第二章 漂着 その3
四
「タツナリ、晩ご飯食べに行こうよ。」
イチローのひょうきんな声で、俺は目が覚めた。
眠っていたらしい。
部屋からは色が失せ、床には朧げに光の長方形が佇んでいた。
「食べるって、どこへ?」
眩しい廊下の方へ、細めた目を向ける。
「社員食堂だよ。南側の入国審査ゲートの近くにあるんだ。」
無論、どっちが北で南なのかなんて、皆目見当もつかない。へえ、社員食堂か、やっぱりこの鉄道にもあるんですねと言うと、そりゃそうだよ、MMFには無いものなんて何も無いさと自慢げに答えた。
再び足場の悪い闇の階段を降りていき、駅に出る。夥しいほどの光を浴びるかと思ったが、地下の上海南京路駅はいくぶん光を落とし、行き交う人々の姿も昼間よりやわらかに映し出されていた。俺はイチローの半歩後ろをついて行った。細身の撫で肩の後ろ姿は、率直に言って頼りなさげに思える。チャンとどこに行ったのとか、この駅はやっぱり大きいよねと、時々振り向いては話しかけ、こちらが答えなくても勝手に話を続けるところはチャンに似ているが、語調の違いだろう、チャンといるより気楽だった。
南側の出口の脇まで来ると、一段と耿耿と輝く部屋に、イチローとそっくりのサングラス女やサングラス野郎が吸い込まれていくのが見えた。思った通り、そこが食堂だとイチローが言った。俺みたいな一般人が入ってよいものかと不安になったが、イチローは、ここの鉄道員はそんな小さいことには気を留めないよと言い、中に入っていった。
外が見たよりも奥行きはずっと広く、高さもあった。バイキング形式のようで、盆を持った制服姿の社員の列ができている。何度も重ねて言うが、俺にはどんな言葉も(エスペラント以外は)日本語に聞こえる。けれども、列に並ぶ社員の話す内容や、口の動かし方、仕草から、さまざまな言語がこの食堂に満ち満ちているのが分かった。肌も髪の色も、容姿も種々様々の社員達が、一日の疲れを癒しに、夜勤の前の一服に、ここを訪れている。サングラスを胸ポケットに収め、人の好い素顔を見せて談笑する鉄道員も少なからずいることで、少し救われた気がした。昼夜紺地の制服にサングラスの群れを見るのは、あたかもマフィアの地下アジトにでもいるかのようで、気が落ち着く余裕がないのだ。
けれども、イチローは、古びたサングラスを決して外すことはなかった。
入口から離れた壁際の席に座ることにした。俺を一瞥する社員もいたが、特に何ということもなかった。
「さあ、食べるだけ食べて。俺たち世界鉄道の奴らにとってはね、客は歓待するのが礼儀なんだよ。さあ、さあ。」
イチローは俺に催促しながら、自分はさっさと炒飯をスプーンで掘削し始めた。あまり食欲はなかったが、金はイチロー持ちで、せっかくのもてなしを断るわけにもいかないので、俺は野菜炒めに箸を伸ばすことにした。
「チャンと何かあったね。」
徐にイチローが口を開いた。
「――どうして分かるんですか?」
「顔にそう浮かんでいる。」
イチローは気さくな笑みを浮かべた。こちらとしては妙な気分である。顔に浮かんでいる?
