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棄てられた楽園 駆竜人ピウィ  作者: 青河 康士郎 (Ohga Kohshiroh)
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うねりの胎動ー7

 絶え間なく滴り散る血の滴は、塩気を滲ませガウフの視界深度を奪う。


 これぞ天恵の好機。アハゲヤは口の周りをペロリと舐めると、期待に胃を弾ませた。獲物を丸呑みをしたときのあのえもいわれぬ喉越し。しかもそれが永年の宿敵であればなおのこと、どれほどの喜びが心と胃を満たしてくれることか。


アハゲヤの思考は止まらない。手傷を負ったのか、狼。万全の時でさえ痛み分けであるのに、それではとうてい勝てまい。疑念を起こせ。怯えろ。怯め。ふてぶてしく我者顔で森を闊歩する獣王の従僕よ。心に亀裂を入れろ。新たなる我が力を、その亀裂めがけたっぷりと注ぎ込んでやろう。


 ある雨の日、水溜りに描かれる波紋を眺めていたその時、この力、その者から受け渡された。アハゲヤと同類の存在。哀れな小さき人と同じほどの身体なれど、アハゲヤを圧倒するワールの気圧を誇示するように現れた。漆黒のフードの底、赤い瞳に見入られたナーグ蛇は逆らうことを諦め、瞬時に恭順の意を示した。


 この存在と同類である、という思いが今やアハゲヤの誇りでもあった。この力を得て以来、ナーガ蛇は一帯を睥睨する王となった。すべての森のものはアハゲヤの新たな力に屈服し、その命を差し出した。


 なんという快楽・・・尾先まで痺れるほどの快楽・・・


この狼を腹に収め、全き世界は完結する。我が一族が森を制する。心にのたうつように暴れる欲望からあふれる精気を全身にみなぎらせ、その柔軟な手足を身体の下に隠しつつ前方に這う木々の太根を掴む。長い尾を精一杯延ばし木を捕えると、ぐるぐると巻きつける。ギリギリと引き絞られた石弓のごとく、尾の先を離せば蓄えらたエネルギーを解き放ち、想像を絶する速度をアハゲヤという極太の矢に与えるであろう。


 高速で明滅する映像、思考。あの存在に出会ってから全てが変わってしまった。心の底流にあるこの思いが消えない。が、今はそれを気にしている時ではない。後少しで満たされる。溢れ出る欲望は止まるところを知らずアハゲヤの全身を覆っていた。


あの狼の首筋に己の牙を突き立てる。己の強さをあやつに思い知らせる。暴れる狼に長い身体を巻き付け、ゆっくりと締め付ける。甘い幻想にヒヤリとする痛みが首筋に走った。背筋には戦慄が走った。噛む、 噛まれる、その二つはアハゲヤの中で一瞬入れ替わったように見えた。尾の先は痙攣を起こしたように硬直した。


脳裏は刹那の間、暗い闇に閉ざされる。そこへ赤い輝きが二つ浮かび、アハゲヤに使命を新たに思い出させた。あたりは再び輪郭を取り戻し始めた。そう、我は覇者。並ぶ者なき畏怖の対象。我が視線に触れて、平伏さぬ者はない。


尾先は緩み、狂気の輝きを宿した眼の矢は放たれた。鱗の微細動が地との接触を阻み、滑るように突き進む矢は木々をすり抜け一直線に狼へ向かう。


聖獣ガウフはなにを思うか、ぴたりと地に足をつけ、少し重心を落としたがそれきり、この突進を避けようともせず待ち受けた。


双子の月明かりの下、二つの生物は命を賭して激突した。


超重量のナーグ蛇が持つ桁違いのエネルギーを額で受け止めたガウフ、しかし4つの脚はその場から動かず、森が震えた。狼の脚から広がる広大なテンセルがそれを物ともせずに受け止めた。すでに逃れる生物はなく、しずかにただ木々だけが激しく枝をふるわせ、森全体がざわめきを生んだかのようだった。


