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第六章 残香 その3

「龍也?」


 俺が小さい声で名前を呼ぶと、武勇は驚いたように振り向いてそう言った。


「華は?」


「ちょっと駅の方を見てくるって、さっき別れたところだよ。」


 文郎も先ほど俺にそう言って、俺の元を離れたところだった。所在無い俺が足を運んだ先は、文学部棟だった。まだ五階の南条先生の研究室に張り込みをしているのかと思えば、武勇がいたのは文学部棟の横にある中庭だった。藤棚に斜陽が射す時分。俺が武勇に首尾を尋ねると、武勇は肩をすくめて。


「全く駄目だよ。鍵はかかっていなかったから、華と一緒に入ってあれこれ探したんだけれど、結局どこにも見つからなくてさ。」武勇は言った。「考えてみれば、あんな歴史的価値のあるものを、自分の研究室に置いているって考える方がおかしいよな。もっと別のところに隠しているか、中国に置いているか――」


「じゃあ、どこにも無かったのか。」


「でも、そんなに悲観することはないさ。」武勇は長椅子の背一杯に伸ばしていた両腕を引っ込めて、俺の座るスペースを作って。「五つの印綬のうち、少なくとも二つは俺たちが持っている。俺たちも封印をすることはできないけれども、向こうも同様、自分たちだけでは神宮の封印を解くこともできない。」


「武勇。電話しそびれたけれど。」俺は言った。「蒼の陰綬、見つかったんだ。」


 武勇は思わず身体を起こした。「本当か?南条教授から取り返したのか?」


 俺は首を横に振って。「別の人が、本物を持っていたんだ。」


「――じゃあ、教授の持っているものは、偽物だったのか?」


 武勇は顔をしかめた。「わざわざ誰が作ったんだ、そんなもの?」


 誰が贋作を作ったのか、俺には思い当たるところはあった。しつこく印綬の存在を訊いてきた南条先生のために、春日井先生が職人に頼んで作らせた。さしずめそういうところだろう。となれば、蒼の陰綬に関しては、年代鑑定はされていなかったことになる。


「もしかすると、南条先生の持っている玄の陰綬も―――」


「それはない。」武勇は即答した。「あの印綬は綺麗に二つに割れていた。俺の印綬は、そうあるべきなんだよ。」


「そうか。」俺は言った。「じゃあ、本物はいずれ、南条先生を追いかけて見つけるしかないのかな。」


「だろうな。」


 暫く会話が途絶えた。木枯らしが灰色に染まっていく空に向かって走り去る。


「武勇はさ。」沈黙に耐えかねて俺が口を開いた。「この任務を受けたとき、どう思ったんだ?」


 武勇は目の前の経済学部棟を見上げながら、暫く黙っていた。俺の問いに対する答えを考えているようだった。


「龍也には初めて言うかもしれないけれど、俺は韓国の密陽ミリャンってところの出身で、密陽出身の朴さんは、新羅を作った王様の末裔って言われていて。」


「ああ・・・名前忘れたけど、確か卵から産まれたって話だったよな。」


「パク・ヒョッコセだよ。よく知ってるね。」武勇は驚いて。「神話と一緒に燕五使徒の話も聞いたことがあったんだ。無論、使徒の話は殆ど迷信のように伝えられていたけれどね。」


 武勇は言った。


「だから大学生になって、建国烈士を顕彰する式典で先代様に出会ったときも、特に意外なふうには思わなかったな。あ、実話だったんだ、っていう程度。」


「そうか。」俺は言った。「もしかして、武勇の先代、有名人?」


「上海の臨時政府の実態を知っている数少ない生き証人だよ。」


 武勇は俺の方に目を移して。「何か気になることでもあるのか?」


「まあ・・・」俺は言い淀んで。


「――尚さんのことか?」


 俺は仕方なく頷いた。


「俺はともかくとして、あいつ、まだ自分が使徒の一員であることを受け入れられていないみたいで。あいつ、南条先生に妙なこと吹き込まれているんじゃないかって思ってさ。」


「まあ、夏の時点ではそうだったけど、さすがに今になれば、腹をくくっているんじゃないかなあ。」そう言った武勇は、俺の表情を察して、戸惑ったように付け加えた。「・・・それ、今の話?」


