第三章 邂逅 その3
四
再び地下の電車に俺は揺られていた。ワンさんは先程のように座席に座り、チャンは扉の近くに立って、時折隣のイチローに話しかけている。俺は二人の向かいで同様に立っていたが、くたびれてきて、途中でワンさんの隣に腰を下ろすことにした。俺は、未だチャンの疑心が消えていないことで、居心地が悪かった。そして『予感』が的中する見込みのあるという、ワンさん自体も、俺にはよく分からなかった。何が分からないのか、考えあぐねているうちに、俺の耳元からは列車の轟音が遠のいていき、田舎を走る電車で聞くような、平和で心地よいノイズだけが、耳に残るばかりとなった。
――――。
暗中に、人の声を聞いた。
二人の男の声だ。
一人は年を取り、しわがれているが、慈愛に満ちた深い声。
もう一方は、血の気の多そうな若者の、凛とした声だった。
――――。
「ウェンミン。私の言うことが分かるかね。」
穏やかな声が問いかけた。
「ウェンミン。神のまします雲井の錠、その錠を閉め、よそ者が決して汚れた足で神の宮へ踏み入れることのないようにすること、それこそがあなたの役目だ。そして次のことを肝に銘じておきなさい。あなたの持つその鍵は、神の宮の場所をあなたのみならず、心なき者にもお伝えになる。そのため、権力や栄光といったものに心奪われし輩どもが、あなたの鍵に魅せられ導かれ、神の宮と、その秘められた力をほしいままにせんと押し寄せてくるだろう。だが、決して鍵の存在も、宮の場所も、口外してはならないのだよ。信頼する四人の仲間以外の人には、その鍵を見せることさえはばかりなさい。あなた方五人の使徒が、宮の階を渡る前に、よそ者が宮の土を踏めば、世の物は全て、そう、一瞬のうちに今まで築いてきた文明の全ては、灰塵に帰してしまう。悠久の昔、はるか西のある地で、人間が神の下での生活を断たれた時のように。一方、あなた方が首尾よく務めを果たされると、宮の入り口は再び堅固に閉ざされ、歴史の深い眠りの中に戻り、新たな危機が訪れるまで、一切宮の場所は知られることがないだろう。それが、幾千年もの間、人の知らぬ所で綿々と受け継がれてきた、あなた方五人の使徒の役割なのだ。・・・・そしてウェンミン、その役目、見事果たされ、階を降りた時、使徒の一員であったという記憶は、一切を神にお預けすることを忘れなさるな。使徒としての役目を果たし、次なる使徒へと鍵を届けた後、あなたを包んでいた神の残り香は消え去り、あなたは以前と同じように、平凡でつつがない生活に戻ることになるのだよ。」
優しさのこもった声が途絶えた後、暫し沈黙が闇を包んだ。
やがて、若い男の声が、沈黙を――いかにも不承不承に――破り、刺すような口調で尋ねた。
「それで―――金はいくらもらえるんです、社長?」
その言葉にもう一方の男は思わず苦笑いした。
「――見込み通り、抜け目のない男だな、ウェンミン。けれども、使徒は神聖な役目を帯びた者。俗人の手垢にまみれた金銭など関わる余地もないのだよ。」
「よく分かってねえみてえだけど――」若い声はひどい訛りで言った。「俺らみたいな奴には、神だとかそんな仰々しいものには構ってる暇はねえんだ。大体神とかいうのがいるのなら、どうして俺らがこんな暮らしをしなけりゃなんねえのか、なんでこれが俺らの天命なのか、教えてもらいてえ。とにかくあんたの言う、胡散臭くて禍々(まがまが)しい話には乗らねえよ。」
「だがな、ウェンミン。私はあなたを選んだんだ。」
「『選んだ』、か。」男は鼻を鳴らして。「余計なお世話だ。だいいち俺を推薦する理由があるか?こんな何もない俺をさ。」
「家族思いだ。それに鋭敏であるし、勇気がある。」
「どれも金にはならねえキレイゴトばかりだな。」
「ああ。尊いものは金には代えられぬ。見上げてごらん、ウェンミン。これほど人心のすさんだ世の中に、あなたのような人がどれほど清く目に映ることか。人々の目が俗物ばかりを映すのでなければ、今にでもあなたは世の人の上に立つ正当な方として誰もが疑わないだろう。」
「社長――変なことは言わないでくださいよ。馬鹿馬鹿しい。」
