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第六章 残香 その2

「あれ。」


 向こうも俺たちのことに気づいたようだった。俺たちに向かってにこやかに手を振っている。俺の後ろで、正午を告げる鐘が鳴っていた。


「南条先生。」


「久しぶりだね。年が明けて初めて会ったんじゃないかな。」


「先生は今、どちらへ・・・」


「研究室に帰るところだよ。今日も僕のところに食べに来るかい?尚さんも来るみたいだよ。」


「尚・・・」俺は南条先生に言った。「尚さんは、今どこにいるんですか?」


「むしろ君の方が詳しいんじゃないのかい?いつも仲良くしているのに。」


「・・・確かに。」俺はそう言って、ポケットの携帯電話を取ろうとした。文郎に手首を掴まれた。


「今電話をかけると、この世界の君と朱理との間でつじつまが合わなくなる。仕方ないけれど、自力で探すしかないよ。」


「・・・そうだな。」俺はポケットに突っ込んだ手を引っ込めた。


「そちらは?」


「ああ、僕の留学生の友人です。」


「留学生の友人か。」南条先生は笑って。「君もだいぶ外国の方と接するのには慣れてきたみたいだね。あの夏季講習のおかげかな。」


「・・・え?」


「ああ、いやね、あのとき来てた韓国からの留学生、朴君だっけ、あのあと、一度もキャンパスで見かけていないんだよ。どうやら大学にも来ていないみたいで。」南条先生は決まり悪そうに苦笑いして。


「君も知っていると思うけれど、あの時、私も頭に血が上ってしまってね。彼には嫌な思いをさせたと思ってね。もし、君が見かけたら、そう伝えてくれないかな。」


「分かりました。」


 俺は会釈した。それじゃ、と言った南条先生は、図書館の方へと歩いていった。そのまま研究室に戻るつもりなのだろう。


「武勇のこと、話していましたね。」


「タツナリ君、僕は君や武勇とは違って、外国語を聞いても理解できないんだ。」


「南条先生、武勇が夏以来大学に来ていないって話していました。」


「まあ、そうなんじゃないかな。」文郎は特に不思議がる様子もなく。「タツナリ君と僕はこの季節から去年の夏に飛んだから、その間の時間帯にも僕たちは存在している。でも武勇の場合は、去年の夏からいきなり半年先の冬に移動してきてしまったから、晩夏から初冬にかけて武勇は地球上に存在しなかったことになっているのさ。」」


「大丈夫なんですか、それ・・・警察ごととかになっていないんですか?」


「大丈夫。時間が経てば自然と辻褄が合うようになっているんだ。傷口にカサブタが出来るように、うまい具合に時間と事実が縫合しあってね。」


「そんなもんなんですか。」俺は眉を潜めて溜息をついた。「ちなみに、縫合にはどれだけ時間がかかるんですか。」


「確か六日間だったはずだよ。」


 まるで旧約聖書のような話だ。燕五使徒もさすがに神がかった任務なだけある。


「それも、先代から聞いたんですか?」文郎が頷くのを見てから、俺は口を尖らせて言った。「良いですね、タイガーさんの先代、親切に教えてくれて。俺の先代何か既に別世界の人ですから。」


「それよりも、どうするんだい。行かせてしまったけど、先生。」文郎が言った。


「今はタイミングが悪いみたいですね。」俺は肩をすくめて。「このあと、俺と朱理、南条先生の研究室でランチするんです。華と武勇が南条先生に会うとしても、そのあとになるでしょうね。」


