第六章 残香 その4
四
その夜は結局、俺たちは武勇の研究室で夜を明かすことになった。時間を超えてきたせいだろう、横になると同時に疲れを抑えていた緊張が解け、俺は泥のように眠っていた。快眠と言えたかどうかは分からない。時間にすれば五分ほどだったような心持ちだ。目を閉じて直ぐに、誰かに背中を叩かれた。目を開くとそこには文郎がいて、カーテンから朝の日差しが顔を覗かせていた。
「君は早起きの方?」
「どうでしょう。冬の寒さは苦手ですから、まだ起きていないと思いますけれど。」
大学のコンビニはまだ開いていなかった。俺は武勇の研究室にあったわずかな菓子類で空腹をごまかすと、華たちに連れられて寒空の下へと出ていった。
俺は携帯を取り出した。まだ八時前だ。一限目が始まるのは一時間以上先にもかかわらず、既に幾人かの学生たちと俺はすれ違った。年明け早々、午前中に試験という憂き目にあった学生たちのようだ。俺は同情の目を彼らに送りながら、ふと自分もまだ試験がいくつか残っていることに気づいた。暗澹たる思いに駆られる俺の横を、減速せずに自転車が颯爽と通り過ぎていった。ブロンドの長い髪が棚引いていた。
「私で良ければ、話、聴くけれど?」
印綬を入れた封筒を投函したあと、俺は暫くしゃがんだまま黙っていた。華は何も言わずに俺の後ろに立っていたが、やがてさりげなくそう尋ねた。
俺は立ち上がって、華の方を振り向いた。
「・・・構わないですか。」
華は優しく頷いた。口元から小さな白い吐息が漏れる。
俺は、朱理から聴いたばかりの話を、華にゆっくりと話し始めた。華がどんな反応を示すのかと、俺は何度か話を止めて華の顔を伺った。華はそのたびに、穏やかな瞳で俺に続きを語るように促した。
「・・・こんな感じです。」俺はようやく話し切った。
「―――いきなり言われても、反応に困りますよね。信用できるかどうか。」
すると、華は俺を見て、やはり柔和な笑みを浮かべて答えた。
「私は、ありえると思いますよ。朱理さんの話。」
「・・・え?」
「龍也さんも聴いたことがあるかもしれないわね。」華は言った。「昔は、中国の皇帝は在位期間中、ただ一つの元号だけを使用することを、自国と朝貢国に許していたの。そういう形で、この東の世界の時を支配していたのよ。それと同じように、それか、それよりもずっと強力な形で、この地域の記憶も、皇帝が支配していたんじゃないのかな。」
「つまり、どういうことですか?印綬に閉じ込められた話とどういう関係が・・・」
「朱理のひいおじいさんの話は、不慮の事故だと私も思うわ。」華は答えた。「でも、昔は、故意に人々の不都合な記憶を、その人ごと印綬に閉じ込めてきたのかもしれない。どの記憶を生かし、どの記憶を殺すかも、私たち使徒の胸三寸だとすれば。」
「でも――」俺は口を挟んだ。「都合の良い記憶だけ残すのって、それが俺たちの使命なんでしょうか・・・」
「私もそうあるべきではないと思う。」華は答えた。「ただ、可能性としては昔からありえる話なんじゃないかな、とも感じたの。」
「それなら・・・」俺が口を開くと、華が手を俺の扉の郵便受けに伸ばした。
「龍也やほかの皆が持っている印綬は、記憶ごと人を印綬に閉じ込めることだけが出来るのかもしれないけれど、玉璽ならきっとそれを解決することは出来るんじゃないかしら。」華は言った。「だから、神宮に行って、そこで待つ方の助けを求めることにしましょう。ここで考えるよりも、良い考えが必ず見つかると思うわ。」
華は微笑んだ。俺は果たしてそれで解決するのか、甚だ自信が無かったが、それでも華の笑顔を見ると、不思議と解決策が見えてくるような気がした。
再び、俺たちは俺の下宿の前に来ていた。八時を過ぎたところだった。階段を上がり、二階へ向かう。一番奥の部屋が、俺の部屋だった。
「君の記憶では?」
「まだ寝ていると思いますよ。」文郎の問いに俺は答えた。「今日は試験もないですから。」
「みたいだな。」後ろに言った武勇が前方に手を伸ばした。「あれ見ろよ。」
武勇が指さしたのは、俺の部屋の扉についた郵便受けだった。郵便受けの上部に、茶封等の一片がはみ出ていた。
「ああ、あれは俺が昨日入れた――」
「そうじゃなくて、その下だ。」
「下?」
言われるままに俺は視線を床へと下げる。
もう一通の茶封筒が、俺の部屋の扉の前に落ちていた。
いや、落ちていた、というのは不適切だろう。床の描く直線に平行になるように、きちんと茶封筒が置かれていたのだ。
「確かに、外出していれば、あの茶封筒が少しくらい動いていてもいいはずだね。」と文郎が言った。
俺は茶封筒を拾い上げた。表に宛名はなく、後ろにも差出人の名前が無かった。特に膨らみはない。俺は慎重に郵便受けの扉を開けた。小さい音で扉がきしみ、途中でつっかえた。外からは、昨日俺が入れた茶封筒の他に、もう一枚茶封筒が入っているのが見えるだけで、扉を開かせない障害物の姿は確認できなかった。
「心当たりはあるのか?」武勇が腰をかがめて俺の手元を覗き込んだ。
「いや―――」俺は床に落ちていた茶封筒を開きながら。「こっちのにはない。」
封筒から一枚の白い便箋が出てきた。俺は便箋に浮かぶ文字の連なりを目に止めるや、急いで便箋を開いた。見慣れた文字。便箋に書かれた短文を、俺は何度も読み返した。
「何て書いてあるんだ?」武勇はそう言って、俺から便箋を取り上げた。
