第二章 漂着 その2
三
車内点検を済ませたチャンに連れられ、俺はデッキを降りた。
見上げる程高い天井は、地上の建物で言うなら三階上にあるのだろう。全面が磨かれた鏡になっていて、間抜けな俺の顔がホーム上の自分を見下ろしている。地下にあることを忘れてしまいそうだ。数メートルおきに大理石を重ねた太い支柱が立ち並び、「13」という数字の付いた看板と電光掲示板が突き出している。途中で二股に分かれた黒く丸い支柱の先には、スズランのような釣鐘状の灯りが付いていて、壁と天井に並んだ照明から届く熱い光とは別に、穏やかで心地よく照らしてくれる。他の乗客はもう去ってしまって、俺の立つホームは閑散としていた。固定された長椅子に書かれた駅名表示らしき文字列を、俺は凝視した。
「SHANGHAI (NANJINGLU) STACIO」
「上海南京路駅だ。」チャンが答えた。やけにこのホームだけ人気が少ないですねと言うと、そりゃ降車用ホームいだからな、乗車用ホームにはたくさんいるさ、ほらあっちとかさ、と、文字通り人間で溢れそうな反対側のホームを指した。
「この駅は、上海の中心駅ではあるのは言うに及ばず、中国、いや東洋随一のターミナル駅だ。ここでは、北京からインドシナ、カシミール、中東、バルカンを越えてロンドンに至る大陸の大動脈・ユーラシア大本線や、香港までを四時間で結ぶ華南磁気高速線、南京から武漢、重慶を経、チベット、アフガニスタンからテヘランまで至るシャン=ラン大本線、新彊ウイグルへ抜ける援蒋ルート北西線、市内線の浦東・浦西循環ラインなど、合計八路線が発着する。ホームは三五番線まである。」
俺は頭上の掲示板を見上げた。漢字ばかりで訳が分からないが、時折「BANGKOK」や「CAIRO」の文字が目に止まり、チャンの話が強ち嘘でないことに一層心へのダメージは加算されるばかりである。さながら空港の国際線のような有様だ。
「それで・・・この鉄道は、どこまで続いているんですか?」
「どこまでも。」
子供の歌の歌詞みたいなことを、平気でチャンは口にする。
「太平洋やカリブ海の島々、それに北極と南極を除けば、世界のほぼ全ての国に路線網は広がっている。ユーラシアと北米大陸はベーリング海峡線で繋がっている。冬は凍結して通れないけどな。」
「でも日本は通っていないんですよね?」
さりげなく尋ねた筈だが、チャンの顔は若干翳った。やっぱり海で隔てられているからですよね、と続けてみたが、チャンは大きく息を吸い込んで、静かに吐いた。煙草の臭いが周囲に広がる。
「どうだ、感想は?」
「は?」
「は、じゃない。駅の感想だ。デカイだろう?」
俺が何も答えないでいると、チャンは構内にある陸橋に向かって歩き始め、付いて来いと振り返った。周りの雑音と敬的に耳を澄ませながら、俺は急ぎ足で追いかけた。
「お前には少し、この鉄道の沿革を話した方がいいな。」
俺はチャンを見上げた。
「『MMF』すなわち『素晴らしき世界鉄道』は、第二次大戦中、ナチスドイツが建設中だった軍事目的の欧州大陸横断高速鉄道を、戦後連合国が押収し、国連の管理下で平和目的の鉄道として、世界中に路線網を広げる大計画を立てたことから誕生した。ただ、この国連世界鉄道は経営難となり、結局現在の現在の本社社長である大富豪のアーネスト=グロリア卿により全線が買収され、今に至る。」
チャンは独り、次から次へと話を続けていく。陸橋と同じ高さの所を、いきなり電車が通過していった。後からイチローに聞いたところによれば、上海市の地下鉄らしい。南京路の地下深くに広大なターミナル駅があることを計算に入れずに着工したため、路線の一部が上海駅の上を通るという、奇妙な形になってしまったそうだ。
