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第六章 残香 その5

                       五


 列車は、三日の間、止まることなく走り続けた。日本国土を走っている間は、窓は面白みのない黒壁を映すだけで、まるで延々と地下を走り続けるかのようだ。さすがにこれは運転する方も退屈する上に居眠りまでしかねない。一郎とウーは自動運転に切り替えながらも、万一に備えて交代で番をする以外の時間は、体力を温存するために仮眠室で休養をとっていた。客室にいる俺たちも、地下では電波も届かないし、暗い車窓の醸す陰鬱な雰囲気が、南条先生たちはもう発掘を進めているのではないかという不安を増大させるばかりだった。


 深い眠りにつくことが出来なかった俺は、次の日、突然日光で目が覚めた。武勇はまだ眠っていた。信じられないという顔で窓辺の山里に食い入る俺を、休憩するために戻ってきた一郎が見つけて、背後から声をかけた。


「韓国に入ったんだよ。」


「韓国ですか?」俺は見上げた。「じゃあ、海、越えたんだ・・・」


「もうすぐイムジン河だ。それを越えたら北朝鮮だね。」一郎は言った。「軍事境界線の直前からは、また半日くらい潜るから、今のうちに見納めておいた方が良いよ。」


「日本にいる間は、ずっと地下だったんだね。」


「ううん。中国山地の山あいで、一度外に出たよ。多分住民には廃線跡の一つとでも認識されているんだろう、草が伸びきって線路も歪んでいて、通れるかどうか、正直ひやりとしたよ。」


 肝を冷やしたと言うわりには、やけに涼しげな顔で一郎は言った。


「というかこの列車、北朝鮮経由なんですね。・・・駅とか、あるんですか?」


「あるよ。改札口は無いけどね。」


「一郎。」


「何だい。」


「この極東本線って、何のために作られたんだ?利用客がいないどころか、誰も存在を知らない幽霊路線なんて。」


「それを平社員の僕に訊くかい?」愉快そうに一郎は笑った。


「まあ、敢えて一言をもって評するなら、上海南京路駅に掲げられた路線図に示唆する何かがあるんじゃないかな。」


「路線図――ですか?」俺は眉間に皺を寄せて記憶を読み返した。


「南京路に書かれた路線図には、世界鉄道東アジア支局の管轄する全路線が表示されているんだ。」一郎は言った。「その中に、色がついていないけれども、実は『キョウト』と『ハンソン』という駅名が書かれている。それから、『ハノイ』の駅名をよく見れば、その下に『タンロン』の地名が書かれている。漢城(ソウル)はソウルの、昇龍(タンロン)はハノイの、世界鉄道の設立されるとうの昔に使われなくなった古い名前だ。なのに、路線図には書かれている。ちなみに、路線図の右端の方には、路線につながってはいない、『シュリ』の文字も彫られているんだ。」


「その路線図――誰かがそう書けって命令したんじゃないですか?」


 俺がそう言うと、一郎は満足そうな笑みを浮かべた。俺と同感のようだった。


「東アジア支社長か、中国支局長の劉英支局長か、それか彼らの先代か。」


「多分、神宮の上を使用されない鉄道用地にしたのも――」


「鉄道用地?」


 俺は慌てて口ごもった。一郎の視線から目をそらしながら。


「独り言ですよ。」


「そうか。まあ、何でもいいや。」 


 一郎は笑って、身体を起こした。


「僕がこの目で確認した、あるはずの無い駅は、京都駅で二つ目なんだ。」


「二つ目ですか?」俺は首を傾げて。「じゃあ、一番初めは、さっきの三つの中のどれなんですか?」


「三つの中には無いんだ。また別の駅だよ。」一郎は答えた。


「珍しくあの華にせがまれてね。俺が無理やりシフトを交代して、がむしゃらに運転して発見したんだ。」


 一郎のサングラスに映る車窓が、暗黒に変わる。再び地中に列車が潜り始めたのだ。サングラスの中の自分を見つめて、俺は不思議な既視感を覚えていた。


「それって、上海の――」


「そろそろ交代の頃だ。」一郎は腕時計に視線を落とすと、扉を開き、俺に手を振った。「じゃあ、また後でね。」



 一郎と呉の努力のおかげで、列車は朝鮮半島を越え、中国大陸を快走した。だが、流石に三日目の太陽が沈む前に偃師(イェンシ)に到着することは叶わなかった。仕方が無いと言えばそうなのだ。ダイヤグラムの隙間の中に突如として現れた怪奇列車とでも言うべきだろう、前方列車との間隔が狭まり停止信号が光る中も無理やり突き進もうとすると、非常停止装置がかかり、客車の中にいた俺たちは壁に体当たりしそうになった。強硬手段として一郎が列車を飛び降り、手動で貨物線へとポイントを切り換えた。天津から都市部を迂回して内陸部に至るこの線路には、幸い走行中の列車はほとんどなかったらしく、進行信号の横を駆け抜けた。これは駅に着いたら解雇告知だなと、半分本気で一郎と呉は笑って言った。


 そして、四日目の正午前に、俺たちはようやく、俺たちの終着駅に到着した。半年ぶりに、俺たちは帰ってきたのだった。


「ありがとう。」


 不定期列車の突然の到着に、不審と好奇に満ちた目で駅員たちがホームに集まってきた。対応に行こうとする一郎の背中に、俺は小さく声をかけた。一郎は振り向いて、朗らかな笑みを浮かべた。


「頑張ってきなよ。戻ってくるまで、暫くここで待ってるからさ。」


「タクシーが止まっているわ。あれに乗りましょう。」


 改札口の向こうを指さして華が言った。


「そっちじゃない。パスポートが無いから出られない。」文郎がポケットから出したのは、世界鉄道のIDカードだった。「こっちから出よう。社員通用口だ。」


 俺たちは社員通路を通り、駅前広場に走り出た。タクシーを捕まえ、発掘現場まで急行した。タクシーはやがて、舗装されていない道を走り始め、右手にフェンスの列が見えたところで止まった。俺たち四人は小高い丘を走った。目の前に現れた光景が、俺たちを唖然とさせるまでは。


 長城のように続いたフェンスが途切れた部分に、発掘現場があった。鬱蒼とした雑草の草原はそこで唐突に途切れ、抉られた地面から赤土が顔を出していた。いや、もっと何か他の物が見える。俺はフェンスを横切り、碁盤の目のように穴の空いた発掘現場の中を、目を凝らして見た。