「だね。ランチより先に教授に会って、この世界の君に変な嫌疑がかかるとあれだからな。」


 そう言った矢先、またもや文郎は強引に俺を正門の壁に押し付けた。


「・・・今度は何なんですか?」


「『君』だよ。」


「・・・はい?」


「君って、一人で歩くと、あんなに背中が寂しく見えるんだったっけ。」


 文郎の言葉に、俺は眉をひそめて、キャンパスの中を覗いた。俺は目を疑った。俺が武勇に渡したジ

ャンパーと同じものを着た俺が、確かに虚しさを背負って、不安定な足取りで道を歩いていた。本当に、俺は時間を渡ってきたのだと、改めて実感した。


「・・・そうですよ。特に試験の後はいつもあんな感じです。」


 俺はなるべく平静を保って言った。


「驚いたでしょう?」


「別に。」


「だとすれば、君は結構変わった精神の持ち主なんだね。普通、自分がもう一人いるなんていう状況が

現実に起こったら、そこまで薄い反応ではすまないだろうに。」


「どうとでも言ってください。」文郎の相手に飽きてきて、俺は適当に流した。「タイムスリップまがいのことは、かれこれ三回目ですから。」


「なるほど。慣れるもんなんですね。」

 

 文郎と俺は時計台の前に来ていた。文郎は後ろを振り返り、目の前に広がるアスファルトのキャンパスをしげしげと観察していた。この季節の俺はと言うと、肩をすくめたまま、図書館をわき目に文学部の方へと歩いていった。我ながら貧相な外見だと感じた。ただ、本人は今、授業中に聞こえてきた謎の轟音に全精神を集中させていて、自分の見てくれなど二の次なのだろう。


「ちょっと武勇たちに連絡しておきます。」俺はポケットから携帯電話をまさぐり出す。


「うん、分かった。」


 ベルの鳴ること二、三回、電話の向こうから聞きなれた声が聞こえた。


「おう、どうした?」


「武勇の方はどんな感じ?」


「どうしたも何も、お前たち、尚さんマークしてるんじゃなかったのか?」


「え?」俺は正門を眺めながら。「まだ見つけてないよ。南条先生なら見たけれど。」


「南条先生ならさっき俺たちも見たよ。その前に尚さんも通ったんだ。俺たちの前を。」


「ああ――」俺はさしたる反応も示さずに。「だったらそのうち俺も行くと思うよ。この季節の。」


「そうなのか?」武勇は驚いた様子で。「知っているなら先に言ってくれよ。俺たちずっと待っているところだったよ。それで三人は――本当だ、今お前が階段を上っていったよ――それで、三人はいつまた出てくるんだ?」


「正味一時間くらいだと思う。昼休みだからさ。」俺は答えた。「というか武勇、今どこにいるんだ?」


「文学部棟の五階。大丈夫、手洗いのところにいたから、南条教授にも尚さんにも見られていないさ。」


「だったら一度、俺たちのところに戻ってこないか。まだ先生も部屋から出てこないだろうし。」


「いや、もう少し張り込みしておくよ。」元気よく武勇は言った。「取り返すべき時に取り返すものを取り返したいからね。」


 電話をたたむ俺を文郎は見た。それで電話の内容は分かったらしい。便利なサングラスだ。


 南条先生たちのことは華と武勇に任せて、俺たちは先に昼食を取ることにした。試験期間のせいか、年明けすぐにもかかわらず食堂は混んでいた。その分、俺たちはかえって空気の中に溶け込むことができたのだ。


「タイガーさん。」


 豚カルビ丼を食べている文郎が箸を止めた。


「その・・・タイガーさんは、知ってるんですよね。俺たちの役目が失敗に終わったときのこと・・。」


「無理やり開けようとしたんだ。」文郎は短く答えた。


「・・・南条先生が・・ですか?」


「神宮の扉をね。」文郎は頷いて。「結局黄の玉璽は見つからないままだったけれど、そんなの関係ない。先代のときも玉璽なしに神宮の扉を開けることは出来たからね。結局君は自分が印綬の持ち主であることを自覚せず、華にも印綬の継承はなされなかった。」


「待ってください。」俺は文郎の箸を再び止めて。「・・・じゃあ、神宮は、使徒がいなくても入れるってことになりませんか?しかも印綬を全部揃える必要もないなんて・・・」


