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金魚掬い

 野山の監禁が行われている頃、体育教師小林と生物教師吉野は、管理棟一階にある体育教員室で雑談をしていた。吉野が残業中の小林に、校内見回り代わりにやっといたよ、という報告をしにきたついでだった。小林は新人ゆえ要領が悪く、様々な仕事を後回しにしてしまう。そんな彼女を慮って、吉野は彼女の仕事で自分ができることを肩代わりしてやっていた。優しい先輩である。だが、優しさの中には大抵魂胆があるものだ。この雑談は魂胆の結果である。吉野は怪談をおどろおどろしく語ることを趣味としていて、常日頃から、そういう類いの話を蓄えていた。けれども、その貯蓄は増える一方で、消費されることなく埃をかぶるはめになっていた。吉野はどうにかして語りたかった。ネットもいいが、生の相手の反応が見たい。当然、その反応はわかりやすいほうがいい。そういう欲求をみたしてくれる理想の人物が、後輩である小林であった。ここに魂胆がある。吉野にとって、この雑談は小林の仕事を肩代わりしたことによる報奨なのだ。雑談のついでに怪談をする。怪談をして、小林を怖がらせて、気分を良くして吉野は帰宅する。こういう因果が、帰り際の雑談を生むのだ。この日もそうであった。気合の入った吉野は雰囲気を出すために、小林の背後にあるカーテンを閉めて電気をも消した。野山が閉じ込められた頃である。それから、低く、しかしよく透る霞み声で吉野は自作怪談をし始めた。それを聞いて、小林はぶるぶる震え始めたりはしない。じっと聞き入るだけである。たまに、頬を撫でたりする。息を呑んだりもする。それから、口をぽかんと開け始めた頃には、小林は吉野の話術に嵌ってしまい、無言でうんうん肯いて、話の先を促すような素直な聞き手に成り下がってしまう。吉野は、心の内でそれに満足しながらも、雰囲気を崩さぬように注意して、淡々と終いまで語っていく。そうして、ちゃんちゃんと吉野は締めて、ひぃと小林は身を抱きしめた。満足そうに吉野は立ち上がり、電気をつけようとすると、こんこんと戸が叩かれる音がした。

「ひぃ」と再度、小林は悲鳴を上げる。吉野も訝しげな様子で、戸に向う。吉野はドアを開け、半身を出して、廊下を見る。室内の暗闇が廊下からの光によって、弱体化させられた。それから、吉野は首を傾げながら、戸を閉めた。

「誰もいないな。悪戯かしら」

「でも、だ、だれがそんなのこと」

「幽霊かもしれないな」

「ひゃ」と小林が目を瞑る。怪談の副作用でもある。奇妙なことがより奇妙に思えてしまうのだ。第六感の暴走である。吉野はそんな小林を満足げに眺めて、蛍光灯を瞬かせる。

「気にしなくていい。この学校はそういうところだ」

「どういうことですか」小林は、目をぱちぱちしながら聞く。

「幽霊がいてもおかしくないってこと」と吉野は言いのける。

「……、この学校に幽霊っているんですかぁ」

「よく見かけるね。けど気にしなくていいんだ。だれも被害届だしてないから」吉野は座っていた席の辺りを整理しながら言った。それから、小林にニコニコ笑いかけながら、残業頑張ってねと言って、吉野は体育教員室から機嫌よく出ていく。独り残された小林は酷く寂しい感じを胸に抱いた。残業どころではない。即刻、帰宅したい気分になっている。社会人一年目で、初の仕事放棄を成してしまおうと小林は考えた。考えるだけである。それを実際にすれば、先輩教師方の熱い指導が待っているのだ。結局、小林は寂しさを身に纏いながら机に向った。

 吉野が去って、二十分ほど経った。仕事も一段落着いた小林は異変に気がつき始める。中庭から何かの音がした。誰かが走り去るような音だった。小林は、少しためらった。まだ怪談の副作用が残っていたのだ。何かいるかもしれない。知らなくていいことかもしれない。けど、教師としてやっぱり気に掛かる。小林は席を立ち、中庭に面する窓際に行く。カーテンをちょっと開けて、外を覗いた。無人の芝生があった。それだけなら良かった。プールの男子更衣室が光を発していた。小林は驚いて、カーテンを全開し、外を観察する。確かに、男子更衣室の電気が点いていた。小林は自分が電気を消して、戸締りしたことを覚えている。誰かがソコにいて、何かをやっているにちがいない。教師小林は、壁に掛けてあるプール用鍵束を即座にとって、中庭に面するアルミ戸を開け、教室棟側のプール入り口へと駆け出した。

