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第三章 邂逅

 読んでくださって本当にありがとうございます。


 これからようやく話が動き出していきます。「鉄道」と銘打ってはいますが、この極東本線編はどちらかというと歴史が大きく関わってくると思います。ご了承ください。

                      一


 一向に視界が晴れない。暗中を俺は模索する。前後左右も墨汁に浸されたように黒く暗く、俺の足音は地面に吸い取られて、何も聞こえないものだから、本当にちゃんと歩けているのか、次第に怪しくなってきた。上と下という概念の存在さえ闇の中だ。かかとには地を踏みしめる感触すらない。もしかすると、沼地の中を、のろくもろい足取りで進んでいるのかもしれなかった。

 ふと。

 耳の奥の方で、ブツブツブツ・・・という音がした。質の悪い映画を鑑賞するときに耳に残る、あのノイズ音だ。くすぶるように、今も鳴っている。厚い黒壁のように立ちはだかる闇のどこかに、ほころびが生じ始めたのだ。頭上を見上げると、六等星ほどの光が煌めいていた。やがてノイズが落下する隕石のようにボリュームを上げてくると、同じ速さで白い光の穴が大きく開いていった・・・

 パンッ。

 頬に乾いた音が響いた。

「ちょっと、龍也。あんた何ボーッとしてんの?」

 慌てて左手で頬を覆う「俺」の前に、手を挙げたあかりがいた。呆然とするホテルのフロント係に、あかりは旅行ガイドブックに載っている一言例文を指差しながら、途切れた話を続けようとしていた。ガイドブックの表紙には、「中国」の二文字が見えた。何の話をしているんだよと「俺」が訊いている。

「ちょっと道を訊いただけ。龍也の起きるのが遅かったから、こんな時間になったんよ。」

 行こ、とあかりは「俺」の手を無理やり引っつかみ、自動ドアから飛び出した。

 暑さの残るアスファルトの道を、二人は歩いていた。道は二つあったが、青々と葉の茂った並木道ではなく、教室のような建物の並ぶもう一方の道を、あかりは選んだ。「俺」が尋ねている。

「なぁ――南条先生は、置いていっていいのか?」

「先生はね、ここの大学の先生に会う約束があるって。忙しいの。」

「ふうん・・・まあ、そうか。」

 やがて道は広場へと至った。同い年くらいの学生たちが、本を読んでいたり、数人集まって談笑していたり、颯爽とローラースケートで滑っていったりする。そして「俺たち」の左側には、首を目一杯傾けなければ先端が見えないほど高い塔が二つ並んで聳え立っていた。二人は右に曲がり、バスも出入りする幅の広い校門を抜け、通りへ出てタクシーを呼び止めた。あかりは運転手に一言、

「スゥチョアンペイルゥ」

 通じなかったらしく、あかりは紙片を見せた。今度は運転手も頷いて、威勢よくアクセルを踏んだ。

「俺たち」を乗せたタクシーは、片側が五、六車線もある大通りを走り抜けていく。日は高く、人々は群れをなしてペダルを漕ぎ、クラクションが空に鳴る。

 ――これは、夢なのだろうか。記憶にありもしない出来事が展開している。だとすればこれは夢だ。だが、夢ならなぜ、俺は「俺」の姿を端から見ているのだろう。

「どこ、行くんだ?」と「俺」」は尋ねた。あかりは答えるかわりに、先ほどの紙片を「俺」の鼻先に突きつけた。おとなしくそれを読む。

「四川北路。」紙切れから目を離し。「・・・何か、面白い所、あるのか?」

「本屋。」素っ気なくあかりは言った。

「本屋?」「俺」は顔をしかめて。「本屋なら、昨日大学の前の大きな書店に行ったじゃねえか。別に俺たち中国語できるわけじゃねえんだしさ、そう好き好んで中国語の文献漁りに何度も訪ねる必要はねえだろ。」

「俺」の言葉に、あかりはムッとして、

「別にこっちだってあんたと一緒に行きたいわけやないんよ。あんたが道端をノコノコ歩いていたら、スリの格好のカモになるやろ。あんたのボディガードとして頑張りなさいっていう、先生直々のお達し。」