 穴の深さは二メートル程あるかもしれない。その下に、大きな礎石が見えた。信じられないことに、朱色に塗られた梁が、朽ちることなく隣に横たわっている。そして俺の目を奪ったのは、大きな石壁に展開する、褪せることのなく色彩豊かに描かれた、一大絵巻だった。後光の差した一羽のツバメが、緑に囲まれた草原を先導し、四羽のツバメが後を追う。その回りに幕を設けて、皇帝や貴族たちが宴会を設えている。歓声が聞こえ、芳香が漂ってきそうな、臨場感あふれる筆致。よく見ると、それぞれのツバメの目には穴が空いていて、壁画の横に、もう少し細い朱色と紺色の木材が散らばっていた。まるで壮麗な門の残骸であるかのように見えた。


「なあ、これ―――」


 武勇は隣にいた華に向かって尋ねた。冷静な判断を誰かに期待したかったのだろう。だが華は黙ったまま、険しい表情で目の前の発掘現場を見ているだけだった。


「皆が思っている通りだろうね。」文郎は言った。「神宮は既に発掘されてしまった。」


「待てよ!」俺は叫んだ。「だったら、もう一度去年の夏に――」


「やめておこう。あまり希望が持てない。」文郎が即答した。「それに、何度も時間を遡るのは危険だ。」


「文郎の言う通りだ。」武勇は壁画を見下ろしながら言った。「しかも、神宮を荒らされても、俺たちはこのとおり、何ともないじゃないか。」


「確かに――」


 俺は顔を上げ、武勇の方を見た。だが、武勇を見たのではなかった。

 

 複数人の研究者と、発掘ボランティアと――南条先生と、朱理が、丘を登って歩いてきた。俺たちに気づくのは、そう遅くはなかった。

 

 南条先生は、左手に握っていた手拭いを雑草の中に落とした。恵比寿顔に影が差す。滴り落ちた水が紙を濡らしていくように、素早く顔に険しい表情が広がっていく。


「何をやっているんだ、君たちは!」


 南条先生は、自分の柄に全く合わない怒号を上げて、俺たちに向かって走ってきた。


「早く!」華は叫んだ。文郎と武勇は頷いて、急いであぜ道の方へと走っていく。


「何やってんだ龍也!」振り返った武勇が叫んだ。「早くこっちに来いよ!」


「でも、朱理が――」


 俺は朱理の様子を見た。南条先生の傍にいた朱理は、院生や研究者に囲まれているせいか、いつもに増して堅い表情をしていた。手元には、昼食時の話題となったのだろう、一部の新聞が握られていた。表を向いている面には漢字が並んでいて記事の詳細は分からなかったが、見出しに並ぶ「夏」と「発見」の文字列で、恐ろしい大意を把握することはできた。俺たちの姿を見たとき、冬のあの日に向けたような恐怖が朱理の瞳をよぎった。だが――少なくとも俺の印象では――俺と目が合った時に、朱理の表情が、若干和らいだように見えた。


 俺は朱理に向かって手を振ろうと右手を上げた。その手を掴んで無理やり締め付けたのは、南条先生だった。


 俺はうめき声を上げた。


「すみません、皆さん、向こうの若者たちにも、遺跡を荒らすのを止めさせてください。」


「南条先生、痛―――」


 この小太りの身体の中にこれほどの力が隠されているなどとはつゆほど思わなかった。俺の言葉に耳を貸さず、南条先生は俺の両腕をがっしりと掴み、自分の方へ俺の背中を引き寄せた。


「――どうしてここに来たんだ、君たちは・・・」


 痛い。手首がねじれている。俺は咳き込むように、単発的に単語を吐いた。


「言いたく、ありません、と、いうか・・・先生は、ご存知なんじゃ――」


「おい、あのパナマ帽の男、そっちの角に逃げたぞ!早く捕まえろ!」


 南条先生は、遺跡に向かって叫んだ。俺は目を凝らして見た。華と武勇と文郎は、それぞれ別の方向へ逃げていた。しかし、広いとは言え、区画の中に押し込められた遺跡だ。上から次々に研究者や院生たちが飛び降りるたびに、晴れた冬空に濁った砂煙が上がる。グリッドの中にたくさんの靴の跡が刻まれる。刻まれた足跡を新たな足跡が塗りつぶす。不思議と、その光景を俺は、諦念がその底に沈んだ平静をもって見つめていた。神宮を、使徒以外の者が土足で汚す。こんな光景を、印綬は悠久の昔から、何度も見てきたのだろう、と。


「荒らすなって言って、先生――何で遺跡の中で鬼ごっこさせているんですか・・」


「――もちろん、知っていた。」


「――は?」


「葦原先生と春日井が話していたことを、私は後になって知った。印綬のことも、神宮のことも、全部――」


 教授の話しぶりは、まるで言い訳めいた独り言のように聞こえた。


「――もしかして・・・印綬を集めていたのは、印綬を使うためじゃなくて・・・」


「推察の通り。」教授の腕に血管が浮き上がる。「私は印綬と神宮にまつわる諸々の伝説を信じていたわけではない。でももしそれが事実なら――神宮はひとたび封印をすれば、またどこか私たちの知らない場所へと消えてしまう。神宮の実態を明かすことが出来るのは、使徒と称する者たちが遺跡に踏み入る前しか――」


 俺は身体をねじって教授の押さえつけから逃れようとした。その時、俺の鞄から勢い余って蒼色の印綬がこぼれ落ちた。それを教授が認めた直後、教授の腕から一切の力が抜けた。俺は前のめりになり、草むらに倒れ込んだ。


「やめてくれ!」


 逃げ場を失い、四方を取り囲まれた武勇と、急いで身体を起こした俺に飛びかかられようとする南条先生の叫び声が、一つに重なった。


「返して下さい、先生、それ――」


「―――」南条先生は日本語にならない音の羅列を口元で唸り、俺の手を払いのけた。


「南条先生!」


 南条先生は、ぎゅっと目をつぶり、首をすくめた。何も聞こうとも、見ようともしない。俺は顔を上げ、立ち尽くす朱理に言った。


「なあ、朱理も先生を止めてくれ!」


 朱理ははじかれたように顔を上げた。朱理は俺たちの登場よりも今はむしろ、日常の南条先生が消えたことに茫然自失しているようだった。俺は南条先生の懐を指差した。


「お前のひいじいさんは、その中にいるんだ。本当だ!」

 俺は鞄の中をかき回して、袋に包み込んだ、朱理の愛読書を取り出した。朱理の目付きが変わったのを、俺は見逃さなかった。


「この本――この本は、大多数の人には見えない真実を可視化したものだ。俺たちだけが知っておかなきゃいけない、真実が書かれた本なんだ。だから逃げるな――頼むから、目を覚ましてくれ!」


