ポエル・ラウルの章ー2
日差しの中に現れたそれは、丸々と肥え太った鮟鱇であった。泥の塊をしたたらせながら、大きく丈夫そうな胸鰭は重い頭を支え、頭頂より延びる太い管を伸ばし先端部の瘤のようなものを口の脇から口中へ向ける。瘤がほぐれると先程の小魚の形を取り戻した。それが口内で眼にしたのは上下の顎へ深々と突き刺さる槍であった。へばりついている獲物も見えたがそれは後回しだ。
鮟鱇は頭頂より延びる管を槍の柄にぐるぐると巻き付けると、管が怒張する。鮟鱇もその巨体を空へ一直線に伸ばし、小刻みに震えながら力を込め口を開き上下の顎を繋ぎ止める槍を引き抜こうとする。槍はついにズブッ、刺さっていた石突きが抜けると同時に頭はのけ反るように後方へブンっと振られ、口内の獲物も飛んでいってしまった。反動で上下の顎は限界まで大きく開かれた。
その瞬間、頭の先端から尾の先まで強烈な衝撃が襲った。天からの落雷のごとき矢がアンコウの身体を貫いた。大きく開いた顎はバクンっと瞬時に閉じられ、口内の槍は再び深々と突き刺さりついに頭蓋骨を突き破ってしまった。その巨体は地中へ押し込まれたかと思った直後、ゆっくりと宙へ伸びきりそのまま時が止まった。静まり返ったこの庭に風がなびく。とその彫像は地へ倒れた。
池の水面にさざ波が伝わる。この小さな空間での出来事を一払いするように、またそよ風が通りすぎた。
しばらくすると、左肩を擦りながら大きく腕を回すマルパの姿が現れた。大きく横たわる魚体に近寄る。陽の光をヌメヌメと弾く黒い魚体は明らかに鮟鱇の特徴を示しているが、その大きさから始め体の各部分のサイズが桁外れだ。体幅はマルパの身長を遥かに越え、体長は人族の3倍はあろうか。
戦鎚を振りかぶり硬い頭部をゴン、ゴン、ドコン。先端に偽魚をつけた柄の根本も丹念に小突き回す。頭上で物音がし見上げると、樹上の男がロープを垂らしているところであった。
「ポエル様ぁ、やりましたなぁ。」
ポエルと呼ばれた男は微笑みを浮かべると
「うまそうな餌のおかげだな。」
ひげ面をにんまりさせると
「いやいや、ポエル様は物事の表裏をよくわきまえておられる。」
口許を引き締め真面目そうな表情を整えると
「膝の震えなど、なかなかできぬ胆の太さよ。」
言葉の矢でも的を外さぬようで、得たりとばかりに堪えきれなくなったマルパはゲラゲラと笑いだしてしまった。が、それも森の遠くから近づく集団の気配がするまでであった。遠方からこの様子を伺っていた物見が討伐の成功を知らせたのだろう手筈通りに小川を遡り、精霊官とお付きの者ども、森官たちが同時にこちらへ近づいている。
地の底深く身を潜ませるジアンコウは、振動に過敏であり多勢の気配を察知させては姿を決して現さない。ポエルの森の獣の忍び足を上回る隠密の技量と、マルパの己への注意を引きつける演技との合わせ技の勝利であった。
先に察知したのはポエルであった。小川の下流から近づく集団の気配へ向けていた顔を振り向かせる。森に栖まうすべての獣の頂点に君臨する獣の王は、厄介者のジアンコウを討伐した者を認めたようだ。精霊官たちの到着する前、何の気配も感じさせず既に使者は姿を現していた。ポエルが察知できたのは、相手が気配を消すことを止めたからだ。それほどにその存在は森の一部と化していた。白いふさ毛に覆われた直立の猿の姿は、知性輝く瞳を二人に向けていた。
空に夕日の色が混ざるころ、先の獲物は大枝から吊るされたロープの下で揺れている。
現れた精霊官、森官は互いにすべき事をわきまえ、てきぱきとそれぞれの仕事をこなしていた。森官の長は狩猟の女神にあやかり代々女性が務めている。波打つ髪をひとつに束ねそれこそ皆を手足のように動かしている女性が見える。獣王の使者との渡意式ははじめてのはずである。