「そうじゃないよ。」文郎は言った。「実は僕も、南条先生が本当に封印を解けたのかどうかは分からないんだ。それよりも前に僕は過去に戻ってきていたからね。」


「当時の僕らは、まだ君と華とは面識が無かった。だけどね、武勇と初めて上海で出会ったとき、君が鍵を握っているような予感はしていたんだ。」文郎は温泉玉子をすくいながら続けた。「五つの印綬は、危機が起きると神宮の側で判断がなされたとき、初めて引継ぎが行われる。そして、偶然でも必然でも、使徒たちは、前回の任務が中断した場所に集まることになっている。僕の先代には前回の記憶が断片的に残っていて、前回の黄の玉璽の持ち主や蒼の陰綬の持ち主の名前をちゃんと覚えていたんだ。」


「でも、あの広い上海の中では、そんな手掛かりも役に立たないんじゃないですか?」


「だから偶然でも必然でも、なんだよ。」文郎はほうじ茶に手を伸ばした。「先代の蒼の陰綬の持ち主と同じ名前、しかも血縁関係。もちろん、血縁関係で引き継ぐ必要はないんだけれど、ちょうど良いタイミングに君は上海に来たからね。そこで武勇は、これは関係があるかもしれない、と思った。でも君は、まだ継承を受けていなかったんだ。おかしいと思うかもしれないけれど、それは仕方がない。先代の使徒がもうお亡くなりになっていたからさ。」


「黄の玉璽の持ち主の話は?」


「先代の話では、黄の玉璽の持ち主と蒼の陰綬の持ち主は、とても仲が良かったそうなんだ。黄の玉璽は、70年前に遭難したけれども、遺体は見つからなかった。だから玉璽もそのまま行方不明になっていたんだけれども、もしかすると蒼の陰綬の持ち主が近づくことによって、共鳴することがあるんじゃないか―――そう思って、君を過去に戻した。かなりの賭けだったけどね。君はまだ使徒として印綬を継承していたわけでもなかったから。だからこそ、過去に君と会ったとき、僕と話が通じたときは、本当にびっくりしたんだよ。」


「あれ?」俺はラーメンを食べる手を止めて。「じゃあ、あの蒼の印綬を入れた封筒って・・・タイガーさんたちじゃなかったんですか?」


「もちろん。」文郎は答えた。「第一、僕たちは蒼の陰綬のありかを知らないからね。」


 俺は驚いて。「でも、蒼の陰綬なら南条先生が――」


「さてと。」文郎はトレーを持って立ち上がった。「これ、どこに持っていけば良いの?」


「――あの、麺類のコーナーの隣に返却口がありますけれど。」俺は急いでラーメンをかきこんで立ち上がった。むせかけて。「・・タイガーさん、俺の質問、訊いてます?」


「あれは贋作だよ。」文郎は小さい声で言った。


「偽物・・・?」


「だっておかしいじゃないか。君は研修旅行で、南条先生から蒼の陰綬を手渡されて観察していたんだ。それなのに、君は覚醒しなかった。君は僕と世界鉄道で出会ったことがあるんだけれど、僕たちの間には会話が成立しなかったんだよ。」


「じゃあ、本物はどこに・・・」


「それをさっき、君は見つけたんじゃなかったのかな。」


 トレーを置いて文郎は俺の方を振り向いた。いつもの柔らかな笑顔に、余裕が見てとれた。




 昼食を終えた俺たちは、再び南のキャンパスへと戻ってきた。一般教養を中心に行なっているこのキャンパスには、学部棟とは異なり人気が少なく、その分寒気が我が物顔で走り回っていた。俺は首を縮めて、底冷えのする灰色の建物の中に入っていった。


 階段を上がり、四階へと上がっていく。建物の向きのせいか、窓からは泣けなしの日光も入ってこない。俺たちは階段の傍で暫く待機をしていた。すると突然廊下の奥の方が騒がしくなり、誰かが大げさな音を立ててこちらに走ってくるのが分かった。思わず衝突しそうになって、急いで俺は階段の壁に顔を伏せた。廊下の奧からは怒号が聞こえ、何かがバサバサと音を立てて投下されているのが聞こえた。