「目を覚ましていないのはどっちなんだ?」吐き捨てるように南条先生が言った。「あんな迷信を真に受けて行動している君たちと、私たちのどちらが盲目的なんだ?」


「だったら、どうして先生は今、俺たちを前にしてそうも取り乱しているんですか?」


 俺の叫び声が、冬空を突くように辺り一面に轟いた。それだけ、辺りは静寂に包まれていた。俺は、はっとして遺跡の方を見た。先ほどまでの騒ぎが、嘘のように消えていた。


「行こう。」


「――何・・・?」


「早く!」


 俺は朱理の手をむんずと掴むと、わき目も振らず升目の方へ走った。


「どうした?」


 升目の中を俺は見下ろした。奥にある、ツバメたちの描かれた壁画。群がる研究者や院生たちの中に、華たちの姿があった。壁画を鼻がつくほど凝視していた武勇が、顔を上げて、短く言った。


「カビだ。」


「カビ?」


「多分、長年地中に埋まっていたのが、急に外気に晒されて、一気にカビが侵食を始めたみたいだ。」


「カビじゃない。」群がりの中から誰かの声がした。「これまで四日間、つぶさにこの壁画を観察してきたが、今この時まで何の変化も無かった。それに、こんなに急速な進行は――」


 俺は目を凝らして壁画を見つめた。確かに、カビではない。目に見える速さで、ツバメの羽が、桟敷の上で語らう貴族の服が、次々にひび割れていく。


「四日目か。」納得して文郎は呟き、俺を見た。「四日目だよ。」


「急いで処置を取らなければ、この絵は――」


「南条先生!」


 俺は叫んだ。南条先生はうつろな目つきで、遺跡の方を、遺跡よりも遠くの方を見ていた。


「過去に目を向けないで、都合の良い記憶だけを残す――それは俺も反対です。真実を、ありのままの人々の記憶を追い求める先生方の熱意と使命感は、俺の器には収まりきらないくらい大きいと思います。」


 俺は、南条先生を見て言った。


「でも、この世のあらゆることを知ることができる、知らなければいけない、そう考えることもまた、傲慢なんじゃないんでしょうか・・・。知るべき事実と、知ってはいけない真実の両方が、この世界にはあるんじゃないでしょうか。」


「――君は何を言うんだ。」小さい声で南条先生は呟いた。


「それなら、私たちは、究めることは決して出来ない真理に向かって空回りする、虚しい存在とでも言うのかい。」


「少なくとも俺は、そんな悲観的なふうには捉えていません。」俺は、座り込む南条先生に向かって言った。「それが、神様が自分と人間との間に引いた、境界線なんじゃないですか。」


「私には――そんな信仰は、無い。」


 南条先生はよろめきながら立ち上がった。膝に手をつき、荒い息を整える。


「冗談半分に言うならまだしも、私はまともな人間だ。神話も伝説も、祟りも何もかも――先人たちが志の途上で捨ててきたものたちを、私たちが埃を払って取り上げるなんて、前進のために何の意味がある――」


 南条先生は右の拳を解きほどいた。蒼穹の色に染まった俺の印綬を、南条先生は憎悪に満ちた目で睨みつけていた。そして、力を込めて印綬を握り直すと、その拳を大きく振り上げた。


「南条先生?」俺は度肝を抜かれて駆け出した。


「迷信の織り成す闇を照らすのが、科学であり、学問だ。この塊を――こんな塊を超えない限り――」


 遺跡の中から声が上がり、何人かがあぜ道へよじ登って、俺のように走り出した。南条先生の腕が大きく後ろにしなる。俺は頭から先生の両脚に飛び込んだ。


「投げないで下さい!」


 朱理の声が空を裂いた。思わず南条先生が後ろを振り向いた。俺は南条先生のひかがみに頭をぶつけて、南条先生ともども、草の生々しい匂いの中に倒れ込んだ。


 俺はすかさず先生の上に馬乗りになり、先生の右手を両手で握ろうとしたが、後ろから襟首を院生に掴まれ、俺は後ろへ投げ出された。直ぐに跳ね起き、俺は先生の周りに群がる脚の間に顔をねじ込ませようとした――誰かが俺の前に手のひらをかざした。


「落ち着いてごらん。」


 文郎だった。


 輪の中の様子が変だった。初めは空耳かと思った嗚咽が、徐々にはっきりと聞こえるようになった。俺は立ち上がり、文郎と一緒に輪の中を覗き込んだ。


 南条先生が、正座をして、草むらの中に座り込んでいた。目は東の方の空を見て、印綬を握り締めた右手は、耳元に添えられていた。


 周囲に構うことなく、理由を告げることもなく、南条先生は涙を流していた。そして、暫く言葉無く泣きすさんだ後、身体の全ての力が抜け切るように、弱々しい声で、南条先生の口から言葉がこぼれ落ちた。


「・・・葦原先生―――」


 南条先生の右腕は耳元から離れ、力なく地面にぶつかった。衝撃を受けてひとりでに開いた右手から、龍の彫刻の施された小さな印綬が、ころりと雑草の中に転がった。


「――すみません、先生・・・」


 ぽつりと呟いた、南条先生の言葉だった。


「行くよ。」


 文郎の耳打ちで、俺は我に返った。頷くと、群衆をかき分け、急いで蒼の陰綬を回収した。顔を上げて朱理を呼ぶ。


「印綬はあるか?」


 朱理は黙って頷き、遠慮がちにポケットに手を挿しこんで見せた。


「急げ!」遺跡の方から声がした。武勇が壁画の前で手を振っている。俺たちは我先にと駆け出した。それに気づいた群集たちも、南条先生の元を離れて、慌てて俺たちの後を追いかけた。


「早く!」


 勢い良くグリッドの中に飛び込んだ。砂煙が立ち上がる。結構な衝撃。地面は案外硬かった。俺は足首を回しながら、片足立ちで朱理を抱き下ろした。


 ここでもたつく余裕は無かった。


「一、二、三で行きましょう。」


 華の言葉に、俺たちは頷き、手の印章を強く握った。そして、壁画の中の五羽のツバメのそれぞれの目に、自分たちの印綬を押し当てた。


「一・・」


 騒がしい足音が迫ってくる。


「二・・」


 誰かが着地する音が聞こえた一方で、


「三」


 俺たちの聴力は徐々に鈍くなっていった。




 ・・・・


 暫く間があった。俺たちの腕はまだ伸びていて、それぞれの印綬の印の面を扉へ向けて押しつけていた。だが、何も変化は起こらなかった。


「・・・何も、起こらないけど・・」


 華の方を向いて呟くと、華は静かに空を見上げたまま、短く答えた。


「――上よ。」


 俺は腕を伸ばしたまま、怪訝な顔を空に向けた。


 そこにあったのは、空ではなかった。気圧を感じさせるほど重くのしかかっていた曇り空の代わりにあったのは、抜けるように高く伸びた土壁と、浮いているかのように遠く小さく見える、板張りの天井だった。


