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第六章 残香

 

                   第六章 残香


                      一


「ゼロ。」


 文郎ヴァンランの号令の後、突然地面が大きくうねり、俺は思わずのけぞって、その拍子に目を開いてしまった。


 手の平に触れたのは、硬く冷たい、白い床だった。まだ地の震えが腕へと伝わってくる。


 振り向くと、武勇ムヨンホァも、俺と同様、尻餅をついたり寝転がったりして、虚空に何かを求め、きょとんとしていた。ただ、文郎ヴァンラン一人だけは、長い二本の脚でしっかり踏ん張り、揺れる床の上に立っていた。


「列車・・・か?」


 暗黒を映す窓を武勇ムヨンは見上げて呟いた。


「そうだよ。」


 景気よく口笛を吹き鳴らし、文郎ヴァンランは白の印綬をポケットにしまった。


「みんなは今、俺の記憶を早送りで追体験して、六ヵ月後の世界に来たんだ。ここが、六ヵ月後に俺がいた場所だ。」


「場所・・」ホアは軽やかに立ち上がる。


「・・って言っても、これ、どこに向かう列車?」と俺。


「京都さ。キオト。」文郎ヴァンランは涼しげに。


「京都?」俺は眉をひそめた。「じゃあ、これ、世界鉄道じゃないんですか?」


「いや、れっきとした世界鉄道の路線の一部。その名も極東本線だ。」


 文郎ヴァンランは言った。「訳があってその存在は上層部の仮名でも一握りにしか知られていないけどね。」


「極東本線・・・」武勇ムヨンも立ち上がり、轟音の唸る外を見ようと窓に顔を映している。


「誰が運転を?」とホア


「それはあとで時間のあるときにゆっくりと。」と文郎ヴァンラン。「とにかく、隣の車両で、急いで作戦を立てよう。・・・この列車には僕らしか乗客はいないけれど、記憶を若干進みすぎたみたいで、もうすぐ到着するみたいなんだ。」


 文郎ヴァンランの指の指す方を、俺たちは振り返った。列車は長いトンネルか、地の底まで延々と伸びている地下線を、何両にも連なって走っていた。


 何もない先程の車両とは違い、隣は、幅の広い二人掛けの座席の並んだ、二等車両だった。座席を倒し、向かい合って四人は座る。


「本来なら黄の玉璽を持つ華が仕切るところだけど。」と文郎ヴァンラン。「この時期のことは、僕の手帳が一番よく知っているから、もう暫くは僕が仕切るね。」


 文郎ヴァンランは手帳を手のひらの上に開いた。


「今日は新年が明けてから十八日目、武勇ムヨンと龍也の大学は期末試験を迎えている。実は、この三日前に、南条先生は密かに独りで中国に渡り、上手く言い繕って世界鉄道側を譲歩させ、十日間だけあの鉄道用地に入って調査する許可を取りつけて昨日帰国してきたところだ。」


「許可を?」と武勇ムヨン。「どうやって?」


「教授の名誉のためにその点は伏せておくよ。」


 文郎ヴァンランの言葉を聞いて、武勇は小さく舌打ちし、ハンチングに手を当てた。


「それでその十日間っていうのは、いつなんですか?」俺は尋ねた。


「さあてねえ。」文郎は手帳を持ち上げ、ぱらぱらとめくった。「それ以上は分からない。『十日間』という情報もあまり信頼性は高くないんだ。ただ確実に言えるのは、南条教授が三日前、上海で世界鉄道の中華支社長と秘密裏に面会し、昨日帰国したということだけだ。」