「タツナリ君、今、『君』がものすごい形相で研究室から飛び出して来んだけど。」


 文郎が、横に座っている俺に声を掛けた。俺は顔を上げて。


「ん――だったら、もうそろそろ良い頃合だと思いますよ。」


「そうなるのかな。」文郎は砲手の影が消えたかどうか確かめるように、慎重に廊下へ顔を出して言った。「何だか荒れている感じだけれど。」


「構いません。行きましょう。」


 確かに文郎の言うとおり、状態は緊張緩和には程遠い様子であった。廊下に投げ捨てられた数々の学術雑誌を拾い集めていくうちに、先程まで威勢の良かった俺も、次第に歩を進めるのが億劫になってきた。それでも廊下の一番奧まで俺は歩いていった。暗がりにほのかに浮かぶ「春日井研究室」の看板が、とても近づきがたい存在に思えた。


 火中の栗を拾う気持ちで、俺は開け放たれたままの扉から顔をのぞかせた。


 人影は無かった。だが、人の気配は感じられた。切れかけの蛍光灯が照らす薄暗い研究室で、徐々に俺の目は慣れていく。綺麗に本の取り除かれた本棚と、目の前に堆積する書籍の山。その中に、俺は蠢くものを認めた。


「春日井ィ、先生ィ・・・」


 こもった声は部屋には響かない。ごそごそと本が擦れ合う音がする。反応はない。


「大丈夫そう?」明らかに大丈夫とは思っていない口調で文郎が言った。


「大丈夫じゃなくても、大丈夫にしないとダメですよね・・」


「何だい。まだ言いたりないことでもあるのかな。」


 俺ははじかれたように書籍の山の方に振り返った。そこに人が立っていた。


 体を起こした春日井教授は、まだ顔の熱が冷めていないらしかった。


「あの、春日井先生・・・先程は、すみませんでした。」


 春日井教授は憤懣やるかたない表情で俺を睨んでいたが、声は落ち着いていた。


「『先程は、すみませんでした』か。」春日井教授は言った。「それを言うのは、今の君ではないだろう。」


「・・・はい?」


 俺は耳を疑った。


「言葉通りの意味だ。今そこにいる君は、先ほどこの部屋から逃げるように出ていった君とは別人だ。そう思うだけだ。」


「どうしてそれを・・・」


 春日井教授は顔色一つ変えず続けた。


「それで君は何の用件で来たんだ。」


 春日井教授はあくまで泰然自若としてそう言った。俺は、とっさのことに、用意していたはずの答えを見失ってしまった。だが俺は、不思議と冷静に、春日井教授のように落ち着いた声で言葉を紡ぐことができた。


「自分が何を忘れていたか、思い出しました。」

 

 俺はそう言った。

 

 瞬き一つ、春日井教授は鋭い視線をなおも俺に向けていた。しかし咳払いを一つすると、眉間にしわを寄せ、俺に背中を向けて再び書物の瓦礫の中に身体を埋めた。


「何を言いたいのか、さっぱり分からないな。」


「僕――蒼の印綬を受け取りに来ました。」


 春日井先生の背中がぴたりと動きを止めた。


「――なるほどね。」

 

 文郎は納得したように頷いた。耳元には白の陰綬が当てられていた。


「葦原龍山の遺志を継げって、そういうことだったんですよね・・・。」


 再び教授の背中が動き始め、一番大きな辞書を持ち上げると、俺の方をゆっくりと振り返った。顔にはまだ青筋がくっきりと走っていた。


「身内ならせめて『私の曾祖父』くらいにしなさい。呼び捨ては聞捨てならなくてね。弟子の私としては。」


 教授は机の向こう側へ進み、腰を下ろすと、俺たち二人にも座るように指図した。教授は目を細めて文郎を見た。


「白色か・・・。南条先生が持っていたはずだが、どうやって手に入れたのかな?」


「去年の中国研修で復旦大学にいたとき、少し失敬しまして――」


 言葉の通じない文郎に代わって俺が答えた。その言葉に、教授の表情が緩んだ。目を細めた教授の額からは、怒りの印は消えていた。一息つくと、教授は何かを思い返すように、感慨にふける目で天井を眺めた。


「どうして、先生は印綬のことを・・・」


「南条先生と私は、葦原先生の最後の弟子でね。」


「・・・はい。」


「厳しいことで知られた先生も、私たちの頃は随分丸くなっておいでだった。まだ五十代半ばでいらし

ゃったがね。先生は言語学について興味深い話をたくさん私たちに教授してくださった。」

 

