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一章 完全な人間

書きかけですが、すでに終わりまでのストーリーは考えてあります。長さはおそらく十万字超、普通の文庫本で二百から三百ページほどを考えています。

「目が覚めたかい?」

 生まれて初めて目にした人は、優しそうな微笑を浮かべながら俺にそう言った。俺はどうやらふわふわとした触感の物に仰向けに横たわっているようで、彼と俺の間には透明の板が差し込まれている。その向こうには真っ白な天井に、青白い光を放つライトが嵌め込まれている。

 この指は何本に見える? 目の前の、左右非対称の奇妙な髪型をした彼は俺に向けて手を出して問う。『ユビ』という単語が何を意味するのか、俺は生まれたばかりだというのに知っていた。きっと俺を作った人が、俺のデータベースに書き込んでくれていたのだろう。

 俺は「三本」と、彼が立てた指の本数を数えて答えた。それを聞くと彼は満足そうに笑みを浮かべて頷いた。透明な壁の向こうから複数の声が上がる。どうやら俺が無事に起動したことを喜んでくれているようだ。

「私が誰だかわかるかい?」

 「顔屋の親父」。俺は俺が知っている彼の名前を答えた。彼は柔和な笑みを浮かべて「そう」と優しく語り掛けるように俺に頷きながら言った。

 そんな彼の顔を見ていると、胸の辺りの温度がやんわりと上がっていくのを感じる。俺にはまだこれがどんな感情なのかわからないけれど、すごく暖かい………。

 これはきっと、『安心』するという気持ちなのだろう。

「では『顔屋』とはなんだい?」

 彼は質問を続ける。俺が正しく起動しているか、設計に以上はないかを確認するためだと思われる。

「『人間商会』に所属する商店の一つ。人間商会は文字通り『人間』を商品として扱う『顔屋』、『肉屋』、『脳屋』、『魂屋』が集まって形成されている組合。顔屋はその名の通り『顔』―――つまり人間の容姿を商品として扱う店で、親父はそこの主」

 俺があらかじめ決められていたテキストを音読するようにすらすらと言葉を紡ぐと、彼はまたニコリと笑って頷いた。

「では君は一体なにかな?」

「人間商会の技術を用いて創られた、異なる人物の部品を収集、統合することを目的とした人型のインターフェイス」

 狭い容器に閉じ込められている形となっているが、不思議と窮屈さや不安感は無かった。やわらかい素材の寝具に包まれているからなのか、それとも目の前にいる彼の声を聞いているからなのかはわからないが、ふわふわとまどろむような心地良ささえあった。

 ―――ここは俺にとって、世界で一番安心できる場所。不思議とそう確信していた。

「オーケー、その通り。では君が創られた理由、君の目的はなんだい?」

「人として限界と思われる人間の部品を収集、統合して『完全な人間』となること。最強の肉体、最高の頭脳、傾国の美貌、そしてどんな困難にも揺るがない人格を持つ人間を探し出し、そしてそれを収集することで完成する」

 一切の曇りも無い完全な人間を創ること―――。それが俺を創った親父達の所属する『人間商会』の目的。俺はその方法として親父達が考えた一つの理論を実践するために作られたテストモデルだ。

 親父達の理論は、ある一つの空っぽな容器を用意してその中に『完全な人間の要素』を詰め込んで行き、最終的に一切の欠点の無い純粋な人間を作り出すというものだ。

 自然に生まれてきた人間には、頭が良く容姿端麗で腕力があり性格が良く決断力もある―――そのような『完全な人間』は存在しない。必ず欠点がある。だがしかし、「頭は悪いがスポーツならば誰にも負けない」と言った人間や、「生まれつき体は弱いが頭がよく、数十カ国の言葉を同時に操れる」ような人間だったら存在する。

 親父達は、それら自然界に存在する「その分野の天才」の能力をうまいこと合わせたら、『完全な人間』が出来上がるのではないか。そう考えた。

 そうしてその理論を実践するために創られた『才能の入れ物』が俺だ。

 今の俺には人並みの能力も備わっていない。それはこれから人間として限界と思われる才能を見つけ、それを手に入れるために、わざと『空けてある』のだ。

 顔屋の親父が俺の入っている容器の側面に手を伸ばすと、目の前にあった透明な板がスライドして行き、向こうの空気がふわりと舞い込んだ。遮るものがなくなったので、ふわふわとした寝具から起き上がり辺りを見渡すと、狭い部屋の中に五人ほどの人が立っていて、俺をまじまじと見つめていた。