「中華支社長と言うと・・・」


「世界鉄道中華支社の創始者、劉希亮(リオウシーリアン)氏のお孫さん。劉衛(リオウウェイ)氏。」

俺の代わりに華が答えた。


劉希亮リオウシーリアンって、俺たちとどんな関係があるんだ?」武勇が俺を見て言った。首をかしげる俺の代わりに、文郎が答えた。


「前々回の玉璽の持ち主だよ。ちなみに、玉璽は夏文命シァウェンミンっていう男に引き継がれた。それが前回のことだよ。ちなみに、その時の青の印綬の持ち主が、南条先生の恩師である、葦原龍山。タツナリ君のひいおじいさんだ。」


 武勇ムヨン以上に、俺は目を丸くして文郎ヴァンランの言葉を受け止めた。「葦原龍山が・・・俺の先代?」


「ということは、使徒としての記憶は失っていても、劉希亮氏と葦原氏は互いに何かしらのつながりを感じていたとも考えられますね。」華も頷いて。「今も社長も、使徒のことは知らなくても、葦原氏のことはおじいさまから聞いていらっしゃるかもしれない。南条教授が葦原氏の教え子であることを社長に告げれば、きっと社長は親近感を抱くだろうし。」


「ありえるな。」武勇ムヨンは天井を睨みつけながら答えた。


「推理の時間はそこまでにして。」文郎ヴァンランが話を元に戻した。「教授の方も、武勇たちのことがあったから、あの印綬はどうもタダモノではないってことに気付き始めているみたいだ。僕らを何とか取り込んで発掘に向かわせるか、それとも僕らの妨害をするか。いずれにせよ、迅速に行動する可能性は十分にある。」


「思い余った行動をとることも。」とホア


「いや・・南条先生に限ってそれは・・」俺は口を挟んだ。


「それで、作戦というのは?」と武勇ムヨン


「うん。あと三分ほどで列車は京都駅に着く。駅は京都市東部所在の大学近辺の山の地下にある。龍也たちの大学の裏山だよ。」


「場所は分かった。目的は?」武勇ムヨンは尋ねる。


「まだ引き継ぎが行われていない青の陽綬と黒の陰綬を取り戻すこと。僕がそうしたように、この時期の龍也を穏便な形で六か月前に連れ戻すこと。そして、残る赤の陽綬の使徒を仲間に入れることだ。」


「大体は教授のもとへ行けば解決することね。」


「逆だよ。教授の所に行かなければ解決しない。」と武勇ムヨン


「あの・・俺は、自分の手で、俺を送り返さなきゃいけないのか?」憂鬱を感じて俺は文郎ヴァンランに尋ねた。


「青の陽綬が見つかればそうすればいいさ。」文郎ヴァンランの言葉がやけに無責任に聞こえた。「ただし、もう一人の自分には絶対気付かれないように。異時点間の自分が出会うとややこしいことになるっていう、よく言われるあれさ。」


「連絡はどうやって取る?」武勇ヴァンランはさらに尋ねた。


「これだ。」ポケットをまさぐり、再び文郎ヴァンランは白の陰綬を取り出した。「この印綬は、記憶を吸い取ったり、再生したりする以外にも不思議な力があって――」文郎ヴァンランは、ホアに、ホアも出してごらん、と促した。


「――印を押す方を口元にもっていき、声を発すれば――」


「――あっ。」玉璽を耳に当てていたホアが、小さく叫んだ。


「なるほど、トランシーバーになるのか。」と武勇ムヨン。「でもそれより、携帯電話の番号を変えた方が早くないか?龍也と俺は印綬を持っていないわけだし。」


 ホアが、聞いてみる?と俺に玉璽を差し出した。俺は、ありがとうと言い、静かに玉璽を耳元に近づける。


「確かに、ただの連絡だけなら、神代はさておき現代なら携帯電話が一番だよな。でも、この印綬のすごいところっていうのは――五つの印綬全ての周りでする音が、すべて聞こえるっていうことだ。」


 俺は左耳を手で覆い、右耳に玉璽を当てた。貝殻の奥から聞こえる海の音のように、目の前の文郎ヴァンランの声が、その近くで唸る轟音とともに、まるでイヤホンを通して聴いているかのように感じられた。