「とにかく」若い男の自嘲の後に、老人は穏やかに言った「あなたに私の記憶を託そう。この印綬に眠りしは、中原に君臨した代々の天子様を初めとした、使徒の方々の記憶。この任務を果たすまでは、そなたは常に守られる。傷を負うことも、死ぬこともない。」
「・・本当ですか、それ・・・・」
「少し、お立ちになってください。」
衣擦れの音がした。若い男は微かにうめき声を上げた。沈黙のあと、老人は感慨深げに、
「――これでいい。あとはあなたに託した記憶と、この印綬――玉璽が、あなたを行くべきところへ導く。私の役目もこれで終わりだ。これでもう、私とあなたは、元通り、雇い主と雇い人との関係だ―――」
老人の声はそれっきり消えた。再びノイズが声を覆い隠す前に、若い男が呟いた。
「――駅長・・・」
目元に星が散った。
大げさな音を立てて、俺は座席の手擦りに無様に頭を打ちつけたらしい。衝撃が生んだこぶをさすりながら目を開くと、チャンのサングラスが見下ろし、短く一言、
「すごいストロークだったな。」
右隣りのワンさんは失笑するどころか明らかに不安げな表情を浮かべ、大きな瞳を俺に向けていた。それが却って俺には辛くて、急いで居ずまいを正そうとしたものだから、今度は後頭部を窓へ派手にぶつけてしまった。バカか、とチャンの笑う声が聞こえた。
「だいぶ長かったからね、乗車時間。」イチローは暗い外を見やりながら言った。
「何か夢、見ていたのか?」
チャンはまだ笑いながら言った。
「え?」
「夢だよ、寝言言っていたからさ。」
チャンの言葉に、俺は周囲を思わず見回して、
「・・・列車の中で?」
顔が赤くなる俺にイチローが、
「気にしなくていいよ。多分日本語の寝言だったから。俺たちには分からなかったから。」
大して心休まらない慰めの言葉に俺は体を座席に沈めながら、ふと、先程まで耳で聞いていた声の主を探した。夢であったと言われれば、確かに夢だったのだろう。ただ、追えば追うほど遠ざかっていく淡い記憶は、俺に確信を与えることはなかった。何の話だったのだろう。確か二人の人物が、何かを話していた。夢はもう俺の元を離れてしまった。
「じゃあ、降りようか」とイチロー。
「降りるって、どこに・・・?」
「言っただろう。上海博物館だ。今着いたんだ。」
チャンはそう言って、駅名看板を指差した。
五
存在感の薄い地上出口から顔を出すと、立体交差や摩天楼を周囲に侍らせて、バウムクーヒェン型の屋根を支えた銀色の重々しい建造物に俺は気づいた。そこどけ空が一段と広く、流れる空気も違う気がした。
「上海博物館だ。」
相変わらず口と言葉が合わずにチャンは言った。
「チャン。」
「どうした。」
「俺達、制服だけど。それも鉄道員の。」
「それがどうした?」
「どうしたって・・・明らかに勤務サボッて来ましたって、見せつけているじゃねえか。」
「制服着るのが良いんだよ。この制服とIDカードのおかげで、俺たちはパスポート無しで中国の地を踏めるんだ。この制服は信頼の証さ。」
・・・お前が言ってどうする。
「権利は義務って裏打ちがしているからね。」後ろからイチローが口を開いた。
「世界鉄道員は不法入国者と紙一重だからね、周りの奴らに紛れて悪さをする鉄道員がいないように、制服を着させて、いつ何時でも警察が目をつけているんだよ。」
「ワン。」チャンは振り返って。「本当に、ここでいいんだな?」
急停止のせいでワンさんは、イチローの背中に鼻を打ちかけ、素早く立ち止まった。しかしチャンの質問が自分に向けられているのにまるで気づかぬようで、男たち三人を不思議そうに眺めていた。
「やっぱり、書かなきゃ通じないんじゃないかな?」
とイチロー。
「ツバメがいるって言ったじゃないですか。」と俺は言った。「ワンさんしか当てにならないんですし、行くだけ行ってみましょう。」
「それぐらい分かってる。だから来たんだ。」ワンさんの代わりにしかめ面のチャンが言った。そして行くぞと言い、観光客の注視の中をずかずか前進していった。
ふと、俺は別の視線に気づいた。平穏にあふれたワンさんの笑顔だった。俺は慌てて目を反らし、チャンに向かって走って行った。