 ―――全員名前を知っている。みんな俺を創ってくれた人だ。

 顔屋の親父が全裸の俺に衣服を差し出してくれた。それを受け取って、下着や靴下を身に着ける俺の一挙手一投足を、親父達は固唾を呑んで見守っている。なんだかこそばゆい。

 俺が服を着て立ち上がると、みんなが顔を赤く高潮させて息を呑んだ。その空気に俺は少し照れくさくなる。少し大げさだろう、服を着て立ち上がったくらいで。

「みんなで君の名前を考えたんだ」

 顔屋の隣に立っていた脳屋の親父が丸い眼鏡をくいと持ち上げて、努めて冷静にそう言った。

「―――だけど決まらなかった。皆自分が付けるんだって引かなくてね」

 その言葉に親父達は、バツが悪そうに苦笑し、パイプ椅子に座っていた肉屋の親父がその巨体に付いた脂肪をぷるぷると震わせ「余計なこと言うんじゃねえよ! ………カッコ悪いだろが」と野次を飛ばす。親父達が車座になって、あーでもないこーでもないと、俺の名前を議論している姿を想像すると、俺の胸はまたぽかぽかと温かくなった。

「議論の結果、君の名前は私達全員が一つずつあげることにしたんだ」

 肉屋を顔屋の親父が適当にあしらっている隙に、脳屋の親父が続けた。「どういうことか」と俺が質問すると、この中で一番の年長者である魂屋の親父が「つまりは」と受けた。

「お前さんがこれから成長して、『完全な人間』に近づくにつれて一つずつ名前を与えていこうという意味じゃ。―――戒名みたいなものじゃな」

 言い終わって魂屋の親父はゴホゴホと咳を吐いた。髪は全て白くなり、肌に張りも無くなってしわくちゃだ。しかし頬には赤みが差し、表情は少年のようにキラキラと輝いている。

「ちなみに、最初の名前は私が考えたんだよ」

 得意そうにそう言ったのは顔屋の親父だった。顔屋は皆の中で一番若く、高校生ほどの外見に作られた俺とは、親子というよりは少し歳の離れた兄弟くらいの年齢だ。だからか名前を発表するときの顔は、一番子どもっぽく無邪気に見えた。

「数学用語で『空っぽの集合』を意味する、『ファイ』っていうのを考えたんだ。―――今はまだ、君には腕力も知識も色気も感情の起伏も、何も備わっていない。そんな空っぽな君だけど、だからこそこれからそれらを一つずつ集めて、いつか『完全な人間』になれるようにっていう意味さ」

 「気に入ってくれたかな?」という顔屋に、俺は深く頷いた。。

 とても良い名前だと思った。元より俺の始まりの名前、親父の付けてくれた名前に異論などあるはずが無い。

 俺の様子に顔屋の親父は満足そうに頷いた。

「これから君が成長していく度に、空っぽだった君には新しい名前が増えていく。楽しみにしていてくれよ、ファイ」

 そう言って顔屋を含め、親父達が次々と俺の頭を撫で始めた。ごつごつした大きな手から、青白い血管が浮き上がった細い指先まで、様々な形の大きくて暖かい手が俺の頭をもみくちゃにする。乱暴な手つきのはずなのに心地よく俺の頭を揺らした。

 肉屋の親父が俺の頭にその大きな掌を乗せて言う。

「今日はお前のバースデイだ。まずは何がしたい? ファイ」

 口を大きく開けて話す独特のしゃべり方で発せられた質問に、俺は少し考えた。何か自分のやりたいことを言う、それすら俺にとっては初めてのことだったから。どう言って良いかわからない。俺の脳には、生きていくのに必要な情報は既にインプットされている。その中にある様々な物や事柄、やりたいことや欲しいものといわれたらたくさんあった。この『知識』としてしか存在していないものに、実際に触れてみたいという欲求はあった。

