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終 章 継承

                   終章 継承


 悪寒がした。

 

 背中から、ゾクゾクッ、と。


 俺は思わず跳ね起きた。


(起きた・・・?)


 手が掴んでいたのは、昨夜食べたカップ麺の残り物。


 服はそのまま、ノートは机上。


(夢見てたのかな・・・)


 穏やかな陽光が手許に触れる。


(んなわけ・・・)


 左手に握ったシャーペンは、芯が出たままだった。


(・・・ねえよな?)


 急いでズボンから携帯を取り出す。十時二〇分。日はもう高く昇っている。


(勘弁してくれよ・・・)


 俺は机上の物を全てカバンに詰め込むと、着の身着のまま木枯らしの吹く外界へ飛び出した。


 十時半からのリーディングの再試までに腹を満たすほどの余裕はない。俺は坂を駆け上がり、稲荷神社の横を自転車で駆け抜け、吉田山を滑走し、参道の砂利道を必死に漕いだ。


 上海の空港から飛んで帰国し五日後に再試とは、さすが嫌味の春日井教授だなと思う。それでも、一度試験を受けて落ちている俺に、追試験を通れば単位を出すという春日井教授の提案には少なからず驚いた。何か良いことでもあったんだろうか。


 南側のキャンパスの門をくぐり、校舎の外に取り付けられた階段を三階まで駆け上がる。静かに試験場の扉を開けると、三分前なのに、誰も中にいなかった。というより、再試の受験生は俺だけみたいだった。

 

 俺は無人の教室の、ドアから一番遠い隅の席に腰を下ろし、腕時計を机に置いた。既に十時半を五分ほど過ぎていた。大して役に立たないノートを見直しながら、俺は教室を間違えたんじゃないかと、何度も顔を上げて、白髪頭が見えるのを待った。

 

 ドアの動く音がしたのは、それから程なくしてだった。

 

 老教官は部屋を見回し、俺を見つけて手招きした。


「誰もいないのかと思ったよ。」


 春日井教授は電気ぐらい付けなさいと付け加えて、スイッチを押した。俺は黙って鞄を持ちあげ、言われるまま教卓のすぐ前の席に向かった。


 教授は手ぶらだった。俺が座ると、自分も教卓の中に仕舞われていた椅子を取り出して腰掛けた。


「中国からはいつ帰って来たんだね。」


「はい?」


 思わず俺は顔を上げた。教授には一度も中国行きの話をしていない。


「西安に行っていたらしいな。南条先生と。」


「あ、はい―――」


「この寒いのに発掘に行ったらしいじゃないか。どうだったんだい?」


「どうだった、と言われましても・・・」


 俺は老教官の背後に目を移した。雑巾で乾拭きされた黒板に答えは無かった。


 西安の発掘に行ったところで、別に俺が変わったことなど無かった。向こうで調査らしい調査にも立ち合わせてもらえなかったばかりか、途中で南条先生は発掘現場を放棄するとまで言い出したのだ。自分の求めていた成果は、土臭い穴からは何も出てこなかったと告げた。


 それよりも、この中国旅行のおおかたを、俺は、磨りガラスのようなぼやけた記憶でしか思い返せなかった。


 視線に老教官の顔が割って入った。


「――忘れたんだな。」


 俺の知らない春日井教授の表情だった。安らかで穏やかな笑み。


「忘れたって、何を、ですか?」


「忘れたということを、忘れたんだ。厳密に言えば。」


 俺の脳裏が微かに蠢いた。妙な言葉だったが、不思議と耳には懐かしい余韻が残った。


「葦原君。」


「はい。」


「君に言っておきたいことがあるんだが、いいかな?」


 いよいよ審判の時が来たのだろうか。若干俺は身構えて答えた。


「・・何でしょうか。」


 老教官は、静かに教卓を手で撫でながら、俺を見据えて、クイーンズイングリッシュを話す時のように美しい発音の日本語で、こうおっしゃった。


「畏れの心を忘れるな。」


 俺は黙ったまま教授を見ていた。


「人間の探究心の尽きることはない。それは人間の持つ力の中でも貴い物の一つではある。だが、全てを知ることが出来るなどと、驕るような姿勢は捨てなければならない。知の世界でも、人間の踏み込めない聖域というものがある。そもそも人間には真実を見ることなどできはしない。ただ、見たいものを見ているにすぎないのに、それを『真実』と呼ぶ者が、あまたの先人たちの教えを受けることのできる今の世にも、あまりに多い。」


