降星大戦-ポエルの話1
「では、始めるとしよう。およそ九百年前に起きた大戦と、我が黒竜探索の物語を」
緑塔市の地下深く、広大な空間をねっとりと闇が満たす。石卓上に置かれた蓄光石は淡い黄緑色の灯りを放ち、ゆらゆらと精一杯にその闇を追い払っているかのようである。そしてこの一角にだけ蠱惑的な、そして微かに甘い香りが漂っている。
ポゥオォォーォン
打晶琴が美しい音色を広げる。木板に並ぶ金属片をポエルの親指が再び弾くと、並んだ結晶棒の一つが音を放つ。
ピィィィ-ィン
ポエルの深い声が明確に響き、語られる物語の中へ三人を引き込んだ。
「人は900年前とも、1000年前とも言う。しかし正しくは今より947年前、それは起きた。この地に住う全てのものを巻き込んだ戦いの渦。後に降星大戦と呼ばれることとなったそれは、予兆があり、予想されていたものであった。
セーネマール湖マイエ島、精霊院の本宮たる天晶精霊院、ここから話は始まる。
島に繋がる大浮橋の森側のたもと、そこには常にルイテモン騎士団所属の衛兵が立つ。目の前に広かる森を毎日のように見ているだけに、異変にすぐ気づいた。
早朝から森全体が唸るような音が聞こえたそうだ。すると大きな猿虎が森から数頭現れ衛兵の前に座った。後を追うように大角鹿の群れ、リス、森亀、湖を渡ってくる翡翠鳥、瞬く間に橋のたもとの広場を森の住人たちが埋め尽くしたそうだ。突然霧が立ち込めると一箇所に光が集まり“獣王様”が顕現された。その姿は古来より伝わるまま、大きな頭を持った人のような鳥であったそうだ」
ポエルが茶を一口啜るので、間があいた。その間が、獣王の顕現という意味するところの重さをしっかりと聞き手に染み渡らせた。タマラの森の頂点に君臨する獣の王。その存在さえ架空のものと疑われているような伝説上の生き物。ピウィとバロワはしばらく息をするのも忘れた。ルパールでさえ驚きを隠し切れなかった様子であった。
「ほっ、正直なところ驚きました」
ルパールは額から顎までを掌で撫で下ろした。
「まだ話の出だしというのに、腰を折るようで申し訳ございません。いや、わたくしは知の都、とは今は昔、その大戦で多くを失ってしまった1番塔市の出身でございます。ポエル様のご存知の通り、塔市の誇りであった“図書殿”は膨大な蔵書の大半をその折に散逸してしまいました。しかしながら残された大戦資料に目を通す機会に恵まれたことがございました。未確認のこととしながら欄外の隅に獣王、いや獣王様の噂に関する記載があったのを思い出しました。そのような世迷言を当時は信じもしませんでした。なんと言っても獣王様の存在が歴史上確認されたことはなく、全くの空想上の生物とする意見が現在も大半を占めていますからな。姿を現した、ましてやその姿を、ほっ、このような形で資料と一致することが聞けようとは・・・背筋が震えるとはこのことでしょう。このような耳福は近年なかったこと」
獣王が文明社会に姿を現すとは、それほどの事であった。記録された歴史上それまでなかった事に、当時の天晶精霊院は一時大混乱に陥った。
ルパールの言葉に静かに頷くと、ポエルは続ける。
「数人の大巫女様を整然と引き連れ、天巫女様は門前にて獣王様をお迎えになられた。その後、本殿にてどのような意が交わされたか仔細はわからぬ。獣王様が再び本宮からお出になり、その見送りを天巫女様がなされるとその眼前で、宙に溶けるように姿をお消しになられた。それで、獣王様が幽体を持って現れたことがわかった」
仕事柄、感情の制御を当然とするルパールが、表情を消すのに努力しなければならなかった。
『なんということ、個人に対し幽体を現すことさえ奇跡とされているのに、複数人に見えるよう現れるとは。なんという霊力。そして、図書殿にもない天晶精霊院の情報を手にしているポエル様の情報収集力』
時を同じくして、巻貝城におわしたパミル・ロイリス伯王様の座す虹色の玉座の前に、獣王様は幻影を現された。後の照らし合わせで、天巫女様、伯王様、ともに伝えられた意は全く同じであったようだ。
伝えられてた意の要旨、それは・・・
災厄の星が空から降る、
ということであった。
今や聞き手の三人は、ポエルの話す世界の住人であった。獣王、とめったに人の口から聞くことのない雲の上にいるような存在から伝えられたという予言。
それは過去の出来事でありこの場にいる者は何が起こるのか既に知っていることである。しかし、こう改めてポエルの口から語られると、まるでこれから恐ろしいことが起こるように胸に迫るものがあった。
「ふぅー、これはーまったく・・・。ポエル様は語り口が上手でございますね。と、いうか。それを上回って、まるで当時を生きてきたかと見紛うばかりの語り方。そこになにやらいわくがありそうな」
明らかに水を向けられるとポエルは笑って
「そこに気づきましたか」
これも明らかに口調と態度を改めてルパールを正面から見据えた。ルパールは軽く驚いた様子で見返す。暫く前よりポエルはルパールに対する認識を改めていた。ポエルが予め設定しておいた琴線に、ルパールの受け答えが引っ掛かりはしないのだが、微かに触れる。
14年前の異界の門での出来事。マルパと共にあの大騒動を乗り切り、異界の門から追われていた人物を救い出し、介抱した。既にその時には森官長のポアナと家族を築き、多くの実子、養い子を育てていたポエルであった。