 悩んだ結果、俺の願望は自然と口を突いて言葉としてあふれ出た。


「街に行きたい………。街にいる色んな人を見て、―――親父達が考えてくれた、他の俺の名前を早く聞きたい」


 初めから俺にそうインプットされているのか、俺は自然と、『完全な人間』になりたいと思った。それは俺の存在理由で、動物で言ったら子孫を残すことに執着するのと同様のものなのだから、そういう意味ではとても自然なことだった。

 何よりも俺は、目の前にいるこの五人の親父達に早く報いたかった。彼らが喜ぶ姿が見たかった。俺が目覚めて立ち上がっただけで、こんなにも喜んでくれたのだ。俺がもしも彼らの望みどおり、『完全な人間』となったら、どれだけ喜んでくれるだろう。その様を想像するだけで、胸がぽかぽかしてくる。「親父達の夢を、叶えてやりたい」、自然とそう続けていた。

 俺の言葉を聞いて肉屋の親父は一瞬驚いて目を見開いて、すぐにくしゃりと顔を歪めた。色黒な顔にいくつもの皺が浮かび上がり、目から大粒の涙を流し始めた。頬を伝ってその熱い液体が流れ、落ちた雫が俺の頬に当たった。

 一体何事かと思って他の親父達を見渡すと、皆何故か涙ぐんでいた。顔屋の親父は高級そうなハンカチをポケットから取り出して頬をぬぐい、脳屋の親父は眼鏡の隙間に指を入れて目元を何度もこすっている。

 俺は戸惑った。どうして親父達は突然泣き出したのだろう。俺は何か彼らを悲しませることをいったのだろうか。涙というのは、悲しかったりつらかったりしたときに流れるものだと、俺の頭の中に知識として書き込まれている。


 ―――どうして親父達は、そんなにも嬉しそうな表情をしながら涙を流しているのだろう。

 いつか俺が成長したら、その意味がわかるときが来るのだろうか。









 生まれて初めて街に出て、あまりの衝撃に俺はたちまち立ち眩みを起こした。まさかこんなにも街というものは巨大で華やかで、人が多いとは想像もしていなかった。空がこんなにも深い青色をしていて、どこまで広く広がっているとは思わなかった。ビルがこんなにも綺麗な立方体で、青空を突く槍のように高くそびえていようなんて。そして照り焼きマックバーガーがこんなにも美味しいものだったなんて………。

 大通りに出て早速人に酔った俺は、とにかくどこか一度体勢を立て直す必要を感じて、近くにどこか休める場所はないかと探し、知識にあったファーストフードの店に避難することにした。『マクドナルド』というのは、俺くらいの年齢の若者がこぞって利用する場所だということなので、それだけ人気ならば大層美味いものを売っている店なのだろうと考えてのことだった。

 ガラス戸を開けると、レジの前には案の定十人ほどの人間が列を作っていた。しかし店員はそれだけの人数の注文を冷静かつスピーディーに処理し、すぐに順番は俺に回ってきた。

 そのあまりの手際の良さに驚嘆して俺は呆気にとられていたが、なんとか作法通りに照り焼きマックバーガーとマックシェイクを注文することができた。笑顔の眩しい店員さんにポテトを薦められたので、好意を無碍にするのもまずいと思いそれも頼むことにした。 驚くほどの手早さで注文したものは出来上がったことに少し動揺しながら、設定上高校生ほどの年齢である俺が喫煙席にいるのは法に触れそうなので禁煙の窓際に面したカウンター席に座ることにした。

 生まれたばかりで腹が減っていた俺は早速照り焼きマックバーガーの包み紙を解き、何とも食欲をそそる匂いを放つそれにかぶりついた。

 ―――あまりの美味さに、俺は身震いを起こして照り焼きマックバーガーを右手に持ったままテーブルに突っ伏した。

 甘辛いソースが染みこんだハンバーグは、「どうだ美味いだろ!」といわんばかりに全く遠慮が無く俺の舌と脳みそをとろけさせる。人間が「美味い!」と思う味を、なんの躊躇もなくほかの一切の余計なものを排除したような原始的な美味さに、俺はただ震えることしかできなかった。

