空っぽな校舎
忘れ物は帰り際に思い出すものだ。野山もその例に漏れない。彼女は、忘れ物をした、と共に下校していた部活仲間たちに伝えて、学校へと慌てて引き返していった。それを見た友人たちはめずらしいと笑った。
野山は管理棟一階にある職員玄関へと向かった。そこには来客用窓口があり、その窓口は事務室に通じている。野山が探しに行かなければならないのはプールだった。プールへ行くためには、鍵が必要であった。水泳部顧問の小林がプールの戸締りを部活終了時に済ましていたからだ。その鍵は、事務室と体育教員室にある。野山は事務室で借りることにしたのだった。
事務員の斎藤に訳を話し、野山は鍵束を手に入れる。彼女は荷物を玄関の隅っこに置いてから、外へと出た。管理棟と特別教室棟の狭間を通って、中庭へと至る。日はもう暮れていて、芝生の上には静かな、深い暗闇が広がっていた。野山は、ぼんやりと周囲を見回す。誰もいない。無人の校舎が、左右にあるだけだった。時はすでに午後八時を回ろうとしていた。善良な生徒たちは校舎から追い出され、教師も帰路に着こうとする時刻である。人がいないのは当然であった。一つ息をついて、野山は背後にある管理棟からの微かな明かりを頼りに、中庭中央にあるプールへと向う。プールには三つの出入り口がある。その内の特別教室棟側に設置されている扉から、野山は侵入を試みた。鍵束から目的の鍵を探し出して、鍵穴へと挿しこみ、回す。存外、滑らかに鉄扉は開いた。野山は靴を脱いで、引き込まれるようにプールへと入っていく。
野山の目に入るのは、いつもの光景である。しかし、暗さが彼女にとっての日常的な感じを致命的に破壊していた。野山には世界がまるで違うように感じられた。集団用シャワーに人が吊られていてもおかしくないような気がするほどだった。だが、当然そこにはだれも居ない。野山は興味を持って周りを見回す。野山の正面左手、体育館側にはプールに至るための五段ほどの階段があり、右手の管理棟側には鉄筋コンクリート製のシンプルな平屋があった。その平屋は耐震性に難がありそうだが、誰もなにも気にしない。そこには男子更衣室とボイラー室が入っている。野山は、近くの男子更衣室の戸を開けようとしてみた。誰かが居るかもと感じたからであった。戸は開かず、鍵が掛かっていた。ここも当然、小林が閉めていたのだ。野山はがっかりした面持ちで、プールへの階段を上り始めた。だが、怪奇はもう始まっている。
プールサイドを数歩だけ歩き、野山は立ち止る。音がしたのだ。虫の鳴き声か。違う。別の何かだった。野山は周囲を警戒する。プ-ルの水面を見た。何もない。宇宙が波打つような水面があるだけだった。プールサイド全体を見回す。日中と変化は無かった。プールを囲む木々は、何も語らずに佇んで居る。野山は男子更衣室に背を向け、体育館の方に目を向ける。街からの微かな明るさが、電気の消えた体育館をぼんやりと照らしていた。もうだれもいないのだ。こんなに暗くなったのだから。そう思い、空を見上げる。いた。
魚だ。魚がいる。夜空の中を悠然と魚が泳いでいた。かなり大きい魚であった。全長1メートル以上はありそうだった。それがふらふらとプール上空を行き来している。野山はじっとそれを観察する。暗闇の中でも目立つその特徴的な形状が、その魚をシーラカンスだと示した。なぜ、深海のシーラカンスが空を泳げるのだ。ナンセンスだ。普通はそう感じ、さまざまな疑念によって、場当たり的な仮説を立て始めるのだが、野山は違った。不思議に見えることに滅法弱いのが、野山の特徴である。心を奪われて、ドキドキした胸を抱きながら、じっとその光景を見つめていた。夢見る少女の佇まいである。
