サクラアゲハの頃ー6
ひっそりと動いたので気づかれなかったのか、それとも頭を覆うマスクで耳も聞こえなくしてあるのか、ともかく気づかれてはいないようだ。
お陰で落ち着いて観察することができた。
チョッキリ兵は人馬族と似た形状をしていた。前胸節から上の頸節、頭節が直立し、後胸節と腹節は地と平行している。全高は人族の装着する操甲体より少し低くはあるが、腹節までの全体のボリューム感には圧倒される。長い口吻を樽に伸ばしている頭節、それを支える太い頸節、器用に樽の縁を握る3指を持つ腕とそれに繋がる上胸節、下胸節からは太い4本脚が生えていて背中には腹節まで届く羽根、後ろに丸々とした腹節が見え、樽の内容物を飲むたび収縮を繰り返している。
虫兵たちが壺の中身を貪るうちに、壁際をそっと通り抜けようと動き始めた。すると、アードラの鋭敏な耳が音を捕らえた。空間の出口あたりから極小さな話し声が聞こえる。樽の裏にそっと戻り様子を伺う。しばらくすると人族の男が2人入ってきた。虫兵たち、それには一向に気をとられることなく、ひたすら壺の液体をすすることに熱中していた。こんな体たらくで、恐れられるような兵士とは思えない。
男たちは手にぶら下げた木槌を振り上げると、手慣れた様子でチョッキリ兵の両目の中央を目隠しの上からリズミカルに叩き始めた。それまで前後に体を揺らしながらひたすら液体を吸い上げる行動をやめようとしなかった虫兵は、それを合図にぴたりと止まり、 その長い口吻を壺から引き抜いた。6個体は男2人の係の作業で次々と動きを止め、次の指示を待ち受ける様子だ。
係の2人は目隠しに取り付けられた金輪にロープを結び3個体ずつを数珠繋ぎにする。そして、茫然とした動きを見せる隊列を部屋の外へと引き連れていった。扉のない部屋で、少年はしばらく足音が遠ざかるなで辛抱強く待つ。隊列が出ていき、そのまましばらく間を開ける。
鼓膜の張力を上げ聴力を上げた。通路は木屑が重なっているようで、ほとんど音を発していなかたが、鋭敏な耳は遠ざかってゆく足音を確実に捕らえていた。
ひとまず、しばらくは安全が確保された、と思っていいだろう。ほっとした。と同時に自分の置かれた状況に思いが至り、頭を抱え込んだ。
『狩りでさえ初めてだっていう僕なのに、うーん、次どうしよう』
運命のいたずらに戸惑っていると、現実主義者が戻ってきた。普通の人が出来る事が出来ない、というのがこの少年の日常だった。
アードラ族の中でも旧パロミラル伯王領南部に暮らす者たちの中心地、パルア砦で過ごしたのは幼少期のみである。少年は生まれついてのメイワールだったが、ポエル父とポアナ母と兄弟姉妹と共に温かい暮らしを送っていた。それも身体が不調を訴え始めるまでであった。
ある日から突然身体が思い通りに動かなくなった。身体中があちこちと燃えるように熱くなり、そして冷たくなった。
砦の主であるポエルのもとに、“狂った賢者”ルパール師が訪れたのはちょうどそのころであった。狂った、と呼ばれていたものしかし博識であり、医療の心得もあった師は近隣の尊敬を集めていた。
『遠くからでもわかるほどのワールの激流。この子は“呪い”とも言える状態にある。今すぐ我が元へ寄越すが良い。我が屋敷ならば、その子の身の内に暴れるワールも治ろう』
ルパール師の屋敷は異界の門を見下ろす崖の上にある。通常の者は異界の門近くで長期間に及んで過ごすことはできない。異界と繋がる門は、この世のあらゆる現象を吸い込み、吐き出す。その影響はワールの出口であるマノンや、脳内回路のヨルトに及ぶ。
師は詳しくは語らなかったが、少年のマノンに異常が起きているらしい。まだ構築もされないマノンに異常が起きること自体、可笑しな話だったが、そこから溢れ出るワールが行き場を求めて少年の体を駆け巡っているのだという。実際、師の屋敷で過ごす内に、身体の異常は治った。
それからというもの、ワールを使えぬ少年はこの変人の婆さまと暮らすこととなった。
だから、出来ることだけやる、出来ないことには手を出さない、それを心に刻んで少年は生きて来た。
