うねりの胎動ー2
「鼻から三つ大きく、口から七つはゆっくり」
意識せずにできるようになってきた。心の中にこのような状態が創り出せるとはピウィは思っても見なかった。静かな、鏡のように澄み切った心に微かな声が届く。しかし、わかっている。一度苦痛が始まればこれも荒れ狂う大波に変じてしまうと。その苦痛におののき、身構えている自分がはっきりと意識される。これは進歩と言えるだろうか。灼熱の鉄線が全身を駆け巡っているのか、という痛み。
黒竜メイラ・ゴーラルが、断ち切られた絆であるプーエム線の再結合を求め、ピウィの心に入り込んでくるのだ。その都度引き起こされる激痛に、ピウィは何度も打ちのめされ、意識を失った。もう幾日経ったのか。考えのまとまらない頭には時間の感覚が意識されなくなっていた。今はこの呼吸法に頼っている。藁をも掴む心持ちだ。今はもう何にでもすがりつきたい。
「3つ・・・7つ・・・・・」
ポエル父の声が遠くに聞こえる。聞き慣れたその声が安らぎを与えてくれた数十日前を思い出す。
気絶したようにぐっすりと眠った夜が明け(とは言っても明るくなりはしなかったが)ピウィはすっきりと目が覚めた。辺りを見渡すと、やはり金属柵に囲まれていたままだった。夢ではなかったようだ。ピウィの寝起きする東家の前に大小の岩が転がっている。と、そこから途切れ途切れに声が聞こえてきた。耳の感度が思ったように上げることができない。目を凝らすとそこに話し込んでいる3つの人影が見分けられた。
立ち上がろうとするが、バランスを崩し転んでしまう。その物音に気付いた人影は話をやめ、こちらへ来るようだ。始めに見分けられたのは、ずんぐりした体型のバロワ。長いローブに短マント、可笑しな角度に曲がった鍔広の尖り帽はルパール師だ。残る一人は・・・なんでこんな所に
「ポエル父さん」
身体にかけられていたブランケットを無意識に剥ぐと、父の太陽のような香りが漂った。
「ピウィ」
深い声が響いた。ピウィは鼻の奥がツンとするのと同時に、目頭に熱いものが湧き上がるのを感じた。慈愛のこもった眼差しで見つめたまま、ポエルはピウィの頭を力強く撫でた。偉かったな、とも辛かったな、とも何の言葉もかけられなかったが、ピウィは全てわかってもらえた、と感じた。
突然堰を切ったようにこれまでのことを話したくなったピウィだが、ポエルの教えは深くピウィに根を張っていた。呼吸を整える。そうするうちにルパール師とバロワが近づいてきた。
ポエルは両手でピウィの顔を挟むと
「すっかり元気になったようだな」
「うん。元気だけど、なんか変なんだ。体がうまく動かせない」
「ふむ。そういうものか。元気ならば、こちらへきて一緒に話そう。お前からも、これまで起こったことを聞いておきたいからな」
無言でポエルはピウィに背中を見せてしゃがみ込む。左右から二人に介助されポエルの背に乗せられた。ピウィは子供の頃の心地に帰った。兄弟姉妹達との隠れんぼでは、ワールの気配が全く無いないピウィはいつも見つけ出されなかった。いつか誰かが見つけてくれる、と信じながら疲れ果て眠りこけてしまっていた。陽の落ちた暗い森で、いつも見つけ出してくれたのはポエル父かポアナ母であった。帰りはいつも背負われていた。
何も聞こうとしない優しさが嬉しかったことを覚えている。岩の間と言われた場所に着くと、二人にゆっくり降ろされた。そこはちょうどよい座り心地の凹んだ岩の上であった。卓状の岩の上には、炒り豆茶と柑桃が人数分。炒り豆茶の香ばしい香りが漂う。がそれだけであろうか。何か心をくすぐるような芳しいものも感じられる。
一口飲んだルパールが、感に堪えないように
「この味、まさか竜芳」
と独り言のように呟く。
「豆に竜芳を炊き込んでいるからな。竜の香り、竜芳を嗅ぎながら炒り豆茶を嗜めば値知れず、と申してな。駆竜人の特権よ」
竜、今ポエル父は竜といったのか。ピウィは信じられないでいた。これが竜の香り。 馥郁たる、とはこういうものなのだろうか、とにかく深みのある温かみのある香りがした。
すっかり頭のすっきりしたピウィは、宝物を扱うように両手でカップを保つと、再び少しずつ啜る。
「どうだ、落ち着くだろう」
ポエルにそう尋ねられると、ピウィは力強く頷く。皆の気遣わしげな注目を感じると、安心させるようにあの事件のときまでの経緯を話し出した。
大橙の樹上で迎えた朝、マリーガ、浮遊樹、ガト、チョッキリ兵、オウ・インとの出会い、マレルマルマ、巨人アルウィード、そして青巫女パミラのこと。自分の脳領域で意識を閉じ込められ身体を乗っ取られたとき、内宇宙でおきた驚異的な体験。マノンで出会った2つの魂。ピウィは残らずすべて話していた。
