サクラアゲハの頃-10
巨人はガトの存在を忘れたかのように、前方へ向けて独言している。
ピウィの敏感な耳が男の呟きを捕らえた。
「うねりに呑まれた者ども、その顔を見せるがよい」
低く優雅なその声は、耳にする者を魅了する。そして粗雑な丸太椅子でさえ、この巨人が座ることで見事な細工を施された家具に見えてしまう。
その優雅さに加え、全てが大きい。
圧倒的な存在感で辺りの者が霞んでしまう。熱気の嵐が身体から放出され、ピウィは強風に吹かれているように感じた。低く、透明感のある声がピウィの身体に響いた。
「さて、ガト。全ての事象に兆しがあるという其方の国の風習では、この小さな客人をどう見る」
ピウィは辺りを見回した。昔からパロミラル伯王領周辺で使われるのは、戦闘用メルタインの中では下級機であるダープ級『コンカース』、さらにその下級機の作業用兼戦闘『ズバルク』の2つがある。がピウィの目の前に立ち並ぶのはずんぐりと背の低いメルタイン。頭鎧部にはいくつもの穴が開いていた。
たぶんこれが虫兵を操る音操兵のメルタインなのであろう。その中にあってスラリと体型の整ったエメルタインと見える操甲体が巨人に近づき膝まづいた。頭鎧を跳ね上げ、現れたのは間違いなくちょび髭のあのガトであった。明るい日差しの中で見ると、ひどく髪がくるくるの巻いているのがわかる。
ガトは隣りに立つピウィの左腕にしがみつく小さな虫兵へ一瞥を投げると
「まず、授けていただいた護衛虫を奪われたことにお詫びを申し上げるとともに、わたくしが本来捕らえるべき侵入者を難無く捕縛していただいたことにお礼を申し上げます。私の愚見を申し上げますれば、これは吉兆と存じます」
ガトは後ろを振り返ると
「兆伝官」
そう呼んだ。音操兵の群れの中から奇怪な操甲体が現れた。頭部からウネウネと宙を漂う鋼線が幾つも伸び、全く戦闘力をもつとは思えぬ細い機体が舞うように、滑るように進み出た。
「兆しを読む事をもっぱらとしております、兆伝官でござりまする。兆伝官だけが兆しを読むことを許されております。始めろ」
「天上天下地上地下、あまねく兆しの流れるところ、糸と意図の結い合わせ、縁の統率神のお示しに従うのみ。このアードラの者が引き寄せた縁の糸と、この先へ送り出す糸とを解しまする。青巫女となるパミラ・レヴィアはアードラの娘。同族の者を捕らえたことはアルウィード様がこの場の時流を捉えている兆しと解します。巫女供がいくら抗おうと、青巫女なる者があの世へと旅立つのは免れません。哀れな娘を一人で旅路へ送り出すは寂しかろうと、縁の統率神はアードラの娘に付き添いをもたらしました。しかし、油断めさるな。得体の知れない何者かがこの者に潜んでおる兆しが見えまする」
パミラ。パミラ・レヴィア。これが記憶の発火点となり、ピウィの脳裏にいくつもの場面が鮮明に瞬いた。桃色の夕陽、染まる雲が流れる、遠目から一眼しか見かけたことがなかったが不思議なほど覚えている。あの少女が命を狙われている、と知った途端思いもしなかったほどの怒りの激流が少年の心に湧き上がった。自分の置かれた状況を顧みもせず、腹の底から絞り出すように、そして静かに
「お前たち、あの子を殺そうとしてるのか」
ゴンっ! 「黙れ、小僧」
ピウィの言葉が終わる前に、エメルタインの金属の指がピウィの頭を弾いてきた。アルウィードと呼ばれた巨人が手で制止しながら
「奇縁が招いた客人だ、粗略に扱うまい」
巨人はピウィを見ると
「失礼をした。小さな種族であっても言う言葉はあるようだな。最後まで聞かせてもらおう」
両手は動かせないので頭をさすれない。くらくらする頭を振りながらいつしか読み覚えた
言葉が自然と流れでた。
「人の命の断ち口は、心底を破る錘の出口になるぞ」
ポエル父が教訓として書き記してくれた手紙の一文である。人の命を絶つ行為は、同時に命を絶った者の心に重い痼を残し、終いには人の心を狂わせる。
「ほう、中々に重みのある言い回し。経験豊かな者の言葉と見受けるが、それを口に出したお前が露ほども分かっておらぬ。わたしがこれまでどれほどの種族を根絶してきたか想像もできまい。借り物の言葉は風の囁きと変わらぬ。気概は買ってやるが、さきほどより全く貧弱なワールしか見せぬではないか。口先の言葉だけでは私を止めるなど、片腹痛いわ」
しかし、この少年の燃える瞳に何がしか感慨を覚えたのか、一間置いてから
「そうだ、お前の名を聞いておいてやろう。お前の命を絶った後、底を無くした私の心に何か積もるか試そう。」
「お前に聞かせる名などない」
「そうか、私の名はアルウィード。命の収穫者だ」
興味をなくしたように前に向き直った。なぜこの小さな存在に感情の畝りを起こしたのか理解しかねたのは、アルウィードだけでなくガトもであった。それに対して再び少年の心には猛烈な怒りの炎が渦巻いたが、それが表に出る前に何かに抑え込まれた。何かが心に手を伸ばしている。そう感じた。一つ、いや二つの存在が少年の感情を押さえ込んだ。その何かを感じ取ったのか、アルウィードが訝しげにゆっくりとこちらを振り返る。既に少年に接触してきた手は消えていた。微妙な空気が空間を占めつつあるそのとき、それに取って代わったのは大声であった。
「ガートー様ぁー、えー・・」
「あーわかっている、ポーガス!さっさと始めろ」
「了解ぃぃぃ」