 おまけに爽やかな酸味のマヨネーズがその濃厚な旨味を引き立て、しゃきしゃきとしたレタスと絡むので味が単調にならず、食べても食べてもまた新しい美味さが顔を出す。


 ―――初めて食べる食べ物がこれで、本当に良かった。心からそう言える味だった。


 香ばしくアツアツなフライドポテトと、体に染み渡っていきそうなたまらない甘さのマックシェイクもまた、俺の想像をはるかに超える美味さで夢中で口に入れた。

 初めての『食事』に感動して没頭していると、隣の席に座っている人に視線を向けられていたことに気が付いた。春だというのに襟付きの真っ黒なコートを身につけ、グレーのキャスケット帽を目深に被り眼鏡をかけてマスクをしているので顔はよくわからないが、眼鏡の奥の涼やかな目元が印象的な女性だった。

「どうかしたか?」

 マックシェイクに口を付けながらそちらを見ると、彼女とと目が合ったので、俺はそう聞いてみた。彼女は少し戸惑って「い、いえ………!」と口ごもる。他人の食事風景をまじまじと見てしまっていたことが気恥ずかしいのだろうか、ぷいとバツが悪そうに顔を逸らしてしまった。


「………照り焼きマックバーガーを食べて涙を流す人は初めて見たんで。―――そんなに美味しいですか?」

 

 そう言われて俺は初めて、自分の頬を熱い涙が流れていることに気が付いた。それが流れて、雫がマックシェイクに落ちている。

 ―――道理で少し塩辛くなったと思った。

 どうして涙が流れているのだろうか………。涙というのは悲しいときや辛いときに流れるものじゃなかったのか? 

 今俺はこの料理の美味さに感動こそすれ、悲しんだりするはずがなかった。自分が涙を流す理由がわからず戸惑ったが、ふと親父達の顔が思い浮かんだ。

 ―――そういえば親父達も、俺が生まれたときに涙を流していたな………。

 そこまで考えて俺はようやく理解した。涙というものは決して悲しいときにだけ流れるものではないということを。たまらなく嬉しかったり、感動したり感情が高ぶったときにも流れるものだということを。

 そして親父達が、俺が無事に生まれたことをそんなにも喜んでくれたのだということを理解して、また泣けてきた。

 テーブルに突っ伏した俺に、彼女は驚いて「大丈夫ですか!?」と声をかけてくれた。なぜかすごく小声だが、透き通った流水をイメージさせるとてもいい声だった。

 

 数分して泣き止んでまたがつがつと照り焼きマックバーガーを頬張り始めた俺を見て彼女は溜息を吐き、小声で「変な人だなあ」とポツリと呟いた。

「変だというのなら、あなたも相当に変だと思うが………」

 俺は彼女の格好を見ながらフライドポテトを数本摘んで言った。俺も大概まだ世間知らずだが、こう暖かい日にこんな暑そうな格好をしている人間は世間一般の常識から外れていることくらいはわかる。 

「食事のときにもマスクをつけているのは、何か宗教上の理由なのか?」

「………隣に座った人がハンバーガー頬張りながら涙流してたら、そりゃ自分の食事どころじゃなくなりますよ」

 呆れたように溜息を吐いて、彼女はそう言った。相変わらず人目をはばかるような小声だ。公共の場所で騒ぐことを嫌う人なのだろうか。さっきからやたら辺りを気にしている様子だ。

 カウンターテーブルに置かれた彼女のトレーにはハンバーガーの包みと飲み物のコップが置かれていたが、包み紙はそのままで、飲み物のコップにもストローが刺さっていない。

「でもそうかもね。ちょっとした宗教みたいなものかも………」

 俺に対してなのかそれとも独り言なのかわからないくらいの声で小さく呟いて、彼女はマスクをとった。マスクの上からではわからなかったが、顎のラインは細く綺麗な形で。口は俺の半分くらいの大きさで、俺の数倍やわらかそうだ。シミ一つ無い肌は、まるで誰一人として踏み入ったことの無い処女雪のように真っ白でキメ細かく、涼やかな声と相まってその容姿は、まるで夢見がちな作家が思い描いた出来過ぎな空想のようですらあった。