「もともとこの駅は地上駅で」チャンはまだ話していた。「実はここ中国では既に戦間期から列強により租界地における世界鉄道の敷設工事が進んでいた。上海駅も例外でなかったが、竣工を指導したのは、今のMMF東アジア支部中国支社長のおじいさんで、中国人の劉英という人だった。上海駅は今のシャン=ラン大本線の始発駅として建設されていたらしいが、空襲で焼失してしまった。朝鮮半島を経て日本へ行く海底路線という壮大な計画も、それで頓挫したようだ。」
なるほど、だから日本とは繋がっていないんですねと呑気に俺が話しても、チャンはさしたる反応なく、陸橋の一番端の階段を目指した。「0」という番線表示と、色彩豊かな人だかりの改札口が眼下に見える。
「チャンさん。」
「そう丁寧な言葉遣いをするのはやめろ。俺はお偉方じゃないし。虫酸が走る。」
「じゃあ――チャン。」
「何だ。」
「お前に協力したら、日本に帰すって言ったな・・・。何なんだ、それ・・・まさか、ツバメ退治でもさせるんじゃないんだろうな?」
三流ファンタジーの善玉ヒーローになんてなりたくない。
「退治するんじゃない。」
階段を降りかけてチャンが止まった。
「奴らが何者なのか、接触して調べてほしいんだ。」
なるほど、偵察ですか。厄介事には変わりありませんね。俺は眉をひそめ、
「何でだよ。」
「それはじきに分かる。」
「じき、じゃ困る。俺だってのうのうと過ごしていられるほど暇じゃないし――」
「嘘言え。どうせ学校では授業もまともに受けていないんだろう?今更急いで日本に帰ったところで、腰を据えて勉学に励むわけもあるまいし。」
俺は思わず呆れて言った。
「それも――イチローさんのサングラスで?」
「いや」短くチャンは言った。「俺の勘だ。」
チャンは階段に足を下ろしながら言った。
「イチローのグラサン―――何でも見通せるとお前は思うか?」
「どういうことだよ?」
「俺も分からない。」とチャン。「だがお前が何語でも話せることと、ツバメじゃないって言ったのはあいつのグラサンだ。――痛みをあっさり言い当てたのも。」
足音とともにチャンの頭が下がっていく。
「何かあったのか?『ツバメ』と・・・」
「お前、本当に全ての言語が分かるのか?」
まるで話が噛み合わない。少々嫌気がさして、
「知らねえよ。全部の言葉に触れられるわけじゃないし――」
「でも聴けて話すことはできるんだろう?」
「まるで俺が文字を読めないみたいな言い方だな。」
「でも事実そうじゃないか。」
涼しげなチャンの顔が癇に障り、お前いい加減にしろよとチャンの頭上から語気を強めて言った。
するとチャンは、相変わらず馬耳東風に聞き流し、踊り場に立ち止まりながら、やけに張りのない声で呟いた。
「――まるで逆だな・・・」
「誰と?」思わず俺も小声で訊き返した。
「あいつと。」
「あいつって?」
チャンは黙りこみ、ライターの火を点けた。
「そう言えば――」思い出したことがあった。「チャンとイチローが最初に話していた時の言葉。俺、全然分からなかったんだけど、あれは何語?」
煙を吐きながら、チャンはにべもなく答えた。
「エスペラントだ。」
横文字の登場に、俺は胡散臭がりながら尋ねた。
「何だ・・・それ?」
「知らないのか?」思わず煙草を口から落してチャンは言った。「今から百年以上前に、ユダヤ系ポーランド人の眼医者さんが作った人工語だよ。そして、MMFの社員は業務用語として言語を使うよう義務付けられている。」
「人工語?何のために?」