「なぁ・・・」怪訝そうな四方の目が痛くて俺は言った。「・・サングラス、取っても・・」
「勝手にしろ。」素っ気なくチャンは答えた。
受付を済ませて、俺たちは暗い展示場へ向かった。一階には青銅器や仏教関係の彫刻が展示されており、受付で音声案内機を借りたイチローが、アナウンスの内容を全部声に出して説明してくれた。語学が嫌で日本考古学を専攻にと思っている俺だが、古代の貴重な遺品を前にしても感慨は湧いてこなかった。俺たちの周りには、金髪の白人鑑賞者や日本人と思しき観光客が、アナウンスのリスニングに集中したり、鳥もちでも塗られてあったのか、ガラスケースからちょっとも顔を離さなかったり、そうかと思えば傍に鑑賞者がいないかの如くデジカメのフラッシュを焚いたり、ビデオカメラで撮影までしたりしている。俺は悠久の歴史にくたびれて、ワンさんを捜した。
ワンさんは既に青銅器の最後の展示物まで行っていた。傍にいるはずのワンは、近くにあったソファーで早速眠りこくり、イチローは古代ロマンに没頭中。何しに来たのか分かりやしない。
ワンさんは俺に気付くと、さっきのように和やかに微笑んだ。俺も思い切って和やかに微笑みかえそうとしたが、先にワンさんが四階まである吹き抜けへと跳ねるように小走りで駆けて行き、俺の顔は笑顔生成途中で奇妙に固まってしまった。制服のせいで、ちょっと警備員さんと声をかけられ、俺ははじかれたようにワンさんを追いかけた。
ワンさんは二階へのエスカレーターを軽やかに駆け上がる。そして展示場に入っては、大して展示物を見ることなく、左右のガラスケースを弾むような足取りで行ったり来たりする。急に一つのガラスケースの前で立ち止まり、うっとりした視線を注いだかと思えば、あっさりと見限り、また別のガラスケースへ向かう。俺は展示物よりワンさんの行動を見ている方がずっと楽しかった。でも、本物の警備員と熱心な訪問客にとっては、ワンさんはずいぶんと異様な存在だっただろう。
ワンさんと一緒に興味の湧かない展示品を鑑賞しながら、俺はしばしばワンさんの顔を眺めた。大きく澄んだ瞳が、小刻みに揺れ、一瞬きらめき、また沈む。一言しか言葉を吐いたことのない薄く血色の良い唇から、吸い込まれ、漏れゆく息の見えない一筋一筋が、全て大事な意味を載せているようだった。
どうしてこの人は言葉を口にできないんだろう。
どこにこの人は言葉を置き忘れてきたのだろう。
その円らな瞳に、何が映ることを、この人は求めているのだろう。
ワンさんが再度立ち止まった。しかし今度は展示品ではなく、展示場の入り口だった。
「どうした――」と尋ねかけ、俺は口を閉じてしまった。
ワンさんの瞳が、一段と澄みきり、一段と大きく揺れていた。そしてその眼は、俺から一寸たりとも離そうとはしなかった。
「もしかして――」ゆっくりと俺は発音しながら。「――ここに、いるの?」
ワンさんは何も言わずに、俺の顔から目を反らすと、先程とは打って変わって不安げな足取りで、忍び込むように展示室へ入っていった。一方、俺は矢も楯もたまらず、展示場に音を立てて走りこんだ。
俺は入口を過ぎて数歩先で立ち止まり、中にいる鑑賞者を見回した。入口は一つ。出る中ここしかない。つまり、今中にいる全ての人の顔を、俺は見られるわけなのだ。
展示場にはそれほど人がいるわけではなかった。ざっと数えて十五人。その内訳は、清潔で涼しげなシャツを着た欧米系の母子、歴史愛好家らしいおしどり夫婦、室内なのにパナマ帽を目深に被った青年、感想をいちいち大声で語りながら、ガハガハと下品に笑うオッサン、熱心なカメラマンになりきっている東アジア系の御令嬢、リュックに同じ色の名札を提げたツアー客の小さな群れ、である。他の階でも確かに見たような類の人々だ。俺と同じ順路で進んできたのだから、それもそのはずだ。
俺は、隣にいたワンさんを見た。ワンさんもまた、俺を見ていた。
「あの・・・」
とりあえず、ここで俺見ておきましょうか、と紙片に書きつけようとしたが、ワンさんは静かに頷いて、ゆっくりと展示物の方へ近づいていった。
変だよな。
背中を叩かれた。
「早いね、見るの。」