「来た、見た、逃げられた。」俺は短く言った。「でも、何か俺、あいつに悪いことしたような気がしてさ。」


「思い当たるところがあるの?」


 俺は眉をひそめて、ゆっくり首を横に振った。


「ただ、そんな気がするんだ。西安でも俺、あいつに『怖い』って言われたし、避けられていたし。」


 武勇は立ち上がり、大きく背中を反らせて伸びをした。無為に日は嵐山の方角に沈んでいく。


「いずれにせよ、型をつけるのは明日しかないな。」武勇は言った。「尚さん、明日いつ出発するんだろう。」


「あ―――聞いてなかった。」俺は焦った。


「明日の早くだろうね。だとすると京都には寄らずにそのまま空港に行くだろう。」


「最悪、武勇の印綬探しと一緒に、中国で朱理を説得するしかないのか―――」


「でも、蒼の陰綬を見つけただけでも、この季節にきた甲斐があったよ。」俺を励ますように武勇は俺の背中を叩いた。「あとは、その印綬を、この季節の君に渡せば、完璧だ。」


 俺たちは大学を後にし、吉田神社の砂利道を踏みしめながら、『京都駅』への短い道のりを歩いていった。冬の日は短く、時計の指す時にしては世界は既に深い闇に包まれていた。参道の石段を上っていく途中で、向こうから黒い人影が二つ現れた。華と文郎だった。


「お待たせしました。」華は俺たちに会釈をした。


「どうだった?」武勇は華に尋ねる。


「早ければ明朝に出発出来るそうです。」


「何のことですか?」俺が口を挟んだ。


「列車の話よ。」華は答えて言った。「私たちを京都まで連れてきて下さった列車の乗務員の方々と先ほど会って、そういうふうに伝えられたの。」


「列車でって・・・俺たち、列車で中国に戻るんですか?」


「仕方ないよ。」驚く俺を不思議そうに文郎が眺めて。「華はまだパスポートすら持っていないんだ。飛行機に乗れずお金もあまり無い僕たちに残された道と言えば、世界鉄道を使うしかないじゃないか。」


「とは言いいますが――」俺は口を尖らせて。「――南条先生たちは飛行機で行くんですよ?追いつけるわけがないじゃないですか。」


「現在世界鉄道に交渉中です。」華は言った。「南条先生の申請を取り下げるように。」


「とはいってもなあ。俺たちみたいに得体の知れない連中にあの大企業が耳を貸すかどうか。」武勇はそう言ってハンチングに右手で触れた。俺も武勇の言葉に同感であった。


「それで、その乗務員はどうしたんですか?」俺は華に尋ねた。


「列車の点検等があるみたいで、駅から離れたところに列車を置いているみたいです。」華は言った。


「じゃあ、今日はどこで泊まるんですか?」


「何なら俺のところの研究室、使うか?」武勇は言った。「院生に当てられている部屋が一つあるんだけれど、夜は誰も来ないからさ。南条教授とは専攻が違うから、見られても困るような関係者は俺のところの院生にはいないよ。」


「構わないかな。」文郎は乗り気だった。「大学の中にあれば駅も近いしね。」


「では、お借りしてもよろしいでしょうか。」華も同意した。


「ちょっと待ってください。」俺はそう引き止めて、ポケットから印綬を取り出した。「その前に、これ、この季節の俺に渡さないと。多分俺、今家にいると思うので。」


「そうだったね。」文郎は言った。「君の家はここから近い?」


「少し歩きますけど、良いですか?」


「構いませんよ。」華は答えた。俺は一歩前に出て、吉田神社の境内を横切った。駅の方へ向かう菓祖神社への道には行かないで、車の通れる舗装された道路を歩く。上り坂と下り坂が出会う地点に別の神社があり、数本の朱い鳥居の続く細い参道の入口に立つ狛犬が、俺たちを警戒するように睨みつけていた。坂を下ろうとすると、武勇が背中を叩いた。