「それって、何の意味があるんだ?」武勇ムヨンは顔をしかめた。


「三つある。一つ目は、印綬を通して聞こえる音は、燕五使徒の五人にしか聞こえない。二つ目は、印綬に向かって話すときは、自然と神代の言葉になるから、やはり五人にしか言葉の内容は理解できない。そして最も重要な三つ目は――」


 ホアが何か答えて、文郎ヴァンランは頷いていたが、その内容は耳から滑り落ち、聞き逃した。それどころではなかったのだ。


「おい、龍也――どうした?」


 武勇ムヨンは、俺が我に返るまで、三度ほど言葉をかけていたらしい。その時の俺は、たぶん、途方もなく間抜けな顔か、とんでもなく困惑した顔をしていたんだと思う。


 文郎ヴァンランの元気のいい声の合間を縫うようにして右耳に響く、学生のざわめき。その中に、俺自身の声もあった。扉の開く音。足音。チョークの音。静まる声。


 そして、一年間聞きなれた、鬱陶しいあのしわがれ声が耳に響いた。


「それでは――六十分厳守。予告通り、辞書は使用しないこと。二時まで・・・始め。」


「おい、龍也?」


「・・・・・」


「タツナリ君?」


「ええっ?」俺は思わず叫んで振り向いた。


「どうしたんだい。面白い音でもしたのかい?」


 文郎ヴァンランは笑って俺を見た。その笑いが徐々に硬くなり、吸い取られるように消えていき、怪訝そうな表情へ変化し、何か考えを得たかのように光り、探る目で俺を見るようになるまでの時間が、俺の記憶の回路が一つに繋がるのには必要だった。


 一年生の期末試験。英語のリーディング。たしか、そうか、あの時。


 頭に上った熱を冷ますように吹き去ったあの音が、記憶とともに俺の脳裏に蘇った。


「タイガーさん・・・」


 玉璽に汗がにじんだ。


「うん。」文郎ヴァンランは頷く。


「その・・・残る一人の使徒って、誰なんですか?」


 愚問だったのか、一瞬張りつめた空気が和らいだ。答えようとする文郎ヴァンランに代わって、武勇ムヨンが俺の肩を叩いた。


「尚さんだよ、もちろん。」武勇は言った。「赤の陽綬は琉球人に与えられる。」


 俺たちの地面が、突然激しく揺れ動いた。


「駅だ。」文郎が言った。「京都に着いたんだ。」


 列車は唸るような轟音を収束させて、光の満ちるプラットホームへと滑り込んでいった。




                     二



 吉田山の穴の中から抜け出ると、肌に底冷えする京都の寒気が、体温を求めてもぐりこんできた。六か月の瞬間移動は、さすがに体にこたえる。幸い、夏に戻る前に俺が着ていた服の入った鞄も、六か月後にしっかり転送されてきていた。俺たちの周りを先ほどから寒い寒い寒いと武勇が走り回りだしていたので、タートルネックを身に着けると、タンクトップ一枚の武勇ムヨンに厚手のジャケットを羽織らせた。


「サンキュ。死ぬかと思った。」武勇ムヨンは白い息を吐きながら。「にしても龍也は準備が良いな。どうして真夏にジャケット持っているんだ?」


「タイガーさんが言ってたろ。俺はこの季節の人間なんだ。」


「今の、もしかして決め台詞?」武勇ムヨンは思わずにやりとした。


「んなわけないだろ。」


 俺は武勇ムヨンの隣に立ちながら、小さく、なあ、と武勇ムヨンに声をかけた。


「ん?」


 俺は落ち葉に包まれた階段を見下ろした。吉田山の雑木林は、古都に吹く冷たい風に、丸裸の身体を震わせている。数段下に華と文郎が立っており、俺たちの方を振り向いて、こっちで道は合っているかと尋ねた。俺は頷き、階段を降りていった。