 木枯らしは息を潜め、温い陽光が俺の肩を撫でていた。春日井教授は、立ち上がり、黒板の方を向いたが、チョークを取ることはなく、静かに続けた。


「だが、それを知った上で――畏れの心を抱きながら――なおもたゆまず前へ進んで欲しい。特に歴史の学徒を目指す君には。歴史という学問は、真実を求めるという、叶うはずもなく、叶えるべきでもない目的に向かって、究めていく学問であるからね。」


 老教官は教卓に目を移し、もう一度慈しむように触れた。


「研究者の私はつい真実の追究ばかり考えて、この歳になってしまったが、知ることのできない、知るべきでないものの存在にあの若さで気付いておられた私の恩師には、いまだ遠く及ばないものだね。」


「それって――」


 俺が言いかけると、春日井教授は、何も書いていない黒板に黒板消しを軽く滑らせ、扉に手をかけた。


「私は、君とは違って、自分が何を忘れたかは覚えているさ。」


 いつもの見下した調子が、扉の前に立った老教官の口に、ようやく戻ってきた。


「何を忘れたんですか?」


「追試の問題だ。」教授はにんまり笑顔を浮かべた。「もう一年お荷物を負わされるのは嫌だからね。二回生になったら、担当教官の迷惑にならないように、程々に勉強もしなさいよ。」


 扉は小さく音を立てた。太陽の斜光だけが、教室に残っていた。



「龍也―っ!」


 振り返ると、朱理が背中に飛びかかってきた。冷えたアスファルトに胸から倒れ、額の磨り具合を確かめようと手を伸ばすと、ぎょっと目を開いたブロンドの美女と男前が、不審気に俺たちを見て、日本語で――俺にはそう聞こえた――二言三言話すと、足早に去って行った。


「やりすぎちゃったかな。」そう言って朱里は舌を出した。


「後ろから襲いかかる奴がいるかよ。」


 俺は立ち上がりながら、それで、どうしてそんなに元気があるんだよと尋ねた。


「さっき春日井先生とばったり会ってさ。擦れ違いざまに聞いたよ、あんた、追試なしで単位もらえるんだって?」


「それがどうした。」


「それがどうした?」朱理は俺の肩から手を放し、まじまじと俺の顔を覗いた。「あんた、これがどれだけの恩赦か分からないの?あー、それか、当然だろって思ってる?嫌だねえ、曽祖父の七光りなんて慣習、無くなりゃいいのに。」


「同感だ。」気分を害して俺は唸った。有名人の子供は格別、曽孫なら、いい加減そっとしておいてほしい。


「ところで朱理は、どこ行くところだったんだ?」


「南条先生のところ。」朱理はそう言って。「中国から帰ってきたときは元気が無さそうで声をかけづらかったんだけど、最近はまた新しい研究テーマを見つけたらしくて、前みたいに優しい先生が戻ってきたみたい。」


「それは良かった。」


「すみません。」


 一瞬、違和感を覚えた。振り向くと、精悍な体格の男が立っていた。小春日和のためか、幾分薄めの服を着ている。


「Economicsの建物は、とこ(・・)にありますか?」

 

 男は、直ちに異邦人と分かるイントネーションで、丁寧に尋ねた。ああ、経済学部ですか、じゃあそこを右に曲がって・・・と朱理が、外人恐怖症の俺に代わって説明してくれた。


「ああ、分かりました。とうも、ありがとうごじゃ(・・)います。」


 男は被っていたハンチングを脱ぎ、にこやかに会釈をした。


「・・・なんだか、礼儀正しくて、すごく感じのいい外人さんだったな・・」


 男が右折して見えなくなってから、ようやく俺は口を開いた。


「さすが『東方礼儀君子之国』と呼ばれた国の人だけあるね。」朱理は言った。「あんたも習っているんだったら、挨拶の一つくらい喋ればよかったのに。留学生見ると石化するんだから。」