「うん。人の顔に浮かんできた『思い』を読み取ることができるのが、このサングラス。でも、人の腹黒さまで見えるから、けっこう疲れるんだけどね。」
イチローの言葉に、俺は思わず居住まいを正した。
「じゃあ、何があったかも、分かるんですよね?」
「大体ね。」イチローは炒飯を口に放り込んで。「大丈夫だよ、チャンのことは。でも、少し待ってやった方がいいかもね。」
「どうしてですか?」
「悩んでいるんだ。戸惑っているし、焦っている。」
俺は箸を止めた。イチローのサングラスは俺を見据えている。
「あの女の人のこと――?」
イチローは頷いた。
「数年来のチャンの懸案事項なんだ、彼女は。
「あの女の人――」もやしを飲み込んでから続けた。「チャンの、誰かさん、じゃないんですか?」
「さあね。」
「さあね?」
「さあね、なんだよ。」イチローは言った。「ある日チャンのもとに現れてね。チャンも僕も知らない人だった。いや、チャンは、前に会ったことがあるって、前に感じたことがあるらしいけどね。だけど不思議なことに、あの人はこっちがいくら話しかけても、ぽかんとして何も答えないんだ。きれいな東洋の女性だったから、中国の地方から出て来たのかもしれないと見当をつけてね。ほら、ここの鉄道員はいろんなところから来ているからさ、様々な人に頼んで話し相手になってもらったんだけど、全部無駄だったんだ。ヨーロッパやアフリカの言語に詳しい奴にも助けを求めたんだけどね。」
「あの・・・その人、耳が不自由っていうことはないんですか?」
「ない。」イチローは断言した。「音楽を聴くのが好きだし、この駅に止まる多様な警笛にいちいち気づいて、何かを伝えようとするんだ――声は出ないけどね。」
「それで、コミュニケーションはどう取るんですか?」
「それなんだ。」イチローは身を乗り出して。「数十の言葉で話しかけても徒労に終わって、諦めかけた頃に、突然彼女が紙に書きつけて来たんだ。『あなたはどちらさまですか?』って、達筆の楷書体で、普通話を。」
「読み書きはできる?」
「それも並大抵のものじゃない。試しに数十人の同僚に母語に筆談させたら、全て彼らの母語で返事を書いたんだ。それも一点の誤りもなく。それどころか古典の本を持ってきたら、僕たちの読めないエジプトの神聖文字や古代ルーン文字、さらに未解読の線文字Aを使って内容の説明をし始めるんだ。魂消たよ。何でも読めるし、何でも書けるんだからね。」
「それって――」俺はイチローを見詰めた。
「タツナリと殆ど正反対なんだ。」イチローは答えた。
「彼女は、それだけ読み書きができるのに、音読は全くできないんだ。赤ん坊の喃語みたいに、言葉にならない音声を発するだけ。それに、ある言語を別の言語に訳すことはできない。例えば、中国語の文章を英語にすることができないってことだよ。どちらの言葉も読み書きにかけてはネイティブ顔負けなのにね。それから、これはタツナリとも似ていることなんだよ。僕のサングラスによれば、タツナリは僕たちの話す様々な言葉を何の苦もなく使いこなせるけれど、自分の耳には全部タツナリの母語、つまり日本語で聞こえているらしいね。違う?全部自分には日本語に聞こえているから、今僕が話したことを全部スペイン語に訳してといっても無理なんだ。アルゼンチン人を前にしたらスペイン語を話すんだろうけど、僕とは台湾語か、普通話でしか話せないんだもの。」
「つまり・・・」イチローの早口に目を回しながら、ゆっくり俺は答えた。「あの女の人の目には、自分の中では文章にされた言葉が、みんな、何かある一つの言葉にしか見えなくて、本人はその一つの言葉で返事を書いているだけなのに、はたから見れば多種多様な言葉で書かれているって、ことですか・・・?」
「うん。」満足そうにスープを口に含んで。「でも、タツナリの場合は、母語で不自由なく読み書きできるけど、彼女は自分の母語で簡単な会話すらできない。そもそも彼女に『母語』があるのか、それ自体分からないんだけどね。とにかく、これがタツナリと彼女との違うところだよ。」
「ちょっと待ってください。」急いで俺は口を挟んだ。