「何?」


「後ろ。」武勇はそう言って顎で俺の後方を指した。


 俺は数歩戻って、下り坂の方を見た。


 向こうも、俺が振り返って、ようやく前を歩く集団に俺がいることに気づいたらしい。街頭の照らす勝気な表情に、戸惑いが影を落としていた。


「龍也だけと話したいんだけど。」


 朱理は言った。小さい声だったが、周囲が静まり返っているせいで明瞭に俺の耳に届いた。俺は隣にいた武勇を見上げた。武勇は頷いた。


「吉田神社にいるから。」


 言うが早いが、きびすを返した朱理は、そのまま上りかけた坂を降りて行った。


「行ってきなよ。」文郎が言葉で俺の背中を押した。「僕らのことは良いからさ。」


 華も同意した。


「すみません・・俺の下宿、この坂を下りて、右に曲がったところにある、アパートにあるので。先にそちら行ってもらっていても、構いませんか?俺、すぐに行きますから。」


「急がなくていいぜ。」武勇は笑って言った。


 俺は坂を走って降りていった。今度の朱理は、逃げずに俺を待ってくれた。


「――まだ、帰ってなかったのか。」


 俺が朱理のもとに着くと、朱理は重たい口を開いて言った。


「あんたは――春日井先生の研究室の前であった、『あんた』だよね?」


 俺は黙って頷いた。朱理は、言葉を選ぶように、そして罰の悪そうに目を背けて言った。


「・・・ごめん。さっき。」


「いや――」俺は言った。「無理も無い。同じ時間に同一人物が二人いるなんて状況、実際にあったらそう簡単には適応できないだろうからさ。」


「そうじゃなくて――」朱理は言った。「――逃げたこと。」


 朱理は視線を斜めに反らしながら、小さく呟いた。俺も、吉田山の林を見たまま、黙っていた。


 暫く沈黙が続いた。微妙な空気の緊張を肌に感じる。


「これさ。」そう言って朱理の取り出したのは、朱の陽綬だった。


「丸太町の駅で降りたとき、これから、あんたの声が聞こえたの。びっくりした。途中で電車が通過して、その音で上手く聞き取れなかったんだけど、でもあんたのほかにも人がいるってことが分かった。」


「・・・そうか。」


 丸太町駅は、朱理がよく使っていた地下駅だった。一駅先の終着まで行くより、特急の止まらないこの駅で降りた方が、南のキャンパスには若干近いのだ。その駅で聞こえた列車の音が、あの轟音の正体だったのだ。


「他の使徒とは、面識はあるのか?」


 俺は朱理に言った。朱理は溜息をついて、静かに続けた。


「初めから、ちょっとタイミングが良すぎるかなって思ったの。」


「何が?」


「朴さんのこと。」朱理は言った。「南条先生の夏王朝の遺跡発掘に同行する研修旅行に、たまたま韓国からの留学生が参加する。四川北路に本屋の跡地を見に行ったときも――この話、したことあるっけ?」


「朱理からは無いけど、武勇から聞いた。」


「そう。」朱理は呟いた。「あの時も、偶然朴さんと出会って。それでもまだ、偶然だと割り切っていた。でも、その後、行方不明になっていた龍也が急に中国語をペラペラ話すようになったり、仲良くなった同じ部屋の院生に、朴さんと私が話しているとき、何語で話しているかさっぱり分からなかったって言われたりしてから、もしかして・・・って思うようになって。」


「・・・どうして、もっと早く言わなかったんだ。」


「あんたに言ってどうするの?」朱理は呆れたように俺を見て。「あんたが使徒の一員なんて思いつかなかったもん。だってあんた、語学に関しては本当にダメでしょ。」


「まあ、そうだな・・・」眉を潜めつつも頷いてしまう自分が何だか悲しい。


「それにさ。あんたが使徒の一員なんて――」


「何て言った?」


「何でもない。」朱理はむっとして言った。そこには、昼に俺に対して見せた恐怖は消えていた。


「でも、最初からあんたが一員だって分かってたなら、もっと色々気楽に話せたのにな。」


「まあな。」俺は言った。


 俺たちは吉田神社に戻ってきた。社務所の横にあるベンチに腰掛ける。林に囲まれた神社は、既に明度を失い、眠りについていた。会話が一段落して、次の話題にどちらかが切り出すまで、俺たちはそこで暫く佇んでいた。


「龍也の先代は、誰なの?」


「俺の――?」俺は口ごもった。朱理の反応を予想して、二の足を踏んだのだ。


「私の先代はね、沖縄で会ったおばあさん。」朱理は俺の返事を待たずに話を続けた。「私自身は沖縄生まれじゃないんだけど、名字がたまたまおばあさんと一緒で、名前も似ていたから、興味を持たれてさ。戦争の頃の話を聴きに行ったんだけど、そのうち仲良くなって。帰る前日に、朱理ちゃんなら任せられるからって、この印綬をもらったの。お話と一緒にね。」