「あ、おい、武勇!」
俺は急いで立ち上がる。武勇の横で、文郎が目を凝らして文字列を見つめた。
念のため、置いていく。
尚朱理。
「何をだ?」武勇は俺を見て。「この手紙、覚えは無いのか、龍也?」
「いや、俺は全く――」そう言って、俺はもう一度郵便受けを見た。「もしかしてこの中に・・・」
俺が郵便受けの中に手を伸ばした時だ。
郵便受けの中にあったものが、音を立てて玄関の中に落ちた。いや、落ちたのではなく、誰かが手で受けたのだ。俺は思わず扉から飛び退いた。
「どうした?」武勇は驚いて。
「起きたみたいですね。」華が後ろで言った。
「なら、暫く下で待ち伏せしておこうか。」文郎が言った。「蒼の陰綬はもう渡してあるんだよね?」
「投函はしました。今から見ることになるとは思いますが・・・」俺は言った。
「なら、道を行く君に僕が声をかけてみて、君と話が通じたら、僕の印綬で君を夏へと送り返す。そうすれば、ここでの僕たちの仕事は終わりだ。急いで列車に乗って中国に行こう。」
「その――印綬で送り返された俺は、二度と戻れない、ってことはないですよね?」
さりげなく俺は尋ねた。文郎は不思議そうな顔をして。
「もちろんそんなことはないよ。君だって今、ちゃんと元の季節に戻ってきているじゃないか。」
「それはそうなんですが――」
「それより、その手紙だけどさ。」武勇が口を挟んだ。
「今朝置かれたものでしょうか?」華が尋ねる。
「どうだろうな。昨晩置かれたにしては冷たくもないからな。」武勇は腕組みをして。「渡しておく、と書かれた手紙と封筒には何も入っていない。ということは、何かを渡すはずだったんだろうけれど。」
「音がする。」俺はそう言って、四人を階下へ追い立てた。
程なくして、俺の部屋から音が聞こえた。誰かが通路を歩き、階段を降りてくる。俺たちは一階の植え込みの横に隠れて、階段の様子を伺った。顔が現れる。果たして、龍也だった。
「もう出かけるのか?試験とか?」武勇が小声で尋ねる。
「いや。食堂に朝飯を食いに行くんだよ。」俺は答えたが、視線は手元の便箋に注がれていた。念のため、置いていく。もしかすると、この手紙は、この季節の龍也ではなく、この俺本人に宛てられたものとなのではないだろうか。
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ。」俺の隣から文郎が離れた。親指と中指で白色の印綬を挟みながら。「ちょうど人通りも少ないし。一瞬で済むから。」
俺は顔を上げて文郎の背中を見上げた。そのとき、同時に龍也の背負うカバンも視界に入ってきた。
「ちょっと待ってください、タイガーさん。」
俺は思わず大声を上げた。珍しく意表を突かれた顔をして文郎が振り向いた。
「タツナリくん、そんな大きな声を出しちゃ――」
「俺のカバンに引っかかっているやつ、見て下さい。」
「え?」武勇は顔を上げた。龍也は坂を向こうへ降りていこうとしていた。
その直後、切れ長の目を大きく見開いて。
「あの巾着袋――何で龍也が持っているんだ?」
「俺だって分からないよ。今気づいたんだから・・・」
「ごめん、ちょっとここで待っていてくれないか。」武勇はもう既に助走を始めていた。「俺、あれ、取り返してくる。」
「待って。」華が口を挟んだ。「この季節の龍也は、まだ貴方には出会ったことがないんじゃないの?」
「そんなこと、適当に初対面で話せば何とかなるだろう。」武勇はそう言って、ジャケットを脱ぐと、タンクトップ一枚になった。「龍也、これ、今だけ返すよ。龍也のジャケット、俺が来ていたら変に思われるからさ。」
じゃあ、と武勇は言うと、俺が呼び止めるのを待たずに龍也の後をついて行った。
文郎は困ったように肩をすくめて笑った。
「ちょっと予定が狂ってしまったね。武勇が自然な形で印綬を取り戻してくれると良いけれど。」
「タイガーさん、俺、ちょっと気になることがあるんですが・・・。」
俺が口を開くと、華は俺の方を見て頷いた。無言で意思を通わせて、俺たちは階段を上がり、二階の自分の部屋に上がっていった。鍵をポケットからつかみだし、ドアノブに差し込む。
「むさくるしい部屋ですが、どうぞ・・・」
華の後に玄関に入ってきた文郎は、開口一番こう言った。
「謙遜というより、正直な告白だね。」
「――すみません。来客なんて殆どないので。」
文郎は部屋の奥に目を向けて。
「――寒いと思ったら、窓、開けたままだよ。」
俺は振り向いて。「・・本当だ。無用心だな、俺。ありがとうございます。」
華は抜け殻のように膨らみを保存した掛け布団をしげしげと眺めていた。俺は恥ずかしくて、華の注意を布団からそらそうと話しかけた。
「蒼の陰綬、探さないといけませんね。」
「そうね。どの辺りに置いたのかしら?」
「多分、ゴミ箱の方に・・」
「ゴミ箱?」文郎が声を若干大きくして言った。「タツナリ君、いくらなんでもそれは――」
「ないわね。」華がゴミ箱の中を覗いて冷静に答えた。
「ない?」俺は振り向いて。「おかしいな。本当にちゃんと放り投げたはずなんだけどな・・・」
「放り投げたのかい?」文郎は呆れ顔で。
「本当に見つからない?」俺は不安になって言った。
「こんな茶封筒はあるんだけれど。」そう言って華は俺に二通の封筒を差し出した。一つの封筒の中は空っぽで、もう一つの封筒の中には、この季節の俺に宛てて書かれた、朱理からの溌溂とした文体の手紙が入っていた。
