サクラアゲハの頃ー9
滑らかに削り取られた縦穴に、追手から逃げ回り追い詰められ飛び込んだ少年は、それに続いて自分の背後から飛び込んだ光沢を持つ飛翔物には気付かなかった。
飛び込んでわかったが、木の内部は綺麗にくり抜かれていた。間違いなく何かの生物が生活していたのだろう。
大きく曲がっている部分があり、立って休めるのがありがたい。先がみえないが何処かへは通じているようだ。先程から風が吹き上げてくる。大きく外界へ繋がっているのは間違いない。
手にする槍の穂先は柄から金菅に収まっている。十分とは言えないがワールが使える今は、瞬時に穂先を現すことができる。
この先何が待ち受けているか分からない。どんな状況でも対応できるように整えておくべきだ。ウィーラの修理を先延ばしにしたことが悔やまれる。その時できることはできる限りやっておく。少年は一つ学んだ。
穴は音の反響を届けてくれないが、空間が狭い方が異変に気付き易い。とれる手段が少ないので心もとないが。とにかく穴を降りるしか方法が思い浮かばない。そうこうするうちにあたりが何となく明るくなって来たようだ。すると何かが意識に触ってきた。それはしきりに少年の警戒心を刺激する。突然少年はピタリと動きを止めた。顔を真下に向けて耳を立てる。
木肌を振動させない音。滑るように進んでくる音が下から迫っている。危険を感じて上を見上げた。暗闇で微かな光を反射する複眼が二つ降りてきていた。まずい。
その時、少年の身体、降りて来る虫兵、下から迫り来る謎の音は止まった。意識だけがこの世界から切り離されて浮遊している。どうなったんだ、何が起こった?意識だけが空回りする。
時間は止まり、この場に固定されてしまった少年の目の前に、それはゆっくりと降りて来た。
細長い菱形の胴体の左右から、これまた菱形の翼が生えている。その翼が次第に輝きを増し、それぞれの中央に光点が現れた。そう見えたのは少年だけであり、実世界では菱形の鉱物のような物体が宙に浮いているだけである。穏やかな光を放ちつつそれは生物の眼球となり、目の縁取りをとることで人の目であることがわかった。不思議な目だ。瞳が異様に大きく、よく見れば四つほどの瞳が合わさり一つの瞳をなしているようだ。
こちらをしげしげと眺め、得心がいったのか、次第に顔があらわとなった。老人だ。ふさふさとした眉毛は顔の脇に垂れ下がり、鼻は高い位置で折れ曲がっていた。遠くを見通すような表情は少し疲れているようだった。そして全身が現れた。金糸の縁取りが施された濃紺のローブをゆったりと纏った背の高い老人であった。
「我の名はオウ・イン。時と空間の虜囚にして気儘な魔道士。ラウェルーンの血を受け継ぐピウィ・ラウェルーンよ、これからそなたは異界の生物、マレルマルマに捕らえられる。抗う事は無益ゆえ、連れ行く先まで泰然としておれ。そしてその弓、槍は永き眠りより目覚め、おぬしを主と認めたようだ。特別な能力を秘めておるゆえ、軽々い扱うことないよう。心せよ、時の輪は再び回り始めた。うねりに呑み込まれず、乗り越え、我が元へ・・・」
現れたときと同じく老人は突然消え失せた。再び時間が動き出す。
なんだ、なんなんだ。一方的に言いたいことだけ言って消えてしまうなんて。それに名前を間違えているとは、賢者の風貌にして、なんともおっちょこちょいじゃないか、とピウィは思った。
自分の名前はピウィ・ラウルだ。あの偉大なラウェルーンとは何の関係もない。と、一瞬にして様々な感情が湧き上がったのだが、なぜかあの不思議な瞳を見た後では言われたことを素直に受け入れようと思った。ラウェルーンの名を聞いたときは少し首を傾げたくなったが、もしかしたら傍流の傍流、その端くれには入るのかもしれない。
ピウィはしっかりと槍を握り直し、背中の弓を振り返った。こんな自分を待っていてくれたなんて不思議な気持ちになったがこの二つが急に頼もしく思えた。よし、何が来ようとかまわない。
迫って来るのは何かの触手らしい。どうやら上から来るチョッキリ兵は、標的者が上に逃れようとするのを妨げる役らしい。こちらが動かない限り迫って来ようとしなかった。
縦穴が下方から明るくなって来た。それはキラキラと輝く小さな星が散りばめられた半透明な触手の束であった。本体から送られてくるのか、光を先端まで伝えている。捕らえ対象をどう感知したのか、花が開くようにパッと開くと一気にピウィを包み捕らえた。きつく締め付けられている訳ではなく苦しくはないが、しっかりと巻き付かれ微動だにできない。
槍を離さないようぎゅっと握る。どうなるのか見当もつかないが、気構えだけはこれから起こる事に備えた。触手はピウィを包み込んだまま、うねる穴を面白いように素早く抜けた。
ピウィが思っていた通りの空間が現れた。予想通り広い、かなり広い空間だった。ここは浮遊樹の先端のようだ。前方にある地上がよく見渡せた。既に巫女様の行列の最後尾に差し掛かっている。見渡せる人々全員が驚きの顔でこちらを茫然と眺めていた。
そして触手の本体が長々と横たわっているのが見えた。綺麗な空色をした軟体動物、ルパール師の蔵書にある生物事典で見かけたイカに似ている。だがその色、大きさ、そして何よりも触手の数が圧倒的に違う。
これがあの老人から伝えられたマレルマルマか。確かにこのような生物は見た事も聞いた事もない。こう考えているうちにも、どんどんその本体へと近づいていた。大きい。多分20ロピテ(1ロピテ=10ピテ=105cm)はあろうか。無数の触手が前方にも伸びていて消えていっている。
消え失せたその先に、地上の光景を歪めて映すガナの群れ。このお化けイカがガナたちを捕らえている正体だった。横には丸太の椅子があり、ひとりの男がこの珍妙なイカを優しく撫でている姿が見える。
身に纏うのは服なのか鎧なのか。よほど身体をきつく覆っているようであり、その身体つきがくっきりと浮き出ている。そして要所要所には装甲が張り付いているように見える。
太く長い首、盛り上がる肩から伸びる逞しい腕、引き締まった腰、波打つ広背筋。左耳の下半分は欠落しており、耳の下半分の形を模した金の耳飾りでそれを補っていた。斜め後ろから口が動いているのが伺える。
この角度からだけでもこの男の有する造形の美は明らかであった。部屋を埋め尽くす無数の操甲体、その中の誰かに話しかけているようだ。それにしても操甲体としてはやけに小さい。自分と同じアードラ族用に作られた操甲体なのであろうか。
大イカは過剰なほど少年を気遣ってくれているようで、触手の巻き締めは程よく、下降速度はゆっくりとしていた。ピウィの下降は続き、小さくずんぐりした操甲体の集団の中に1機、頭ひとつ抜きん出た盾を背にするエメルタインが見えるようになった。椅子の男は、このエメルタインと話をしているようだ。
エメルタインから発せられる声を聞き取ったピウィは、混乱した。それはガトの声だ。間違いない。ガトは人族だ。
目の錯覚だった。この群がる操甲体たちは人族のエメルタインである。この椅子に座る男が異様に巨大なのだ。とすると男の身長は2ロピテ半はゆうに越えていることになる。捕らえた少年が天井から降りつつあるのを気にも留めないのかこちらを振り返りもしない。少し離れたガトに、優雅な声で話しかけている。