蛇は上半身を和らげ、勢いのままくねらせると狼の上から首筋を目掛けて牙を打ち込まんと襲う。明滅する蛇の脳裏にはこの結果が既に見えていた。これはいつか見た場面。伸び始めた時のなか、正確にいつか見た光景が繰り返される。そう、ここで”勝った”と確信する。お前は既に知っていたかのようためらいなく首を大きくスイングしてこちらの喉元を下から食らいつく。


そこで全てを悟った。そう、喉元を差し出すために、このためだけに利用された。あの時、我の命は終わっていた。あの、赤い目を持つ同族の者に出会った時に。ガウフが食らいついた喉に向かって、己の体内を高速で移動する何かをアハゲヤが感じた。


 有脚の蛇は、あまりにも正確にあの日の動きをなぞっていた。勝敗を決したあの雨の日。相手の動きに連れ拍子をとる鍛え抜かれたガウフの闘争律は、その日と同じ動きを身体に表していた。そして、吸い込まれるようにあの日と同じアハゲヤの喉元へ牙を食い込ませた。


その牙が堅い皮膚を食い破るその刹那、その牙が違和感を聖獣に伝えてきた。が、すでに遅かった。アハゲヤに仕掛けられていた罠が芽吹いた。蛇の鱗を内より押し上げ膨らんだ肉塊は、破裂と同時にガウフの頭部を一瞬にして包み込む無数の蔦となった。蛇に突き立てた剛牙はしかし、皮下に内在する何か硬質なもの、聖獣が牙に込めるレイワールを胡散霧消させるその何かのため、食い破る動きを遮られた。


アハゲヤの喉に仕込まれた物体を突き破り、20程のうねりを見せる生物が大きく開けたガウフの口に飛び込んだ。狼はすかさず舌を引き込み口内にコルワールを展開する。これらは隙間を見つけようとガウフの口内をのたうちまわるようにその鋭い頭をあちこちに突き立てる。青位の聖獣は持てる力を四脚に込め蛇を突き放そうとする。が、蔦はギリギリとより強くガウフの頭を抱え込み始めた。そうと知れるとガウフは口内で暴れる槍頭の蛇ごと食いちぎろうと恐ろしいほどの力で顎を閉ざす。が、その力強き顎はそれでもピクリとも閉ざす動きを出来なかった。


蔦は上下の顎を縛りつけ、蛇の喉元を離すこともできず、聖獣は完全な拘束状態に陥っていた。口内にある堅い頭の生物どもは動きを静めたかと思えば。今度はキリキリと身体を回転させ、狼が舌で塞いだ喉に狙いをつけた。コルワールの強弱を見分けられるのか数匹は防御の弱い舌の付け根を攻めている。


間も無く訪れるであろう勝利の時を予感してか、錐の頭をもつ蛇たちは身体から溢れる消化液を口内へまき散らす。激しく抗う狼の鼻口は大きく開き、大量の気体を交換している。錐頭の蛇が2匹、その音を聞きつけたか口内から頑丈な格子状の物体を抜け、アハゲヤの体内へと戻る。そして、再びアハゲヤの内側から穴を穿ち正確にガウフの鼻孔を探った。ガウフは敏感にその臭いに反応する。鼻口を閉じる。錐蛇はアハゲヤの体内で回転を始めた。堪えきれなくなった獲物が、その鼻孔を開く瞬間を待って。


ガウフは眼を閉じる。これが最後だ。何の感慨もない。よく生きた。それだけだ。己の全身に声をかける。さあ、行くぞ。前脚近くまで極端に後脚を引き寄せると、四肢の筋肉は異常に膨れ上がった。縮められた四本の脚は強烈にアハゲヤの身体を押し除ける。巨狼を捕らえて離さなかった蔦に変化が起こった。アハゲヤの皮膚は盛り上がり、蔦が根元から抜ける気配を見せ始めた。肺は激しく酸素を求めるが、ガウフは頑としてそれを拒み、鼻孔は硬く閉ざしたままであった。均衡状態が崩れる。蔦が周りから抜け始める。始めは静かに、そして徐々に勢いを増すかと思われた時、それを上回る数の蔦が再び芽吹き、数を増す。ガクッとガウフの膝が一瞬崩れたが、力を取り戻す。蔦は芽吹きの数を変えず、増え続ける。これを傍観するしかないアハゲヤの虚な眼があった。