「これ・・離しても大丈夫?」遠慮がちに朱理が華に尋ねた。


「ええ。」華は微笑み、自分から先に手を扉から離した。


 俺は後ろを振り返った。それからしばらくは声が出なかった。


 殺風景な発掘現場が広がっていた俺の背後には、鮮やかな朱に塗られた書棚が、はるか遠くの天井に届くほど高い書棚が、林の木々のように立ち並んでいた。そしてその棚の一つひとつに、櫛の歯のように隙間なく、目のさえるような緑色の竹簡の巻物が整頓されて載せられていたのだった。


 書庫。


 ほかに単語が思い浮かばない。


「・・・すごい量だな。」武勇も突然現れた光景を表現する言葉を見つけられないようだった。


「ここはどこなんだろうな。書庫か?」文郎はあくまでマイペースだ。


「書庫しか考えられないけれど、それにしても、ありすぎじゃない?」と朱里。


 俺は、丈の長い、頼りない木製の梯子が書棚に立てかけられているのを見つけた。


「ちょっと触って、読んでもいいかな?」文字なら何でも読める文郎が興味深げに書棚に寄った。


「駄目だろう、文郎。すごく貴重なものだろうし。」武勇はそう言ったものの、目の上の高さにある数多の竹簡に恨めしそうな視線を注いでいた。


「記憶――」


 華さんの小さな声が、書林に響いた。


「記憶・・?」朱理は繰り返す。


「ここにある竹簡は、全て記憶を記したもの。つまり――」華さんの透き通るような声が、風のように書棚の間を駆けていく。「―燕五使徒の伝えた、今までの時代で人々が残した記憶が、竹簡の中に眠っているの。」


 その言葉に、俺たちは何も言わなくなった。話すことがなかったのではなく、聞こえるかもしれない「記憶の声」に耳を傾けようとしたからだ。もちろん、書棚の竹簡は何も語らなかったし、何も言うことはなかったが、俺には不思議と――また幻聴とかいうのでなければいいが――何かの旋律のワンフレーズが耳を通り抜けた気がした。


 記憶の調べ。


「なるほど。だから印綬なんだな。」


 振り向くと、文郎が満足げにニヤリと笑って、白の陽綬を見せた。それを見て武勇も、そうか、と手を打った。


「何?」俺は尋ねたが、武勇は、後でわかるよ、と言っただけだった。


「それにしても、本当に、ここ、どこなの?」隣で朱里が不安げに言った。「さっきまでだだっ広い発掘現場にいたはずなのに、この様子だと、宮殿か何か部屋の一角みたいじゃない。」


「そりゃあ、『宮殿か何か』の一角なんじゃない?印綬が俺たちを導いたわけだし。」


 意味深長に文郎は答えた。それを受けて、俺は華に問いかけた。


「本当に――ここが『神宮(しんぐう)』なんですか?」


 華は困ったように笑って、至極妥当な返事をくれた。


「私も、ここは初めてですから。」


 すると、いつからいたのか、天井近くの棚で鳥の鳴く声がした。俺たちが見上げると、羽ばたく音に続いて、声の主は颯爽と、木の扉の真反対にある大きな朱の扉から飛び出ていった。


 若い燕だった。


「――あれ?今回の使徒さん方は抜け穴から入ってきたみたいですね。」


 燕が羽を休めたのは、朱の扉の前に現れた、青年の肩の上だった。


 度肝を抜かれて動けない俺たちをよそに、俺と同い年くらいの青年はにこやかに近づいてきた。


「この神宮にあなた方だけがいると思ったら間違いです。使徒を迎える者もいることをお忘れなく。」


 危害を与える風ではないので、俺の背に安堵の汗が流れた。だが、そもそも危害を加えるような雰囲気は微塵もなかった。なぜなら、男はジャケットにメンパン、首元にアクセサリーと、街を歩けばすれ違いそうな若者と違わぬ格好をしていたからだ。ただ一つ異なることと言えば、ワックスで上手に固められた、光るような短い銀髪をしている、ということだった。


「本当に―――」


 華さんの表情に、男は白い歯を見せて笑った。


「驚かすのに成功したみたいで良かったですよ。今回の使徒は若者ぞろいということだったので、こちらも随分若作りしたんですよ。もっとも、私がどう見えているかは、あなた方各々で異なることかと思いますが。」そう言うと、男は肩の燕の足元に右手を差し出し、伸ばした人差し指に伝わせた。


「申し遅れました。こんな格好をしていますが、冗談と思わないでください。」燕は小さく鳴くと、男の指から飛び立った。「私が、禹です。」


 俺は最初から、男の言っていることがよく理解できなかったが、この言葉には、どう答えればよいか、もはや考えることもできなかった。代わりに尋ねてくれたのは、武勇だった。


「・・つまり、あなたが、夏王朝の始祖である、禹王ということですか・・?」


「ええ。」俺たちの反応に、禹はだいぶ満足したようだった。「まあ、何はともあれ、みなさんに記憶の奉納をしていただきましょうか。こちらです。」


 禹は朱の扉の外側の回廊を歩き、俺たちを案内した。回廊は庭に面していたが、庭には何の草花も生えていなかった。時々、何羽の燕が俺たちを抜いたり、俺たちとすれ違ったりした。そのたびに、ジャケットを着た禹は、吊り上がった大きな目を燕に向け、優しく微笑んでいた。


「なあ・・」武勇が俺の肩を叩いて囁いた。


「何だよ?」


「あいつ・・・本当に禹王だと思うか?どう見ても俺には髪を白く染めた若い男にしか見えないんだけどさ。韓国にも中国にも「禹」っていう名字の人がいるから、なんかそれと勘違いしている可能性って、ないか?」


「・・・知らねえよ・・。ここ、『神宮』だって、さっき話していたじゃねえか・・。こんな広い庭に草木も生やさないなんて、なんだかさみしいよな。」


「何も生えていない?」武勇は目を丸くして俺を見た。「花なら満開じゃないか。草も生い茂って、生き生きとしている。見えないのか?」


 武勇の言葉に、俺は眉を潜めた。


「武勇の言っているの、何のこと?」


「あの・・・」朱里は禹に声をかけたかったが、どう呼ぶべきか躊躇しているふうだった。


文命(ウェンミン)で構いません。私の名です。」


「その・・文命さんが先ほどおっしゃっていたことなのですが・・・その、『私がどう見えているか

は、あなた方各々で異なる』ということなのですが・・。」


「あなたには、私はどう見えますか?」


 文命は振り返って、朱里に尋ねた。朱里が思わず口ごもると、文命は穏やかな笑みを浮かべて、話を続けた。


「私自身も、そしてこの神宮(しんぐう)も――みなさんが見たいように見ているにすぎないのです。この庭に命あふれる豊かな春の庭を想像するなら、この庭には草木が生い茂り、花が盛りの時を迎えているように見えるでしょう。一方、庭にはただ荒れた土だけが広がっているように見える方もいるかと思います。もちろん、私の姿に関しても、人によって異なるはずです。」