「さっきの話――」


「・・・ああ、朱里の話か?」


「嘘だよな、あれ――」


「嘘じゃない。彼女も、ツバメだよ。」武勇ムヨンは断言した。「電車を待っているとき、話したよな?外山書店って本屋のこと。」


「・・・おう。」


「あの本屋は、今の四川北路にあったもので、今そこには碑文が置かれている。書店跡に行く前、公園で文郎ヴァンランに会ったあと、俺はその足で四川北路に向かった。書店跡にいたのが、尚さんだった。そのとき尚さんは、俺と偶然会ったものと思って適当に取り繕い、結局俺たちは二人で復旦大学に戻ることにしたんだ。そして、龍也に出会った。」


 俺は黙って武勇の言葉を聴いていた。


「南条先生が一回生の龍也と朱里を研修旅行に呼んだのは、おそらく、朱里が渡された印綬を南条先生に見せたからだ。もしかすると、朱里は、あと四人の仲間がいることを知っていたのかもしれないし、知らなかったのかもしれない。とにかく、南条先生としては、俺たちツバメが集まる前に、早く発掘を済ませたかったんだろうね。」


「・・・もし、もしもさ。」俺は興奮気味に語気を強めた。「百歩譲って、武勇ムヨンの話していることが本当だとして、じゃあどうして、武勇ムヨンは朱理の発掘に協力したんだ・・・?」


神宮しんぐうの入り口がどこか、俺たちは知らないじゃないか。」ムヨンはきっぱりと言った。


「朱理が大きな通りを見つけた時点で、これは神宮の入り口につながるものだと確信した。だから、ある程度目処がつくまでは発掘に協力して、それから先は、朱理と龍也に俺の正体を告げて、神宮の入り口の封印をしようと思った。でも、失敗した。」


 狛犬に、斜めの影が落ちている。その横を、俺たちは通り過ぎる。


「それが、あの夜のことだったのか――」


「黒の陰綬を持っていたことが、まず咎められてさ。もうこうなった以上は、と思って、ゆっくりなるべく分かりやすいように説明しようとしたんだ、俺の正体を。でも話せば話すほど、朱里から血の気が引いていって、『もうそれ以上話さないで』って悲鳴を上げて止められてさ。」


 黒いアスファルトの道を歩いていく。いつも通学に使い慣れた道を、こうして一風変わった集団と一緒にあるくのは、何だか不自然な気がした。


「多分、朱理はまだ、ツバメのことを受け入れていないと思うんだ。」武勇ムヨンは言った。「先代様から何を吹き込まれたのかは分からないけれど、相当ツバメには否定的な印象を持っているみたいでさ。」


「南条先生が――?」


 武勇ムヨンはその問いには答えなかった。


「龍也は分かっていると思うけどさ。」次の小さな神社が見えたところで、ようやく武勇ムヨンは口を開いた。「朱理のことを説得できるのは、龍也しかいないんだ。そう思ったよ、あの研修旅行に行って。」


 俺は眉を潜めて武勇ムヨンを見た。


「ファイティン。」武勇は穏やかに笑って、親指を立てて見せた。


 吉田神社の参道の砂利道を俺たちは下った。司令塔はここからはホアとなった。有史以来幾多の中国皇帝のたなごころに載ってきた玉璽の正当後継者であるのだがから、燕五使徒の伝統に基づき妥当なことだろう。


 鳥居を通り抜けると、すぐ右手に俺の大学の正門がある。小さなその正門から入り、楠の前まで来て、ホアは立ち止まり、振り返って俺に尋ねた。


「龍也。南条教授の研究室はどこか分かる?」


「南条教授?」俺は少し考えて。「ええと、文学部だから・・。この楠のロータリーの右の道を真っ直ぐ行って、藤棚のある中庭が見えてきたら、その前方左手にある大きな建物が文学部棟だよ。教授の研究室は六階かな。華は文字なら何でも読めるし、すぐに見つかると思う。」


