サクラアゲハの頃-11
マレルマルマの煌めく腕は、タマラの森の一角を覆いつつあった。極度に細められた触手は、しなやかにして強靭に先端に繋がる無数のガナを繋ぎ止め従える。虚空魚達は操られていると感じてもいない。ただ、内から湧き上がる衝動のままに行動するのみであった。ガナたちが吊り下げているのは丸くて軽い綿の塊。それが何とも言えぬ甘く酸っぱい香りを森に振りまいていた。同じ作業を与えられた数十のガナ達が、浮遊樹を中心に10ロイグ(12㎞)に渡って散らばっていた。
熟れすぎた柑橘類の香り。熟成、発酵した大橙の実だけが放つ事の出来る、極上の天然酢。このタマラの森において、この香りが放たれいる最中は大変危険な時間帯である。先ず気がついたのは巨大な巣の門番であった。天より降り注ぐ微かな香り。まだ時期ではない、という違和感は沸き上がるものの、馥郁たる香りがもたらす興奮の前に疑念は掻き消された。門番は狂ったように巣に叫ぶ。
「キチチチッ、ギチギチギチッ!」
巣の出口には数瞬のうちに数百の生物に埋め尽くされた。濃いオレンジの地に凶悪に踊る黒いストライプ。大王蜂の獰猛な群が、今狂い始めようとしていた。1個体が人族の顔ほどもある蜂、その大群は香りの源に向け真一文字に飛び立った。
ホテル・ロンターノの向かいにあるホテル最上階の食堂は、好奇心に駆られた人々で埋まっていた。その姿を最初に見つけたのはホテルに宿泊する女の子であった。
その子が目にしたのは、一つの人影がコードを引っ張りながらロンターノの高い塔を尋常ではない速さで登っているの姿であった。
それを周りの子供たちに知らせると、大勢の子供たち、そして大人たちも集まってその行動を見守った。その人影はさらにその先に伸びるの避雷針の先端付近の小さな輪のうえに立った。今、強い風が吹き避雷針は大きく揺られ、見守る人々は大きく息を飲んだ。が、落ち着き払ったその姿から、まるで気にも留めないようすが伺えた。
竜人サーリマシューラは、揺れる避雷針に身を委ね、ひとしきり辺りを見回す。ほっそりとした顎のライン、潤みを帯びた円な瞳、意志の強そうな口元、一見すると美貌と強さを兼ね備えた人族である。が一つに束ねた銀色の羽毛髪を見れば、恐竜人の上位種族、世に名高い竜人族の女性であると一目でわかる。槍に巻いた赤い布が風に踊っている。避雷針に巻きつけた腕は、望遠鏡を捧げ持っている。このホテルがロンドロー随一の高さを誇る伝書塔を有していたのは幸いだった。
何かを感じ取ったのか、東の空に望遠鏡を向ける。竜人族の眼は余人の及ばぬ長距離を探っていた。微調節のため接眼部分を細かく捻っている。これだけ遠距離を探ると、焦点の合わせが極度に難しいのだが、風に煽られながら器用に任務を果たしていた。
『情報局から得た今回の襲撃予測は、やはりガセネタだったのではないか。政局の中心からレイサ様を遠ざけるため、ただ踊らされただけではないか』
心から離れない疑念に竜人は囚われていた。これほど広範囲に探って見当たらない、という事は青巫女行列がロンドローを通過中に襲撃することはできないはずだ。駆け巡る疑念に気を取られ、何の異変も見つけられぬまましばらく時を過ごした。
竜人族の本能がわずかな変化に反応した。空に浮かぶ雲の小さな一部が微かに揺れた。その一点のみを凝視する。白く輝く雲がその一点だけモヤモヤと蠢いていた。竜人にはこれだけで十分であった。
『ぬかった。鏡面反射か。浮魚の群れの迷彩とは。この距離になるまで気付かないとはレイサ様に申し開きもできない』
竜人が目にした物体は、ぐんぐんと街までの距離を詰めて来る。
竜人は最近身に付けた人族らしい癖、『チッ』と舌打ちを一つすると受話器を手に取り、有線による『念信』を開始した。
屋上からの念信を受け、ホテル・ロンターノの一室でレイサの凛とした声が、ざわめきを貫く。
「状況は」
緊迫した音は一粒も含まず、ゆるぎない声であった。
広い宴会場を埋めているのは、このホテル滞在中の地区の名士、貴族である。各ホテルでも同じ体制をとらせ、ホテル間の通話回線は確保された。状況説明のため集められた紳士、淑女らの浮足立った心持ちが少々おさまったのか、ざわめく声も落ちた。
突然現れて、次々を指示を出す女性に対し、罵声怒号を張っていた人々もレイサの素性、天晶精霊院 天巫女の信任状を知るに及んで、不平をつぶやく者は皆無となった。
竜人からの報告を受けると、レイサはオーグを展開し拡声器に触れた。広間に拡声版から澄んだ声が広がる。