ポエルは声をかけることにした。
「森官長ポアナ、森の実りと風の恵みを。」
「ラウル様、」
言葉を途切れさせると束ねた髪を手櫛で整え、服を払うと
「遅ればせながらとは存じますがようお戻りになられました。式典の折にはお会いする暇もなく存分な挨拶もできずに気に病んでおりました。その上、本来ならば森官長であるわたしからすべきところの此度の依頼、お引き受け頂き、また難なく討伐も終えられ、手際の良さに感服するばかりで御座います」
「長に任じられて間もないと聞いております。そんな些細なことは気になさらずともよい。これで挨拶も済んだはず。なに、お父上からの依頼のほうがこちらとしても気兼ねないというもの。それに娘に要らぬ借りを作らせたくないとの親心、感じ入らずにはいられません」
「そのように心遣い頂きありがとうございます。・・・ラウル様は本当に先代様のおっしゃっておられたような御仁でございますね。」
「おっと、なんと聞いていたのかは詮索すまい。」
大きめの前歯を白く輝かせ、目を細めるこの女性にポエルは安堵した。
「それにしても、皆はよく動いている。あなたを選んだ先代の目に狂いはなかった。」
「それは過分なお言葉。その実は頼りない私を皆でなんとか支えようとしている結果でございましょう。」
皆に“支えたい”と思わせていることこそあなたの資質ですよ、ポエルは心で呟く。
「なんじゃ色男、うちの娘になんぞ用か。」
ポエルは声のするほうへ顔を向けると、大きく破顔した。返答もせず大股でこの初老の男へ近づくと、力強く包容した。
「久しいの、ポエル。よう戻ってきた。無事でなにより。」
「・・・オポイ老こそ、お変わりになりませんな。」
ポエルは身を話すと、老人の肩を掴みしげしげと顔を眺めた。その眺める様子を老人も見ていた。以前より優しく、そして哀しい光を宿していた。
「そして、あそこでまるまって鍋のご機嫌をうかがっているイノシシは マルパであろう。」
しとめた獲物を城へ持ち帰る貯料衆から、脂ののった頭の肉を分けてもらえたマルパは喜び勇んで調理を始めるところであった。
「マルパ、オポイ老が来て下すったぞ」
「今大事なところで手が離せませぬ。後程極上の鍋を饗しますが、驚いて寿命が延びること請け合い、ご期待ください。」
「あまり寿命が延びると周りのものが困るであろうが、せっかくの心遣いじゃ、ありがたく頂こうかの。」
分厚い樹皮に囲まれた株の内側に明かりの漏れる天幕がある。夜風に紛れて鍋料理のよい香りが漂っている。ここタマラの森でこのように安楽を享受する贅沢ができるのは、何者も寄せ付けぬ獣王の使者が既に近く存在しているが故である。
簡易的に設られた食卓にアードラ族の四人、精霊白官オポイ、パルワ砦砦主ポエル、森官長ポアナ、ポエルの従者であり盟友のマルパが顔を揃えた。卓上には屋外とは思えぬジアンコウの揚げ物、焼き物、煮物、汁物などのフルコースが所狭しと並べられた。年長者であるオポイが口火を切る。
「まずは無事な討伐、祝着至極。お祝いとお礼とを申し上げたい。あやつは水場を巧妙に作り、近寄る物は何でも喰らってしまうからな、始末が悪い。それに不思議なくらい土臭くなくて美味とは、討ち取られてくれてありがたいことこの上なしじゃ」
これに応えてポエルは
「過分なお言葉、痛み入ります。見えぬ意図に乗せられた感は拭えませんが、それは言いますまい。使者を迎えまだ予断を許さぬところですが、今は美味そうな食事を楽しみましょう」