「それは・・つまり、どういうことなのですか?」


「使徒のみなさんもご存じの通り、私は伝説上の人間です。実在した王朝や帝都は、時がたてば没落し、夏草が生い茂り誰をも寄せ付けぬ廃墟となるものです。ですが、伝説は時を経ても朽ちることなく、人々の心の中に残り続ける。だから、私もこうして年をとることなく生き続けていられるのです。人々の記憶の中に。」


「記憶に描く夏王朝の都や禹王の姿は、人々の心の中でさまざまに変わるから、実際にこうしてお会いした時も、見る姿はさまざま、ということですか。」


 文郎の言葉に、禹は頷いた。


「もっとも、今回は私のほうで、あなた方と同い年に見えるように細工は致しましたけれど。仙人のような白髪のじいさんが現れたら、さすがに近寄りがたいでしょうからね。」そう言うと、禹は微笑んだ。


 禹の言葉を聴いて、俺はもう一度目前の庭を眺めた。今度は、頭の中に真夏の風景を想像してから、目を凝らして庭を見つめたのだ。すると、驚いたことに、日差しが燦々と照りつけるようになり、アンダルシアさながらの満開のヒマワリがあふれんばかりに咲き乱れた。俺と同じ実験を武勇も行ったらしく、信じがたいという顔をして、俺の方を見た。


「五帝のあとに、治水事業を認められて私が帝位を襲ったのですが、その頃はまだ天と民の間には、神の言葉を映したという文字で、やり取りを行うことが出来たのです。その文字は変化を遂げて後に漢字と呼ばれることになります。」


 禹は言った。


「しかし、民と天との間にはいつしか隔たりが現れてしまい、結局は二つに分かれてしまうことになります。天の側としては、かつて西の民がおこがましくも天まで届く塔を作ろうとしたことが――実はあれは、分け隔てられた二つの世界を再び繋ごうとする計画でもあり、天の側も当初は同意していたのです――繰り返されることさえなければ、天と地が分かれても構わないとは考えていたのです。」


 ヒマワリの咲き誇る宮廷の中を歩きながら、禹は話を続けた。


「ただし、天の側には、地はあくまで天に支配されなければならない、という意地がありまして。人間があまりに賢くなりすぎて、力を合わせて、天に再び刃向かうようなことがないようにしたかったのです。あの塔の話の結末はご存知ですか?」


「ええ。」華は頷いた。


「恐ろしい話です。」禹は溜息をついた。「・・あの塔を建てるまでは、実は地の民は、あなた方がいらした世界よりも発展した文明を築いていたのです。それが一瞬にして天によって『消去』されたのです。人々の『記憶』を握る天の力があってこその仕打ちですが。」


 俺たちは黙って、禹が口を開くのを待った。


「――天は人々の言葉も変えてしまいましたし、あえて戦争が絶えず起こるように仕向けたりもしました。ただ、それでも一つ弱みがあったのです。神宮、すなわち地の民の記憶を集めた書庫は、天ではなく地に存在し、しかも、民の中でも特に頭の切れる『学者』という部類の者たちが、その記憶を発見すれば、天に勝る力を地の民は手に入れるのではないかという疑いが浮上したのです――ああ、あれはさっきの子の弟ですよ。」


 新しく飛んできた燕に、禹は手を振って挨拶した。


「この書庫は、私が帝位にある時から存在していた、ありていに言えば地上にある天の出先機関なのです。なにぶん当時は天と地がつながっていましたから、天の人々が『蔵書』を管理することには何不自由ありませんでした。ただ、時代が下り、世界が二つに完全に分かれると、天の人々もこの書庫から外へ出ることができなくなってしまったのです。地の人々を支配する源である、人々の『記憶』を集めてくることができなくなったということです。その上悪いことに、神宮の外側の入口の封印の力が弱ってしまって、外界には見えないはずの入口が、何かの拍子に汚い姿を外界に見せるようになったのです。」


「それで・・・何年かごとに、地の民から五人を選んで、この神宮の封印をかけなおしに来させることにした、ということですか。」武勇が言った。


「ついでに、彼らに『記憶』も収集していただくことにしたのです。」若い禹は笑った。


「でも私たち――」華は口を挟んだ。「――世界の全ての『記憶』だなんて、持ってこられるはずがありません。」


「お気になさらず。あなた方の『印綬』が全ての役目を引き受けていますから。」

 そう言って禹は、俺の右手を静かに指さした。俺は眉をひそめて、右手の中の印綬を強めに握った。重みは変わらない。


「記憶は少しずつ増えていきますから、最初の頃よりは随分重くなっているはずですよ。ただ、それにあなたが気づいていないだけなんです。」


 禹は回廊を曲がった。その先には、石畳の大きな広場が広がっていた。中央を一段高く築かれた石の道が続き、その先に石段が現れる。石段は朱の柱と稲穂色の屋根瓦で彩られた壮麗な屋敷へとつながっていた。何かの本で見たことのある写真を、俺の想像力は参考資料として利用しているようだった。


「あそこが記憶の受け渡しを行う、燕舞宮(えんぶきゅう)です。」


 俺は顔を上げた。


「この匂い――」


「気づきましたか?」禹は言った。「神宮全体に、香を焚きこめているのです。残り香はとても芳しいとは言えませんが、こうして漂っているうちは、こんなにも安らかな香りがするものなのです。」


「あの――」朱理は遠慮がちに禹に尋ねた。


「どうぞ、朱の陽綬の朱理さん。」


 名前を呼ばれて、朱理の頬が少し赤らんだ。


「――神宮の入口、あんなことになってしまって、本当にすみません。掘り返して、踏み荒らして、取り返しのつかないことになってしまったら、本当に――」


「ご安心ください。」禹は優しく答えた。「学者たちは、あれで神宮の全てを発見したと思っているかもしれませんが、それは私たちが苦心して作ったおとりです。本当の神宮への入口は、貴方がたの印綬がないと、入って来れません。」


「そう、なんですか――」


「けれども、実は神宮の壁が今回、初めて破られました。六日以内に貴方がたが集まらなかったなら、今後の展開は若干異なったものになっていたでしょうね。」いたずらっぽく禹は笑って言った。「さあ、着きましたよ。」


 俺たちは宮殿の中に足を踏み入れた。陽光が差しこまず、天井は深紅の影に覆われていた。ぼんやりと全景が浮かんでくる。前方に、脚の高い大きな椅子が置いてある。そしてその前に、漆で塗られた五つの黒い机が並べられており、各盆のような漆黒の容器の上に、巻物が山積みされていた。