「話?」


「先代の時の失敗のこと。龍也は聴いたことある?」


「ああ、タイガー・・・白の陽綬の持ち主から色々と聞いてはいるよ。」


「そうか。」朱理は思いつめたような面持ちで溜息をついた。「ひどい話だよね。」


「ああ・・・」俺は心の中で首をかしげた。


「龍也だから言うけど。」朱理は言った。「その人、私のひいおじいちゃんなの。」


「・・・え?」


 そんな逸話を、俺は聴いたことがなかった。


「・・・それは、黄の――」


「ううん。印綬とは何の関係もない人。私の先代が上海に行く前に、朱の陽綬の持ち主だって言って、疑いをかけられて、印綬に閉じ込められたの。」


「何だその話・・・俺は、聞いたことないぞ。」


「かもしれないね。そこに居合わせた人は、おばあさん以外にはもう生きていないみたいだから。」朱理は言った。


「さっきああいうふうに言ったけど、私はあんたの先代が誰か分かっている。その先代は、自分の印綬を使って、私のひいおじいさんを過去に飛ばそうとしたの。でもね、陽綬と違って陰綬は、その人をその人自身の過去には戻せない。印綬の持ち主の過去を延々とさ迷うだけ。それに、先代は神宮の扉を不十分に封印しただけで、印綬の中の記憶を渡すまでには行かなかったの。だから、任務終了時に一時的に記憶喪失にはなったけれど、次第に断片的ながらも任務の記憶を取り戻していったの。」


「どういうことだ、つまり・・・」


 朱理は黙って、俺のポケットに視線を落とした。


「私のひいおじいちゃんが、あんたの印綬の中に閉じ込められているの。七十年もの間。」


 俺は朱理の顔を見ながら、目をしばたたかせた。


「閉じ込められている・・・?」


「最初その話を聞いたときは、気の毒な話だな、って他人事に思っていたの。」朱理は俺の反応を待たずに続けた。「でも、閉じ込められたその人の名前を聞いてぞっとして。私、ひいおじいさんは陸軍に務めていて、中国に戦争に行って戦死したって聞いていたから。」


「でも、そんなこと、本当に可能なのか?印綬に人を閉じ込めるなんて――」


 そう言いかけたときに、俺は既に自ら答えを見出していた。


 俺と武勇が玄の陰綬の持ち主の記憶をさかのぼった時。あれはタイムスリップではなく、俺たちが記憶に満たされたあの印綬の中に入り込んでいたのだ。そしてあの印綬から俺たちが無事に抜け出せたのは、ひとえに武勇が印綬の持ち主だったからということなのだろう。


「神宮に行って、あんたが印綬に閉じ込められた記憶を取り出せば、ひいおじいちゃんも印綬の中から開放される。」


「――他に方法は無いのか?」


「出来ない。印綬の記憶を取り出すことができるのは、神宮の中だけだって聞いたから。」


「でも、そうすると、神宮に使徒以外の人が入ることになって・・・」


「だから避けてたんだよ、私!」朱理は語気を強めて。「神宮に行かないと、任務は達成できないけど、任務を遂行するためには、ひいおじいちゃんが神宮に入らないといけない。でもそうすると任務は――」


 朱理の息が荒くなる。俺は揺れる朱理の肩にそっと手を置いた。


「だったらなおさら、どうして早く言わなかったんだ。」


 朱理は黙っていた。


 こんなに取り乱す朱理は初めてだった。


「あんたがあんたのひいおじいさんのこと、好きじゃないみたいに、私もあんたのひいおじいさんのこと、本当は好きじゃなかったから。」


 朱理は小さく言った。


「血が繋がっていても、あんたがそう思っているだけで、私としては満足だった。でも、あんたがあの人に選ばれたってなったら――」


「朱理のひいおじいさん、何て言う名前なんだ。」


 俯いた朱理の表情は、暗くてよく見えない。息を整えて、強がりの朱理は、落ち着きを装って短く答えた。


「――だよし。」


「え?」


「尚、忠義。」朱理は言った。「昔の陸軍士官学校で、神代の言語を語学官候補生に教授していた、っておばあさんは言っていたけれど。誰がそんなデタラメ信じるんだろう。」


 俺は黙っていた。


「みんなさ、こんな厄介な仕事なんて早く終わらせて自由の身になりたいとか思っているんでしょう、どうせ。」朱理はなおも続けた。「私は、この仕事、出来れば長引かせたかった。」