「これは違いますね・・・こっちの封筒に、印綬を入れていたのですが・・・」
俺は気落ちして目元で二つの封筒を見比べていた。
「他に見当のつくところはないかな。まだ、この部屋もちゃんと探した訳ではないけれど。」文郎が言った。
「でも、昨日の夜からこの部屋にいたのは、俺だけですし。」
「だったら、君が一番怪しいな。」
「確かにそうではあるんですけれども。」
俺は二つの封筒を置き、朱理からの短い文章をしたためたあの便箋を、もう一度手に取って眺めていた。
「念のため、置いていく。」音読する。「・・・『渡しておく』じゃないのか。」
「心当たりはある?」隣で華が尋ねた。俺は文郎を見上げて言った。
「タイガーさん。すみませんが、もう少しこの部屋を探してみて頂けませんか?俺、武勇に連絡して、それから、一箇所気になるところがあるので、そこに行ってみます。」
「私、ついて行っても良いかしら?」
華の提案に、俺は頷いて答えた。
「僕は別に構わないけれど、鍵、どうするの?」と文郎。
「良いですよ、そのままにしておいてください。どうせ盗むものなんてありませんから。」
「物騒だなあ。」文郎は肩をすくめて笑うと、脱ぎ散らかした服を丁寧に床から拾い始めた。
俺は携帯電話を取り出した。電話の音が三回、四回ほどなる。
「びっくりした!」
いきなり武勇の大声が聞こえた。「どうしたんだ、いきなり?」
「ごめん、取り込み中だった?」
武勇の声が若干荒いことに、俺は気づいた。
「取り込み中と、いうかさ・・・」武勇は息を切らしながら。
「実はさ、あの後お前、自転車乗って漕ぎ出してさ。急いで追いかけたんだけど、見失ってしまって・・・。」
「じゃあ・・・まだ見つかっていないのか?」
「追跡して今ようやく大学に戻ってきたところさ。走ったから暑い、暑い。」武勇の荒い息が電話に伝わる。「・・・で、何か大事なことでも忘れたのか?」
「もしかすると、俺――この季節の俺のことだけど、蒼の陰綬までも持っていっちゃったかもしれないんだ。」
「何だって?」電話の向こうの武勇の息切れが、にわかに止まった。「なら、こっちの龍也は印綬を二つも持っているのか?」
「本当にごめん、武勇・・・」
「・・・分かった。上手く取り返せるか分からないけれど、何とかやってみる。それだけで良いんだよな?」
「あと」
「まだあるのか?」呆れたように武勇が笑った。
「いや、これは俺が少し確かめたいだけなんだけれど、俺たちも今から大学に行く。だから、俺とそっちの俺が出会わないように――」
「ちょっと待ってくれ。」武勇が口を挟んだ。「今、お前を見つけた。後でかけ直すからな。」
「いや、もうこれで殆ど終わりだから――」
「切るぞ。」
無様に響く機械音。
俺は仕方なく、携帯電話を耳元から離した。
「大丈夫だと思うよ。武勇はそつが無いからね、要旨を聴くだけで充分なんだ。」
後ろから文郎が声を掛けた。物憂げな俺の表情を見て、華が笑顔で励ましてくれた。
「武勇に任せておけば上手く行くわ。」
「それで、どこに行くんだい?大学って言っていたけれど。」
文郎の問いに、俺は自信を持って答えた。
「大学と言えば、行くところはあそこしかないでしょう。」
「そうかな。」サングラスを掛けた文郎は平然として言った。「その勘、当たると良いね。僕も後で行くから、手が開いたら連絡してね。」
「分かりました。」俺は頷いた。
楠の前のロータリーの前で、龍也は進行方向を変えて、時計台を左に見ながら、反対側の道を歩き始めた。進もうとしていた道の先には、欧米系の留学生の姿があった。その龍也を、武勇は走って追いかけた。
龍也の背中で揺れる黒い巾着袋をひと思いに掴もうと考えたが、正門の近いこの場所では衆目の視線が多く、はばかられた。伸ばしかけた左手の持って行く場所に迷っていると、武勇の気配に気づいてか、龍也の顔が横を振り向きかけた。咄嗟に武勇は口走った。
「すみません。」
振り向いた龍也は、案外話しかけやすそうな、愛想の良い表情をしていた。
「あの・・・言語学研究室は、どこにありますか?」
口を突いて出た場所は、武勇の研究室ではなく、あろうことか春日井教授の部屋だった。冷や汗がタンクトップからにじみ出る。案の定、龍也の顔に怪訝な表情が浮かぶ。
「文学部ですよね?図書館を過ぎたら右に曲がって――」
龍也は指差しながら親切に道順を説明する。その間もなお、武勇の視線は龍也の鞄に注がれていた。武勇はわざと大げさに驚いて見せた。
「なあんだ、韓国の方だったんですか。びっくりしました。偶然ですね――」
「は?」今度は龍也の方が目を丸くして。「すみませんが、俺、日本人ですけれど・・」
「日本人!本当ですか?」武勇は叫んだ。「信じられません。僕が今まで出会った日本人の中で、文句無しに一番の韓国語の達人ですよ。」
龍也は、驚愕と困惑の混交した表情を浮かべた。
「韓、国、語・・・?」
それから龍也は、自分が韓国語を話していることを何度か武勇に確認した。その後、二人は打ち解けて、互いに自己紹介をし、食堂に朝食を食べに行くことに決めた。
「中央食堂なら、こっちですよ。」
龍也は前方を指差した。確かに、目の前にある古いコンクリートの建物の横に、中央食堂の看板が見えた。