「俺」は舌打ちして。「――んなもの、要らねえよ。俺は新天地がいい。せっかく上海に来たんだぞ?明後日にはもう経つんだから、好きなところ行かせろよ。」

「新天地?」窓辺を見ていたあかりは振り向いて。「あぁ、旧フランス租界なら、本屋寄ったあとで行くつもりだから、一緒に行こう。」

「フランス租界・・・また出ましたぁ、歴史用語。ここまで来てまだ歴史の話かよ。」

「・・自分の状況、分かってないみたいやね、あんた。まあ、本屋って言っても、跡地やから、すぐ済むよ。それかそこで別れる?」

「ふうん、本屋の跡地。何が面白いんだ?スコップで土掘って古本でも探すのか?」

「・・これ以上ぐちゃぐちゃ言うんなら、もうここで降ろすけど?」

 あかりの怒声に、運転手が思わずブレーキを踏んだところで。

 ブチッ。

 何かが、ブザマに切れた音。

 それっきり、映像は途絶え、耳には砂嵐の音が、名残のように、小さく聞こえていた。


 シーツに染みこんだ寝汗の気持ち悪さに、俺は瞳を開いた。

 水色の壁に差す陽光。くどくど説明する手間のかからない、ただの机とだたの椅子。その背には脱ぎ捨てたジャケット。そして、時折俺の顔をなでる冷風を送り出す、これもごく平凡な扇風機。

 ようやく俺は、自分の現在地を思い出した。つかざるを得ないため息ひとつ。

 ドアを誰かがノックした。返事すると、イチローが顔を出した。

「おはよう。よく眠れた?」

「それなりに。」

「夢とか見たのかな?」

「んー・・・」俺は二、三秒考えて。「忘れちゃいました。」

「まあ、そうだろうね。そう顔に書いてあるからね。」

 相変わらず妙なことを言う人だなと、俺はイチローを見上げた。イチローはすでに制服に着替えていた。窓の外へ目を移す。何時ごろだろうか。

「もうお仕事ですか?」

「というより、一仕事済ませて今帰ってきたところなんだ。」イチローはそう言い、左手に提げた袋を指差して。「タツナリの分の朝ご飯買っておいたから、好きなときに食べなよ。」

「ありがとうございます。」

「ほら、うちの会社さ、文化や宗教の関係で、食べ物ひとつ取って選ぶのにも一苦労でさ。」

「俺、大丈夫です。何でも食べられます。」

 とにかく俺は早く袋を受け取りたかった。俺の心を見て見ぬふりか、イチローはドアにもたれたまま、なかなか袋を渡そうとしない。

「俺、これからまた仕事なんだけど――どう、タツナリも乗ってみない?」

「いえ――結構です。切符もありませんし。」

「大丈夫。降りなければ切符も要らないし。」大胆にもイチローはそう言った。

「まあ、でも・・今日は、この駅にいますよ。」

「そっか。」イチローは肩をすくめ。「じゃあ、ワンのこと、よろしくね。」

「ワン・・・?ああ、忘さん?」

「別にこれといって何かするということもないんだけどね、ただ様子をたまに見に行ってくれないかな?」

「分かりました。」

「ありがとう。」イチローは笑って、ようやく袋を差し出した。「じゃあ、俺は行くから。」

 素早く袋の中身を漁ろうとした俺だが、心にかかることがあり、イチローに何気なく訪ねてみた。

「イチロー。チャンのことなんだけど――」

 イチローは、閉めかけた扉を再び開き、答えた。

「チャンも出勤中だよ。いつもと変わらない様子だった。暫くはタツナリと顔を合わせないかもしれないけど、まあ、すぐになんとかなるよ。大丈夫。」

 扉が静かに閉まった後も、俺はイチローの言葉を頭の中で復唱した。それで、要するにチャンに関してはイチローも大して当てにならないのだと分かると、ベッドに力一杯倒れ込み、これまたなんの変哲もないサンドイッチを喉に突っ込んだ。

 それを咀嚼しながら、俺は携帯電話を開いた。画面が黒い。充電切れのようだ。鞄に向かって投げると、反れて扇風機のスイッチに当たった。大きな音を立てて扇風機が強風を送り始める。フライドポテトの袋を逆さにして、ポテトを全部口に落とし込む。