手品にせよ、心霊現象にせよ、タネがあろうがなかろうが、度の外れた不可解な現象に立ち会うとき、人は恍惚に似た状態に陥る。言葉が出なくなるのだ。その現象を説明しうる言葉や論理を捜すため、世界に接する自己は停止してしまう。外界から見れば、これほど油断した状態はない。これは危険なことである。急襲されたときの反応が鈍くなり、致命的な損傷を得てしまう可能性が高くなるからだ。そうとなれば、この恍惚時間を短縮していくことが大人になっていくということであろう。好奇心の発露を一瞬に留め、思考を停止するか、場当たり的な仮説を立てるようにすれば、この恍惚時間を短縮できる。多くの大人は確かにそうやって事を済ましている。だが、こうした知的恍惚に陥るとき、人は悦楽に浸れる生物でもある。この快感を得るために、わざと現象に没頭する人種もある。その一人が、野山なのだ。彼女は、ただただシーラカンスが空中を泳いでいるという現象に埋没した。息も遠慮するようにして、じっとその現象に寄り添い、己の好奇心に身をゆだねて、地に足つかぬ論理を演繹し、世界を再構築していく。あのシーラカンスは、スカイフィッシュの仲間にちがいない。野山がそう思い始めた頃、また音がした。戸が軋むような音であった。野山は、好奇心の湯から上がって、背後を見る。男子更衣室の戸が開いていた。そこから、誘うような光が漏れ出でている。野山は再度、警戒をする。おかしさが耳鳴りとして現れてきた。男子更衣室の鍵は、確かに閉まっていた。そして、その鍵は野山の持つ鍵束の中にある。小林かもしれない。だが、何のために男子更衣室へと侵入するのだろうか。しかも、こそこそと。仮説が野山の頭に立ち上がる。危機が目前にあれば、如何なる人でも、快感を欲するような人でも、思考をそこへ向け、対処方法を導き出そうとするものだ。人間が生物であることによる性である。そして、そのような早急な判断の精度は著しく低く、思わぬバカをやってしまうことが多い。野山もバカをしてしまう。わざわざ、更衣室の方へと向かったのだ。シーラカンスのことも一瞬忘れてしまっていた。彼女は、そっと男子更衣室を覗いた。無人の室内を蛍光灯が煌々と照らしている。木製のロッカー、敷き詰められたすのこ、剥き出しのコンクリート壁、戸のないトイレに、仕切りだけのシャワーたち。まさに男のための更衣室。粗末な施設である。
「誰か、いますかぁ」と野山は心細げに虚空へと声を発する。返事はなかった。おそるおそる室内へと彼女は侵入する。周囲を見回す。あった。
部屋の中央に、B5サイズの白紙が落ちている。野山は、近づき、手にとった。裏面に文字が書いてあった。
「今夜は、スカイフィッシュにうってつけの夜です……」
途端、世界は暗転する。野山は、小さく悲鳴をあげて、身を屈めた。じっとする。何もこない。立ち上がって、暗闇を凝視する。人の、生物の存在は感じられない。第六感が鋭敏になり、様々な現象が勝手に予見されてくる。野山は、一つ大きな呼吸をして、とりあえず電灯を点けることにした。そろそろと忍び足を使って、暗がりを移動する。誰も何もいない。無事に、ドア際のスイッチパネルへとたどりつき、かちりと電気を点ける。蛍光灯は瞬いて、がらんとした室内を照らす。佇んで、野山は周囲を眺める。誰もいないようだった。冷静さを取り戻した野山は、撤退することを思いつく。未知の現象に対する最も原始的で、最も有効な行為である。これが反射的に行われるようになれないと、野生の世界では生きていけない。
野山は側のドアを開けようとする。開かない。がちゃがちゃやってみても、開かない。冷静さを辛うじて失わない野山は、駆け出して反対側のドアへと向う。祈るような気持ちで、取っ手を捻る。回らない。鍵が閉まっているのだ。そうか、と野山は気がついた。閉じ込められたのだ。