「ありがとう。」ホアは微笑み、続いて文郎ヴァンラン武勇ムヨンを見た。「それじゃあ、二組に分かれましょう。一組は教授の研究室、もう一組は朱理の方を。印綬を持つ人と、言葉ならなんでも話せる人で組になった方がいいから、武勇ムヨンと私は研究室、文郎と龍也は朱理。これでどうかしら?」


「異議なし。」と武勇ムヨンは言い、俺に向かって目配せした。


「教授は任せたよ。」文郎ヴァンランも快く答えた。


「あ、そうだ。」俺は急いでポケットに手を突っ込んだ。「これ、返すの忘れてた。」


「おい、危なかったな。」俺の手元を覗き込んで武勇ムヨンが背中を叩いた。


「いえ、私が忘れていたんです。ありがとう、龍也。」


 先ほどからずっと、俺は華の玉璽を借りたままにしていた。手放せなかったのだ。玉璽を通して聞こえてきた音が、まだ鮮明に、俺の耳に残っていた。


「それでは行きましょう。」


「集合時間は何時にしようか。」武勇ムヨンが尋ねた。


「五時くらいでいいんじゃないかな?龍也、どこか目立たない待ち合わせ場所ってない?」


「・・目立たない場所か、目印になる待ち合わせ場所のどっちかなら知っていますけど。」


 俺は覚めた目つきで文郎ヴァンランを見た。


「もう、吉田山の『駅前』でよくないか?あそこ、人も少ないし、静かだし。」と武勇ムヨン


「そうしましょうか。」


ホアがそう言うなら、そうしようか。」


「えーと、じゃあ、五時に吉田山の京都駅前、でいいんですよね?」俺は念を押して尋ねた。他の三人は頷いた。


「じゃあ、後で。」


 俺は武勇ムヨンホアと別れ、文郎とともに朱理を捜しに出かけた。


 文郎ムヨンの足取りは、心なしか軽やかだった。


「え、どうしてかって?そりゃ、久しぶりに『現在』に戻れてこられたからさ。タツナリ君も嬉しくないの?」


「さあ・・・」自分が今置かれた状況に鑑みると、手放しに喜んでもいられまい。


「そう言えば、あの列車、誰が運転していたんですか?」


「それはまた後で言うよ。」文郎はにこやかに答えた。「あの列車は、俺たちを乗せたらすぐに出発したからね。次に必要となるまでは、とりあえずお休みだよ。」


「そうですか。」俺は適当に答えた。タクシーの止まる吉田神社の参道を渡り、南キャンパスへ俺たちは足を進めた。


 暫く俺たちは話をすることなく歩いていた。自転車置き場を右折し、南キャンパスの正門を横目に見ながら、俺たちは目の前に構える灰色の新しい建物へ向かって行った。自動ドアが開き、冷気とともに俺たちは中へ入った。