 空は澄んで明るい。しかし、俺はその空の下で日を浴びることができない。ポテトの袋を丸め、起き上がり、脱ぎ散らかした靴下をつまみ上げると、誰かと視線が重なった。

「ワンさ・・」俺はベッドから立ち上がり、急いで靴下を隠した。ワンさんは目が合うと無邪気に微笑んだが、俺は恥ずかしさのあまり固まってしまった。

「あ・・・ワンさんは、いつから、そこに・・・」

 ぼそぼそと俺が話しても、ワンさんは優しげな表情を変えなかった。それで俺は、この人には俺の話すことが通じないのだと思いだした。鞄の中からスケジュール帳を取り出し、名前と簡単な自己紹介を書き、ワンさんに示した。ワンさんはそれを覗き込むと、俺の左手からペンを取り、汚い走り書きの横に、整った明朝体で、

『あなたのこと、知っています。昨日、お会いしましたから。』

と書いた。均整のとれた美しい字体に見入った俺は、自然とワンさんに微笑みかけていた。ワンさんはさらに、

『見せたいものがあります。良かったら、一緒にどうですか。』

と続けた。スケジュール帳から顔を上げると、ワンさんは白く柔らかい手で俺の手首を掴み、駅の方へと誘った。

 東アジア随一のターミナル駅らしく混雑しているのは、昨日と変わりがない。荷物を抱えた、肌の色の様々な旅行客が行き交う。コックが料理場に積み込む食材を点検している。発車待ちの間、立ち話をする運転士と駅員。そして、紺地に金色の線の入った、長距離列車が入場してくる。昨日俺が乗ってきたのと同じ車体の列車だ。

 ふとワンさんは立ち止まり、黒光りした厚い壁を指差した。聳える壁を見上げたものの俺が何も反応を示さないので、じれったそうにワンさんはスケジュール帳を奪って、

『行ってみたい駅はある?』

「駅・・・?」広い壁をもう一度注意深く見ると、壁に金字でびっしりと文字が書かれているのに気づいた。さらによく見れば、路線図だ。十数メートルもある幅の広い壁に、中国どころか、全世界に路線網を広げる世界鉄道の全路線の駅名が、細かい字で刻まれているようだった。こうされると、『世界』鉄道の意味も身をもって感じられる。

『これが、全部、MMFの路線?』

 ワンさんは頷き、金字の中のどれかを指で示した。目を凝らしたが、光の反射具合で読めない。仕方なくスケジュール帳を渡すと、ワンさんは『西安』と書いた。『西安に、ワンさんは行きたいの?』と尋ねると、ワンさんは少しはにかんで、浅く頷いた。

「俺は・・・」

 言いながら、俺は金色の線を、右へ右へとたどって行った。結局、線は途中で見失ってしまったが、金色の線のない空間の暫く続いた後、俺は一瞬自分の指先を凝視した。

 KIOTO

・・・『京都』とある。

 その五文字は、金色に塗られてさえもおらず、黒壁に刻まれた時のまま、人々の視線からも記憶からも消えてしまいそうにしていた。さらにその五文字から左下の方へ、小指ほどの太さの溝が長々と伸びていた。京都から伸びる直線。金色ではないが、日本にあるMMFの路線には違いない。目をさらに細め、慎重に線を追っている途中で、その手をワンさんに掴まれて、俺は連れて行かれてしまった。

 改札口付近の社員食堂を通り過ぎる。ワンさんの右手に引かれていた俺は、ふとその左手に抱えられた、古びた、だが頑丈そうできれいな装丁の本に目が止まった。ワンさんを止めさせて、スケジュール帳に書きつけて尋ねれば、ワンさんは短く、

『古い本。』

とだけ答えた。見せてくれないかと頼むと、ワンさんは本を渡してくれはしたが、さみしげな様子で、

『開いても、何のことか分かりませんよ。読めるのは今のところ私しかいませんから。』

 確かにその通りだった。開いたページは、さながら墨塗り教科書の一ページのようだった。見ようによっては漢字やアルファベットが隠れていそうに思えなくもないが、大体は解読不能のインクの塊だった。