 要するに『超美人』だった。俺が照り焼きマックバーガーを食べる手を止めるほどに。

「驚いた………。あなた超美人だな」

 俺の素直な感想に彼女は「そ、ありがと」と、聞き飽きた世辞を流すように適当に言って、小さな口でハンバーガーに噛み付いた。事実彼女だったらこんなセリフ、もうとっくの昔にうんざりするくらい聞かされてきたのだろう。その様子を想像するのもまったく難くない。むしろそれが自然に思えるほどに、魅力的な顔立ちをしていた。

「ああ、まるでマックシェイクだ………」

 思わず呟いたその一言に、彼女はハンバーガーを喉に詰まらせて噴出した。その様すら、なにかの絵画の題材になってもおかしくないほどに美しかった。しかし当人にとってはそんなことはどうでもいいことのようで、頬にパンの欠片を付けて、何か得体の知れないものを見るかのような顔で俺の顔を凝視した。「そんなこと初めていわれた」といった顔だ。

 しかしそんな顔すら、彼女の魅力でしかないように見えた。普段は涼やかに見える目元も、少し表情を変えると歳相応の可愛らしさが顔を出す。一つの美貌の中に、大人の女性的な魅力と、少女の可愛らしさが同居するような、そんな不思議な貌だ。

 雪のような爽やかな冷たさの後に、とろけるような甘さが脳髄を溶かすマックシェイクと通ずるものがあると思った。きっと彼女は生まれたときから「可愛い」と持て囃され、老いてからもその美貌は衰えず、一生『美人』であるのだろう。そう思えるほどに、圧倒的な美人だった。

「………よくわからないけど、それがあなたにとって最大のほめ言葉であることはわかったわ」

 彼女は俺が大真面目に言葉を選んでいたということを理解したようで、「泣くほど感動したんでしょ?」と苦笑いをして言った。変なヤツとは思われたようだが、そう悪くは思われていないようだ。

 それっきり会話も途切れ、彼女も俺もただファーストフードを黙々とむさぼることに没頭し始めた。

 彼女は俺のようにハンバーガーを口にしても涙を流すほどに感動するということはなく、無感動にそれが義務であるかのようにただ口に食物を運んだ。

 俺にはその様子が信じられなかった。こんなにも美味しいものを、眉一つ動かさずに食べられるものなのだろうか。俺だったら無理だ。間違いなく口に入れた瞬間ににやけてしまう味だ。

 それともこんな料理はとっくに食べ飽きているとでも言うのだろうか。だとしたら恐ろしい。彼女を満足させられる料理というのは一体どんな味なのか。もし俺が口にしたらとても正気を保ってはいられないだろう。

 ―――全く末恐ろしい世界だ、ここは。

 俺はまだ知らぬ味に身震いを禁じえなかった。恐ろしくもあり、いつか出会ってみたいとも思いながら、最後の一口となってしまったソースとマヨネーズの染みこんだパンの一欠片を口に放り込み、すっかりぬるくなったマックシェイクを飲み干した。 

 美人は手早く食事を済ませ、さっさと立ち去って行った。特に挨拶なども無い。

 さてこれからどうしようか。満腹中枢が刺激され、すっかりとろりとした脱力感に囚われながら、俺はこれからのことを考えようと大きく伸びをした。

 席から立ち上がろうとした瞬間、背中に何か大きなものがぶつかってきたかのような強い衝撃を受けて、勢いよくカウンターのテーブルに叩きつけられて突っ伏した。丁度腹の辺りをぶつけ、体がくの字に折れ曲がり、胃の中のものが逆流しかけたところをぎりぎりで踏みとどまる。

「―――むおう!!」

 何が起きたのか理解する暇もなく、今度は四方八方からすごい力でもみくちゃにされ、突然の出来事に俺の体は耐えられず、たまらず椅子から転げ落ちた。

 転げ落ちた床で目にしたものは、俺の混乱をさらに加速させた。

 ―――目に映ったのは、色とりどり大量の靴。それらが転げ落ちた俺をさらに追い打つようにもみくちゃにする。俺を狙って踏んでいるわけではないようだ。ただ俺がそこにいるのが邪魔で、どけようとしているような動きだ。