“負けるのか”・・・・“お前も”・・・


心のどこかで火花が散った。


 忘我のアハゲヤは脳裏に目まぐるしく移り変わる記憶が再現されるのを見た。夜空に輝く二つの月。地上で相対する二組の瞳。森が陰ると雷鳴が響き、豪雨に見舞われた。自信と力に満ちた己を思い出す。落雷と共に最後の一撃を加えんと激突する二つの影。振り下ろした尾の重りの一撃。逃れえぬ間合い、完全に仕留めと確信していた。その狼は幻のように消え失せ、巨蛇は喉に焼けた鉄串を突き刺された感覚を覚えた。


ガウフに押さえ込まれた状態となり、相手に噛み付くことも叶わず、力なく長い指で空を掻き毟る。砕かれ、叩き落とされる誇り。負けるのか、私が・・・。それと共に湧き上がる、味わったことのない感情。人で有ればそれを称賛と呼ぶのか。お前ほどの敵手に負けるだ、我はそれを誇りに思う。


あの日、情け容赦なく狼は我の息の根を止めたはず。そう、それでいい、それでこそわが好敵手。そう思ってこの世から去るはずであった。あの激闘の末、気を失いかけたアハゲヤの眼に映ったのは、挑発するように輝くガウフの瞳であった。


「また来い」


それはそう告げているようであった。


暗闇に意識が閉ざされるその瞬間、神聖なる2つの獣の魂の衝突が、光の爆発として脳裏に浮かんだ。

 その音が聞こえるほどの火花を散らした心が意志を生み、アハゲヤの脳を直撃した。忘我の無表情が憤怒の形相へと一変した。


‘許さぬ、許さぬぞ。私以外の者に敗北するのは決して認めぬ’


 一度、この闘争の傍観者となったアハゲヤだけは、再び現れた者に気がつくことができた。


 その柔軟な手足を後方へいっぱい伸ばし、近くの幹を捉えた。同時に近くの木々を巻き込むようにグルリと尾を回すとその先端で狼の胴に巻きついた。すると残った力で強引に狼を引き離す。アハゲヤは首を仰け反らせ、己の喉を何かに差し出すような姿勢をとった。体が震える。現れた者へ強く念を送る。


‘やはくしろ、’


夜空にかかる月がアトヤだけとなっていた。突風に乗って渡り来た一片の雲がアトヤを隠す。瞬転、長く延びた巨蛇の喉を縦一直線に輝線が走った。黄色く輝くレイワールの輝線。蔦と錐頭蛇は切断され、その反動でガウフは大きく宙に飛ばされた。一拍おいて黒いテラテラ輝く断面から飛沫が吹き出た。切断された錐頭の半身が二つヌルリと地に落ちた。ビクンッと空へ屹立するアハゲヤの目に再びアトヤの輝きが見えた。


 バランスを崩すとアハゲヤはドウっと地に伏した。


その瞳に映るのは月明かりの中、残心を残すアストム、逃げ出したはずのノエルタインであった。


片膝をついたままであったが、何かに勘付いたのかすっくと立ち上がり、息絶え絶えのアハゲヤに正対した。大蛇の肺が大きく膨らむと、低くゴロゴロとした声が血糊を含んだまま大気を震わせた。それと共にグレイズの脳裏に像が浮かぶ。妙に人臭い顔の蛇が形を成し、口を開いた。


「パナヤーナの血を引く者。冴えた太刀筋を見せた。よって我が名を知る事を許そう。我はワールの司、名をミメーメ・マワ階層家族と称する。死滅の司、ネウネロザ・ヌツ様の下僕にして奉仕者」


声が脳裏に響く間、グレイズは痺れたように身動きが取れなかった。意志の力で食いしばる歯を無理やり開けると、


「ミメーメ、貴様らは何を望む」


「魂塊の捕食。最も正当な闘争」

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