく。山田はなんだったの、あれと呟き、黒瀬はさあ、なんだったんでしょうと返すだけで三人の間の会話は終結した。やはり、先の出来事がよほど気がかりであるようだ。だが、彼らには背後にある意図を掴むことはまだ出来ないだろう。少なくとも、野山が抱く秘密を暴かない限り。