「本当ですね。」そう言って武勇は、龍也の後ろに回り、肩を叩くように見せて、鞄に手を伸ばした。
龍也が振り向いた。
「時間、大丈夫ですか?」
武勇は慌てて手を引っ込めて、頷いた。「まあ、三十分くらいなら大丈夫ですよ。」
「試験か何かですか?」
「そうですね、ちょっとそれで調べ物をしようと――」
「それにしては大学来るの早いですよね。言語学研究室にお急ぎだったんじゃないんですか?」
「いえ。研究室にしかない書籍を、借りに行こうと思っていて。」
「そうなんですか。」
龍也はそれ以上追及しないふうで、黙って地下へ降りる階段を降りていった。一段後ろを歩く武勇は、ここぞとばかりに鞄に手を伸ばした。巾着袋に手が触れた。
「いつから日本にいらっしゃるんですか?」
龍也が立ち止まり、図らずも武勇は巾着袋を持ったまま龍也の背中にぶつかった。
「――大丈夫ですか?」
「ええ・・」武勇は手を引いた。自分のズボンの後ろポケットに巾着袋を押し込む。角張った感触が手
に届いた。安心して武勇の顔に笑みがほころんだ。
「何の勉強をされているんですか?」
「印綬の――」言いかけて、思わず武勇は口を抑えた。
「え?」
「いえいえいえ――」武勇は大きく笑ってはぐらかした。「言語学、言語学ですよ。」
そう言い、武勇は龍也に気づかれないように、静かに巾着袋を自分の鞄の中に押し込んだ。
「今日も結構冷えますね。武勇、タンクトップ一枚で大丈夫なのかな・・」
俺は華と一緒に大学の正門を越えた。冬の八時は、まだどことなく暗い。
「華。」
華の円らな瞳が俺を見上げた。
「昨日は、ありがとうございます。」
華は微笑んだ。
「すみませんが、昨日のこと、武勇や文郎には、言わないでください。」
「了解。」華は答えた。
「そう言えば、華は――」放置自転車で満杯の駐輪場を横目に見ながら、俺は尋ねた。
「――いつ、使徒と初めて出会ったんですか?」
「初めて出会ったとき・・・」華は懐かしそうに並木を見上げて考えた。
「貴方以外なら、文郎が最初に出会った使徒になるわね。」
「タイガーさんが、ですか?どこで?」
「上海での話よ。」華は優しく、短く答えた。
「そうか、タイガーさん、世界鉄道でインターンしていましたもんね。」
「そこでじゃないの。私が使徒であることを自覚する前だけれど、文郎は鉄道員ではなく使徒として私の前に現れたの。」華は言った。「初めて、私と言葉の通じた人だった。」
「そうなんですね。」俺は相槌を打ちながら。「それで、どこでなんですか?」
「あら、そんなに気になる?」華は笑って俺を見た。
「そう言う訳ではないですが・・・」俺は口ごもって。「何か、はぐらかされているような気がして。」
「そうかしら。貴方なら、これだけ言えば察してくれると、私は思うけれどな。」
「そうですか?」
華は微笑んだ。
「そうですか・・・」俺は首を傾げた。「・・・考えておきます。」
俺たちは文学部棟の扉を開けた。エレベーターで五階まで上がる。迷わず俺は、エレベーターを降りて左に曲がった。その先にあるのが、南条研究室だった。
「南条教授は、出張中で不在中みたいね。」
扉に貼られたマグネットの位置を見ながら、華が言った。
「確かに、教授はいないと思いますが――」
俺のノックする音だけが、暗い廊下に響く。扉の向こうに人の気配は無かった。慎重に、綿密に、俺はドアノブを握り、音を立てないようにノブをひねった。ドアノブは止まることなく軽く回った。華の円い目に驚きが浮かんだ。
「やっぱり――」俺は満足げに呟いた。「あいつ、いつも遅くまで研究室にこもって勉強することがあるから、先生が合鍵を作ってくれたんですよ。朱理に。」
俺は遠慮なく力いっぱい扉を開いた。
朝の研究室には、日光はまだ多くは差し込んでいない。俺は蛍光灯のスイッチを探した。整頓された書棚に机。規律を乱しているものは一切なかった。長期間不在にするとき、南条先生はいつもこう綺麗に研究室を片付けてから出ていく。俺は華を招き入れ、探し始めた。この調和に不協和音を加える何かを。
コンピュータ、机の上、引き出しの中、書棚の本。特に奇妙に見られるところは無い。俺の心に、不安が芽生えた。揺らぐ確信を支えようと、何ども書籍の列を指で追うが、どこにも不可思議は潜んでいない。
「龍也。」
俺は急いで振り向いた。華が指さしていたのは、部屋の隅に隠れていたゴミ箱だった。
「これ――」
華に従って、俺はゴミ箱の中を覗いた。書棚の影が落ちていて見えなかったが、黄ばんだ表紙がほのかに浮かんでいた。俺は急いで拾い上げる。
「この本――」
「間違いありません。朱理ですよ。」
俺は拾い上げた本の表紙を軽くはたいた。
「でもどうして、朱理さんはこの本を捨てて行ったのかしら。」
「捨てて行ったんじゃないですよ。」俺は答えた。「置いて行ったんです。」
「これは、置いて行った、とは言わないんじゃない?」
「本人としては捨てるつもりだった。この本に書かれていること全ては事実無根の荒唐無稽な空想物語だと考えたかった。」俺は言った。「だけど、念のため、捨てたことは俺に伝えておこうと思った。だから、捨てたんじゃなく、置いて行ったんですよ。」
「じゃあ、あの手紙は、武勇の印綬のことじゃなかったのね。」
「いや、あれもあいつの仕業だと思います。でも、あいつの持ち物は、黒の陰綬ではなく、この本です。朱理は、ああやって凄く自信家に見えて、最終決定の前でいつも尻込みして、誰かに支持と指示を求めるんです。」
