降星大戦ーポエルの話9
細く、深い呼吸を繰り返す。
息を吐き出し、最底辺に達したとき、意識の光をヨルトに送る。脳裏に構築された迷宮を、光は迷う事なく進んでゆく。増幅れされ脈打つようになると、明滅する光は迷宮を抜け広大なる平原に出る。その向こう。霞むように荘厳なマノンがそびえている。明滅する光は抱かれるように吸い込まれる。
マノンは開き、ワールの奔流が平原に満ち溢れ、ヨルトへ吸い込まれてゆく。
全身の感覚は拡張され、ほとばしる感覚網オーグに包まれた。気温や湿度、空気の流れさえ掴み取れ、元々鋭かった聴覚は更に遠くの物音さえ鮮明に捉える。
暗い洞窟の中、目を閉じれば目眩を感じるほどの真の闇に包まれるはずであった。が、光影冠輪あたりにゆらめいていた波にオーグが同調すると突然あたりは明るくなった。
溢れる光。真っ白な世界。辺りは眩しさに包まれてピウィは平衡感覚を失いかけた。が、目が慣れて来るにつれ、景色は像を結び始める。
光り輝く真っ白い霧が穏やかに流れている。すると手前を通り過ぎる霧が消えた。現れたのは立ち並ぶいくつもの黒い柱。
『これだ。またこの景色。』
夢の中で記憶に刻まれた光景。これまで幾度となく見てきた景色が、目覚めた状態の自分に見える不思議が、夢と光影石の見せる映像との境目を危うくする。
大きな広間であった。正に夢に出てきた通りの広間。これがもしかして、いや明らかに“千の柱の大広間”。やはりここは間違いなく巻貝城の中なのだ、と興奮を抑えきれぬピウィであった。
その興奮とは別に、自分の気持ちとそぐわない感情が流れ込んできた。ソワソワと落ちかない期待と不安の入り混じった感情。しばらくしてポエルの言葉を思い出した。これは記録官の感情。他人の感情を受け取るとはこんな感じなのかと思った。
知ってはいけない記録技師の心を覗き込んでいるようでピウィは落ち着かなかった。そんなピウィの気持ちとは関わりなく光影石は回転を続ける。
霧はさらに流れ、千の柱の向こうに、晴天の下、青々とした山並み、そして林立する白亜の塔が見えた。こちらからは奥に見える横長の扉が、観音開きに引き込まれ開いた。
しばらく間を置くと、ざわざわとした談笑が聞こえ始めた。湖上空を流れる霧が千の柱の大広間に流れこみ、通り過ぎる。人々の話し声がいよいよ近づきその姿が見えた。
するとその時、広間中央にある円環状プールの水面が跳ねた。大きな鰭が水面を打つ。折り畳まれていた前腕が伸び、大きな3本指の掌が開く。それを来訪者にむけて振るとともに
「ピィィーカッカッ」
と甲高い声が響いた。クウィーカ族だ。広間に入ってきた旧知の友人たちに挨拶をしているようだ。
プールにはその陽気に泳ぐクウィーカ族の他に静かに泳ぐもう一人いるようだ。水棲の友人に手を振りかえしながら始めに姿を見せたのは人族であった。幾度が戦闘があったのだろう、数人が肩を叩きそれぞれの無事を祝っているようだ。
プールを囲む柱の間に設けられた席に向かい、互いの手の平を打ち合わせるお馴染みの挨拶を交わし、己の席へと別れた。
同じくアードラ族、地精族が次々に登場した。そして、やってきた。レリーフや彫像とはやはり違って見える。すぐにそれとわかる二人。一人は長身のアードラ族。力に溢れ、意志の強そうなしかし穏やかな眼差しが印象的な男性。
黒竜騎士長パウド・ラウェルーン。
その隣りには短く刈り込んだ髭、ぎっしりと生えた頭髪、伝統的な地精族の兜を脇に抱えたガログ・オグル。