ポエルはピウィの話を聞いている間、促すような相槌をうつのみであって、口を挟むようなことはしなかった。ルパールは小さな畜光石を乗せた手帳にメモを取っていた。バロワはというと、ピウィの話す物語の顛末が驚きに満ち溢れてるために、自身の考えは全く浮かばないようで、ひたすら聞き役に徹していた。ピウィは胸の内に溜まりすぎていたすべてを一気に吐き出してしまうと、ほっと一息ついた。
誰かに伝えることで自分がこれほど救われた気持ちになったのは初めてだった。ぼーっと床を見つめるピウィの前に、ポエルの手が竜芳茶を注ぎ入れた。
ピウィは両手でカップを持ち上げると、うまく動かぬ手で一口含み、飲み込んだ。味、香りだけでなく、魂にも届くかと思われほど、優しく体に染み渡る。すると一つ背中を大きく叩かれた。
「お前、どえらいことやってのけたな。うん、お前はやれるヤツだと思ってた」
ピウィはこんな物言いをするバロワが好きだ。お礼にニヤッと笑ってみせた。
そんな二人のやりとりを微笑ましく見守っていたルパールが
「ポエル様、どうやらこの子の歯車が」
「うむ、回り始めてしまったようです、ルパール殿」
ポエルの意図を汲み取ったルパールは小さく頷いた。
「そうなさいませ」
するとバロワが
「なんだ、オレ達は置いていかれてるみたいだぞ」
ポエルとルパールの笑い声の後に続いて
「そうだな、すまなかった。わかるように語って聞かせよう」
ポエルは皆に竜芳茶を勧めると、自身も一口喉を潤し、口を開いた。
「今回の出来事は、後で話をしようと考えている降星大戦と関係がある。
だが、まず、ルパール殿との話のことだ。ピウィ、ルパール殿がお前のワールがどういった状態なのか確認したとき、わかったことがあった。それは、お前のマノン(霊門)が誰かの手により、強力に封印されていたことだ。ただの封印ではない。極めて精緻に、そして巧妙に隠されていた。これほどの施術をされた者をこれまで知らないとルパール殿から伝えられ、また私もこれまで聞いたことはない。
それはお前が生まれる前から施されてた。嬰児であった頃から育てた私が言っているのだ、間違いない。ところが幼少期に差し掛かると、わずかながらお前はワールを使えるようになってきた。強力な封印を破って、ワールが漏れ出てきた、と今ならわかるのだがな。当時はウィーラが使えるようになって、家族で安心していたものだった。本当は危険な状態だったのだろう」
ここで、ピウィの表情に言いたげなものを感じ取ったポエルが促すと、ピウィは異界の門で出会った不思議な黒い獣の話をした。実はその時からワールを使えるようになったのだと」
「なるほど、しかしな、順番が逆だ。強力な封印を破るほどのワールの圧力、それは異界の門が吸い取ることでお前の体調異常は治まっていたわけだが、同時にお前の存在を異界の向こう側へ伝えることにもなっていたのだよ。その獣から直接聞いたのだから間違いない。お前のワールに惹かれてその獣はお前を探し当てた。ひとまず、その獣の話は置いておこう。
お前の中に聳えるマノンは、強大なワールを引き出してもびくともせぬ強度を持っている。ルパール殿は実に良いタイミングで現れ、異界の門の効果を使いながらワールの漏れを調節し、減圧をしてくれた。が、それは同時に封印を緩めることとなってしまったようだ。先の出来事で、お前の封印は完全に解かれ、本来のマノンを取り戻した。マノンを封印するだけならば、あれほど精巧なものは不要だったはず。つまり胎児であったお前にどんなことがあろうと、一切マノンが開かないようにしなければならなかった理由がある、と考えた。
ルパール殿と見解が一致したのは、この封印はマノンだけでなくお前の運命をも一時的に封印していたのではないか、ということだ。封印が解かれるとき、止まっていたお前の運命の歯車が動き出すのであろう、と覚悟はしていた。そこまでのことはルパール殿にも伝え置いた。それは、実際に起こったようだ。ワールが使えぬままであれば、それ相応の一生があろう。お前は図らずも舞台に登ってしまった。それならば、知っている限りを伝えなければならない義務が、私にはある。ここからのことはルパール殿にも伝えていない。
さて、まずお前を取り囲む光の霧。どうやらマノンの封印が解かれると同時に、断たれていたプーエム線が再び結ばれようとしているようだ」
これに関してはルパールも虚をつかれたようで、言葉を抑えられなかった。
「プーエム線。黒竜と黒竜騎士とを結ぶ、あのプーエム線ですか」
「そうです。そのプーエム線です」
「では、あなたは遂に黒竜を見つけたのですね」
ポエルは無言で深くうなずいた。
「膨大な時間と、労力、資金、そしてなにより大切な同胞を失い、実に遠回りした末に見つけました。
この緑塔市の地下、正にこの場所に黒竜は眠っていたのです」
この場にいた者は、全く言葉を失った。
その頃、遠く離れたタマラの森で、また違う物語が始まろうとしていた。