『これ、本当に読めるの?』

『やはり読めませんか?』

『どんな内容か、簡単に説明するのも、ダメ?』

『ごめんなさい。でも、これは私の言葉が分かる人しか読めないようなのです。何度も試したのですが、誰もが読めなくて・・・』

「そうか・・・」ありがとう、と俺はスケジュール帳に書いて、黄ばんだ本をワンさんの手に戻した。

 すぐ近くのエレベーターに乗り込む。ガラスの向こうのホームがみるみる低くなっていく。大して時間もかからず、エレベーターは最上階、つまり一階に到着した。

 エレベーターの出口は、細長い通路に続いていた。左右は黒い壁で仕切られ、床は透明で、混み合うホームが目下に見える。いつ床が無くなってしまうのかと思いながら、地雷原を歩くような覚束ない足取りで、延々歩くと、ようやく扉が現れた。さらに上り階段が続く。最後の一段を踏み終えると、前にいたワンさんは、部屋の明かりをつけた。

 軽快な音が、木の香りのする広い室内に響いた。音の正体を見つけ、俺は思わず声を漏らした。上海南京路の天井の上にあったのは、精巧な鉄道模型のジオラマだった。

 蒸気船の周りに浮かぶいくつかの小舟。大河を臨むほとりに並ぶ欧風建築の数々。フォード車の行き交う繁華街を指で追うと、突然何列にも並んだ線路と白いプラットフォームが現れる。深紅のボディの威厳のある客車を引いた機関車が、今ちょうどターミナル駅から出発したところだった。街路樹やビルまで細かく丁寧に作られたジオラマだったが、ホームに立てられた看板には、ペンで素っ気なく『SHANGHAO』とだけ書かれていた。

 機関車はゆっくり車輪を動かし、駅を離れる。それと同時に、軽やかな音を立てて走っていた別の列車が駅に到着した。気付けば、ワンさんが近くで操縦をしていた。俺が顔を上げると、ワンさんはにっこりと微笑んだ。上海駅だけではない。機関車の走る先には、山があり、砂漠があり、そして新たな街があった。パリのエッフェル塔なんかもある。アラビアのモスク、地中海の白い家、神社仏閣などが、何の秩序もなく散在している中を、客車を牽引する機関車やディーゼル車、電車、流線形の超特急などが颯爽と駆けていく。地理的関係も時代背景も超えて、世界中のありとあらゆる素材が、そのジオラマの中で巡り合い、一つところに佇んでいた。俺も止まっている列車を一つ見つけて、操縦のしぼりを動かした。ヘッドライトに光が灯り、勢いよく走り始めた貨物列車を見て、俺は子供にかえったように夢中になって列車を運転していた。

『すごいね。』興奮して俺は書いた。『こんな鉄道模型が、駅の中にあるなんて。誰が作ったの?』

 するとワンさんは、赤くなり、小さく口を動かした。

「え・・?」残念ながらワンさんの言葉は聞き取れなかった。

 ワンさんは口を閉じ、力強く俺のペンを取ると、俺の字の下に優しい筆致で書いた。

『張良。』

貨物列車のスピードが急に落ちた。俺は手渡されたスケジュール帳の文字を、じっと見つめた。

「張良・・・チャン?」


「へえ、じゃあワンと仲良くなったんだ。」

 イチローは昨日と同じ食堂の席で、昨日と同じように炒飯を頬張りながら言った。

「まあ、仲良くなったというか、何というか。」

「ん?」イチローはれんげを口にくわえたまま。「何だかご不満のようだね。」

「顔、見れば分かりません?」

「――まあね。」イチローはいたずらそうに笑って。「でもさ、そういう感情は、口に出してこそ面白いものだからさ。黙って人の心を覗くのを憚る時もあるわけさ。」

「――そんなふうに、顔に書いているんですか?」俺は赤くなって。

 イチローはおかしそうに微笑んで、鉄観音茶を飲んだ。

「イチローさん。」

「ここにいるよ。」

「駅の上に、鉄道模型あったんですが・・」

「鉄道模型?ああ、あるね。」

「あれって、本当にチャンが作ったんですか?」

 イチローは箸を持ちながら。「それも、ワンから聞いたのかい?」

「――そう、顔に書いていませんか?」

「でもさ、やっぱりタツナリの口から聞く方が楽しいし。ああ、そうむきにならないで。」イチローは笑って。「チャンが作ったっていうのは、本当だよ。いつあんなものを作る時間があったのかは知らないけど、気づいた時には、あったね。それが?」