 サッカーボールのように蹴られるのではない。ダンプカーで四方八方から轢かれるように蹴られるのだ。

 俺は必死の抵抗を試みる。このまま為されるがままにされていたら腕の一本や二本では済まない。立ち上がって状況を確認しようともしたが、無数の足の腰から上はすでに天井が見えないほどの密度で人が密集しており、俺の居場所は彼らの足元しかなかった。頭上では「押すな!!」だの「痛い!!」だの嬌声が飛び交っており、どうやらすごい数の人間が押し合いへし合いしているらしい。

 一体何故こんな数の人数がファーストフード店に集まってしまったのかはわからないが、とにかく俺は命の安全の確保のため団子虫を見習って体を丸め、スニーカーやヒールの猛攻に耐える体勢を取った。

 無抵抗なボールのようになった俺を無数の足が弾き飛ばす。様々な足に蹴られながら運ばれて、俺は大通りに面したはめ込みの大きなガラス戸に叩きつけられた。全身が焼けるように痛い。もはや蹴られていない場所を探すのが困難な程だ。

 ガラス戸に叩きつけられてべったりと張り付いた頬をなんとかしてガラスから離し、そこから見える外の景色を見て愕然とした。

 ―――店を囲むようにして、大量の人がこちらを見ていた。

 まさかここにいる全ての人が、マクドナルドの注文待ちだというのか。もはや店内はとうにキャパシティオーバー、あちこちで悲鳴すら聞こえている状況だというのに………。皆そんなにもマクドナルドで食事がしたのか。

「―――テ、テイクアウトしろ………!」

 肺と胃が強烈に圧迫されて、心の声が声にならない声として口から漏れたのと同時に、嫌な音が聴こえた。

 パリ、というなにかにヒビが入った音。

 その出所はすぐにわかった。俺の体を支えているガラスが、負荷に耐えられなくなってヒビ割れを起こしたのだ。そして負荷は今尚増え続け、ピキピキとヒビが広がっていく。見るとどうやら俺の目の前のものだけではなく、この大通りに面した一面のガラス全てが、人の圧力に耐えられず、悲鳴を上げている。


「―――馬鹿な………」


 次の瞬間、案の定負荷に耐えられなくなったガラス窓が豪快な音を立てて一斉に割れた。ガラスの破片で体のあちこちを切りながらも、俺はなんとかしてそこから這い出し、よたよたとよろめきながら安全と思われる場所までなんとか退避した。

店を取り囲む輪の中に紛れ、俺はようやく一息吐いた。ガラス片で頬を切ってしまったらしく、触ってみると赤い血が手に付着した。よく見ると手のひらもあちこち切れて血が出ている。

「………マクドナルドがパンクした」

 さっきまで自分が食事をしていた店の中の様子を、外からあらためて見て愕然とした.

窓ガラスの破片があちこちに散らばり、内装もぐちゃぐちゃだ。何より驚いたのは、こんな状況になっても尚、彼らは店内に入ろうと押し合いをしていることだった。窓際や入り口の近くにいて、中からの圧力に耐え切れなくなって弾き飛ばされた俺のような人間も、すぐに立ち上がって人の壁に立ち向かっていく。見るとあちこちガラス片で切って血を流しているが、全く気にも留めていない様子だ。

「………どれだけ腹が減っているんだ」

 昼時のファーストフード店というのは、いつもこんな地獄絵図が繰り広げられているのだろうか。だとしたらファーストフード店という物が、若者向けの店というのも納得できる。こんな場所に体力の衰えた中年のおじさんや、体の出来ていない子どもが入ったところで、とても目的の食べ物を手に入れることなど不可能だろう。

 その様子を想像してあまりの恐ろしさに身震いしていると、近くにいた人達の会話が聴こえてきた。

「………な、何アレ」

「え、お前知らねえの!? 今あそこに、水瀬瑠奈がいるんだってよ!」

「え………、じゃあコレ皆、瑠奈ちゃん目当てに押し寄せてきたの!?」

 「ミナセルナ………?」どこかで聞いたような覚えのある名前だ。しかしどんな人物だったのかは、頭にもやが掛かったように思い出せない。しかし目覚めてからそんな人物の名前を聞いた覚えがないのだから、親父達が俺にデータとして組み込んでいた人物であることは確かだろう。