 春日井教授はそう言って語り始めた。


「特に魅力的だったのは、世界中の言語は元を辿れば一つの言語に到るという話だった。数々の河川が一つの泉を源としているように、語族の異なる多種多様の言語も、実は一つの言語を泉としているのだと。学会で発表しても誰も取り合わないような話だったけれども、不思議と先生の言葉は『仮説』には聞こえなかった。私はどうしてもその先を知りたかったが、先生は決して話されなかった。」


 春日井教授は、棚に置かれた古い写真立てに視線を注いでいた。


「しかしね、南条先生が史学科へ転科することに決めてしばらくしてから、私が進路相談で先生の研究室を訪ねたとき、先生は本に積もった塵を一つひとつ払い落としていくように、お若い頃の経験を事細かに話してくださった。先生が急逝されたのは、それから間もないことだった。」


 研究室に暫く沈黙が流れた。冬の日の傾くのは早く、教授の顔はオレンジ色に染まっていた。


「不完全なまま任務を遂行出来なかった使徒には、記憶が残り続ける・・・」


 いつか文郎に言われた言葉を、俺は小さく復唱した。


「どこで知ったのか、南条先生は私のことをしきりに詮索してね。私が先生からご曾孫に託すよう言付かった蒼の印綬の存在や、たった一冊残された絶版の御本の所在を、何としてでも確かめようとしたものだ。南条先生の方が私より優秀だったから、何か心残りでもあったのかもしれないがね。」


 教授は立ち上がり、書棚の隅の本をよけて小さな箱を取り出すと、錠の番号を指で合わせ始めた――B2070。そして教授は、静かに箱を開いてみせた。


「これが――本当の、蒼の陰綬・・・。」


 俺の掌に置かれた印綬。つまみに当たる龍の彫刻は、夕陽に当たって、夏の青空色に煌めいた。


「葦原先生は、君が来るのを待っていた。この印綬の重みは、先生の記憶の重みだ。私の言いたいことは分かるね?」


 春日井先生はそう言って、眼鏡の中の気難しい目に穏やかに笑みを浮かべた。まあ、それも一瞬のことで、用が済んだら早く出ていってくれるかな、片付けが進まないからと、教授はまた書籍の山の麓へと戻っていったのであるが。


「さて、蒼の陰綬を無事受け継いだはいいけれど・・・」


 俺はマフラーに口を埋め、再び廊下を歩いていた。暗がりの中で、印綬を指で撫でながら。


「これを、この季節の俺に渡さなきゃいけないんですよね?」


「そうだね。タツナリ君の場合先代はこの世にいないから、とにかくあの臭いを嗅ぐかでもしないと、全ての言語で会話する能力は得られないからね。」


「でも・・・どうやって渡すんですか?」


「さあ。直接顔を見せ合うことはできないからね。さっきも結構危なかったと思うけれど。」文郎は言った。「でも、君の記憶だと、封筒の中に入っていたんだよね、その印綬は。」


「そうです。」俺は答えた。「でも俺が封筒に入れるのって、何だか変じゃないですか?ニワトリと卵の話になりませんか?」


 突然、文郎が足を止めた。俺もつられて立ち止まり、訝しげに文郎の顔を見上げ、次いでそれからその視線の先を見た。


 朱理が、下の階から、神経質に何度も携帯電話を開きながら、階段を上ってきた。そうした動作の一サイクルの中で、朱理は、四階の踊り場に立つ俺たちを見出した。


 怪訝、確信、戦慄、硬直。朱理の大きな二つの瞳は、激しく移ろう感情を、グラサンなしにありありと映し出していた。


「お前――」思わず俺は口を開いて。「――なんでここにいるんだ?」


 俺たちは歩を進めた。普段あれほど自信満々な朱理の顔が、俺たちの一歩ごとに恐怖で満たされていくのが分かった。


「この棟に何の用で来たんだ?」


 朱理は動かなかった。いや、むしろ俺の一言によって、カバンを胸に抱え、防御態勢に入ったと言った方が適切だろう。


「どうしてここにいるの、あんた・・・」


 消え入りそうな声で朱理は上目遣いで俺に言った。そして文郎に顔を向けると、大きく見開いた目がさらに強ばった。既視感か。夏の西安行きの車内での一場面が、脳裏をかすめたのだろう。