「世界共通語を作るためだ。」とチャン。「英語でもなく、中国語でもなく、どの人間にとっても、等距離の言語をな。誰でも易しく学べる共通語を世界に広めて、人々の相互理解を促進し、平和の礎の築くために。いかにもユダヤ系ポーランド人が考え、望むようなことだと思わないか?・・・最も、現実主義の現代人は、先人の崇高な理想そっちのけで、英語で手っとり早く意思疎通を図ろうとし、かえって泥沼に入って金ばかり費やしている。世界平和のために国際機関である国連さえ公用語にしていない。無論、車内放送で使っても乗客がチンプンカンプンだから、すぐに現地語に切り替えた。」
「でも、チャンは話せるんだろう?エスペラントを。」嫉妬深い口調で俺は訊いてみた。
「ここの鉄道員だからな。」煙を静かに燻らせて。
「人工語なんてさ――機械的で意味不明なんじゃないのか?」
「確かに、非常に効率的な言語ではある。何せ不規則というものがないからな。記憶の負担を避けるために、少ない言葉のパーツで膨大な数の言葉を作れるような工夫がある。だが、大部分の語彙がヨーロッパの言語から失敬して手を加えたものだから、言葉の響きは人間味があり、美しい。」
チャンの帽子で光る緑の星を見ながら、俺は言った。
「どうして世界鉄道はエスペラントの習得を義務付けたんだ?」
「その眼医者さん――ザメンホフ博士の理想を継承したかったんだろう。本社長のグロリア卿も、東アジア支社長の劉氏も、熱心なエスペランティストとの聞こえが高い。世界最大の私有鉄道だ、社員全員が話せばエスペラントの話者数増加にも貢献できるからな。」
俺は看板の、読めないアルファベットを睨みながら、ようやく霧が晴れた思いがした。何よりも、俺と同じようにこの文字列が読めない人が多数いることに安堵感を禁じえなかった。エスペラントは分からないのかと言われ、習ったことがないから当たり前だと胸を張って答えれば、じゃあ耳にしたこともない上海語が達者なのはどうしてだと切り返され、反論できずに口籠ってしまった。
ホームに降りる。先ほどのよりずっと賑やかだ。0番線には、卵に形が似た深圳行きのリニアが浮いていた。質問があれば何でも俺に聞けとチャンが言う。見たところそれほど年の差はないのに年長者の物言いをするのが気にくわなった。それでも、列車で遭遇した時よりはずっと笑みがチャンの顔に染みわたっていた。
何でも聞けと言っても、俺としてはチャンの説明の整理に集中したいところだ。MMFと略される、世界最大の私鉄『素晴らしき世界鉄道』の歴史、そしてエスペラントという人工語、それをわざわざこの鉄道で使う理由・・。どうも今日は十分勉強したようで頭の側が重たい。あかりがよく言うように、『頭の運動不足』のせいなのだろうか。
0番線のホームは広いのだが、よそ見をして危うく行列に割り込むところだった。エスペラントが「Enlandiĝo」と大きな文字で、下には「Immigration」と小さな文字で書いてある電光掲示板を前にして、スーツケースや土産品を携えた人の行列である。見れば、列の先の方では人がパソコンやら何やらを黒幕の張った機械に通し、切符を駅員に示しながら、のっぽのゲートをくぐりぬけている。
「入国審査だよ。」チャンは言った。「あの七面倒さを何とかしてほしいけどな。」
「電車に乗ってどうして入国審査が必要なんだ?」
「国際鉄道だからだ。島国のお前には馴染みがないかもしれないな。普通なら改札口って呼ぶところに、この鉄道では荷物検査やら税関やらがある。危険物の持ち込みは一切厳禁。改札から出るだけでも、パスポートが要る。」
