序章
序章ー夜
珠月レイマーが夜の闇に乳白光を散りばめつつ、静々と雲間より出る。
南方の彼方、アラル海より突き出、さらに雲を突き抜くオーパル山の上、小島ほど長大な翼竜が1頭、
西方へ渡る。
その進む先へ目を転ずると、エルミア山へ織月アトヤの入りが始まった。兄月は今宵の別れを告げるかのごとく輝きを増し、妹月はそれに応えるがごとく山裾を染め変える。
遠い地鳴りの音に、空が突風で応じる。二つの月明かりに照らされ、獣の形が山頂に浮き上がった。
界の環は再び回り、時の糸が新たな物語を織り成し始めるのを見届けると、獣は山を降りた。
空駆ける駆竜人の詩
天空に響き渡る千の角笛、
駆る装束の黒紫色、艶めく鞍に打ち跨ぎ
竜槍の穂先、天を指す
暁に染まる岩肌を
掠める風に翼広げよ
産まれたばかりの雨を抜け、
万雷の黒雲突き抜けて
2つの月に挟まれた
弓なす界平見渡せば
四つの瞳 二つの魂 一つとなるを見る
おまえと行こう 共に行こう
すべてを越えて すべてが尽きるところまで
大地を震わせる千の咆哮
額に輝く黒銀色、燃え盛る炎を映し
カルガの弓、満月を描く
昇気柱螺旋を描き
畳んだ翼は音を越え
積乱雲の雹を突き
月よ導け竜の槍を
2つの月を見下ろして
頭上の大地を見上げれば
三つの大気 我らの魂 一つであると知る
我らは飛ぼう 光の中へ
おまえがあるのが我らがすべて 我が魂
序章ー暁
桃色と橙色にたなびいていた雲が、金色に縁取られる。
輝く雲は領域を広げ、エルミア山に繋ぎ止められた浮遊する妖精島を照らし出す。
光の滴は島を繋ぐ大きな鎖を流れ落ち、山頂に朝の輝きを灯す。流れはとどまるところを知らず、山肌を伝い、ついに広大なる樹海へ達した。
点在する大樹はこの朝も空よりの戴冠式を済ませ誇らしげに樹冠を輝かす。
彼方に見えるパロミラル湖はその水面を祝福に煌めかせ、朝の訪れを森に知らしめた。
その知らせに森は応えた。森の命が応えた。小さなさえずりから始まった。さえずりに鳴き声が重なり、遠吠え、唸り声が加わると瞬く間に森は大音響に包まれた。そして陰影を深める樹海の輪郭が、微かに揺らめいた。
部分的に始まった揺らめきは、しだいにあちらこちらへと伝搬し、じわり、じわり、と静かに、そして大規模に森は膨らむ。新緑を光に透かした乳白緑の楕円が、フワリユラリと樹海を埋め尽くすほどの数が浮かび上がる。
小型の浮蓮、白風蓮の漂群がここで一夜を過ごしていた。小型とはいえ、広々と枝を伸ばす一本の木を覆い尽くすには充分な大きさの浮き袋を有している。
内圧の不足した浮き袋が風にあおられて波を打つ。陽光を浴びた蓮は厳かに体液の循環を始め、枝をとらえていた巻き根に水分を送り込み徐々に根を伸ばす。光の恵みをより多く受けようと白風蓮は萎びた袋を傾ける。大空に昇る太陽神に、深く首を垂れる信者の礼拝が始まったかのようである。
熱を吸い込むにつれて袋の張りは強まり、表の波立ちは鳴りを潜め、光を艶やかに照り返し始めた。
陽当たりの良かった数百の浮蓮に動きが表れる。巻き根に目を向けると、陽の光のさす側はしっかりと巻きを強く、反対側は巻きを緩めていたのだが頃合いを見計らったのか強かった巻きを緩めだすと頭の浮袋は徐々に水平へ戻る。
しばらく間を置くと木々に巻き付いていた巻き根をスッとほどき、白風蓮たちは大空へ舞い上がる。先陣を切った数百が滑らかに、ゆっくり斜め上空に向かう姿が、朝焼けに色を添える。
旅の準備を終えた群体が次々と後を追うと、空の青さは緑へと変わる。
上空へ向かう浮蓮の根本で食物連鎖が始まった。ねぐらから這い出た浮き魚”タユナ”たちが、葉にまとわりつく羽虫を喰らおうと、群れで追いたてる。
一口で多数の虫を頬張る“大口”種、粘る舌を伸ばし多数を絡めとる”延舌”種、裏返した胃袋を口から大きく膨らませ、虫をとらえる、素早く飛び回る蜂魚。
