サクラアゲハの頃-17
ピウィは反射的にパミラの手を離したのだが、その前に結束ワールに連なっていた者は皆、後ろへと吹き飛ばされていた。おかげでワールの接続は強制的に断ち切られ、ピウィの意識に何が起こったのか知る者はなかった。
ピウィに起こった変化は、ワールの使い過ぎた者に起こるマノンの閉門症状と似ていた。ズルーキと共に横たえられたピウィは爛々と瞳を輝かせたまま大の字に横たわり、少年の意識は身体の統率を失い、脳内の片隅に閉じ込められた。
拳から発したうねる黒線は爆発的に伸び広がる。その様子とは対照的だった巨人の瞳に、異様な輝きが灯る。己に起こりつつある変化を味わっているのか、拳をひねりながら眺めるその口元に微笑みが浮かぶ。ワールに敏感な青巫女パミラでなくとも、この変様に気付かぬ者はいなかった。取り囲むエメルタイン8機は、迂闊に踏み込めぬ気圧がアルウィードを包むのを感じ、見守ることしかできずにいる。
「時は来た」
戦斧を握った右手は輝く白銀に染まり、それを突き出しながら
「オウ・イン。お前が封じた我が力、返してもらうぞ」
右手に現れた白銀は、今やはっきりと鎧籠手の形を成していた。どういう物質から成るのかそれは巨人の身体にピタリとしなやかに添っている。これを目にした者は、一つの認識を共有した。巨人がこれまで見せた圧倒的な力が、封じられていたものなら、解放された力とはいったい。
ミュウィルドに絡みついていた黒線がフワリと宙に消えた。レイワールの高まりが戦斧の刃を白く輝かせる。
パミラは両手を大きく広げ、モセナと巨人の間に決然と立ちはだかった。その瞳は強い光を放ち、何者にも屈せぬ堅い意志が込められていた。これがこの場の呪縛を解いた。グワルパ、ルイテモンの8機はそれぞれが呼応しているかのよう、一糸乱れぬ動きをとった。
先刻ミール・タイナから多少の悪意を持って射出された念信は、雷鳴の頭鎧をガンガンと響かせてミナルに届いた。いくら竜人といえどそれほどの距離から詳細を確認できまい、と内容はこの場のだれにも伝えていなかった。が、変化が起こったその姿は古書に描かれていたままであった。そして警戒すべき変化は既に起こってしまった。
「災厄の巨人アルウィード」
いつの間にかミナルは僚機に念信を繋いだまま呟いた。
雷のような衝撃が皆の脳髄を打った。何者の襲撃から青巫女を守らねばならぬのか、判然としなかった五里霧中の状態から、衝撃の落雷で払拭されたはいいが、視界が開けたらいきなり巨獣の眼前に放り出されたような状態へと変わった。
ミナルの呟きに7機の間に緊張が走る。1000年前の大戦で広大な地に被害をもたらし、数多の英雄を打ち倒した強大な敵将、アルウィード。その名は伝説として遠くの地まで知れ渡っている。
ミナル、アロータは牛車の床へ飛び上がりざま巨人の眼前へ、ユリナス、イフィヨラがその後方、水晶座の前へ、コルナ、ニヨニの小型エメルタインが巨人の背後へまわる。そこへオグストの撃錐とオトネの投槍器が打ち出す高速の短槍が地上から巨人へ放たれた。
牛車の両側から飛翔体は狙い違わずアルウィードの左右の膝を直撃した。が、それは持てる運動エネルギーを即座に失い、巨人の足元へゴトリと落ちた。放った2機のレンズに映ったのは巨人の皮膚に浮かぶ暗い円形の紋。そしてそれは再びすっと消え失せた。この強烈な一撃をまったく気にもかけない様子で巨人は左手を振り上げると、ふっと前に向かって振り出した。巻き付くように腕を飾っていたのは薄金色の腕輪ではない、それは腕の太さに似つかわしくない細く繊細な鎖であった。キラキラと光の粒を振りまきながら、瀕死のエメルタインに向かう。
意識なくぐったりと横たわっていたピウィの腕が跳ね上がり、竜槍は横なぎに鎖を払う。しかし、鎖の払われた部分はクニャリと曲がり、先端は狙いを違えずズルーキに向かう。が、1機のエメルタインがそれを阻む。重い金属同士の激突音。盾だ。大きな盾を捧げたエメルタインがしかし後方へ弾き飛ばされるのをパミラは見上げた。
盾に弾かれた鎖は、一度は上へ軌道を変えたのも束の間、弧を描いて再び瀕死のズルーキへ向かう。弾き飛ばされたはずのエメルタインはピタリと動きを止めた。もう1機のエメルタインがさらに控えていた。盾のエメルタインを片手で支えると、左手の長いメイスできらめく鎖の端を強烈に薙ぎ払った。この間、残る4機の同時攻撃は始まっていた。念信が交錯する。
「コルナ」「ニヨニ」「脚」
アロータの白槍は巨人の股関節を狙い繰り出され、ミナルはその後ろから頸に対甲手裏剣を打った。コルナの打衝棍が巨人の大きな左膝裏に触れると同時に、空中の棍の中を爆発的な勢いで錘が移動し、接触点に衝撃を与えた。