俺は肩をすくめて言った。
「そうなのね。」華は『普遍言語の源流』を手に取り、ぱらぱらとページをめくった。
「ただ、そうなると、南条先生は発掘に印綬を持っていかなかったことになるわね。少なくとも、全ての印綬を必要としている訳ではないように思えるわ。」
「そうなりますね。」俺は顔を曇らせて。
「朱理が朱の陽綬を、ちゃんと持っているといいんですけれど。」
研究室を出て、俺は文郎に電話をかけた。結局、俺の部屋からは印綬が見つからなかったらしかった。俺は、この季節の自分が間違えて持っているものだと確信したが、紛失した可能性もあるわけで、思えば妙な自信であった。文郎とは時計台の裏で待ち合わせることにして、今度は武勇に電話をかけた。
「・・・出ないな。」
留守番電話に切り替わる。もう一度かけ直してみるが、結果は同じだった。
そのうち、文郎が待ち合わせ場所にやってきた。時計台の針は八時半を指していた。もうすぐ一限目が始まるので、キャンパスには学生が次々に姿を現していた。ただ、武勇の姿は見えない。
「おかしいなあ。」文郎はサングラスを外し、眉をひそめて携帯電話を畳んだ。「あいつ、電話に出ないぞ。」
「まだ見つかっていないんですかね、俺?」俺は文郎に尋ねた。「列車、いつ来るんでしたっけ?」
「九時だよ。そろそろ集まっていないとまずいんだけれどな。」
「文郎。」華が小声で俺たちに囁いた。
「どうしたの?」
「今、龍也が、私たちの方を見ていったんだけれど。」
「タツナリ君が?」文郎は顔を上げた。「ここにいる、タツナリ君じゃなくて?」
華は頷いた。
「俺、見られていませんでしたか?」
「文郎の後ろに隠れていたから。」
華の言葉に、俺は深く溜息をついた。変な汗を背中にかいていた。
「タツナリ君は、どっちに行った?」
「多分、そこの図書館に入っていったわ。」
「何だよそれ、それなら武勇は一体どこにいるんだろう?」文郎は首を傾げながら、もう一度携帯電話を開いて、耳元に当てた。「・・・あ、つながった。」
「あれ、皆そこ?」
俺たちは時計台の方を振り返った。地下の階段から、携帯電話を手にした武勇が現れた。
「どこ行っていたんだ、武勇?」俺は問い質した。
「いや、何かお前が食堂行こうって言ったから、ついて行ったら、何だか長居してしまった。」
武勇の笑顔が何となく恨めしかった。俺たちはろくに朝飯も食べていないというのに。
「それで、例の物は?」
「もちろん、上首尾さ。」嬉しそうに武勇は巾着袋を前に差し出した。紐をゆるめ、左手で巾着袋の中
の物を受ける。転がり出てきたのは、二つに欠けた黒の陰綬だった。
「・・・あれ?」武勇は眉をひそめる。
「これだけ?」俺は恐ろしくなって思わず声を漏らした。
「蒼の陰綬は入っていないのかい?」文郎は険しい顔で巾着袋を触った。
「俺は――俺は、どこに行ったんだっけ?」俺は武勇に尋ねた。
「いや、特に行く場所も聞かずに――別れたな。」武勇は歯切れ悪く答えた。
「まだ図書館にいるかもしれないわ。」華が答えた。「さっき見たの。」
「じゃあ、俺、ちょっと行って――」
「待って。」文郎は時計台を指さして。「そろそろ列車が来る時間だ。」
「でも、印綬がないと意味が――」
「よし、なら龍也、俺と一緒に探そう。」武勇が言った。「待たせた俺が悪い。華と文郎は、先に駅に向かってくれ。」
「分かったよ。乗務員の方には、出発時間が遅れると伝えておくよ。」
「十分以内に戻る。」武勇は答えた。「龍也、行こう。」
熟考する間もなく、俺は武勇に連れられて、向かいの中央図書館へと走った。
蒼と黒の陰綬の持ち主が、列車の出発時刻を遅らせて、大事な何かを探しに走る。
「武勇。何かこれ、デジャビュじゃない?」
「そうか?」武勇は言った。「悪いことは考えない方が良いよ。この季節の龍也は、必ず蒼の陰綬を持
っている。」
「え?」俺は階段を上がって、入口の自動ドアに飛び込んだ。「どうして分かるんだ?」
「俺と食堂で話しているとき――俺たちは、韓国語じゃなくて、神代の言葉で話していたんだ。」
「でもそれは、俺が印綬の残香を吸ったからであって――」
一階の受付の前を、早歩きで俺たちは通り過ぎる。
「それだけじゃない。」武勇は言った。「食堂で小鉢を選んでいるとき、そっと巾着袋に耳を澄ませた
んだ。そうしたら、列に並んで定食を待っている龍也の声が聞こえたんだ。」
「その時点で、その巾着袋に蒼の陰綬の入っていないこと、分かっただろう?」
「その後で印綬を取ったものと思っていたんだけれど――言い訳しても仕方ないよな。俺は二階を見てく
る。」武勇は階段に上りかけて、俺の方を振り向いた。「龍也は一階を探してくれないか?」
「――分かった。」俺はそれ以上追及するのをやめ、百科事典や雑誌の並ぶ一階の開架に向かった。
試験前だけあって、図書館は一段と混雑していて、普段はグラウンドで走り回っているような学生たちも、ウインドブレーカーを着たまま重たい本を横にノートを睨みつけている。俺は座る場所を探すような素振りをして、一つひとつ閲覧席を確認していった。一階にある閲覧席はそれほど多くないが、龍也の姿は見当たらなかった。俺は再びカウンター前に戻ってくる。何気なく視線を送った出口の向こうに、見慣れたジャケットを着た男の背中が見えた。俺は慌てて階段を駆け上がった。