「ちょっと待て。」俺は口を挟んで。「なんで今の人が韓国人って分かるんだよ?」


「え?」朱理は聞き返しながら、自分でも今気付いたらしく目を大きく開いて。


「・・・勘?オーラかな・・・。」朱理は笑ってはぐらかし。「それよりさ、今の人、どこかで見たことなかった?」


「知らねえよ。会っていたとしてもいちいち覚えていねえし。」


「文学部の院生かな。名前を伺っておけばよかった。」


「経済学部に行くって、今言っていたじゃねえかよ。」


「・・そうか。でも、見た気がするんだけどな。」


 俺たちは黙って、耳に触れる冬の空気を感じていた。知らないと答えた俺も、先ほどの男に、以前出会ったはずの男の面影を見たような気がした。


「・・じゃあ、先生のところ行ってくる。約束の時間に遅れたら失礼だから。」


「その巻物。」俺は朱理の手元を指差した。「書庫から借りたのか?」


「これ?」朱理は巻物を俺の前に差し出して。「ううん、後でちょっと燃やそうと思って。」


「何でだよ?貴重なものなんじゃないのか?」俺が巻物に触れようとすると、朱理の手が引っ込んだ。


「大したものじゃないから。」


 何だか煮え切らない思いが俺の心に沈み込む。不満げに俺は、そうか、と口を尖らせた。


「次会うのは、新学期かな。」


「だろうな。大学の休みって長いな。二ヶ月半何して暇潰そう。」


「あんたも少しは活動したら良いのに。若さはお金では買えないんだから。」年寄り臭い台詞を朱理は俺に投げかけた。「んじゃね。」


「あ――そのさ。」背中を向けた朱里を俺は呼びとめた。


「何?」


「・・いや、だからさ。四月になるまでに、できたら、どっか行かないか?朱理の都合の良いときに。」


 俺の言葉に、朱里は意地悪く横に開いた口元に笑みを浮かべて答えた。


「まあ、いいけど?予定空いたら連絡するわ。それじゃね。」


「――おう。」


 朱理はにんまり笑顔を残して、文学部棟へ向かって駆けて行った。俺は、妙にぎこちなくない笑みを浮かべてしまったことを、少し後悔した。



 朱理の通った後を追うように、俺は図書館の前の道を右折して、中央食堂に向かって直進していった。昼飯を食べるためだ。右手に法学部と経済学部、左手に文学部を眺めながら歩いていると、経済学部棟の前に立った二人の人物に目が止まった。そして、片方が着た制服に見覚えがあると感じるや、俺の両足も止まってしまった。



「――チャン。」声が続かなかった。


「どうやら、前任者と後継者は意思疎通できるってのは、本当みたいだな。」紺地に金の箒星が走る制服姿のチャンは、笑って言い、横に立つ艶やかな黒髪の女性の肩に手を添えた。「紹介する。俺の曾孫の華だ。」


 女性は一瞬チャンの方を振り向いてから、俺のほうに向き直り、陽だまりのような温かい笑みで会釈をした。


「どうやってここまで来たんだよ?」急いで俺も頭を下げてから、チャンを見て。


「簡単じゃねえか。それとも、もう忘れたのか?」チャンは言った。「そこの山まで列車に乗ってきたのさ。おかげで運転してくれたイチローはくたくたでさ、運転席でいびきかいて寝てるよ。」


「山に駅なんか、あったか・・・?」


 チャンは俺の言葉に、大きな目でまじまじと俺を見て言った。「――本当に、何もかも忘れてしまったんだな。跡形もなく、きれいさっぱりと。」


「え?」


「まあいい。とにかく俺のことだけは覚えていたのは幸いだ。会えて嬉しい。」


「仕事の方はいいのかよ?こんなところまで制服のまま着ちゃってさ。」


「仕事より大事なことだ。」チャンは言った。「礼を言いに来た。」


 今度は俺がチャンを凝視した。


「お前・・・グラサンかけてなかったか?」


「この格好でグラサンかけていたら、キャンパスなんて歩けないだろ?」チャンはおかしそうに顔を崩した。


「礼って言うのは――まあ、お前は全て忘れてしまったから言っても仕方が無いが――俺を、後継者に選んでくれたことだ。青色の印綬は、本来お前の国の人間が継承するはずだからおかしいんだけどな。まあ何だ、時代が時代だから、印綬ももはや出自を問わなくなったのかもしれないな。」 チャンは一人でそう言い、話を続けた。