 周囲にいる人たちは皆口を揃えて、「ミナセルナが―――」、「ルナちゃんが―――」と口を揃えて騒いでいる。よく聞いてみると、店内から聞こえる声にもその名前を叫ぶものが混じっている。どうやらここに集まっている人たちは皆、食事をしにきたわけではなく、その『ミナセルナ』という人物に会いにきたということらしい。

 一体どんな人物なのだろうか。親父達が俺の頭にインプットした以上、理由が全く無いとは思えない。おそらく相当に著名な人物なのだろう。

 なんにせよ、ただ食事をしにきた俺のような人間にとってこの状況は、迷惑極まりないな………。

 あちこち傷み重い体を引きずるように人ごみを掻き分けて、俺は店の脇に止めておいたバイクを探した。入り口の近くはひどい有様で、駐輪してあった自転車がグシャグシャになって倒れていたのでぞっとしたが、幸いなことに店の前から少し離れたところに置いてあったので俺のバイクは倒れても傷ついてもいなかったいなかった。

 空気抵抗の少なそうな流線型のフォルムをした、深い青色を基調にしたスーパースポーツバイク。肉屋の親父が、「もう俺には乗れねえから」と言ってくれたものだ。確かに彼の体型で乗り込むには、このバイクはいささか小ぶりでスマートすぎる。

 親父に教わった手順通りにヘルメットを被ってエンジンをかける。ドルルンという腹に響くような唸り声を上げて、排気口から排気ガスを吐き出す。地上に出てすぐに人酔いを起こしてしまったため、実際に起動するのはこれが初めてだ。排気ガスの匂いはオイル臭くて少し苦手だったが、体を内側から揺らされているかのようなこの感覚には何とも言い知れない良い心地を感じた。

 バイクの乗り方は既に俺の中にプリインストールされているし、出るときに親父に詳しく教わった。おそらく歩行をしたり言語を話したりするのと同様になんら問題なく乗りこなせるだろう。

 少し離れたマクドナルドの喧騒を横目に見て、全く生まれて早々ひどい目にあったものだと思いながら俺はバイクに跨った。グリップを回し、さあ発進しようとしたところで、背後から衝撃を受けてよろめいた。

 何事かと後ろを振り向くと、バイクの荷台に人が乗り込んできていた。そして強い力で体にしがみつかれる。鼻腔を何ともいえない官能的な甘い香りが突いた。

「ごめんなさい―――とにかくどこでもいいから、人気のなさそうなところまでお願い!!」

「は? 何故―――」

 一体突然この人は何を言い出すのだろうか。というか誰だあなたは、まさか街では見知らぬ人のバイクをタクシー代わりにすることも普通なのだろうか。様々な疑問が頭に浮かんだが、俺はそれを口にすることはできず。早急にバイクを発進させなければならないということに気が付いた。

 それは彼女が先ほどマクドナルドの店内で見かけた『超美人』だったからでも、彼女の顔が俺の顔ととても近かったからでも、何か背中に暖かくてやわらかいものが当たっているからでもない。


 ―――先ほどまでマクドナルドの店内に殺到していた人たちが目の色を変えて、今度は俺のいる方に押し寄せてきていたからだ。

 

「………轢かれる」

 まるで何の疑問も持たずにそう思った。本来はバイクに乗っている人間が、歩行者に思うことではない。しかしその人の濁流の勢いは、まさにそうとしか表現することができなかった。まさに雪崩のように押し寄せるその集団のプレッシャーに、俺は『つぶされる』でも『もまれる』でもなく、『轢かれる』という言葉が真っ先に思い浮かんだ。

 生命の危機を感じた俺は、ほぼ反射的にグリップを思い切り回してエンジンを吹かせ、その場を強引に離脱した。突然の発進に通りを歩いていた人たちを驚かせてしまったが勘弁してほしい。


 こちとら人に轢かれそうなのだから。


書き次第上げます。感想いただけたらやる気が出て早くなるかも。

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