「もしかして、お前がやったのか?」朱理の表情に唆されるように、俺は単刀直入に尋ねた。


「何で――」朱理と俺の視線は行き違う。「――この人が、ここにいるの?」


「・・・え?」


「あんたも(・)――そうなの?」朱理は言った。「あんたが(・)―――」


「何だよ、そう、って――」俺は前に出ようとした。咄嗟に朱理は叫んだ。


「お願い、こっち来ないで―――!」

 

 突然、朱理は階段に向かって走り出した。数段を飛ばして、殆ど飛び降りるように駆け下りていく。


「お、おい、朱理!」


 俺は慌てて後を追いかけた。朱理は返事をしなかった。俺を見向きもしなかった。と言うよりも、俺の存在が少しでも眼中に入るのを恐れているかのようだった。あっという間に階段を降りきって、朱理は門の方へと走っていく。


「ちょっと待て、朱理!」


 俺は叫んだ。叫ぶたびに、朱理の足が速まっていく気がした。


「・・・タツナリ君、少し、良いかな。」


 後ろから俺を追いかけてきた文郎が、落ち着いた声で言った。俺は文郎の方を振り返った。


「あの通り、尚さんは混乱している。無理も無い、この季節の君にあった日に別の君に出会ってしまった訳だからね。暫く様子を見ておいた方が良いんじゃないかな。」


「そうは言ってもな――」俺は不満げに語尾を濁した。


「龍也――。」


 俺は立ち止まって、朱理の走っていった方を振り返った。南キャンパスの門から、短い小道を隔てて向こうの正門の前で、朱理は立ち止まっていた。


「ん?」顔を上げたのは、機嫌の悪そうな顔をした俺だった。「何だよ、まだいたのか。」


「龍也――今、どこから来たの?」


「は?」龍也は眉間に皺を寄せて。「いや、レポートの調べ物しようと図書館行ってきた帰りだけど。」


「じゃあ――今、南キャンパスから出てきた訳じゃないんだね。」そう言って朱理は南キャンパスの正門の方を振り返った。俺たちは慌てて陰に隠れた。


「何言ってんだ?」龍也は怪訝そうに。「南キャンパスに行ったのは、今から三十分くらい前かなあ。春日井の奴に呼び出されてさ。何かむしゃくしゃして途中で出てきたけど。」龍也はそう言って、不思議そうに朱理を見た。