「机の表面に、印綬の彫刻をそれぞれかたどった絵があるかと思います。ご自身の印綬にあう絵の描か

れた机の前に、どうぞお進みください。」


 禹に言われて、俺は大きな尾を振りかざす青龍の描かれた机の前に立った。一つの巻物は既に開かれた状態で机上に載っていたが、紙面には何も文字が載っていなかった。


「陽綬の方はそのまま右上に印綬を押し付けて下さい、文字通り、押印する要領で。陰綬の方の巻物には、右上に粘土質の枠があると思いますから、そこに印綬の表面がうまく沈み込むように押し込んでください。」


 確かに禹の言うとおり、紙の上に一部だけ、茶色がかった膨らみが載っていた。


 俺は、右から、怖がる朱理の視線を感じていた。分かっている、そのことは。朱理の視線の先に、華の顔も見えた。


「その・・・文命さん。」俺は慎重に口を開いた。「一つ、相談があるのですが・・・」


「何でしょうか。」禹は穏やかな目で俺を見据えて言った。


 俺は禹が近づいて来るのを待って、小さな声で話した。


「俺の受け継いだ、この蒼の陰綬の中には、使徒ではない人間が一人、閉じ込められています。ここで俺が記憶を全部出してしまえば、その人はこの印綬から解放されると思いますが、そうすれば、この神宮に、使徒以外の人を上がらせてしまうことになります。このことについて、俺はどうすればいいか、どうかご指示を仰ぎたいと思うのですが・・・」


 禹は静かな瞳で、俺を見つめた。まるで、俺の心に浮かぶ感情を確かめるように。


「人間が変わるには、時間の流れだけでは足りないのかもしれませんね。」


「・・・どういうことですか?」


「気に入らない記憶を持った人間の記憶を奪ってしまう。それは、各国の君主が使徒の役目を果たしていたときから起こっていたことなんです。」禹は言った。「大抵は権力者の考えに逆らう者が対象となりました。そこで、貴方がたの二代前から、権力者から権力者への継承を、私が禁じたのです。民草の心を信じたかった。」


 失礼します、と禹は俺の右手から印綬をつまみ上げ、日光の当たる方に印綬をかざして眺めた。まるで万華鏡を覗いているかのようだ。


「・・・確かに、一人、不死の状態でこの小さな牢獄に監禁されている人がいますね。」禹は淡々と言った。「――しかも、体制よりの記憶を持った人物だ。興味深いですね、民衆はこの記憶を消そうと思うものなのでしょうか。」


「そうではなくて――」俺は言った。朱理にも聞こえるように。「存在を消そうとしたのではありません。非常手段として、記憶を消して過去に遡らせようとしただけです。」


「それは陽綬なら出来ることですけれどね。」禹は頷いて。「なるほど。悲劇的な手違い――ということですか。」


「どうすれば、その人を外から出せますか?」


「蒼の陰綬の龍也さん。」禹は言った。「貴方が今しがたおっしゃったように、その人を印綬から解放するには、ここで記憶を全て出さなければなりません。でも、それは神宮の存続にとって看過できぬ事態です。そのため、今までは、一度印綬に取り込まれた人は、その記憶ごと文字化してしまうことにしていたのです。」


「文字化・・・」背筋を冷たい風が撫でた。「では、その人は二度と元の世界には――」


「何か、他に方法は無いんですか?」


 気がつくと、俺のすぐ隣りに朱理が来ていた。朱理は深刻な顔で、泣きそうな目で、打ちひしがれた口調で、禹に迫った。


 禹は驚いた顔で、朱理の顔を眺めた。


「その人は、貴方の―――ひいおじいさん、なのですか?」


 朱理は小さく頷き、俯いた。


「弱りましたね、女性の泣き顔を見せられるのは。」禹は肩を竦めて笑った。「分かりました。この事態は、貴方がたの起こした問題ではない。貴方がたに免じて、今回だけは特別な措置を図りましょう。」


 俺は思わず禹を見上げた。「できるんですか?」


「ただし、朱理さんのひいおじいさんは戻らない。これだけ時間の経過した時代に戻すことは、色々と不都合な事情がありますから。」


「であれば・・・」


「私が提案したいのは、魂を解放することです。」禹は朱理に語りかけた。「私が少し細工をして、この印綬から貴方のひいおじいさんの記憶をふるい分けることにします。そうしたら、ひいおじいさんの記憶の書かれた巻物を、朱理さんはこの神宮から持ち帰り、ひいおじいさんの魂を解き放ちたい場所で、この巻物を燃やしてください。貴方のひいおじいさんは、貴方のひいおじいさんとしては蘇ることはできません。けれども、貴方のひいおじいさんと同じ性格の、同じ心の持ち主を、貴方がたのいる世界に蘇らせることは可能なのです。つまり、貴方のひいおじいさんは、また貴方がたの世界で生き続けるんですよ。」


 禹は目頭が赤らむ朱理に微笑みかけた。


「私ができるのはこのくらいですが―――許して頂けますでしょうか。」


 朱理は涙ぐみ、大きく一回、首を縦に振った。


「ありがとうございます。」


 禹は朱理の頭を、慈しむように優しく撫でた。俺は禹を見上げた。


「龍也さん、それから他の皆さんも、よく見ていて下さい。皆さんにして頂きたい、記憶の引継ぎの手順をお教えします。」


 武勇と文郎は、目の前の巻物から目を離して、禹の方を見た。


「もう少しお借りしますね。」禹は俺に言って、右手に印綬を構えた。


「手順と申しましても、大掛かりなものではありません。こうして印綬を定位置に置いて、ぎゅっと押し込んでください。そうすると―――」


 禹は蒼の陰綬の印面を粘土に押し付けた。その次の瞬間だ。俺は目を見張った。まるで炎に当てて文字をあぶり出すように、まっさらな紙面に、じわりじわりと文字が浮かび上がってきたのだ。おそらく神代の文字だろう、俺には何と書いてあるのか全く分からない。文字列は等間隔で、次々に紙の上を埋めていく。紙面の左端まで行ったところで、禹は巻物の軸を回して、巻物を繰り始めた。その間も文字はとどまることを知らず紙面にあぶり出されてくる。あっという間に巻物の最後まで到達してしまう。すると禹は次の巻物を開いて、また粘土質の部分に印綬を当てた。その作業が五巻目まで行ったところで、文字が徐々にかすれ、色が薄まってきた。やがて、六巻目の途中まで来たところで、文字列は途切れ、それ以後は全く浮かび上がって来なかった。