「武勇!武勇!」
武勇は三階のコンピュータ室にいた。武勇は入口で手招きをする俺を見つけると、静かにコンピュータ室から出てきた。
「見つけたか?」
「今、図書館を出たところだ。」
「まずいな。自転車に乗ってどこかに行かれると困る。」
俺たちは階段を駆け下りて、走って図書館を飛び出した。左を見て、右を見る。往来の増してきた図書館の前の通りは、見通しが悪くあのジャケットは見当たらない。
「あれじゃないか?」
武勇は俺に確認する時間を与えないまま、時計台の方へ向かって走り出した。横に並んで歩く学生と蛇行運転する自転車の間をすり抜けながら、俺たちは何とかして時計台の前、池のある側までやってきた。
「どこだ?」俺が尋ねると、武勇は正門の方を指差した。確かに、俺の着ているものと同じジャケットが、今、正門を通過し、左折した。武勇は黒の陰綬の片割れを取り出し、耳に近づける。
「砂利の上を歩く音が聞こえる。」
「なら、吉田神社の方だな。」俺は携帯電話を取り出し、華の電話番号を呼び出した。
「華?今、この季節の俺が、そっちに向かっています。高い確率で俺の印綬を持っています。もし近くまで来たら、後は文郎にお願いします。」
華の応答を聞いて携帯電話を畳むと、俺は武勇に従い、楠のロータリーを通り過ぎ、小さな正門に向かって駆け出した。だが、鳥居の前まで来たときには、既に俺の姿は無かった。
「自転車に乗り出したな。下宿に帰るのかもしれない。」武勇が印綬の音を聴きながら呟いた。「今、何時?龍也はこの後用事があるのかな?」
俺は携帯電話を開く。「八時五十五分。朝飯食べたから、俺は下宿に帰るところだな。」
「そろそろ列車が着く頃だ。こうなったら、一か八かで下宿で龍也を仕留めるしかなさそうだな。」
「華たちにも連絡するか?」
「そうしてもらえると助かる。」
砂利道を走り、石段を駆け上がる。寒気に当たりながらも、ジャケットの中は汗でぐっしょり濡れていた。ジャケットを脱ぎ、腰に巻きつけて、俺たちは菓祖神社への間隔の広い階段を跳んでいく。
「待て。」
突然、後ろで武勇が叫んだ。俺は林の中で足を止めた。近くには京都駅へ繋がる穴があった。
「どうした、武勇?」
武勇のところまで、俺は階段を降りていった。武勇は黙って、印綬を俺の耳にかざした。
轟音。あの時とそのままの響きだった。
「華と文郎はどこにいるって?」
「さっき電話をしたら、文郎がこの上の公園で待っているって行っていた。それから一緒に下宿に行こうって話していた。」
「その公園っていうのは、近いのか?」
「すぐそこだ。」俺は藪の向こうを指さして答えた。「この階段を上りきったら、そこが公園だ。」
寒空の林を抜けると、唐突に穏やかな公園が目の前に現れた。仕事前の寄り道なのか、スーツ姿の男女が石の椅子に腰掛け、朝ごはんを食べたり、携帯電話をいじったりしていた。景観のあまりの飛躍に、武勇も俺もいささか目を疑ったほどだった。立ち尽くす俺たちを見つけて、文郎が声をかけた。
「乗務員とは連絡が着きましたか?」俺は文郎に尋ねた。
「ううん、思ったより二人が早くに引き上げてきたから、まだ話してもいないよ。列車が到着したら相談する心づもりだったからね。華がホームで待ってくれているよ。」
「列車はどうやら、間もなく到着するようだな。」
「うん。」文郎は言った。「なるべく早く、この季節のタツナリ君から印綬を――」
バタンと、静謐な公園に、ひときわ大きな音が響いた。談笑していた男女たちと同じように、俺たちは後ろを振り返った。ジャケット姿の男が、公園の入口の方から現れ、茂みの中へ駆け込んでいくのが見えた。
武勇は開いた口を塞ぐのを忘れていた。
「まさか――向こうからこっちにやってくるとはな。」
「このままだとまずいね。」文郎は冷静だった。「列車に乗られる前に、終わらせよう。」
「急ぐか。」俺はこの季節の俺を追って、茂みへ続く小道を降りていった。スーツ姿の男女からの奇異な視線を背中に感じながら。
武勇は俺を追い越して、階段を降りて行き、林の中を見渡した。
「――直ぐに追いかけたはずなのに、姿が見えない。」
「となると、降りたのかな、もう。あの穴の中に。」
俺たちは、落雷によって抉られた地面の前に来ていた。均等に散らばった枯葉の中に、短い獣道が新たに姿を現していた。その先に、京都駅へ繋がる廊下の天上があるのだ。俺が潜ろうとするのを、武勇が止めた。
「龍也は最後だ。ここは俺たちに任せろ。」
「どうしてだよ?」
「同じ時間にいる同一人物が、互いの存在を認めると、困ったことになる。昨日、それは話したよね?」武勇が飛び降りたのに続いて、文郎が四角い穴に両脚を入れた。「君はこの季節のタツナリ君の存在に気づいている。つまり、リーチなんだよ。」
文郎の着地する音がした。
「先に行っているから。」暗闇の中から文郎の声が聞こえた。
俺は溜息をつき、林をぐるりと見回した。これは既視感ではなく、実際に同じ出来事を二度経験しているのだ。だが、ここから先は、俺は一人しかいなくなる。俺は風の凪いだ林の中で、静かに息を吸い込み、白い吐息を漏らした。それから思い切って、穴の中に脚を入れ、地下通路へと飛び込んだ。