「何だ?何か妙に落ち着かない感じだけど。」


「別に。ちょっと走ってきたからさ。」朱理は答えた。


「ふーん。」龍也は流すように呟いて。「でさ、お前、さっきの本。あれ、俺に対する嫌味か?」


「本?」


「ほら・・・葦原龍山の本だよ。これ見よがしに机に置いてさ。」


 龍也がそう言った途端、朱理はどっと笑い出した。龍也は怒るどころか驚いた様子で朱理の方を見た。


「・・・そんなに笑うことか?」


「あんたって、本当に自意識過剰やね。邪推も大概にしなよ。」朱理は言った。「別にあんたがいたから読んでいた訳じゃないよ。今あの本にハマっていてさ。」


「ハマる。」龍也は訝しげに。「あの本のどこがそんなに面白いのか、一つ要約して説明してくれよ。」


「要約か。いきなり言われても困るけどな。」朱理は言って。「まあ、簡単に言うとこんな感じかな。あんたのひいおじいさんはね―――」


 俺たちは壁にもたれながら、よく通る声で話す朱理の言葉に耳を澄ましていた。


「『あの本』って、もしかして、『普遍言語の源流』のこと?」


「・・・どうしてそのことをご存知なんですか、タイガーさん。」


「先代が言っていたんだ。でも、あれは確か、神代の時代の文字と言葉で書かれていたって聴いていたけれどな。」


「俺が見たのは日本語版でしたよ。表紙しか見ていないですけれど。初版が出て直ぐに絶版になったらしくて。」


「絶版か。」文郎は呟いた。「それってむしろ、出版されなかったって言った方が良いんじゃないかな。」


「え?」


「つまり、尚さんの持っている本は、葦原龍山本人によって書かれたオリジナルってことさ。そもそも一つしかない。」


「オリジナル。」俺は反芻するように言った。


「残り香?」龍也は朱理に聞き返した。


「あのね。ずっと昔、太古の昔、人間は、一つの言語だけを用い、平和に暮らしていたの。」


「何だよ、いきなり。」龍也は胡散臭そうな顔をして朱理を睨んだ。


 俺は次第に、朱理があの本の説明をする意図が分かってきた。朱理の顔には、俺が怪訝な顔をするたびに、仄かに安堵の色が染み込んで行くのだ。


「それが、その本に書いてあること・・・?」


「うん。」軽く朱理は答えた。「――分かった?」


「全然。」龍也は即答した。


「だろうね。」


 朱理は意地悪く笑った。朱理は恐らく、俺が使徒の一員でないことを期待しているのだ。使徒であれば、この話は必ず先代から耳にしたはずであるから。朱理の笑みが、今の俺には痛かった。


「そんな嘘みたいな話、本当に学者たちが信じてるのかよ?」


「さあね。」そう言って朱理は続けた。「信じなきゃダメな人だけ信じればいいんだし。」


「じゃあ、お前は、信じなきゃダメな方の人なのか?」


 無神経にも龍也はぶっきらぼうに尋ねた。朱理の顔が、一瞬強ばった。朱理は、黒く染まってきた前髪を払って、それをごまかした。


「信じるか信じないかなんて、そういう選択肢、あってないようなものなんだよ。」


 朱理の達観したような面持ちを見て、龍也はからかうように言った。


「お前――さっきそこで新興宗教にでも勧誘されたのか?」


「違うって。」朱理は口を尖らせて。「あんたって、本当嫌な奴やね。」


 朱理は龍也に、中国へ発掘に行かないのかと尋ねた。龍也は明らかに気乗りしない口調で、行かないと答えた。


「あ、そ・・・」朱理の仏頂面には影が見えた。「じゃ、次会うのは新学期かな。」


「かもな。」龍也は肩をすくめて。「少なくとも授業では会わねえけど。お前、中国史に行くんだもんな。」


「だろうね。」朱理は言った。「龍也、今からもう帰るの?」


「いや、ちょっと南の図書館に寄っていくよ。資料がそっちにあるらしくてさ。」


「そう。じゃあ、まあ、春休みにまた会おうよ。あと、お土産はあまり期待しないで。」


「はい、はい。」


 満面の笑みを浮かべて、朱理は龍也に手を振り、中央キャンパスの中に入っていった。俺があそこに立っている龍也だったときは気付かなかったが、勝気な朱理の浮かべた笑みには、若干力が入っていた。


「あの後、尚さんはどこに行くのかな。」一部始終を見終えて、文郎は俺に問うた。


「さあ――」俺は俯いて。「また、南条先生のところに行くんじゃないですかね。明日から中国に行くわけですし。それなら、ちょっと、華たちのところに行かないといけないですね。」


「タツナリ君――大丈夫?」


「・・・何がですか?」


「いや、何か思いつめた表情していたからさ。」文郎は言った。


「仕方無いよ。タツナリ君は知らなかったんだから。」


「そういうのじゃないですよ――」背筋を伸ばして顔を上げた俺は、思わず目を丸くした。


 俺の目の前を、龍也が通りがかったのだ。急いで俺は後ろを振り向く。文郎は平然とした顔を繕い、壁にもたれかかっていた。


 龍也の足が止まる。背中に視線を感じる。タートルネックの中が汗で湿ってきた。


 だが、龍也の関心も長くは続かなかったようだ。再び足音が鳴り始めた。遠ざかりながら呟く、龍也の声。


「――全く、今日は散々だな、あの音以来。」


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