「でもじゃあどうして、南条先生の発掘を手伝ったんだ?」


 月が出てきていた。朱理は自分の手のひらで月明かりを拾いながら言った。


「あの本。南条先生が持っていたの。」


「あの本って・・・・葦原龍山の?」


 朱理は手のひらを眺めていた。


「だから私、先生もこの任務のことを知っている人なんじゃないかと思って、先生に相談した。突拍子もない話を大学教授に吹っかけるんだから、怒られるんじゃないかと最初は思ったんだけれど、意外に先生も親身になって聞いてくださって。そのとき既に先生は、玄の陰綬と白の陽綬を発見していたから、先生の研究の面でも、私の話は興味深かったんだと思う。」


「ただ、興味深かっただけなんじゃないのか。」俺は吐くように言った。「印綬の話も、封印の話も、一歩踏み込んだら世界がガラッと変わってしまうなんてことも、学者先生にしては一考の余地があるだけの事実で、真実として受け止めてはいないんじゃないか。詰まるところ南条先生も自分の研究の―――」


「南条先生はそんな人じゃない。」朱理が口を挟んだ。「どうしてそういう言い方するわけ?」


「だってそれが彼らの職業じゃないか。」負けじと俺は言った。「人情で仕事はできねえよ。」

 

 隣を見ると、朱理は潤んだ目で俺を睨みつけていた。いわれのない罪悪感をつきつけられる。


「――それで、先生はどんな解決策を考えているんだ?」朱理の機嫌をこれ以上損ねないように、俺は気を付けて言った。「印綬の中に人が閉じ込められているっていうことは、受け入れてくれたのか?」


 朱理は黙ったまま頷いた。


「こう言うの、酷なのは分かっているけれど――」俺は腫れ物に触るように、小出しに言葉を紡ぎながら言った。「仮にひいおじいさんが無事に解放されたら、ひいおじいさんとお前が七十年後の世界に生きることになる。それでもお前は構わないのか?」


 俺の言葉に、朱理はまた小さく頷いた。


「実感が無いから今ははっきりとは言えないけれど――」朱理は呟いた。「でも、何だか悔しいじゃん。」


 俺は朱理のその言葉に、敢えて何も言葉を返さなかった。 


「先生は、使徒以外の人間が入ると世界が滅びるという話は、多分、神宮の内部が外気に触れると傷みやすい構造になっているんじゃないか、って話していた。」


 神宮は鉄ででも出来ているのだろうか。


「だから数十年に一度だけ、五人の選ばれた人間だけが、ほんの短い時間の間、中に入ることが出来る。そうすれば、神宮の内部が外気で侵されることもないし、それだけの時間しか開扉されないことで、神宮の神聖化にも一層寄与したんじゃないかって。五人の使徒は、象徴的な意味を持つだけで、本当は誰でもk構わない。要するに、五つの印綬を集めて封印を解き、そこで印綬の記憶を紐解けば、ひいおじいさんは解放される。」

 

 どうして先生は、印綬の記憶や尚忠義の部分だけは、朱理の非科学的な説明を受け入れているのだろう。

 

「でも、神宮を発見したら、先生はその中身を公開するんじゃないか?それに、先生が公開しないと言ったとしても、学界やメディアが黙っていないかもしれない。」


 俺の問いに、朱理は短く答えた。


「すぐに土に埋めるって話していた。私が必要な作業を全部済ませたら。」


「それだったら、何も心配することなんてないじゃないか。どうして板挟みになっているんだ。」


 その言葉に、朱理は再びキッとした目で俺を睨みつけた。


「本当鈍いね、龍也って・・・」朱理は溜息をついた。「私も半信半疑だったの。でも、朴さんが現れて、あんたが急に中国語でペラペラ話すようになって、上手く説明できない自体が起きるにつれて、本当に燕五使徒はいて、ひいおじいちゃんが本当に印綬の中に閉じ込められているかもしれないって思うようになったの。そうすると、世界がおかしくなるって話も、本当は言葉通りの意味なんじゃないかと考え始めて・・・。」


「なるほどな。」俺は楓の木の横にある鳥居を見上げて言った。「それで、俺に会いに来たってわけか。」


「龍也の持っている印綬の中に、閉じ込められているからね。龍也の考えも聞きたくて。」


 朱理の言葉を聞き流したわけではないが、俺は鳥居を見ながら暫く黙り込んでいた。


「思うんだけどさ。」何も考えのまとまらないまま、俺は言うだけ言ってみた。「こういうのは、大勢で考えた方が良いんじゃないか?だから朱理もさ、俺たちと一緒に来て考えよう。明日、南条先生と一緒に中国に行くんじゃなくってさ。」