記憶の上をなぞるように、俺はタイルの敷き詰められた通路を走った。階段を降り、右折すると、使われないまま埃をかぶった改札口が見えた。ただ、俺の記憶と異なるところがあった。古びた改札口を、明るく照らす黄色い照明の存在だった。
俺は改札口を通り抜け、ホームへ繋がる階段をさらに下っていった。階段の音に華が気づき、ホームから顔を出した。俺は手を振って、一段とばしに階段を駆け下りた。目の前に現れたのは、銀色の列車だった。だが直ぐに俺は、その隣の文郎と武勇に目が移った。
武勇は馬乗りになって、冷たいホームに膝をつけていた。その下には、ジャケットを着た俺の姿があった。奇妙なことに、俺は武勇の背後からの襲撃に、さしたる抵抗も見せず、ホームの上に伸びていた。武勇の隣には、文郎が立っていて、俺の頭に向けて、自分の印綬を差し向けていた。
「巻き添えか・・・可哀そうに。」武勇は、龍也の両腕を握る力を緩めた。「ちょっと荒っぽくなったが、お前には帰ってもらわなきゃならないんだ。頼むぜ―――」
「それくらいで良いよ、武勇。」文郎が武勇の横で言った。「龍也はもう自分では動けない。後は僕に任せてくれるかな。」
「タイガーさん。」
文郎は顔を上げて、俺を認めた。
「俺に何をする気なんですか?」
「タツナリ君は見ないほうが良いよ。」文郎は無味乾燥に言った。「華、タツナリ君を、そちらのホームに連れていってくれないかな。」
「分かったわ。」華は頷き、俺を促した。その場を動かない俺を見て、文郎はいつものように穏やかな口調で、俺に警告した。
「すぐ終わるから安心しなよ。ただ、正視すると気分が悪くなるかもしれないよ。」
そう脅されて、俺はおとなしく反対側のホームへ踵を返し、黙ってベンチに座ると、注意を背後の出来事から背けようと俯いた。
鈍く短いうめき声が、俺の背中を突いた。その後ホームは不穏な沈黙に支配される。我慢できず俺が後ろを振り向くと、白の陽綬を携えた文郎と目が合った。
「終わったよ。」淡白に文郎は言った。「はい。君に返すよ。」
文郎の差し出した手には、蒼の陰綬が握られていた。俺はそれを確認してから、物憂げに文郎を見上げた。
「どうなったんですか、俺・・・。」
「何のことはない。去年の夏から今日までの記憶を抜いたのさ。」恐る恐る尋ねる俺に対し、文郎の答え方は実にあっけらかんとしたものだった。「歯を抜くみたいに最初は少し痛むけど、時を遡ることで、自然と記憶の辻褄を合わせていくようになるんだ。」
「そうなんですか・・・。」俺はそれでも不安だった。「その、俺って、その印綬の中に閉じ込められているわけじゃ、ないんですよね?」
「もちろん。」文郎は答えた。「印綬に記憶を吸い取られた場合は、吸い取られる前の記憶の時点まで、その人はタイムスリップするんだ。」
「まあ、そうですよね・・・」
言いながら、俺は自分の言葉で自分を納得させていた。確かに、文郎の印綬で去年の夏へ舞い戻ったときは、武勇の先代の記憶を遡ったときのように、その世界に一切の干渉を加えられない「傍観者」としてではなく、実際に俺は自分の目にする世界に影響を与えていた。文郎が不思議そうな顔をして俺の顔を見たので、俺は慌てて目を逸らし、じゃあ、乗りましょうかと反対側のプラットホームに向かった。先程までこの季節の俺がいたはずの場所からは、俺の姿が跡形もなく消えていた。
武勇が俺の肩に手を置いた。
「見なくて良かったぜ。」
「そうか?」
武勇は頷いた。
「どんなだったんだ、俺・・・」
俺の問いに、武勇は顔をしかめて、言葉を選ぶように、気乗りしない表情で言った。
「外科手術みたいな感じだった。記憶ってのは、その――形のあるものなんだな。」
その言葉で、どんな状況下は何となく想像できた。俺は俺がいた辺りをわざと避けて通った。
「こっちだよ。」
一両目の方で声がした。俺は目を凝らして誰の声かと人影を探した。声の主を認めるや、俺は驚いて叫んだ。
「一郎!」
「知り合いなのか?」武勇が俺に確認した。
「去年、上海でお世話になった人だよ。」
「あれ、タツナリじゃないか。」向こうも嬉しそうな声を上げて。「どうしたんだい、行きの列車には乗っていなかったはずなのに。ね、タイガー。」
文郎が一郎に近づき、おそらくエスペラントでたどたどしく説明をした。
「なるほどね。君たちは、公には出来ない重大な秘密案件を抱えた運命共同体ってことか。」
「それで納得するんですか、一郎。」
「まあね。」一郎は答えた。「タイガーがただならぬ顔で僕のところに頼み事をしてきたんだ。極東本線なんて都市伝説だと思っていたけれど、仲間に聞いてみると実際にあってびっくりしだよ。中国からここまで運転してくるのは、一苦労ってものじゃなかったけれどね。」そう言って、一郎はサングラスを指で軽くこついた。「それに、その人の本気具合は、これでお見通しだからね。」
「一郎、目・・・見えなかったんじゃないですか?」
「あれ?タツナリに言ったことあるっけなあ、そのこと。」
俺は首を傾げて。「確か、どこかで聞いたことがしたんですけれど。イチローからじゃなかったかもしれません。」
「まあ、タツナリの言うとおりだよ。僕は目が見えない。でも、これのおかげで俺は何不自由なく見えるんだよ。」戸惑いの入り交じった表情で、イチローは親切に答えた。
俺は自分で質問をしておきながら、妙なことを口走ったものだと首を傾げた。一瞬、偏頭痛のような痛みを、頭のどこかに感じた。
俺はどこで、この事実を知ったのだろう?