ちょっと待てと俺は思った。それじゃあ俺は半永久的に、この駅から一歩も出られないということじゃないか。
「まあ、だからこの駅のプラットホームは、空港の国際線の搭乗口と同じだと考えて、まず間違いない。」チャンは続ける。「この鉄道の路線内は無国籍地帯で、無断の立ち入り・工事・武器その他危険物の持ち込み、そして爆弾の投下や地雷の設置などが『国連世界鉄道基本条約』で堅く禁じられている。本当だぞ?おかげで、戦争の真っただ中でも、列車は戦場のど真ん中を平常通り運行してきたんだ。駅は格好の難民キャンプとなり、鉄道は安全な亡命手段になっている。要するに世界一安全な場所なのさ。一つの例外を除いて。」
「それって?」
「さっき言ったばかりだ。前の上海駅が焼失した時。あの時は、走行中の列車も被弾して、乗務員・乗客ともども、さんざんな目に遭ったらしい。」
「お前、物知りだよな。」
「ここの鉄道員だからな。」同じ言葉を繰り返し、白い煙を吹いた。
「だが半分は、お前の知らなさすぎだ。」
「そうか?」
俺たちは入国を待つ列を迂回した。途中、イチローはどうしたのと今更ながら尋ねてみると、あいつは勤務中だ、今頃は西安行きの列車に乗っているさと答えた。人波が引いた場所まで俺たちは歩き続け、駅の中の喫茶店でサンドイッチを腹に収めた後、灰色の厚く高い壁に据え付けられた、同じく灰色の小さな扉を、チャンは鍵で開けた。
「ここが、俺たちの住み処だ。」
扉は、暗黒への入り口だった。
俺はようやくここが地下だったことを思い出した。光を拒む黒一色の空間に、気をつけろというチャンの声と、階段を上がっていく足音が重々しく響く。手探りで手すりを掴み、一歩ずつ見えない段差に足を載せていく。明かりは無いのかと言うと、五年前に切れたきりと頭上で返事が聞こえた。どれほどものぐさなのか。
螺旋状にぐるぐる階段を昇っていった後、ようやく橙色の明かりに照らされた踊り場に着いた。そこに更に白い扉があった。ここが入口だと言い、チャンは中へ俺を通した。
唐突に廊下があった。板張りの廊下だ。狭い。不健康に白い壁が両脇から俺たちを圧迫しそうなほどに。左の扉の向こうにはタイル張りの流し台が、右の扉からは穏やかに佇む茶色いソファが見えた。チャンは俺を突き当たりの部屋へ案内した。
「ハノイ車掌区に飛ばされた仲間が使っていた部屋だ。使えよ。」
黒いパイプの脚がついたベッドに、白い枕とシーツ。それと、素朴だが他に何の魅力もない木製の机と、頼りなく傾いた椅子。これが部屋の全てだった。くすんだ水色の壁から漂う沈鬱は、さながら隔離病棟にいるかのようでもある。使用者が去ってから一度も窓は開かれなかったのだろう、熱気が挨拶代わりに俺の顔をぬめった。すぐにチャンが換気を行い、向かいの部屋から扇風機を運んできた。
「それと、これは俺のだから、ちょっと大きいかもしれないが。」
と言って、着替えを何着か俺の腕に載せてきた。
「ここは南京路沿いの建物の二階。下はまがい物のブランド屋だ。」
更に目覚まし時計を渡しながらチャンは言う。
「眠れそうか、この部屋で?」
「まあね。」気勢の上がらぬ声で俺は答えた。
「寝床が変わると、最初は寝つきが悪いものさ。だが、すぐに慣れる。各地へ飛んで寝起きする俺達鉄道員も同じだな。」
寝付ける日までここにいなければならないということが、むしろショックだった。
「龍也。」
「何だよ。」
「着替えたら、出て来い。廊下で待っているからな。」
「どうして?」
「会わせたい人がいるんだ。」意味ありげにゆっくりとチャンは言った。そして俺が言葉を返す前に、扉は無造作に閉められた。