しかし、今は違う。危険の真っ只中に放り込まれている状態なのだ。ポエル父の声が蘇る。
『危険を拾いに行く者は愚かだ。距離を置くのが正しい。しかし、既に火中に居るのでは話が違う。逃げを打てば命を落とす。死中に活路を見出すのはただ『勇』あるのみ』
『僕はこの舞台にいてはいけない存在だ。どうにか降りなければ』と思っていた少年は、覚悟を決めた。舞台の真っ只中を目指そう。何が起こっているのか見極めよう、と。
少年はやっと樽の裏から這い出し通路をうかがう。左は急な登りで先が見えない。右はいくつか部屋が並んでいるようだ。背後にカロヌーク国が絡んでいることなのか。いや、チョッキリ兵には何の目印もなかった。カロヌークと決めつける事はできない。男2人にもそれらしい証拠はない。しかし、チョッキリ兵の使役法はカロヌーク門外不出の極秘事項だと聞く。なんの所属をも示していないことは隠密裡にことを進めているということであり、カロヌークが関係していようがしていまいが、とにかく不穏な出来事の渦中にいるのではないかとピウィは思い至った。
別の区画を探りに左へ進んでみることにした。先ほどの虫兵たちはこちらへ進んだはずだ。踏み込まれ小さく立ち上がった木くずがポロポロと倒れている。上へと続く通路はいくつも枝分かれしていて、まるで蟻の巣のようだ。角を曲がろうとしたとき、その先にある左手の通路から突然人の気配と足音がした。すっと身を引き隠れる。がっちりとした体つきの男はその場に立ち止まり、上を向くと大声を発した。
「ガト様」耳を傾けるが反応がないようだ。再び口を開き「ガッ」 と呼びかける途中でそれに被せるよう
「うるさい!何の因果で今この時に呼び掛けてくる」
「はぁ、どうも申し訳ござ・」
「お前は相変わらず間が悪いな。まったく。で、なんだ」
「はい、甲虫兵の確認を願います。」
「あぁ、わかった。すぐ行く」
上にも部屋があったのか。これまで見逃していたかもしれない。上から人が下りてくる。カツン、カツンと穴に響く音がする。金属製の金具が打ち付けてあるのかもしれない。
壁際に沿ってあいた天井の穴から男の足が降りてきた。棚受けのL字型金具のような足場が、壁に組み込まれたレールの沿って滑るように降りてくる。見れば床から天井の穴に向かってワイス鋼の柱が伸びていた。簡易昇降機だ。
これは使えないな、と考えていると男の全身が見えた。身体から放たれる力の矢、少年はこの人物を見た瞬間にそう感じた。とにかく油断ならない存在であることを感じさせる。薄明かりのなか、口の両脇に似合わないチョビ髭が見えた。先程呼びかけた男の上役なのだろう。
下で待ち受けるぽっちゃりした体型の男と合流すると坂を登って姿が消えた。と急に上の様子をのぞいて見たい衝動に駆られた。チョビ髭の降りてきた天井の穴の真下へ行くと見上げる。上の通路に据えられた畜光石に薄く照らされて、穴の途中の程よいところに足場がいくつか止まっている。
ウィーラの大三つ玉際に節輪を作り、小三つ玉を投げる。狙い違わず天辺付近のL字金具を捉えた。右手のコラン石にワールを通すと、ウィーラは次々に節輪を作り、体はゆっくりと浮き上がった。上の通路に出た。一方向にしか通路はない。行き止まりにぼんやりと明かりが見える。あのガトの部屋だろう。行き止まりとは嫌な状況だが、迷わず素早く部屋に近づく。再び聴覚感度をあげる。
浮遊樹のこの奥まった空間は防音効果が凄まじく、全く無音の世界となっていた。ここまで静かだと耳は相当小さな物音まで拾うことができた。部屋に呼吸音はないようだ。できるだけ屈んでそっと内部を覗き見る。蓄光されてからかなり時間が経っていたのか、壁の蓄光石は力なくぼんやりと灯りを漏らしていた。
薄暗い部屋の中央には簡易机。何か作業をしていたのか用途のわからない様々な道具が散乱している。少年には一抱えほどある大きさの何物かが、急いで巻いたのかグルグルと乱雑に布に巻かれて置いてある。
何だろう。ゆっくりと布を解いてみる。ハラリと上端の部分が現れた。これは、と思った瞬間反射的にさっと飛び退く。
少年が見たの先程見かけたチョッキリ兵の目隠しだった。