 小林は、少々苦戦してから、鉄扉を開ける。焦りが小林に苦戦を強いたのだった。縺れるように、プール敷地内に侵入する。早歩きで、男子更衣室に向った。ドアノブに手を掛ける。開かない。鍵が掛かっている。小林は鍵束からかちゃかちゃと鍵を探し出し、開錠した。そっと、小林は中を覗く。誰もいなかった。バカなと思い、中に入る。静寂が小林の耳を打った。

「誰かいるの?」小林は威嚇するように言った。仔細に周囲を見る。誰もいないようだった。隠れているのか。小林は、きょろきょろと顔を動かして、移動する。端まで、誰とも遭遇せずに至る。最後に残ったのは男子トイレであった。小林はそろそろと戸のないトイレを覗いてみる。和式便所がぽかんと口を置けて存在していた。それだけだった。それを眺めながら小林は腕を組み、どうして電気が点いているのか思案した。そんなことをしていると、背後から抱きつかれることになるのだ。おかげで小林はいかなる思考も不可能になり、口をぱくぱくさせて、声なき悲鳴を上げる。

「つかまえた~」と明るい声がした。幽霊にしてはやけに明るい。小林はおそるおそる後ろを見る。短髪の少女が背中に張り付いていた。それは野山だった。

「え、な、なんで、野山さんここにいるの?」

「分かんない。知らないうちに閉じ込められちゃった。小林先生は助けに来てくれたの?」

「うん、まあそうかもしれないけど、なんで、閉じ込められたの。というか、離しなさい」

「えぇ~」と言いつつ、野山は抱きつくのを止めない。男子トイレで密着する女性二人組というのも妙な光景である。彼女らは、とりあえず男子トイレから抜け出した。それから、野山は自分が閉じ込められたのは忘れ物を取りに来たからと説明する。

「でも、どうしてドアが開いてたんだろう」

「分かんない。それより先生、また閉じ込められちゃうかもしれないから、早く出ようよ」と野山は抱きつくのを止めて、小林の手を引く。小林はその提案を飲み込み、さっさと部屋に二人のほかだれもいないのを確認し、電気を消して、施錠する。野山は、ここにきてようやく思い出したように叫んだ。