煮え切らない思いを抱きながら、俺は時計と着替えをベッドに置き、ジャケット類も放り捨て、風を求めて扇風機に向かった。暫くくつろいでから、今度は窓から顔を出してみた。
観光客、観光客、そして、観光客。向かいには白い洋風の建造物が増え、車一台通らない眼下の通りを、人は、忙しそうでのびのびと、気だるそうだが溌剌と、歩き、止まり、談笑をしている。俺は獄中から自由世界を眺めているようで、惨めな気持になり、カーテンを閉めた。見なれた黄色い「M」字の下にも、どう読んだものか、三つの漢字が並んでいる。どうやら本当に異国の地に来てしまったみたいである。でもなぜ?理由は分からない。考えると鋭い痛みが再発しそうだから。
一回り大きいサイズのシャツを手に取って、ふと目覚まし時計に目が止まる。アナログの時計と分針の間に、年月日がデジタル表示されている。何気なく携帯電話をズボンのポケットから取り出してみた。海外なのでもちろん圏外だったが、携帯電話のカレンダーには一月の部分に印があった。それに対し、時計のカレンダーは八月になっている。それも前の年のである
「もしかすると、冬からいきなり夏へ連れ戻されたのかもしれないな。案外。」
意味深長なチャンの一言が、より重厚に響いて俺に迫ってくる。
まさか携帯の年月日設定を変える筈があるまい。ということは、俺は五か月前に逆戻りしたことになる。不可能な話だ。でもそうすれば、この真夏日に俺が四枚も重ね着した姿で現れたことにも説明がつく。勿論容易には信じがたい。信じられる筈もない。だが納得するほかない。きっとこれにも理由があるのだろう。
「遅かったな。」
扉の前にはチャンが、先程のままの姿で立っていた。
「こっちだ。」
チャンは新たな廊下を指差した。
「会わせたい人って、誰だよ?」
「じきに分かる。」
またそれですか、と俺は肩をすくめる。その廊下の奥の部屋で、チャンは立ち止まった。ノックの返事を待たず、チャンが扉を開く。
最初に目に飛び込んできたのは、特大の世界地図だった。二つの円の中に、片方は東半球の大陸、もう片方には西半球の大陸が描かれ、その周りで天使が舞い、聖人が見守り、学者たちがあれこれ議論をしている。地下墓所の中から見つけ出したのでは無いかというほどの黄ばみよう、干からびようだ。両側の壁には、ピラミッドやマチュピチュの遺跡など、世界遺産のポスターが所狭しと貼られている。土星の輪っかのようなものが二つ交差した中に地球が固定されている、古めかしい地球儀が書棚の上で沈黙している。足元には、海図の絨毯が敷かれている。まるで世界がこの部屋に集約されているみたいだ。そしてその世界の隅に、長く艶やかな黒髪の女性が机にむかって座っていた。
チャンは胸ポケットからペンと手帳を取り出して、素早く何かを書きつけると、そのページを引きちぎり、女性の肩をそっと叩いた。女性は、俺たちの存在を今の今まで知らなかったかのようにびくりとして振り向いたが、チャンの姿を認めると、緊張の解けた穏やかな表情になった。そして俺に気づいて、女性は「あの人は誰」という視線をチャンに投げかけた。チャンは紙きれを指差しながら手渡す。女性の横顔は紙きれを見つめた後、小さく頷き、それを合図にチャンが無言で扉の前の俺に手招きした。
俺は、ゆっくり、近づいた。足音を立てるのも憚られた。空気が俺にそう命じていたのだ。部屋の半分くらいの所まで俺が歩み寄ったとき、女性は俺の方に向きなおり、穏やかに微笑んだ。