イチローだった。展示物の番号を見るたびに、音声案内機のボタンを押し、ふむふむと頷き、手帳にメモまでし始めた。全く呑気なその調子に、俺は思い切って、
「あの、イチローさん。」
「印章なんだね、ここの展示物。」
「・・・はい?」的外れの返事に、俺はいささか辟易して。
「印章だよ、ほら。」そう言ってイチローは、ガラスケースの向こうに閉じ込められた、小さな、本当に小さな金属の立体を指で差した。「印章は、その昔メソポタミアで最初に生まれたんだけど、中国では殷の時代になって青銅で出来た印章がその始まりなんだ。中国では青銅で出来た印章が多いね。そして戦国時代を経て、秦の始皇帝の時代から次の漢の時代の頃に、印章は官用の印章、私用の印章っていうふうに、役割分担されたり、「璽」っていう皇帝専用の印章が作られたり、官位に合わせて使う印章が決まったりと、制度が確立することになったんだ。」
「へえ・・・」いい加減な相槌をしながら、俺は眼の前の金色の印章に目を向けた。
「印章の、台座みたいな部分の上に、何か動物が載っているでしょう?」
「ああ――本当ですね。変なの。」
「これは蛇の形をしているでしょう?蛇の形をしたものは、主に南や東の異民族が、中国に帰属したり貢物を送ったりしたときに、送られたものなんだよ。他にも亀の形をしたものや、馬の形をしたもの、三角形の形をしたものなど、色々あるんだ。」
「そうなんですか。」
「そのつまみの先に何か、ひもを通す部分があるよね・・・そこに、綬っていう紐を通して、腰につけて持ち歩くんだよ。この綬にも、赤とか青とか紫とか、色々な色がある。そうして印章に綬を通して持ち歩くことを、昔は『印綬を帯す』って言ったんだ。」
「印綬―――」俺はふと、顔を上げて。「――ああ、そう言えば、歴史の教科書に載っていたのと似ていますよ。」
「教科書?」
「金印です。『漢委奴国王』って書かれた。」この言葉、中国語でどう訳されているんだろうと思いながら、俺は続けた。「確か後漢の光武帝の時に、日本の小国の一つの王に授けられたものです。それも確か、印綬って呼ばれていました。」
「物知りだね、タツナリは。」
「・・・イチローさんの方が詳しいじゃないですか。」
「僕?僕はただ、この案内機の説明を受け売りしているだけだから。聴く?」
「いや、いいです。」
「――そう言えば、僕に何か言おうとしなかった?」
「別にありませんけど・・・」嫌味っぽく俺はイチローを見上げて。「そのサングラスで見えなかったんですか?」
「あぁ、それね。」イチローはあっけらかんと言った。「耳の情報に集中してると、目まで意識が行かないんだよ。だから、見えなかった。」
妙なことを言うよな、と感じたことは感じたが、それで話題は他へ移った。
「そうか。忘、ここに来たんだ。」
イチローの言葉に促され、俺も奥の展示物を見ているワンさんを見た。
「何か心当たりでもあるんですか?」
「特に何も。」きっぱりとイチローは答えた。「だけど何だか予感が伝わってくるね。」
「予感。」
「ツバメ、だよ。」イチローは満足げに言った。俺にはよく分からなかった。
「そう言えば、チャンは?」
「さあね。下の階までは見たけど、それから先は一緒じゃなかったから。」
「そうですか。」
チャンのことだ。チャンはチャンで何か心当たりがあるのかもしれない。
期待はしてみたものの、結局ワンさんは手ぶらで展示室の入り口に戻ってきた。顔には再び落胆が浮かんでいた。イチローは気にするなと優しく励ますようにワンさんの肩に手を置いた。俺は黙って博物館に響く足音やエスカレーターの音を聞くともなく聞いていた。そして何気なく展示室を振り返った。結構時間が経ったのに、鑑賞者の入れ替わりはないようだった。俺はずっと入口の近くに立っていたのだが、誰ひとりとして展示室を出る者はいなかった。
突然。
耳から音が消えた。内なる鼓動も音はなく、ただその震えを胸に感じるだけだった。
―――十四人。
誰かが、欠けていた。
「おっと、下にいたよ、チャンは。」
横にいるイチローの声が、なぜかこんなにも遠く聞こえる。
「戻ろうか、タツナリ。」