「こんな具合です。」


 禹は印面を布で拭きながら言った。


「多いと思いますか?それでもこの方の場合はまだお若いので、天寿を全うした方の記憶の場合は、もっと多くの巻数が必要になるんですよ―――さあ朱理さん、これを皆持って帰ってください。貴方がこれを燃やすことについての記憶は、残しておくことにします。」


 禹は六巻の巻物を積み上げて、朱理に差し出した。


「――本当に、ありがとうございます。」


 朱理は大事そうに、その巻物を抱え込んだ。禹は俺を含めた他の四人に向けて言った。


「貴方がたは先代の分の記憶も引き継がなければいけないわけですし―――もし巻物が足りなくなれば、私に申し付けて下さい。倉庫に在庫があるか見てきますから。」


 俺は禹から印綬を受け取った。そして、俺たちもそれぞれの机につき、目の前の紙面に印綬を押し付けたのだった。禹が尚忠義の記憶を取り出したよりもずっと速いスピードで、文字列は走るように巻物に浮かび上がっていった。巻物を繰る俺の手が間に合わなくなりそうなほどだった。巻物を取り替えながら、これが龍山の記憶なのかもしれないと思った。禹の先ほどの話を思い出して、印綬に閉じ込められなかったものの、この文字列自体も、龍山の一部ではないのだろうか、と俺は感じた。夕陽を背に浴びて、俺に語りかけてきた葦原龍山。その姿と声も、俺は思い出すことができた。


 朱理の方を見ると、顔色が先程よりも随分明るくなっていた。隣の机に丁寧に忠義の記憶を並べて、自分の印綬の中に残された記憶を紙面にプリントアウトしている。陽綬の持ち主の朱理は、神代の文字が読めるから、時々巻物の文字列を見たら、愉快そうに笑みを浮かべていた。華や文郎も、なかなか意味深長な顔で流れゆく文字列のせせらぎに耳を澄ませていた。


 ようやく作業の要領をつかみ、淀みなく仕事をこなせていっていた時だった。俺は次の巻物を広げようとして、誤って床に落としてしまった。とっさに手を挙げたとき、耳元にあたった印綬から、俺は誰かの声を聞いた。


 くぐもってよく聞こえない。俺は巻物を拾うのを忘れて、もっと強く印綬を耳に押し当てた。


「――僭越ながら、先生、一つお伺いしたいことがあるのですが。」


 若く張りのある声だったが、喋り方に聞き覚えがあった。これは、葦原龍山の記憶だ。すぐに確信した。


「どうぞ、春日井君。」もう一人の、老成した声が答えた。


「今お話頂いた、印綬と神宮、そして神の残り香についてのお話ですが。どうして葦原先生は、南条君ではなく僕にこのお話をしてくださったのですか?」


「いつも直球だね、君は。」龍山先生は愉快そうに笑った。「春日井君はどうしてだと思うんだい?」


 その問い返しは春日井君の虚を突いたらしく、印綬からは春日井君の、戸惑いが混じってくぐもった吐息だけが聞こえた。


「出藍の誉れ、とでも言うかな。」暫く間を置いてから龍山先生は口を開いた。「僕は春日井君にも南條君にも、僕なんか追い越してもっと遠くに行って欲しいと思っている。だからこそ、師の轍を踏むことだけは避けて欲しいと思っている。」


「同じ轍を踏むな、と申しますと・・・」


「今しがた話したように、僕は若い頃、取り返しのつかない失敗をしてしまった。神代の言語についての文章を日本語で書いたために、この極東で覇権を狙う勢力を活気づけることになってしまった。君たちにはそれを何としてでも避けて欲しいんだ。南条君は、僕がこの話を君にしかしなかったことを知ったら、嫉妬するかな?」


「さあ、どうでしょう。」春日井君は淡白に答えた。「僕なら少なくとも先生の真意を尋ねるかもしれませんね。」


「僕はしないと信じているよ。」龍山先生はきっぱりと言った。「だけれども、真っ直ぐな彼が不用意に傷つかないように、敢えて南条君には伝えておかないんだ。春日井君、君は言語学か英文学か、どちらに進むか迷っているようだけれど、語学の授業を将来持つとすれば、もしかすると僕の曾孫が、君の生徒になることが万が一にあるかもしれない。僕と同じように、彼は何語でも苦労せずに操れるから、そんな異色な学生がいたら、今日話したことを彼にも話して欲しい。」


「分かりました。」


「これもみんな、僕のしてしまった過ちに比べれば、ほんのわずかの贖いなんだ。僕はもう先は長くない。僕の大事な盟友に、僕の人生の三十年を代価として支払うことに決めてあるんだ。だから、君と話すのは、もしかするとこれが最後になるかもしれない。くれぐれも、南条君には、伝えないでくれ。そして、僕の曾孫にあったら、どうか今の話を説明して、この印綬を手渡して欲しい。」


「――承知しました、葦原先生。」


 俺は静かに印綬を耳から離した。遺跡の発掘現場の前で、この印綬を掲げながら一人涙していた南条教授の気持ちが、俺は少し察することが出来た。南条教授の耳にしたものは、まさにこの葦原龍山の声だったのだろう。印綬に封印されていた記憶が、過ちを繰り返すなと叫ぶ龍山の記憶が、南条教授に向かって、声を大にして訴えたのだろう。俺は静かに巻物を床から拾い上げ、印綬をその上に置いた。再び、流麗な筆致で文字が巻物に浮かんできた。


「かなりたくさん出てきましたね。」俺の机に積み上がった巻物を数えながら、禹が思わず声を漏らした。「これは、天上にも良い報告が出来そうだ。」


 二時間ほどかかったかもしれない。俺たちはようやく、印綬の中の記憶を全て抜き出した。ずっと印綬を押さえつけていた右手の指の感覚が麻痺してしまったようで、手を離しても暫く何も感じなかった。左手でつまみ上げた印綬は、まるでセミの抜け殻を拾い上げるように、驚くほど軽くなっていた。


「お疲れ様でした。」ジャケットを着た禹が言った。


「この作業によって、貴方がたが使徒の役目を受けてから今日に至るまでの全ての記憶も、こちらでお預かりすることになります。この神宮を出るまで、便宜的にその記憶は貴方がたには残してありますが。記憶が無くなった部分は、貴方がたの想像力豊かな頭脳が、素敵な物語を紡ぎ出して、それで埋め合わせをすることになるでしょう。」


 俺は部屋の隅にあった椅子の上に、静かに座り込んだ。だいぶ時間が過ぎたような気がしたが、広場に照りつける夏の太陽は、少しも傾こうとしていなかった。


「さて、燕五使徒としての貴方がたの、最後のお役目です。」


 禹の言葉に、華が口を開いた。


「継承者の選定、ですね?」


「そのとおりです。」禹は頷いた。


「今生きている方、これから生まれてくる方の中であれば、選ぶ基準は、全て貴方がたに一任します。貴方の身内でも、異国の人でも構いません。恐らく事前にご存知だった方もいらっしゃるかとは思いますが、少しお時間を差し上げましょう。心が決まりましたら、お手元の印綬に、強く念じてください。」