肌は透き通るほどに白く、部屋の貼り物の騒がしさとは対照的に、静寂と平穏がその肩に宿っている。細く光のある黒髪は胸元で舞い広がり、大きく円らな瞳にはあどけなさが残る一方で、薄い唇は艶美の匂いを含んでいる。あまりに凝視していたことにやっと気づいて、俺は急いで目をそらした。足元が覚束なくなり、目を壁に泳がせていると、チャンは更に紙片に何かを書き込み、女性の前に示した。
「龍也」
「はいっ」
「挨拶しろ。」
どうしたらいいものかと、思わずチャンをみた。チャンはいかにも迷惑そうな顔で、「早く言え」と眼力で俺に訴える。
俺の発する一言で、この静寂と平穏の調和を乱しはしないかと躊躇いつつ、ゆっくりと、歯切れよく、俺は言った。
「初めまして。」会釈も忘れずに。
そっと顔を上げる。女性は静かな笑みを浮かべたまま、ぴくりとも動かない。チャンは険しい表情で俺を睨んでいる。
「俺の・・・名前は・・・葦原、龍也です。どうぞ、よろしく・・・」
すると、だ。女性の瞳が、一瞬――それは目瞬きをせずに彼女を観ていなければ分からなかったろう――煌めき、そして、体が僅かに震えた。
「・・アシハラ・・・」
朝露がひとしずく、葉から落ちるように、ほんの一瞬、短く凛とした声が、彼女の口元が零れ落ちた。
チャンは女性の微動を逃さす察知していた。チャンは新たな切れ端を見せ、答えを求めるように首を傾げて彼女を覗き込んだ。しかし、女性の瞳は曇り、目を伏せて俯いたままだった。
長く、時間をかけて、溜息を、チャンは、漏らした。そして、女性のために前屈みになり、髪を梳くように手を差し伸べ、それから優しく肩を撫でると、俺の方へ立ち直り、形相を変えて、腕で俺の肩を抱え扉の外に投げ出した。
起き上がりかけた俺に、間髪入れずチャンが掴みかかり、シャツの襟首を握って俺を引き上げた。
「とんだ似非者を連れ込んじまったようだな!」
「ちゃ――ちゃんと話したじゃないか、おい!」俺は悲鳴を上げた。
「何が『全ての言語が話せる』だ?お前の話していたのは、日本語だ。ごく初歩的のな。それくらい俺にだって分かる。それにお前に一番しっくりくる言葉だったからな。」
「で――でも俺・・・チャンと最初に話した時と同じ感じで――」
「なるほどな。」チャンの顔が迫る。「イチローは言っていた。お前には初対面の相手でも、相手の母語を察して話せてしまう妙な力があるようだってな。確かに上海語は俺の言葉だ。台湾語はイチローのものだ。でも日本語は・・・あいつには通じなかった・・・通じなかったぞ?」
「チャン・・・」
「全ての言葉が話せるくせに・・・そのくせに、話しても通じないって、一体どういうことなんだよ・・・」
サングラス越しにチャンと目が合い、胸を突かれる思いがした。掴んでいた手をチャンンは不躾に払い、俺は壁に沿って崩れかけた。チャンは顔を背けたまま、腰に手を置き、当てもない方向を睨みつけたまま、立ったまま。上がったチャンの息だけが、暑くうだりそうな廊下に震えていた。
俺はチャンの襲撃を恐れ、体を慎重に起こし、完全に立ちあがってから、そっとチャンに声を掛けた。
「・・・すまん。」ぽつりとチャンが呟いた。
「非礼を許してくれ。乗客に何て無様な真似をしやがったんだ、俺は。」
顔を俺に向け、チャンは張りも重みもない声で言った。
「用は終わりだ。すまないが、もう今日は、お前の顔を見られそうにない。」
廊下を過ぎ、扉を過ぎ、閉まる音を最後に、無音の闇が訪れる。
チャンの後ろ姿が消えるのを、俺は放心したかのように、暫し見つめていた。
俺の部屋の開いた扉から、南中した真夏の陽光が差し込んでくる。それと共に、屋外の雑踏が再び耳に蘇える。そうしてチャンの残した余韻も、いつしか消え入ってしまった。