「何だい。」
「その・・・あの人は、会話はできなくても、読み書きができるんですよね?ということは、チャンとも筆談でコミュニケーションは図れるんですよね?」
「うん。」
「じゃあ・・・別にチャンは困ることはないじゃありませんか。」
サングラス越しに見つけたあの時のチャンの目が脳裏をかすめた。あれほど俺の胸ぐらを強く掴んで、あれほどの気迫で、叫んでいたチャンだ。
「良い質問だね。」イチローは笑みを浮かべた。「でもそのためには、チャンのことについても話さなきゃいけないな。長くなるから、ほら、食べながら聞きなよ。」
そう言ってイチロー自身もレンゲを口に挿し込みながら、さらにイチローは話し始めた。
イチローは、チャンと初めて会った時のことをよく覚えていない。たまに見る夢の中では、両親を失ってすぐの五歳ごろの自分が、大きな駅の中に迷い込んだとき、チャンがイチローの手を引いて人波から救い出してくれる。だがその時のチャンは、今とほとんど変わらない、多く見積もっても三十を超えない青年だった。チャンと大して年齢の変わらないイチローとチャンがそのように出会うはずがない。そして、チャンの方も、イチローといつ知り合ったのかを忘れてしまったという。それどころか、チャンは自分の来し方の記憶を一切失っていたのだ。
無理に過去を思い出そうとすると、まるで俺のように、鋭い激痛が脳天を襲い、床をのたうちまわる時もあった。なぜ上海にいるのか。なぜ世界鉄道で車掌をしているのか。さらに、なぜ記憶を失ってしまったのか。一切の答えは闇の中だった。
しかし、その中でも唯二つ、過去の手掛かりとなる言葉があった。一つは「ツバメ」。そしてもう一つが「アシハラ」――俺の名字と同じ発音――だったのだ。当初はチャンもこの言葉がなぜ思い浮かぶのかが良く分からなかったし、気にかけてもいなかった。「ツバメ」はさておき、「アシハラ」は、普通話にも上海語にもない奇妙な音の羅列だった。けれども「ツバメ」と「アシハラ」は決して一つずつ思い出されるのではなく、一方の言葉が頭に浮かぶと、必ずもう一方の言葉も脳裏をよぎった。偶然の組み合わせとは思えなかった。しかも何よりも、何語を話しても通じないと途方に暮れていたチャンに対して、あの女性が、初めて、そして唯一、声に出して発した言葉が、
「・・アシハラ・・・」
チャンがあの女性を引き離せない理由は、ただこのことにのみ起因する。
ある日チャンは思い切って女性に筆談で尋ねた。「アシハラが何かを知っているか。」彼女は答えた。「知っている」と。さらにチャンは尋ねた。「それは『ツバメ』とも関わりがあるのか。」女性は書いた。「ある」と。
「それについて是非教えてくれないか。」チャンは興奮して訊いた。しかし女性は悲しげな面持ちでこう言った。「そのことは以前に何度もあなたに向けて書いたはずだが、あなたには私の書いたその文章が読めないようだ。」女性はチャンのノートに書きつけた女性の筆跡を指差した。それは文字と言うよりもインクの溜まり場のようだった。アルファベット、キリル文字、漢字、ギリシャ文字、タイ文字、ハングル、アラビア文字、その他無数の文字が、上に上に書き重ねられ、つぶれてしまった文字の塊だった。当惑を隠せないチャンに、「でも」と女性は続けた。「私と私の言葉で話せる人がいれば、その人を通じてあなたは知ることができるかもしれない。当てにはならないが、そんな人が現れそうな時には、ツバメの絵を描いてあなたに知らせる。ツバメの話を文字で書くと、きっと読めないだろうから」と。
「そして、昨日、初めてあの人はツバメの絵を描いたんだ。一羽の小さなツバメをね。」
そう言って、イチローは話を終えた。
「それで、今朝突然俺がチャンの前に現れたわけか。」ようやく腑に落ちて俺は答えた。それも俺の名字が『アシハラ』と来れば、チャンがしつこく問い詰めるのも無理はない。
「でも、俺、結局チャンの役には立ちませんでしたね。」
「タツナリの所為じゃないよ。」優しくイチローは言った。「彼女の言うとおり、あれはあくまで『予感』に過ぎないんだしね。『ツバメ』がどこにいるのかも、どれくらいの数いるのかも、はてさてそれが人間なのかも、彼女の描くツバメの絵からは読み取れないんだから。」