伝説上の二人が生きて、いや目の前で動いて見えることにピウィは胸が熱くなった。その二人の後に続くのは、アードラ族と地精族の待女に付き添われた人族は、紅巫女様であろう。知性的な瞳で広間を見渡し、列席の人々に小さくお辞儀を返す。巫女様が入ってこられると入り口は閉ざされた。
と、同時に広間に音が流れてくる。地を這うようなそれはブォォーと次第に大きくなり、それに今度は幾重にも重なった小さな管楽器がファァァーと鳴り響く。先に着座していた人々は起立し、それぞれ居住まいを正した。
「パルミ・ロイリス伯王様 御臨会にございます」
侍従の声が広間を抜けて柱の間から外向こうへ消えてゆく。白かと見紛うほどのプラチナブロンドを、肩の上でまっ直ぐに切りそろえた人族の男性は、広間を周りそれぞれに笑顔を向け一段高い席に立った。
古文書の挿し絵で見た、戦時に伯王が装備する極淡い乳緑色に銀縁という伝来の鎧、美しく装飾された巻貝を象った兜を小姓に持たせている。実用には耐えぬであろう素朴な細身の直刀を刀掛けに置く。
「息災な顔を再び皆で合わせることができた。何よりの僥倖である。」
その声。見事に整った波長。崇高な存在を伺わせる声色は、皆の胸に届く。伯王様の言葉の裏には、これまでに数多のかけがいのない命が戦のために失われてきた、という思いが滲み出ていた。
「荒ぶる獣の王が伝えてきた災厄、それはこれまでこの世が経験したことのないものであった。しかし、このタマラの地が迎え、そして越えてきたものは常にそうではなかったであろうか。クウィーカ族、地精族、アードラ族、そして我が人族、我らの祖は、共にこの地に呼ばれ、永住の地とした。調和の神に愛されし人々よ、私は一人の人としてこの地を愛する。この地に住まう者を愛する。ここは守るに値する地ぞ」
およそ900年前の声がピウィの胸にも響いた。静かにしかし押し寄せる大波のような灼熱の意志。これを目の当たりにした面々は、胸に拳を当てて深く頭を垂れた。
しばらくすると伯王様は皆を慈しむよう笑顔になられ、着座した。紅巫女様が皆に着座を促す。パウド様は席に着き紅巫女様へ顔を向けると、小さな首肯が返された。
「会議に先立ち、紹介しておきたい御仁がおられます」
パウド様が後ろに向かって合図を送ると、床から細く透明な柱が伸び天井と繋がり、入り口の壁と円環状プールの中央舞台を結ぶ回廊がつくられた。
カパリ、と壁に埋め込まれていた扉が開くと、暗い口をのぞかせる。城付きの者がワールが作動させたのか、日差しの中に一人の人物を乗せた台車がスルスルと回廊を進んでくる。突き当たりである部屋の中央までくると台車は静かに止まった。カチリ、という音とともに揺れも止まり、台車の人物に蓄光石の光が集まる。簡素な椅子に収まっていたその人物は、ジャラジャラという音とともに脚を組み替えた。
両手、両脚が鎖で台車に繋がれている。身に付けているのは見たこともない形、装飾の鎧であった。肩から立ち上がる太い角、刻まれた彫金。何を表しているのか。しかし、最も目を引くのはその顔であった。扁平な鼻、裂けた大きな口、表面を覆う緑色の鱗。人を真似た爬虫類のようであり、頭部は黒い羽毛で覆われていた。四本の指を組み合わせ思慮深げに参列の面々を興味深げに眺めている。
蛇人だ。まさにそう表現するしかない。トカゲ族とは明らかに違う、肩のない極度な撫で肩、大きな頭。その大きな口がふにゃりと器用に動くと、
「名を言う。ミース。無階層。不死者の王、ネウネロザ・ヌツさまの下僕。ワールの司ミメーメ・マワ階層家族様の戦士にして学術の徒」