「お前のひいおじいさんは、俺のために自分の人生の三十年を無償で与えてくれた。その曾孫であるお前は、俺を青の印綬の後継者に選んでくれた。本来なら腰の曲がった爺さんになっていてもいいはずの俺に、もう一度若いときから人生を歩み直すようにしてくれた。まあ、そのせいで、曾孫とはあまり年が変わらなくなってしまったし、辻褄の合いにくいことがたくさん起きてしまったけどな。」


 チャンの言葉に、俺の脳裏のどこかが反応した。磨りガラスで隔てられた記憶の向こうに、チャンの言葉に刻まれた意味に通じる何かが、ひっそりと眠っているような気がした。


「そうか・・・。」俺はここで、自分でも不思議に思うことを口走った。「それで、お前・・・止まった時間は動き出したのか?」


 そう言うと、チャンは笑顔になって、制帽を脱いだ。ワックスで形の整えられた長髪が、冬の冷気に静かに震えた。


「三十年間短髪だったし、もう飽きた。似合うか?」


 俺は頷いた。それを見て華さんも顔を明るくした。


「龍山のくれた三十年は、もう使い果たしてしまい、また俺の中の時間は動き出した。次の出番がいつ来るかは分からないが、燕五使徒としての役目を果たし終えたときには、俺も記憶とともに発たなければならないだろう。もともと俺の生きるべき時代ではないからな。それがふさわしいんだろう。」


 チャンは制帽を被り直した。陰っていた地面に、陽光が再び触れ始めた。


「龍也と、それから華。」俺が黙っていると、チャンは言った。


「お前達の頭の中にある、記憶の手帳は、まだ白い。俺の時間が以前動いていた時に、俺が感じた陰鬱な思いを書き刻むには惜しいほど、お前達の手帳は、白すぎる。だから、俺達ではなく、お前達が感じたこと、得たもの、それを、記憶として刻んでいって欲しい。誰かが使い古した手帳を譲り受けるんじゃなく、お前達はお前達自身の記憶の手帳を、最初のページから埋めていくんだ。それが、おこがましい限りではあるが、俺の願いだ。」


 チャンは華を見、それから俺を見た。以前、この意志のこもった鋭いチャンの目に見つめられたのは、いつのことだったろうか。そう悩んでも、頭は痛くも痒くもなかった。思い出せなくても、もどかしい思いには駆られなかった。ただの既視感だったとしても、かつてそんな目をした時にチャンが抱いていた思いを、そっくりそのまま、今この場で語ってくれたんだと思うから。


「・・・よく、分かんねえよ。チャンの言葉、全体的に。」


 俺が口を尖らせると、チャンは肩をすくめて、こっちとしては一生懸命言葉を選んで言ってやっているのに、お前はいつもそうだよなと溜息をついた。華さんはそれを見て穏やかに笑っていた。


 

(素晴ラシキ世界鉄道:極東本線編 完)




 ようやく全線開通しました。今まで筆の進むのが遅くてご迷惑をおかけいたしました。


 この小説では、「鉄道」とタイトルを銘打ってはいるものの、結局あまり鉄道に焦点を当てることが出来なかったように思えます。この小説のストーリーが、鉄道よりもむしろ「歴史」に重点を置いたからだと思います。


 ただ、素晴ラシキ世界鉄道は、「世界鉄道」の名前の通り、世界中に路線網を広げている鉄道という設定になっています。そのため、各地のあらゆる人を主人公として、様々な人間模様、異なる物語を描いていければと思います。世界鉄道は、それらの物語を提供する舞台設定であり、今回の小説はこの膨大な路線網のごく一部に関わるストーリーに過ぎません。


 これからもっと筆を早めて、様々なストーリーを書いていこうと思います。そのためにも、様々な書籍を読み、旅行をし、自分自身を鍛錬していこうと思います。


 お読みくださった皆様、本当にありがとうございました。


 (次回は大欧州本線を予定しております。)


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