「すみません。」


 俺は手を挙げて質問した。


「この任務が終われば、変わろうとしていた世界は、また元に戻るんでしょうか。」


 禹は俺を見て尋ねた。「と、言いますのは。」


「何か大きな変化があったとき―――この神宮の発見もそうです――六日間で世界が再編成されると、タイ――先代から、伺いました。ですから、まだ今日が六日間以内なら、この任務が終われば、僕たちの前には、今までの世界があるんですよね?」


「貴方の質問の答えになるか分かりませんが。」禹は言った。「貴方がたが使徒としての自覚を持った世界は、消失します。ですが、それ以外の変化は、特に我々側から施すことはありません――これでよろしいでしょうか。」


「はい。」俺は元気よく言った。「ありがとうございます。」


 禹は俺を興味深そうに見ていたが、やがて広場の方に目を映し、静かに呟いた。


「・・・私は、そろそろ、地の民にも『記憶』を返しても良いのではないのかと考えているのです。」天がいつまでも地の民の世話を焼いていると、地の民の親離れも、天の子離れもできないでしょうから。」


 俺が聴いていることに気づいたのか、禹は俺の方を振り返って、決まり悪そうに笑った。


「今のは、独り言ですよ。」禹は蒼の陰綬を眺めて言った。「もう、継承者はお決めになりましたか?」


「はい。」


「それでは、その印綬は一度回収させていただきます。」禹は五つの印綬を丁寧に掌に並べた。「継承者の何人かは、今、継承者としての自分の変化を認識したかもしれませんね。実際に継承を行うときは、こちらから貴方がたにこの印綬をお送りさせていただきます。使徒としての記憶を一時的にお貸しいたします。その際に、貴方がたの方から後任の方に、丁寧に引継ぎを行なってください。」


「分かりました。」文郎は頷いた。


 俺たちは宮殿を去り、再び花の咲き乱れる中庭の傍を歩いて行った。誰とも言い合わせてはいないのだが、不思議と誰も口を利こうとはしなかった。時が凪いでいた。


「この神宮の時の流れは、止まっています。もちろん、人や物は動きますが、あなた方が地の世界の、いわゆる『時間』というものは、この世界には存在しません。ですから、みなさんは、ここにいらしたときと同じ時間にお帰りになることができます。」


 俺たちのやってきた書庫まで、禹は俺たちを見送ってくれた。


「お役目、ご苦労様でした。みなさんのような若い方にお会いすることができてよかった。私も心なしか若返った気がします。」


 禹はそう言って笑い、俺たちそれぞれに優しく会釈をした。宮殿へと戻る禹を、俺たちは小さくなるまで見守っていた。禹の後を追うように、五羽のツバメが、様々な弧を描いて飛び回っていた。


「――これで、おしまい。」


 再び花の咲き乱れる庭を見ながら、華は寂しげな声でそう告げ、俺たちの方を振り返った。


「そう、ですね・・・」


 俺はそう言い、今まで歩いて来た道に目を移した。他のみんなも同様に、宮殿の方を、それぞれ違った思いを抱き、眺めていた。俺たちは、そうやって、まるで遺跡の塑像にでもなったかのように、静かに佇んでいた。


「これでまた、神宮は眠りにつくのか。誰にも気づかれずに・・」


 そびえたつ書棚を見上げながら、武勇がひっそりと呟いた。


「再び危機が訪れるまでは。」華が付け加えた。


 庭の草花の中や、朱色の美しい回廊を、何羽もの黒いツバメが飛び交っている。俺たちは再び黙って、その情景を名残惜しむように見つめていた。


「あの扉を越えたら、俺たち、赤の他人になってしまうんだな。」


 武勇が寂しげに言った。誰もが強く頷こうとはしなかった。


「ありがとう。いろいろと。」


 文郎が俺の肩を抱き、背中を叩いた。


「こちらこそ、本当にありがとうございました。」俺も文朗の胸元を拳で軽く突いた。


「次に会うまで元気でいなよ。」武勇は俺に言った。「何だか、またどこかで会えそうな気がしてさ。」


「俺もそう思う。何となく。」俺の差し出した手を、武勇は強く握った。


「華―――」


 華の小さく美しい手が、俺の手を優しく包んだ。


「感謝します、龍也、ありがとう。」華は言った。「貴方は、私の曾祖父と私を、気づかせてくださいました。御礼申し上げます。」


「そんな大したことじゃありませんよ。」照れ隠しで俺は頭を掻いた。「華も、元気で。」


 華の後ろにいたのは、朱理だった。ふてくされた顔で、黙っている。


「お前と俺は、腐れ縁だろうが。」俺はからかった。「赤の他人になんてならねえよ。」


 朱理は反応を示さなかった。気まずい空気が流れる。張り詰めた沈黙を、俺は何かを言って取り繕おうとした。


「まあさ、お疲れ様ってことで――」


 いきなり、朱理が俺の背中を掴んだ。俺の胸に顔を埋めた。


 俺は訳が分からず、口を開けたまま、朱理の茶色い髪の毛を見下ろした。


「何やってんだ、お前――」


 胸の当たりが温かかった。朱理の表情はジャケットで見えないけれど、朱理の顔のほてりだと分かった。くぐもった声で、朱理が呟いた。


「いざという時に男になるなら――」


 朱理は言葉を選ぶように言った。


「――いつもはダメ男でも構わない。」


「――は?」


 俺はきょとんとしたまま、朱理の肩に手を置いた。


「――ありがとう。」


 朱理はジャケットに顔を隠したまま、素っ気なく答えた。


「――お疲れ、朱理。」


 俺は優しく朱理の茶髪を撫でた。顔を上げると、華や武勇や文郎たちが微笑んで俺たちを見つめていた。


「・・・じゃあ、取り込み中のところ申し訳ないけれど、そろそろ行こうかな。」


「そうですね。」


 文郎の言葉に俺は頷いた。朱理が顔を上げる。


「顔――赤い服の跡ついてるぞ。」朱理の頬を指さしながら言った。


「あんただって赤いでしょうが。」朱理はぶしつけに答えた。だが、今まで俺に見せてきた恐怖心が朱理の顔から消え去ったことを認めただけでも、俺は安心した。


 俺たちは華に従い、再びやってきた扉の前に集まった。


「では、帰りも、一、二、三で行きましょうか。」

 

 華の提案に、俺たち四人は頷いた。


「一、二、・・・」

 

 俺たちは、華の合図で、一斉に手を伸ばして、扉を押し開いた―――


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