「さかなっ!」その甲高い声は小林の耳に届いた。届きすぎたようでもあった。野山はそんなことにおかまいなく続けた。「先生っ、さかなが居たんですよ!」

「どこにいたの?」

「あそこ、あそこ」と野山はプール上空を指差した。彼女たちは目を凝らす。

「いないけど……」小林は事実を伝える。魚はいなかった。野山は信じられないように夜空を見ている。

「ほんと、どうしたの野山さん。大会も近いのに」

「いや、あの、ほんとに居たんですよ」そう前置きして野山は詳細を語った。小林はそれを、うんうんと聞いて、妙なこともあるんだねと感想を漏らした。

「でも、どうやったって魚は空を泳げないけどぉ……」

「そうですけど、あの魚はスカイフィッシュだったんですよ。だから、空中浮遊が出来たんです。そうに違いありません」

「けどねぇ、スカイフィッシュって、ハエの……」

「違いますっ。スカイフィッシュは空飛ぶサカナですよ」

「……。まあ、それは置いとこう。肝心の忘れ物は見つかったの?」

「あっ、忘れてた……」

そうして野山はプールサイドにあるだろう忘れ物を、暗闇の中捜しに行った。その間に小林は夏の宇宙を隈なく見てみる。何もない。星が瞬いているだけだった。小林は腕を組んで、野山が暗中模索を行っているのを目で追いながら、こんどこそ思案する。魚が居たと言っている野山は疲労で幻覚でも見たのだろうか。しかし、あの感じだと疲れてなさそうだ。今日の練習も笑顔で済ましていた。となると、野山は嘘をついているのか。そもそも、なぜ野山は閉じ込められていたのだ。あの更衣室は内部から鍵を掛けられない。となれば、野山は確かに何者かによって閉じ込められたのだ。なんだか、妙だ。野山を一人閉じ込めてどうする。いじめだろうか。それなら、教師としてどう対応すればいいのだろうか。でもあの野山がいじめられるとは考えられにくい。みんなと仲良くしている明るい野山だ。同級生から、そして後輩からも慕われている。というか、野山はたまたま忘れ物をしたのに、どうして閉じ込めることが出来るのだろう。野山が来ることを知らない限り、閉じ込める事はできないような気がする。それ以前に鍵はどうしたんだ。どこから持ってきたんだろう。やっぱり、妙だ。分けがわからない、うんぬん。うんぬんとしたのは、これ以降、小林の思索が絡まったことを表現するためである。小林は絡まった思いによって、ぼーっとなった。考える事はあまり得意でないのが小林である。得意でないと分かっていても、考えてしまうのも小林である。それで、結局夜空がきれいだと結論付けて、思考を停止した。確かに綺麗な星空だった。銀河がよく見えた。

「あった~」と野山が歓喜を上げる。野山はにこにこして小林のもとに駆け寄り、ハンドタオルを見せびらかした。良かった良かったと小林が言って、夜の捜索は終わった。だが、怪奇はまだ終わっていない。

 魚が飛んだ翌朝、小林は早めに出勤した。前日の少し残った仕事を終わらすためであった。それは十分程度で終わった。朝だから効率が上がったにちがいないと小林は推測する。そんな小林は、暇なので昨夜のことをぼんやりと思い出していた。それから、あの一連の出来事は誰かの悪戯だったかもしれないと思い至る。どうやったかは不明だが、あの時、プールに人が居たのは確かだ。小林は、あの夜、誰かが走り去るのを耳にしていた。これが人の存在を証明する、はずである。けれど、依然として鍵の問題がある。セキュリティ上の要請からそう簡単に鍵は持ち出せない。生徒がここから鍵を持ち出して合鍵を作るなんて不可能のように思えた。小林は椅子を軋ませて、天井のシミを見つめる。思考が滞り始めたのだ。こういう場合の対処法を小林は知っている。うだうだ考えるのをやめて行動してみる。それで、小林は昨夜の事件現場に向かった。

 鍵を開けて、昨夜と同じようにプール敷地内に入る。早朝の日差しが、芝生の薫りを立ち上がらせていた。この匂いをかぐと小林はいつでも夏を感じる。清々しさを胸につめ込んで、小林は無人のプールサイドに上がる。プールから湧いた分子が嗅覚を刺激した。周囲の木々が呼吸しているのも感じられた。これは、少しいいかもしれないと小林はしみじみと思う。こういう場は学校にしか存在しないのだ。この夏のプールを満たす郷愁は、教師と生徒の間でしか感じ取れない。なんとなく小林は自分が教師になったのだと自覚した。そうなれば少し泰然とした気分になる。鼻歌も歌いたくなるものだ。小林は実際唸るように、流行の歌を吟じた。音程は少々イカれている。小林はそんなことには気がつかない。ふんふんという感じで、プールサイドを巡る。昨夜と同じくプールサイド上のモノが移動した感はない。おかしなところは見当たらない。ざらついた地面から目を転じて、プールを見る。透明度の高い水が、きらきらと朝日を反射していた。揺らめく水面に少し気を取られる。小林は立ち止ってその水面を眺めた。綺麗だった。満足の行く景色である。写真に収めたいとも思える。そう、アソコの金魚がアクセントになるな。小林は泰然と金魚の存在を認めた。金魚は池にいてもおかしくはないが、プールに相応しい物ではない。ここはプールであって池ではない。したがって、金魚がこの巨大な水溜りで優雅に泳いでいるのはおかしなことである。小林は数十秒後にその真理に至った。それからあたふたし始めて、どうしよう捕まえようと結論付け、落ち葉取り用網を器用に用いて金魚を掬った。スケールの大きい金魚掬いである。網に掛かって跳ねている金魚を確認して、小林はこの学校は妙なところだと心の底から思うのであった。


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