そうですよねと俺は言い、旨い小龍包を含んだ。茉莉茶で小龍包を喉へ押し込みながら、これで今朝からの奇妙な数々の言動の少しは消化されたなと感じた。ただ、未だ残るのは、ツバメと『アシハラ』との関係だった。
「そう言えば、お仕事の方はどうだったんですか?」
「うん?あぁ、今日はシャン=ラン大本線で特急を南京まで運転したんだ。路線についてはチャンから聞いたみたいだね?顔に浮かんでいるから。南京まではシャン=ラン大本線と援蒋ルート北西線は並走するんだけど、南京からは援蒋ルート北西線はさらに北西、鄭州や洛陽を経て、西安に行く。尤も、歴史に出てくる援蒋ルートは西安から先が本当の現場なんだけどね。」
援蒋ルートは、大学受験から一年も経たない俺の耳には馴染みの言葉だった。日中戦争時、首都南京が陥落し、長江の上流域の重慶へ落ち延びた国民党の蒋介石政府に対して、米英が物資援助を行ったルートの総称である。北西線すなわち北西ルートもその一つで、新彊ウイグル自治区の方から西安を経由し、重慶へ赴く。
「僕が上海から南京まで運転したのは、マカオ発南京経由西安行きの列車でね。」
イチローは食器を重ねながら続けた。
「一緒に乗っていた車掌や車内販売のお姉さんの話によれば、今日は学者さんたちがたくさん利用していたみたいだよ。何でも古代の帝国の遺跡の調査でもするらしくて、第一陣は北京の方から向かっているらしいって。世界中から考古学者が集まってくるそうだよ。」
へえと俺は生返事をして、わざわざ電車で向かうなんて物好きですねと気の利かない言葉を続けた。イチローはイチローで、車窓を眺めながらのんびり異国を旅するなんて、なかなかお洒落じゃないかいと答えた。
盆を返すと、俺たちは再び薄明るい駅へ出て行った。食堂はまだ社員達で溢れていた。
「この鉄道には、僕らみたいに、帰る場所を知らない仲間が多いんだ。そういう奴らは、僕らみたいに、駅の中に居場所を見つけて、何年もそこに住みついている。この鉄道にいる限り、食糧も、仕事も、仲間も、安全も保障されているからね。」後ろを振り返りながらイチローが小さく言った。「そういう奴ら――僕も含めて――のことを、ここでは『鏡草』って呼んでいる。」
「かがみぐさ。」
「蓮の別名だよ。要するに根無し草だって言いたいんだけどね。」イチローは苦笑する。
「あの・・・俺、本当に日本に帰れるんですよね。」
思わず心配してイチローに訊いた。
「鏡草になりそうな気がした?」イチローが茶化して言った。「大丈夫。今は少しチャンを待ってあげるんだ。チャンのことだから、すぐに立ち直って、何か妙案を思い付くかもしれないしね。それに」イチローは続けた。「タツナリは日本に根を下ろしているから。帰る場所に帰りたい人は、必ず、この鉄道で帰らせてあげるから。」
警笛と共に、南出口の大型電光掲示板から、平壌経由釜山行きの表示が点滅して消え、轟音をこだまさせ、がっしりした赤と青の車体が闇の中へと呑まれていった。
「聞き忘れていたんですが。」
「何だい。」
「あの女の人・・・名前は、何て言うんですか?」
「自分でも思い出せないんだ。」イチローは肩をすくめた。
「だからチャンが、彼女を『ワン』って呼び始めたんだ。」
「『王』?」
「声調が違う。『王』じゃなくて、『忘』。何もかも忘れたっていう意味だよ。」イチローは苦笑いした。「ひどいネーミングだよね。」
「何だか今の俺みたいですね。何を忘れたのか、忘れてしまった。」
「そうかもしれないね。」とイチロー。「それに、チャンとも似ている。」
それから俺たちは、長い駅のホームを歩き、灰色の壁の灰色の扉を開け、イチローは手前の部屋へ、俺は奥の『隔離病棟』へ戻っていった。扇風機を回しながら、俺はもう一度、今朝電車の中で目を覚ます前の記憶を呼び起こそうと試したが、激痛の一端を感じただけだった。ベッドに飛び込み、暫くあれこれ考えながら寝がえりを打っていたが、そのうち快い睡魔が訪れ、俺を夢へと誘っていった。