その直後、その人物はピウィを出産し、数年後ピウィをポエルに預け姿を消した。
兄弟姉妹とともに順調に成長してきたピウィであったが、ある日を境に体調不良に苦しむようになった。
パルワ砦に流れ着いたという導士ルパール。職業は占い師であった。執務室にあるリストにはそうあった。ある日、その執務室にその占い師は現れ、体調不良に苦しむピウィを異界の門のほとりの自宅に引き取り治療してよいか、そしてワールを使えるようにしてよいでしょうや、と尋ねられた。
いずれ訪れる、と“かの人”に予言されたその時が来たのか。ポエルは目の前の老女を冷たく眺めた。漆黒のローブ。両の先端に小さな手を付けた鎖を首回りにゆるく、幾重にも巻いた姿。中老といえる年齢であろうか、白髪まじりの穏和な顔立ち。ポエルはすぐに違和感を持った。人に忘れられやすい顔、人混みに紛れやすい姿。何も読ませぬ瞳。疑おうと思えば疑えるが、違うかもしれない。が、只者ではない、とポエルの直感が訴えている。ポエルの経てきた道のりも人並みではない。しかし、その只者ではないと踏んだルパールが、ピウィにワールをつかえるようにする、と言う。やはりこの人物なのだろう。それとポエルに近づくため、もあるか。
ピウィはワールを使えない。それはピウィを託した人物から直接に聞いている。先天的にワールをつかえぬ者にもマノン(霊門)は存在している。脳神経系が実利的に機能し、思考、記憶、伝達、身体制御を行なっている表層、その機能上の下層に位置する未機能領域のそのまた奥に、ひっそりとマノンはある。
複雑に絡み合う脳内の密林を正しく潜り抜け、霊門マノンを知覚し、開こうとする者。ワール導師はそういった者のヨルト形成の指導、補助を行う。また、こうしたワールに関する障害を診断することも行うワール系の特化した流脈医の一種である導師の力を借りれば、ほとんどの者は正しくマノンを知覚することができるのだが、ピウィの場合は違った。4番塔市でも著名なワール導師の言葉をポエルは思い出した。
「ヨルトの形成指導を受けたことが無いとお聞きしましたが、既に形成されている事、そしてこれほど精巧に形成されたヨルトはまずこれまで私は知りません。まったく驚きを隠せませんね。また、マノンと接続しているはずのヨルトの形状からして、この子にマノンが存在していると断言できます。アードラ族の使うウィーラ(縮縄)を使うことはできるようですし。しかし、そのあるはずのマノンそのものがない。あるはずなのに無い。うぅーん、いや、正しくは探り取れない、というべきですか。この様な事例に出会ったのは初めてですし、それまで聞いたこともありません」
ピウィの現状を知ることはできた。ピウィを託した人物は、ピウィに施された術が成長につれてどのように影響を及ぼすのか恐れていた。
ポエル、ポアナは定期的に4番塔市を訪れ、ワールを使えぬ事以外に異常はないことを確認するのが毎年の恒例となっていた。
ピウィは産まれてすぐに養い子となったのだが、その出自が特殊であっただけに、ラウル夫妻とも何らかの予期ねぬことがあろうかと覚悟はしていた。
待つこと9年。4番塔市を訪れると、ピウィの脳内に変化が見つかった。異常なワールの高まり、存在の分からなかったマノンの姿が浮き出るように確認できると。
この時期に見合わせたようにポエルの執務室に現れたルパールは、ポエルが待ち構えていた人物、つまりピウィに施されたマノンの封印に関わる人物であろう。
ピウィをルパールに預けてから数年の間、体調は改善し、しばしばパルワ砦にピウィは姿を見せ、以前のように家族との絆を取り戻した。
そしてつい最近の出来事だ。ポエルの執務室に現れたルパールの後ろからひょっこりとピウィが顔を出す。ルパールはピウィを前に押し出すと、目を細めてピウィを見守るようにして、口をつぐんだ。
「ポエル父さん・・・あの、森関の儀に参加したいんです。合格して・・その・・狩りにでたいんです。」
出始めた言葉は、しかしそこで止まってしまいそうな勢いだった。先を促す様ポエルは
「なぜ」
一言だけ入れた。何の情も纏わせない無色の問いだった。軽く震えていた指をゆっくりと握りしめる。両肩を持ち上げると、腕を地面へと向かって打ち下ろした。ピウィは毅然と前を向き、ポエルに視線を打ち込むと一気に言い放った。
「今しかないんです。心がそう言うんです。これまでこんなことなかったのに。散々世話に、世話になりっぱなしだったポエル父さん、ポアナ母さん、兄弟姉妹を安心させたい。もう一人でやっていけると安心させたい。お礼がしたい。みんなの足枷になりたくない」
“よくぞ言い切った”ポエルの心中はその言葉で埋まった。尻切れトンボになってしまったが、ポエルが意図的に放っていた威圧を跳ね除けて己れの覚悟を言い切った。ポエルの顔に温かい微笑みが広がった。
「ふふっ、はっはっはっは、それで大喰鶏を家族に馳走すると言ったのか」
ピウィはポエルにつられて破顔すると
「はいっ」
勢いよく応じた。逞しく育った我が子、ピウィ。大きな流れへと乗り出す第一歩となる予感。嬉しさと寂しさ、不安。
「この子を頼みます」
と、この子の母親にそう託されたのが先程だったかの様に、今鮮明に思い出される。
数瞬の回想を振り払う様に、ルパールの問いかけに応える。
「ルパール殿の懸念はもっともです。私は当時の戦で最も重要な役割を担っていた人物の一人から、直接話を聞くことができました」