「不明浮遊体が飛来侵入しています。何者かによる襲撃と思われます。皆様を厳重な警護下に置くため、隣室へ移動願います」
この状況を受け街に設置された拡声器から、緊急避難指示が出されるとロンターノ広場は混乱の坩堝となった。竜人が浮遊物体を発見してから急速に速度を上げたのか、浮遊樹は間をおかずにロンドロー上空に姿を現した。高高度に突如現れた浮遊樹は、船尾から碇を投下すると、それは環道に立ち並ぶ太い街路樹を捉え、浮遊樹は速度とともにグググっと急速に高度を落とした。十分に高度を落とすと、それから楔の付いたワイヤーを八方へ打ち下ろし、ガシリと街の上空に固定された。浮遊樹から四方へ伸びるカタパルトは、次々と樽を射出し始めた。樽は建物の上空で轟音とともに爆発をくりかえす。飛び散るゲル状の物質は街全体に飛び散り、あらゆる場所に付着した。
壁を埋める街の略図は、地区担当の行政官の賜物である。現状を表す付箋が張られては、剥がされてゆく。
レイサの部下と街の行政官はうまく機能している。配置した情報収集担当から逐次報告が入る。
「東西門は降下した黒チョッキリ兵が制圧した後、気従機工兵により新たな門が設置されたもよう。浮遊樹から散布されたゲル状物質は、大橙を発酵処理した酢酸のようです」
レイサの横に立つ補佐官の一人が
「郊外に展開中のダフルドを呼び込ませないつもりか。」
気従機ダフルドは、メルタイン、エメルタインなどの操甲体とは姿、機能が大きく異なる。上部を平らに切り取ったドングリのような機体に砲身を載せた地精族の掘削用気従機である。砲身はアタッチメント式で用途により使い分ける。常には掘削用の射出杭を砲身から打ち出すのだが、戦闘ともなればそれは砲弾に変えられる。
「ダフルドの射程なら浮遊樹に届くでしょう。浮遊樹の樽を投下している射出カタパルト、船体を固定しているワイヤーの破壊を優先させなさい。それから門を突破させて市街地戦に投入」
「散布されている果実酢は大王蜂を誘引するためと思われますが、臭いに誘われて大王蜂が襲来するには時間がかかるはず。作戦としてはいささか悠長過ぎると・・」
その時、避雷針に掴まりながら揺れる竜人は、風音に遮られてよく聞こえないが、独り言を呟いているように報告を入れた。
「伝書塔より念信。北北西より大王蜂群体4接近中、先頭群規模レベル3が1、距離2ロイグ(2.4㎞)、続いてレベル2が2、その後方・・・レベル4が1」
「では、その悠長さを飛ばす方法を相手方が考えたのでしょう」
室内で対策にあたる係官たちが大きくどよめいた。この街がこれまでに体験したことのない規模の大王蜂の襲来だ。どこからともなくつぶやきが漏れる。「これはもう未曾有の災害だ」
一人の情報官が宴会場の扉を勢いよく開けると更なる知らせを室内に響かせる。
「ロンターノ広場より伝書燕竜。ミナル隊、ルイモンテ衛士団、ともに交戦状態。属籍不明の甲虫兵、音操兵。黒チョッキリ兵約20、音操兵20、灰色チョッキリ兵3、音操兵3を確認。お待ちください。伝書塔より追伸。了解。浮遊樹より降下中の甲虫兵1、音操兵1あり」
ビュッ・・・ビュビュビュッキィヨワーン!
チョッキリ兵の折り畳まれた左右の前肢が高速で打ち出され、続けざまに眼前をすり抜ける。ミナルのエメルタイン“雷鳴”はその運動性能を遺憾無く発揮し、切れ目のない攻撃を最小限の動きでかわしつつ、常に踏み込める間合いを保つ。
甲中兵の意識に苛立ちの目盛りが上昇し、知らずに熱くなる攻めを見逃さず、視界の外からユリナスのロングメイスが甲虫の頭上を襲う。大きな質量の鋼球は長い柄により存分な運動エネルギーを与えられ、正確にチョッキリ兵の複眼を狙う。
その時、後ろに控えた音操兵がチョッキリ兵の反射神経を刺激する。
パチッ!
黒チョッキリの左手の打斧が瞬間的に持ち上がり、ユリナスの強烈な鉄球の一撃を弾き返した。が無理な姿勢からの防御でバランスが崩れた。それを待ち受けたミナルが甲虫兵の右側頭部に左の短刀”黒雷”を打ち込む。敵は頭を振り額金で受けようとする。よく訓練されているが遅い。
刃に硬度と靱性を兼ね備えさせるワール“レイワール”を帯びた黒雷の一撃は並みの装甲を切り裂く。が、一瞬速く音操兵の放った重銃弾がミナルのエメルタイン”雷鳴”の左腕をかすめた。ミナルのオーグは突如発生した運動エネルギーを感知していたが、隙を見せた眼前の敵に気を取られすぎ反応が遅れた。レイワールの制御の狂った短刀は黒チョッキリの右眼を潰した。一瞬の攻防。双方は素早く距離を置く。