短重斧の柄を引き延ばしニヨニが持てるすべてを込めた一撃を右膝へ。それぞれが十分にレイワールを乗せた必殺の一撃であった。4つの打点に浮かんだのはあの円紋。4機は己の与えた打撃が全て飲み込まれ無効にされたのを感じた。巨人の拳を覆い始めていた白銀の装甲は、今や全身に広がっていた。
巨人の細鎖は引き戻され、大型船の錨ほどの質量をもって背後の2機にぶつかると、はるか後ろへ吹き飛ばす。続けざま巨大な戦斧が残像を残してアロータへ振り下ろされる。が、すでにアロータのロワーリンは姿勢を低め、その斧とロワーリンの間へ二振の短刀、黒雷、紫雷が出現する。巨人の振り下ろすミュウィルドを轟音と共に弾き返すと、雷鳴も立ったままの姿で床の上を後方へ弾かれ滑った。
細鎖は再び引き戻され、床からうねりながらロワーリンの足元に忍び寄りがんじがらめに縛り上げると同時に、その重量ある機体を強引に引き寄せた。戦斧が再び振り下ろされるのをミナルは見た。間に合わない。時は伸び始め、全ての動きは速さを失う。己の体が疎ましいほど重い。オーグよ、動け、雷鳴を動かせ・・・おのれの思考が空回りするのをむなしく自覚したその時ミナルの視界に動きが現れた。
この間延びした空間を一筋の光線が貫ぬこうとしている。このすべてがひどく鈍い動きを見せる中にあって、その線だけが全く普通の時の世界を動いていた。輝線は吸い込まれるよう巨人の右肩、腕の付け根に突き立った。ミナルの時が動き出す。輝きがスッと引くとそこにあったのは小さな小さな矢であった。アロータに免れない死を与えようとしていた戦斧は、力なくゆっくりと下がって行く。驚いたミナルは振り返り、パミラはピウィの顔を横から覗き込む。巨人を睨む少年の瞳は何とも表すことのできない不思議な輝きを灯し、しかし口元は荒々しく獰猛な笑いを浮かべていた。そこはかとない麝香のような香りをパミラは感じた。弓を速やかに収めると、溢れるレイワールに包まれた竜槍を、下段に構えたピウィの口から
「平穏を、アルウェイの領主」
小さくほどんど囁くようなつぶやきが漏れた。
これはピウィではない、と咄嗟にパミラは直感した。すると背後からエメルタインの外部音声が響く
「アロータ様ぁー」
巨人は金鎖で捕らえたロワーリンを高々と持ち上げていた。鎖の先端はエメルタインの頭部にギリギリと巻きつき締め上げると、破壊音とともに兜は外れ美しいアロータの頭部が顕となった。
「うろたえるな、イフィヨラ。私は大丈夫だ」
この言葉とともに七機に念信が届く。
『懸待』
敵に懸かるでもなく待つでもない状態を保つ。急変に備えよ、という指示。
その指示が終わるや否や、閉ざされたアロータの目がカッと開かれると、ロワーリンは高速で回転し鎖の呪縛から解き放たれた。落とした白槍を拾い上げると素早く巨人から距離をとる。アルウィードはすでに興味を失ったかのごとく、逃げた獲物に一瞥もくれずその後ろに控える少年を見据えた。
「小僧、その力、お前のものではあるまい。だれぞ中におるか」
無敵を誇った己の体に矢を突き立てられたのが巨人の怒りを掻き立てたのか、言葉尻に平静さを欠いている。
「この地に集う宿命の糸がもつれ合う結節点、それを見極めんと訪れてみたが、思いの外見えてきた。小僧の中に知ったものがおるな・・・竜か、・・・そして女か。我を阻む者が出揃ったか」
両の手をぎゅっと握り締め、パミラは巨人を睨む。多くの者が命を賭して自分を守ろうとしている。それを止める力が無い事に己の魂が震える。
『怯むな』
パミラは己を叱咤した。
「畏れを知らぬ者、調和の流れはあなたに逆風となりました」
パミラの文字に表したような声が空気を震わせる。
「アードラの巫女よ、お主は後だ。禍根は残さず刈り取る」
「思わぬ痛手を受けて、自尊心が傷付きましたか。狙うのなら、わたしの命だけにしなさい」
パミラの言葉はみごと、巨人の意識の矢印の多くを向けさせこの場の多くの者に動く余地を増やした。
(いけないパミラ)
自分自身の内部に別の存在を感じてから、強引に小さく押し込められ、思考というものが全く働かなかったピウィ。それがパミラの声を聞いた途端に小さな隙間ができ、考える力が身じろぎした。
「若き巫女、よい心がけです」
ピウィは自分の口から思ってもいない言葉が流れ出るのを、不思議な気持ちで見守った。
「いずれにせよ、アスペガルドは今ここでその生を終える」
この言葉に巨人アルウィードは大きく目を見開いた。
「貴ぃ様ぁ・・・パルアナァァ・・」
地が割れ、天が裂けるとはこのことか、これほどの怒号はかつてあっただろうか。巨人の肩の矢は抜け、巨大な戦斧は唸りを上げて宙を裂き、ピウィへと向かった。