サクラアゲハの頃ー8
煌々と辺りを照らし続けている蓄光石を急いで箱に仕舞い、聞き耳をたてる。何者かが近寄りつつある気配がしていた。 小型チョッキリはアードラの少年にガッチリつかまったまま動こうとしない。少年の心に小さな愛着の温もりが生まれた。そっと毛並みを撫でてやる。慌てて落とした減光眼鏡をそっと拾い上げ元に戻す。まだ遠いがピウィの鋭敏な耳は話し声を捕らえた。
「ガト様、もう時間がありませんが」
「すぐに戻る」
蓄光石の蓋の取手に腰袋から取り出した細引きを結ぶ。それを机の向う側へ回し、脇から引っ張り出す。
書類をグチャグチャに丸めてチョッキリ虫兵の形に整え、先ほどの布で巻く。元通りとは行かぬが、一見して分かるまい。
細引きの先端を持ち、奥にあったベッドの薄がけを剥がし、それを頭から被ると入口の壁にピタリとくっつきしゃがんだ。薄暗がりの中ではよく判別がつくまい。
簡易昇降機の音が近づく。男の足音が迫る。何かを異変を感じ取っているのか慎重な歩みだ。少年は獲物に近づく心得で、呼吸をゆっくりと落とし、心を鎮めた。
ガトと呼ばれた男が入ってきた。入口の左右を確認してから、部屋の様子を点検するように眺めている。何か言い知れぬ違和感を感じている。やはりこの男は抜かりない。暗闇の中、何かの違いに気づいたのか男はツカツカと机に近づいた。
布の塊を確かめたかったのか両手で持ち上げたのだが、思った以上に軽かったせいで、クンッと高々と持ち上がってしまった。
男が布の塊を持ち上げると同時に少年は思い切り細引きを引っ張った。薄暗がりの部屋で蓄光石は再び目覚め、強烈な光が男の目に飛び込んだ。少年は部屋が光に溢れる瞬間を見計らい部屋から飛び出そうとした。
が落とした布に足を取られ無様に転んだ。光にくらみながらも男は後方の気配に、振り向きせず刀を抜き打った。激しい光に目を細めながら少年が、しまった、と思うと同時に全てがゆっくりと動き始めた。空気が固まってしまったかのように、動くもの全ての速さは鈍くなる。しかしはっきりと目にした。腕にとりついた小虫兵が、引き伸ばされた時間の中で少年の左腕を素早く移動する姿を。
それは直剣の軌道を読み取り、きっちりとその体を縮めると手足の装甲によって見事に斬撃を逸らした。その反動でピウィはコロコロと通路まで転がり出ることができた。少年は脱兎のごとく簡易昇降機のステップをすり抜け、穴に飛び込んだ。
通り抜けざまウィーラをステップに引っ掛けて下の床に着地、猛然と元いた部屋へと駆け出した。穴の上ではガトが何やら叫んでいるが、このゴチャゴチャしたアリの巣空間では音がこもって聞こえない。入ってきた穴から外へ出ようと戻ってきたが、部屋が近づくにつれて刺激臭が強くなってきた。目星をつけた部屋をコッソリと覗いてみると、二人の男が樽を転がして運んでいた。
先ほどと違い、部屋は外に向かって大きく開け放たれていた。荷物の搬入口だったようで、天井から外へ吊り下げレールが取りつけられていて、それが大きく張り出していた。運んだ樽を吊り上げながら
「こいつを喰らったらひとたまりもないな」
「落とされる奴らにご同情申しあげるぜ」
「お高くとまった青巫女様のぶったまげる顔が見てぇなぁ、おい」
落とす、といったら街道の行列、あと集まっている人達しか考えられない。こいつらは何の罪もない人たちに何を落とすと・・・
ブーン バラバラバラバラッ
異様な音にサッと振り向くとチョッキリ兵が目の前に迫っていた。少年はくるりと部屋に入り、槍を下からすくい上げるように切り付けると、虫兵はすかさず避けたが壁の出っ張りに翅の先端をぶつけ、バランスを崩し部屋の床に激突した。
少年は通路を走る。奥へ、奥へ。行き止まりに向かっている予感が物凄くするが仕方がない。行けるところまで行くまでだ。狭い、広い、左右、上下の通路を駆け抜ける。予感は外れ、通路は意外と続いていた。
チョッキリ兵とはかなり間を開けたはずだ。それにこれまでいくつもの分かれ道があった。相手がこちらを見失う可能性は大きい。一息ついて、左腕を見る。この小型チョキリは相変わらずしっかりとしがみついて離れる様子がない。この小虫は机の上で無感覚の状態に保たれていた、ということはガトという男がこの子に何らかの条件付けを行っていた、と考えるのが自然だ。偶然にも自分がそれを横取りしてしまったのかもしれない。お陰で危ない所を救われた。走りながらこの毛むくじゃらのチョッキリ兵を撫でる。虫は顔をもたげこちらをじっと見返してきた。
もうしばらくこのままこの愛らしい虫をつれて行こう。
通路の蓄光石の輝きが減ってきた。使われていない区画なのか。薄暗がりの中、目の前に壁が迫って来るのが見えた。行き止まりまで行き着く手前で止まる。立ちはだかる壁の下、人が入れるほどの横穴があった。視線を落とすと、下に穴が空いている。この小さな少年がやっと入れそうな穴だ。ますます行き詰まる予感がするが、行けるところまで行くと決めたからには行ってみよう。穴の縁に座り、そろりそろりと足を下ろす。中は広い。両足を広げ足場を探る。毛山牛の強草鞋は、しっかりと足を木に吸い付かせた。よし、行ける。クモのように手足を動かし、下へ、下へと降りる。