 俺の脳裏に、幸せそうなワンさんの顔が浮かんだ。口を動かした時、俺には聞こえなかったけど、ワンさんはチャンの名前を呼んだに違いない。むしろ、「アシハラ」なんていうよく分からない言葉よりも、本当はチャンの名前を一度でいいから声に出して呼びたいのだろう。ワンさんにとって、チャンとは――つまり、そういう存在なのだ。

「――察してください、か。」イチローは俺の顔を見て、小さく肩をすくめた。

「あの・・」ワンさんから離れたくて、俺は口を開いた。「そう言えば、あの鉄道模型の中に、上海駅みたいな模型があったんですけど。」

「あれは――今の上海駅の前の駅だよ。」少し間を空けてイチローが言った。

「前の駅って、地上駅だったんですか?」

「――うん、随分昔に――戦災で焼けちゃったけどね・・」イチローの声が淀む。むろん俺にはイチローの心が読めない。「何でだか、チャンはこだわるんだよ。昔の駅に。」

「戦災・・・?」

 イチローはふと顔を上げた。話題の種を探そうとしたのかもしれない。そして新しい話題はすぐそこにあった。

「ああ!」いきなりイチローが訳の分からない言葉で話し始めたので、俺も視線をイチローと同じ方へ向けた。俺たちと同じ格好をした、まだぎこちない様子の鉄道員。ただ、サングラスはかけていなかった。青白く、知的な顔が印象的だった。

 イチローは俺のことは忘れたように、その男に楽しげにエスペラントで話しかけていた。一方男の方は何度もつっかえたり、言い直したりして、たどたどしい話し方だ。時々イチローが男の言葉を訂正する。男はイチローに何か尋ねることがあって来たようだった。イチローは首をかしげ、思いだしたように一瞬俺を見てから、ゆっくりとしたエスペラントで男に返事をした。男は礼を言い、俺にも会釈をした。イチローは俺の方を手で指して、男に何か話していた。言われるままに俺も軽く会釈をした。男は気のよさそうな表情を浮かべ、食堂から去って行った。

 男の背中を見送ってから、イチローは俺の方を向いて。

「今の人、タイガーってあだ名で呼ばれているんだ。ハノイから来た留学生で、この夏はインターンシップでMMFに研修に来ているんだよ。」

「――インターンシップも、やっているんですか・・・」

「何だか、昨日僕たちの乗っていた列車でね、途中で乗り換えるはずだった乗客が一人、乗り換え先の列車に乗っていなかったらしいんだ。と言っても、僕もチャンも、蘇州から乗って来たから、分からないって答えた。」そう言うと、再びイチローの視線はチャーハンに移った。「それにしても、あいつ――タイガーのことだよ――いつになってもエスペラントがぎこちないんだよね。まあ、インターンでいきなり来て、多くを要求するのも、あれだけどね。」

「それだけの質問が出来るなら、上出来だとは思いますけど。」

「いやあ、でもエスペラントは、ほら、世界鉄道の業務言語だからね。身に付けてもらわないと。僕だってベトナム語は分からないから。」イチローは言った。「それに、エスペラントって、そんなに難しくないでしょう?トルストイは数時間でマスターしたんだし。」

「・・・さあ、俺に尋ねてもお役には立てないと思いますよ。」

「タツナリは、他の言語なら何でも話せるでしょう?じきに、いやすぐに、話せるようになるさ。」イチローは呑気に言った。

 結局、それから一週間は、俺はイチローと食堂に行き、ワンさんと筆談したり、黙々と鉄道模型を運転したり、陽光の当たる床に寝転がったりして過ごした。ワンさんは一羽もツバメを描かなかった。チャンは一度も姿を見せなかった。俺は一語もエスペラントを覚えなかった。そして、着た服はベッドの傍に毎晩脱ぎ散らかしていたのに、朝が来れば、きれいに洗濯されて、朝食と共に椅子の上に畳まれているのだった。

 



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