「それは無理。」朱理は冷たく言った。「チケットも取っているし、急に私が行かないなんて言ったら先生の面目丸つぶれでしょう?何頭の無いこと言っているの、あんた―――」


 俺は朱理相手に油断した自分に、心の中で悪態をついた。


「良いよ、そんなすぐに良い考えなんて浮かばないものだし。」朱理は立ち上がり。「でも、龍也に話せて、ちょっとすっきりした。ありがとう。」


「おい―――行くのか?」


「うん。だってもう暗いし。」


「そうじゃなくて。」俺は慌てて立ち上がった。


「分かってるよ、言いたいこと。」朱理は言った。「印綬が全部見つからないと神宮の扉は開けないんだし、第一あんたの印綬がないと意味がないんだもん。だから、今回の発掘は、純粋に学術的なものになりそう。」そう言って、朱理は恨みがましく付け加えた。「あんたが来ないって言ったからね。」


「おい―――」


 朱理は振り向かなかった。黙って、俺に背を向けて、黙って石段を降りていく。俺は声を掛けることが出来なかった。何故か、そうすることがはばかられたのだ。


 純粋に学術的な研修旅行?


 だったらどうして俺はこの季節に戻ってきたのだろう。文郎は、この季節に世界が破滅に近づく危機が訪れたと言っていた。だが、印綬が見つからないと神宮の封印は解けないはずなら、そもそも危機は起こならいはずなのだ―――そこまで考えた俺は、ある考えに至り、思わず顔を上げ、石段を駆け下りていった。しかし、月明かりの照らす参道に、既に朱理の姿はなかった。


 南条先生に朱理がついていく理由。

 

 まさか、南条先生は印綬を揃えることなしに発掘を進め、シャベルで神宮の扉を開けるつもりなのではないのだろうか。それで仮に発掘が無事に済めば、印綬に尚忠義が閉じ込められているという話も、果ては燕五使徒の話も、ただの儀式的な存在、それゆえ迷信の一形式に過ぎなくなる。朱理の曾祖父は、朱理が聞かされた通り、戦死したのだ。そういう結末を、朱理は期待しているのではないだろうか。だが、その描かれた結末通りには行かないと、文郎は俺に言葉を託した。だからこそ俺は、去年の夏に戻ったのではなかったか。


「だいぶ話し込んでいたみたいだね。」


 坂を降りてきた俺を見て、文郎が声を掛けた。


「どうだった?」


 俺は肩をすくめて言った。「とりあえず、明日中国に行くことは確実みたいですね。」


「そうか―――」武勇の顔に落胆の色が滲んだ。「なら、勝負は明日以降に持ち越しって訳だな。」


「でも大丈夫だよ。印綬がないと神宮の封印は開かれないから―――」


 俺は黙って二人の間を通り過ぎていった。


 下宿のアパートの前に来ると、俺の部屋の前で佇んでいた華が顔を上げた。


「すみません。お待たせしました。」


「全然。」華は微笑んで。「それより、お疲れ様。」


「華は、訊かないんですね。俺と朱理が話していたこと。」


「顔を見ればなんとなく分かるから。文郎みたいに読み取れるわけじゃないけれどね。」


 俺はポケットから印綬を取り出した。龍の彫刻を、蛍光灯の下で暫く眺めた。心無しか、印綬の重味が増したように感じた。


「すみません、眼鏡拭きみたいな、そういう感じの布、ありますか?」


「眼鏡拭き――ああ、確かありますよ。」そう言って華は、肩から提げていたバッグの中から、メガネケースを取り出し、小さな紺色の眼鏡拭きを取り出した。


「ありがとうございます。」俺は受取りながら言った。「でも、華って眼鏡かけていましたっけ?」


 華は首を横に振った。「なぜだか知らないけれど、私のバッグの中に入っていたんです。誰のだろう、はっきりと今は思い出せないけれど、何だか懐かしい気がして。」


「すみません。」俺は念入りに印綬を磨いてから、眼鏡拭きを華に返し、満足気に龍の勇姿を眺めた。


 そして、背中の鞄から茶封筒を取り出すと、その中へ印綬を静かに差し入れ、口を小さく折り曲げると、自分の部屋の扉についた郵便受けに、ゆっくりと入れた―――落とすことのないように。













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