「何か、思い当たることがあるんだよね?」


 徐に、周りの学生に聞こえないように、そっと文郎ヴァンランが言った。


「・・・」


 俺は黙って階段を上がっていく。三歩ほど遅れて、文郎ヴァンランも楽しそうな笑みを浮かべて俺のあとをついてきた。


「さっきの音が関係あるんだよね?」


 階段を上がりきると、俺は文郎の顔を見て、目を細めて言った。


「見えるんだったら、最初から聞かないでくださいよ。あとそれ、キャンパス内ではすごく場違いです。」


 文郎ヴァンランの鼻には、黒光りするサングラスが渡されていた。文郎ヴァンランは俺の忠告などどこ吹く風で、質問を続けた。


「ここは、文学部棟とは関係ない場所だろう。どうしてここに来ようと思ったのか、聞かせてくれないか。」


 俺たちは、二階の渡り廊下を通り、東棟へ進んでいった。


「この棟は、一般教養科目の授業が行われている棟です。一年生と二年生の間は、専門科目の授業がほとんどないので、一年の大半をこっちのキャンパスで過ごすんです。」


 非常口の扉を開け、吹きさらしの通路を歩き、建物の中に入る。唐突に白く静かな廊下が始まる。


「今日はちょうど、俺の英語のリーディングのテストでした。朱理は別のクラスなんでこのテストを受けてはいなかったので、ここにはいません。多分、俺と昼ごはんを一緒に食べるまでの間、図書館で本でも読んでいるか、勝手に専門科目の授業にもぐりこんでいるかしているんだと思います。」


「それじゃあ、ここに来る意味はないんじゃないか。」


「それなんですが・・・」


 俺は立ち止まる。文郎ヴァンランも立ち止まる。「教東二四」と書かれた教室の前に来ていた。中は静かで、何の音も聞こえない。文郎ヴァンランは興味深げにサングラスを教室の壁に向け、プレートに向け、そして俺の方を向いた。


「さっきの印綬。」俺は言った。「華から借りた玉璽から、この教室の話し声が聞こえてきたんです。教官のテスト始めの合図。おかしいと思いませんか?」


 文郎ヴァンランは俺の方を、興味深げに見続けていた。


「確かに・・印綬から聞こえるのは印綬の周りにある音だけだからな。朱理も他の使徒もここにいないのなら、聞こえるはずがないからな。・・・違う教室じゃないのか?朱理がテストを受けていたのかもしれないし。」


「それはないと思います。」俺は答えた。「よく思い出してみると、この教室の中で俺は、列車の轟音を聞いたんです。列車の轟音ですよ?この、線路沿いにあるわけでもない建物の二階で、列車の走る音が聞こえたんです。きっと今この教室の中にいる俺は、その轟音の意味が分からなくて、もうテストどころじゃなくなっていると思います。」


「なるほど。タツナリ君らしいね、その反応。」文郎ヴァンランは無邪気に微笑んだ。


「それで考えたことがあるのですが・・・」


「うん。」


「少なくともこの教室の中に、印綬を持った人間が一人いる。そしてもう一つ。俺が聞こえた列車の轟音は、車内から聞こえるものではなく、車外から聞いたような感じのものだったんです。つまり、先ほど列車の中にいた華とタイガーさんの印綬から聞こえてきたものではない。したがって・・・」


「さっきの京都駅に、印綬を持った人物が潜んでいて、俺たちの列車が京都駅に入ったとき、その人物の持った印綬を通して、僕たちの列車の轟音が聞こえてきた。そういいたいんだろう?」


「・・・その通りですが・・何か間違ってますか?」


「いい感じではあるけれど、ちょっと甘いんじゃないかな、その推理。」文郎は窓辺に背をもたれかけて話した。「轟音を列車の外から聞いたような音をタツナリ君が聞いたのなら、それは本当にそうなんだと思うよ。つまり、僕たち以外の誰かが――ここではあえて朱理だとは特定しないでおこう――印綬を持っていて、列車の通るところに立っていた、ということは、本当なんだ。だけどね、列車が通る場所は、この日本だったらどこでもありえるじゃないか。いや、日本どころか、世界中、それこそ世界鉄道は地球上至るところを走っているからね。その音が聞こえてしかるべき場所なんて、いくらでもある。つまり、その印綬の持ち主の現在地を特定出来ないんだよ、『列車の音が聞こえた』というだけでは。だから、タツナリ君のその考えは、かなり思い切った論理の飛躍をはらんでいるんだ。」


「でも・・俺、本当に・・」


 突然、ガラリと前の扉が開く。素早く文郎は、手荒に俺を吹きさらしの通路へ押し飛ばした。


「・・・・・誰だ、君は。誰かと話していたんじゃないのか。」


 聞きなれたしわがれ声。春日井老教官だ。


「アー・・・」俺には文郎ヴァンランの後姿が少しだけ見える。困ったように口ごもる文郎ヴァンランの様子を見て、鋭いこの教授はすぐに気が付いたようだ。文郎ヴァンランに日本語が通じないことに。