そして、種々雑多な捕食者たちの活動が活発になるのを待ち構えていたかのごとく、見えない天敵が動き出す。
肉食のタユナ、”ガナ”の魚体は鏡面加工されたように回りの景色をさえざえと写し出し、宙に溶け込んでいる。
危険を感じ取ったタユナは、しかし、どちらへ逃げたらよいのか判断できず、的にされないようひたすら動きまくる。
悠然とこの様子を伺っていたガナが動いた。なにもなかった空間から突如現れた口は大型のタユナの腹をスッパリとえぐり取った。空間から口が現れるたび、タユナの群れが一瞬にして翻り、至るところの宙に大きな紋様が次々と描かれる。
次々と空から舞い落ちるタユナの肉片に、樹上と地上の居住者たちが狂喜し奪い合いが始まった。
空が賑やかになったころ、さらに陽は上り、木々深くまで光が差し込むようになると、それを緑色に弾くほっそりした姿が枝に見える。
森の一部と化していたそれは、大きな冠羽を逆立てると、キョーーーールルルルッ!その一鳴きに森の喧騒も一瞬静まり返る。それに応えてキョーーキョーみるみる鳴き声の輪は広まり辺り一帯を飲み込む。
一斉に森から飛び立つ鳥の群れ。翼の両端を赤く染め、あちらこちらから集まると赤い螺旋を描いて空の高みを目指す。
翠緋鳥は空へ旅立つ浮草の森を突き抜けると、大きく円を描き始めた。
空に現れた赤い輪は、少しずつその数と太さと大きさを増した。輪に加わる個体がなくなり、しばらく何事も起こらぬ空白の時間が続く。不意に輪の一部が途切れ、列の先端から白風蓮の森にと突入した。
それはまるで赤い竜が、緑の雲に襲いかかるかのごとくであった。翠緋鳥は大きな翼をピタリと体に畳み、一本の槍となってタユナの群れを掠め飛ぶ。槍の狙いは精密で、5ピテ(1ピテ=10.5㎝)ほどの魚体を見事に突き刺した。
槍は徐々に翼を広げ、森の枝に戻ると鉤爪を器用に使い、嘴から魚を引き抜くと燕下し始めた。この空から降る槍の猛攻に、タユナ達も流石に根の陰に隠れ始める。
根の隙間が空いている空間を一匹のタユナが移動しているそこを、赤い槍が突き刺さるその瞬間、根の先端が鳥の首根に噛みついた。
蓮の根に擬態したネウツボは、本物の根に絡み付けた尾の先端を中心に、翠緋鳥の勢いを殺すため一度大きく振り子運動をし、そのまま巣穴へと獲物を引きずり込んだ。それを掠めるように再び赤い槍が降り始めた。
タマラの森に陽が降り注ぐ。光を求め空間を埋め尽くさんと力の限り枝を伸ばすこの樹海にあって、忘れ去られたかのよいにぽっかりと草原が見える。
木々の間をすり抜けるそよ風に草花が露を散らす。
上空で繰り広げられている喧騒がまったく別世界に感じられる、円形に広がる穏やかな空間。よく見るとこの円庭の外周に沿って低い壁が陽光を遮る山脈のように黒々と連なっている。ごつごつと固く、厚く、岩のようにみえるそれは、樹木の外皮であることがわかる。
そう、それは信じられないほどの太さを持った大樹の痕跡であった。この平和な盆地を取り囲む外皮の山脈は、所々苔むして、キノコの苗床となり、虫たちにすみかを提供している。巨木の残した山脈が成す地に見会うように、中程には湖を思わせる水溜まりがさざなみ立っていた。
水の中では淡水のエビ類、昆虫の幼体、甲殻類、根魚などがやはり生活を繰り広げていた。
水底で泥を被っていた生き物がいる。それはなにかに気づいたのか小さく身じろぎした。ハゼの仲間であろうか。いや、その身体全面から細く透き通る触手がゆらりゆらり水中を揺らめくのを見ればただの魚ではないのは明らかであろう。
この鋭敏な魚にも気づかれず、ひとつの影が森の一部と化しつつある巨大な倒木の上を伝ってくる。身を屈め、音もなく、滑るように進む様は、この樹海の生き物を思わせるが、そうではないようだ。人である。しかし、なにやら小さく見える。木漏れ日のなか、チラチラ見え隠れするその背には紛れもない細長い羽が2枚、体に沿っていた。