「一郎さん、一人で来たんですか?」
「とんでもない。ちゃんと相棒を連れてきたよ。」
一郎の声に続いて、運転室から一人の男が姿を現した。今度は俺ではなく男の方が、俺の顔を見て目を丸くした。
「おや!あんたはあの時の――」
俺はよくよく男の顔を見た。記憶にこびりついた錆が落ちていくように、俺は徐々に鮮明にその男のことを想い出した。
「ああ、上海で――」
「ウーって言う名前だよ。あのときは車掌をしていたけれど、今は運転士に転向したけどな。」
「わざわざいらしてくださったんですね。」
「もちろん。」男は元気よく胸を叩いて。「知人が困っているのに手をこまねいて見ている訳にはいかないさ。中国人は情に厚いからな。」
「さあ、皆さん、入ってください。すぐに出発します。」
一郎に促されて、俺たちは車両に乗り込んだ。銀色の車体の客車の中は、ベージュの壁で仕切られた寝台付きのコンパートメントが並んでいる。その一つに俺たち四人が入ると、暫くして一郎が扉を開けて入ってきた。
「昨日、ウーと二人で色々と買い漁ってきたんだ。何たってここから中国まで陸路で行くのはかなり遠いからね。小腹が空いたら冷蔵庫を空けて、中の物を自由に飲み食いしてね。」
「すみません――」武勇が一郎を呼び止めた。「今、中国まで陸路で行くとおっしゃいましたが、大韓海峡はどうやって通るんですか?」
「海底トンネルで通過します。長年存在が伏せられていたのですが、調べてみると随分整備も行き届いていたので、今回使うことにしました。」
「全行程で、何日くらいかかるんでしょうか。」
「まあ、ざっと四日は見ておいた方が良いかもしれませんね。もちろん、日本列島と朝鮮半島はノンストップで走り抜けますが、中国で通常ダイヤの間を上手くくぐり抜けられるかどうか、摘発を覚悟で挑んでみないといけませんね。」
一郎と武勇のやり取りを追う余裕が、今の俺には無かった。記憶の齟齬、とまで言って良いのだろうか。違和感が、俺の脳裏を支配していたのだ。
あのウーという運転士と初めて出会ったのは、いつのことだったろう。去年の夏、上海で、世界鉄道の地下路線を走っているとき、そうだ、そのとき車掌をしていたのがあの男だ。だが、どうして俺はその地下路線に乗ったのだろう。そこに誰か、俺とあの男以外に、もう一人誰かがいたのではないか。いた気がするのは、ただの幻想か。いや、そもそもどうして俺は一郎と知り合い、文郎をタイガーと呼んでいるのだろう。何か鍵となる部分が、俺の記憶から欠落している。辻褄が合っていたはずの記憶の縫い目が音を立てて裂けていく。傷口を抉るような痛みに、俺は歯を食いしばって無言で堪えた。痛みを伴ってでもして、修復されかけた傷口を再び開かなければ、小さく薄れてしまった記憶の影を、俺は二度と見つけられないと思った。俺は黙って、脳裏を襲う鋭い痛みに耐え忍んだ。
「おっと、失敬。」
立ち上がった際に、武勇は自分の鞄を椅子から落としてしまった。ひっくり返った武勇の鞄の中から、ハンドアウトの束で膨らんだクリアファイルが顔を出していた。
「あれ、それは何ですか?」ファイルに興味を示したのは一郎だった。
「ああー・・・これですか?」武勇は鞄の中身とともに言葉を拾い集めながら言った。「いや、東京に行ったとき、本屋で見かけた絵を、カメラで撮ったんです。綺麗な絵だな、と思いまして。」
「面白いですね。」一郎はしげしげとファイルを眺めながら言った。「実は、この絵柄ととてもよく似た構図のツバメを、そこにいる華も描いたことがあるんですよ。」
「はあ・・・」
「お見せしたかったですね。上海南京路駅にある私どもの宿舎に華が遊びに来たときに、華がくれたものを、今も部屋の壁に貼っているんですよ。」
ふとした拍子だった。
脳裏に浮かぶ磨りガラスの向こうに、誰かの影が映った。
磨りガラスは、コンパートメントの出入口に取り付けられた小さなガラス窓へと形を変えた。
「・・・妙だな。ここは誰も乗客が乗っていないはずなのに。」
ドア越しに、男の低く通る声が届いた。
ノックを三回、個室の扉が静かに開く。
肩幅の広く、背の高い男が訝しげに俺を見る。紺地のブレザーには金色のほうき星が、日焼けした肌
には黒いサングラスが光る。俺が怖がっているとでも思ったのか、男はサングラスを外し、接客業務で板についた愛想笑いを浮かべながら、こう言った。
「車掌のチャン・リァンと申します。検札に伺いました。切符を見せて頂けますか?」
「どうしたの、龍也?」
我に返ると、華が心配そうな表情で俺の顔を覗き込んでいた。他の面々も、同様に俺に視線を向けていた。
「華――」放心したように俺は華の名を口にした。「華は・・・思い出せないんですか?」
「思い出せないって、何を――?」
優しく尋ねる華の顔に、暫くして、一瞬、驚きの色が滲んだ。
「一郎。」俺は一郎の方を見た。「一郎の相棒って、他にいたんじゃないのか・・?」
「どういうことだい?」
一郎は不思議そうに俺を見た。黒光りするサングラスに、答えは映っていないようだった。
「タイガーさん。」俺は言った。「俺たちがこの季節に戻ってから、今日で二日目ですよね?」
「――ああ。」文郎は時計を見つめながら言った。「正確には昨日の正午近くに飛んで来たから、ちょうど一日くらい経過したところだけれどね。」
「じゃあ、あと五日しか時間はないんですね?」
「何の――」そう言いかけて、文郎は俺の顔に書かれた意思を読み取った。
「――ああ、そうだよ、あと五日もある。」
「一郎、あと――四日で中国に行くことはできない?それかできれば三日で――」
「三日?」一郎は驚いて。「今、四日は見ないといけないといったところじゃないか。」
「四日じゃ遅いんだ。どうか、何とかして三日で到着することは無理か?」
「どうしてそんなに急ぐんだ?」武勇は眉をひそめて俺を見た。「このスピードだと、日本を出るのに一日はかかるだろう?それから海を越えて朝鮮半島だ。それから白頭山の向こう側へ抜けて洛陽まで行くとなると、三日は難しいんじゃないか?」
「分かった。」武勇の言葉に一郎の声が重なった。「ウーと相談して何とかしてみるよ。三日あれば足りるんだよね、タツナリ?」
武勇や華は思わず一郎の方へ振り返った。文郎は黙って、口元に小さく笑みを浮かべた。
「充分だ。ありがとう、一郎。」
俺は立ち上がってそう言った。
「じゃあ、僕は運転室に行くから。また後で話をしよう。」
一郎は笑って、俺に向かって親指を立てた。
記憶は失ったわけではない。
取り出しにくい書庫の中に、一時的に保管していただけなのだ。
ありもしない記憶を、人は想い出すことはできない。ある人を想起したということは、人はそれ以前にその人にちゃんと出会っているのだ。
俺の記憶は、まだ消えていなかった。
俺は、チャンを、想い出した。