それに続いてポエルは長きに渡る不在をオポイに詫びた。
ポエルが長年に渡る放浪から帰郷して後、旧パロミラル伯王領南方にあるパルワ砦の小領主に収まるまでひと騒動あった事を知っていたオポイは、逆にポエルの労を労った。
「では、そちらのポアナ様を養女として迎えたのも私の不在が一因と言えるもの。どのように述べれば良いのか苦慮するところで御座います」
「もちろんお祝いを頂きたいな。元々は妹夫婦の家柄がゴパル家に近かったことが要因じゃ。当主のマプとわしはあまり知られておらぬようだが、昔から因縁があっての、渡りに船というわけよ。大巫女様のご采配でな」
「大巫女様はご健在で」
「不慮の事故でな、今頃はタマラの一部となり滑稽なこの世を眺めておられる事だろうて。今は天晶精霊院から直々に巫女が派遣され大巫女としてその座におわす。それが何とも読めぬ御人でな、まあこの話はここまでとしよう」
「ポアナ様、器をこちらに。わしが直々に美容を促す部位を見繕って差し上げましょう。己の上役が見目麗しいのは皆の働き甲斐になりますからな。しばらくお目にかからぬうちにお美しくなられ、まことに上々」
ポアナはさすがに人の束ねである、これに恐れいる風でもなく器を渡しながら
「お褒めに預かり光栄ですが、本人の居ない所で吹聴して頂けるともっと有難い」
一拍おいてその場に大笑いが起こった。ポエルはマルパの肩を叩いて
「一本取られたなマルパ、ポアナ殿の方が一枚上手だったようだ」
手の甲で涙を拭いながらマルパは
「まことに。ではこれからはせいぜい吹聴して回りまする。お役に立てれば上々」
「どうだうちの娘はポエル。惚れるなよ」
これにポエルは応えて、
「ははは、それはどうでしょうな」
本気とも冗談ともとれぬ顔をしてポエルはポアナを見つめた。ひとしきり笑い場が落ち着くと、再びマルパはお玉で鍋をかき混ぜながら
「もう13年も前になりますかポエル様、出立の前、精霊院にしばらく籠られましたな。」
「おう、そうそうわしも覚えておる。黒翼城城主のご子息のご尊顔を拝謁賜ったな。」
「お父様、またそのような物言いをされて。」
「なに、本人はいたって気にもせぬ質でな、かまわぬだろうよ。」
皆、器に顔を埋めているが笑いの波動が伝わる。ポエルは器の水面に毅然とした老女の顔を浮かべた。
「大巫女様のお呼び出しでな、しばらく竜洞で音を観ておった。」
ポエルの耳には甲冑の打ち合う音、鼻孔は竜の放つ蠱惑的な香りが思い出されていた。ポアナが怪訝そうな表情を浮かべると、耳のコラン石が鼓膜を直接振動させた。
[目に見えぬものを五感を通して吸い込み、己の体内で再構築し体感する、場の保有する記憶を再生する法よ。]
父の念達はまったく衰えを見せなかった。娘は焦点の会わぬ謝意の念達を送り返した。ポエルは大巫女様の色褪せぬ言葉を甦らせていた。
「ポエル・ラウル そなたの進む道の先に、そなたの希望は見えぬ。我が孫娘を支えとし、東の備えとなれ。」
確かに大巫女様の言葉は正しかった。長い捜索の旅を終え、帰ってきた時には既にポエルの居場所は無かった。
スープで髭を濡らしたオポイの口がもごもごと動く。
「大巫女様に孫娘がおありになったのを覚えておられるかな。」
そのきらめく瞳を思い出しながらポエルは答えた。
「ええ、大層ご聡明な方だそうで、そうアマル様とおっしゃいましたか。」
オポイ翁が何事か応じようとしたとき、傍らに控えていた若者がピクリと微かに反応した。従者のようには見えぬ力強い立ち居振舞いで老人に近づくと耳打ちした。
「どうやら、この者の識膜に変容があったようじゃ。大層な御使者がここへ遣わされたようじゃの。」