「今、私たちはこの教室でテストをしている。静かに通りなさい。」


 はっきりとした発音でそう教授は言った。きっと英語だ。ということは教授の英語の発音は本物らしい。俺の脳がそんな細かなことに思考回路を割いている間に、静かに扉の閉まる音がした。


 俺は痛い尻を持ち上げ、打ちどころの悪い背中を支えながら、いくらなんでもひどいじゃないですか、と囁く声で喚いた。


「だって、君が困ることなんだよ、タツナリ君。」


「・・え?」


「同じ時間の、これほど近くの空間に、君という人間が二人いる。これはとてもまずいことなんだ。しかも、君が過去に戻るより少し以前の時間に僕たちはいるから、この瞬間に、同じ記憶を持った同一人物が二人存在することになるんだ。厄介だろう。」


「要するに・・どういうことですか?」


「まあいい。これ以上話しても訳が分からないと思うから。」文郎ヴァンランは困ったように笑って。「とりあえず、君は、君自身と一切目を合わせちゃいけない。今は、教授が、教室内の君と廊下の君がいることに気づいたらまずいと思ったから、仕方なくしたことなんだ。痛かったらごめん。」


 仕方なくするにも、もう少し方法はないものか。まあ、さっきのは俺のせいだが。


「あの、タイガーさん。」


「何だい。」


「さっきの教授の言葉、分からなかったんですか?多分、英語ですよ。英文学の先生だし。」


「うーん・・ちんぷんかんぷんだったね。」文郎ヴァンランは肩をすくめて。「この任務が終わるまでは、僕にはベトナム語と神代の言語、そして少しばかりのエスペラントしか話せないんだろうな。」


「試験はそこまで。もう終わりだ、ペンをしまいなさい。では、後ろから答案用紙を回してきなさい。」


 教官の声とともに、教室内の冷たい空気が一気に緩んだ。沸き起こる学生たちの声を背に、俺たちはいそいそとその教室の傍を後にすることにした。


「さっきの話だけど。」南キャンパスの正門をくぐる頃になって、ようやく文郎が口を開いた。


「とりあえず、轟音の聞こえた印綬の場所は、後で考えようよ。それと、さっきの教室に印綬の持ち主がいたとしても、君と一緒じゃ戻れないし、僕だけだと逆に怪しまれるからね。仕方ないけど、今は朱理を捜すことが一番実現可能なことだよ。君たち、どこでご飯を食べているの?」


 文郎ヴァンランの言葉に答えようと顔を上げた時、不意に俺の横を早足で通り過ぎる教官がいた。春日井教授だった。あまりの唐突さに隠れる場所も文郎ヴァンランが俺を押し飛ばす隙もなかったが、当の教授は全く俺たちに気づかなかったようだ。通り過ぎる時、春日井教授の小さなため息を俺は耳に聞いた。そのため息が、俺の記憶に積もったほこりを、また一塊吹き払ったのだった。


「そうか・・・」


「・・何が?」文郎は振り向いて言った。


「春日井教授ですよ。印綬の持ち主。なんで気が付かなかったんだろう・・・」


「え?」文郎ヴァンランは思わず声を大きくした。久しぶりに文郎ヴァンランの意表をつかれた顔を見た気がする。「それじゃあ、追いかけなきゃいけないだろう。今、すぐに。」


「いや、今はまだその時間じゃないと思います。少なくとも、僕の記憶によれば。」俺は自信を持った目で文郎を見据えて言った。「まずは、朱理からいきましょうか。」


 そう言い、南側のキャンパスの門を抜けたところで、俺たちは図らずも目標に遭遇してしまった。


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