第五章 回帰 その7
長すぎた回想編もようやく今回で終了です。この章の後半部を境に、登場人物の名前が全て漢字表記に変化しますので、そこにも注目いただけると幸いです。
五
「気をつけて行きなさい。」
爆音が鋭く賑やかに鳴り響く中,日は昇った。店長は俺を勇気づけるように,肩を叩いた。温かな手だった。俺は頷いて言った。
「すみませんが,良のこと,宜しくお願いします。」
「何を改まって言うんだ。いつものことじゃないかい。」店長は明るく言って,いつものように俺を送り出してくれた。
巷の噂は政府の公式見解よりも正確で,夜半に戦闘は始まった。黄浦江を上流へと進む日本軍に向かって,中国側の戦闘機が飛来する。轟音は確かに凄まじいものの,戦場からは距離があり,その時はまだ他人事のように感じられた。俺は自転車を漕ぎ新公園駅へ向かい,そこで制服に着替えて人々で満杯の列車に身体をねじ込み,上海駅へ急いだ。
上海駅は,いつもより構内に人が多かったが,秩序は平常通り保たれていた。エドワード路に位置する上海駅は英米租界とフランス租界の境界上にあり,人々の表情にも落ち着いたところがあった。中には黄浦江沿いまで行って観戦しようなどと呑気なことを言う人々もいた。俺は列車を降りて,駆け足でホームを移動した。
「夏さん。」
龍山の声がした。顔を上げると,ヒョンウンが軽く手を振った。レ・ヴァン・ランと朱音の姿もあった。
「遅刻したか?」
「いいえ,私たちもちょうど揃ったばかりです。」レ・ヴァン・ランが答えた。
「凄いな,ウェンミン!一等車の切符じゃないか。」ヒョンウンはそう言って,右手の切符の束を満足気にちらつかせた。「コネがあるのとないのとでは大違いだな。」
「でも,とりあえず,行き先が見つかって良かったですね。」
レ・ヴァン・ランの言葉に,俺は素直な笑みを浮かべることが出来なかった。それは龍山や朱音も同じようだった。俺たちの鈍い反応を察してか,ヒョンウンが呟いた。
「その碑文の意味を知っているのは,もう,あいつだけじゃないのか…?」
「分かりませんが,まだ他の誰も知らないはずですよ。」俺の代わりに朱音の口が開いた。「語学官の中でも一番先にあの人が碑文の存在と意義に気付いて行動したんだと思います。」
「にしても,大学に保存するならどうしてもっと厳重に管理しないんだろうな?部外者が簡単に写しをとって来られるなんてよ。」ヒョンウンは眉を潜めた。
「誰も真価を知らないという格好の証拠じゃないですか。管理が厳しいと,かえって不安になりますよ。」レ・ヴァン・ランが答えた。
「だとすれば,本当に無くしてしまったんだな。」俺は複雑な表情の龍山を見ながら言った。「葦原には心苦しいが,誰か価値の分からぬものによって捨てられてしまったのかもしれないな。」
俺のその言葉に反応してか,龍山はすっと顔を上げて,難しげな面持ちで俺を見据えた。
「どうした?」俺は言った。龍山はためらいがちに、しかしはっきりとした口調で続けた。
「少し、お時間を頂けませんでしょうか。ノートの場所が分かったかもしれませんので。」
「何だって?」
「すみません・・・少しの間、少しの間だけで良いですから、時間を下さい。」
俺は、龍山の顔を今一度しっかりと見据えた。なおざりにはできない何かがそこにあった。
「・・・その場所まで、どのくらいかかるんだ?」
「片道十分・・・いえ、走れば五分で行けます。」
「本当に、その場所にあるんだろうな?」
「・・・確証は」
「確証が無いなら足も時間も無駄になる。それなら任務を済ませてからにしろ。誰かの手に渡っても、俺たちが先に神宮の入口を封印してしまえば済む話だからな。」
「あります!」
龍山は大きな声で言った。
「その場所に、あります。ノートは。確実に。」
俺をはじめ、使徒の全員が龍山の並々ならぬ覇気に気圧されてしまった。
「分かった・・・なら、十分以内に戻ってこい。必ずだぞ。」
俺の言葉を聞いたとたん、龍山の表情が晴れやかになった。
「ありがとうございます。」
「おい、ちょっと待て。」口を挟んだのはヒョンウンだった。「お前一人だと何か心配だ。俺も一緒に行く。良いだろう、ウェンミン?」
「あ・・・ああ。任せた。」
「よし、じゃあ行ってくる。龍山、出口はどっちだ?北出口か?」
「いえ・・・」龍山はそれで少し俺の方を見た。俺は首をかしげた。龍山は俺の後方に駅周辺地図を見つけた。それを暫し、確かめるように凝視する。
「南出口です。」龍山は言った。それで、龍山は俺たちに礼をして、ヒョンウンとともに足早に去っていった。
「列車はいつ出発するんでしたっけ?」朱音が俺に尋ねた。俺は天井から吊り下げられた時計を見上げて。「あと三十分後だ。十分前に列車が到着して、十五分前から乗車が始まる。列車が入構したら、後は列車の中で待機していてくれ。俺は、西安の近くまで行ったら、別の運転士に交代してもらうつもりだ。」
「分かりました。」レ・ヴァン・ランが答えた。
やがて列車は遅れて、十五分後に、後ろ向きになってホームに到着した。俺は仲間の運転士とともに、機関車に乗り込んだ。時たま、飛行機のエンジン音が天井の窓ガラスを叩いていた。長蛇の列の中に、レ・ヴァン・ランと朱音の姿を見つけた。だが、二人の様子からして、龍山とヒョンウンはまだ帰ってきていないようだった。
出発が五分前まで迫った。三等車の前には、まだ大荷物を抱えた乗客たちが並んでいる。一時的な旅行目的ではないのは明らかだった。このまま待たしていては、かえって超満員の車内で混乱が起きることも考えられた。だが、俺は、仲間の運転士と車掌を呼んで、後十分列車の出発を遅らせることができないか、交渉をした。一等車の前のホームには、人の姿は無かった。
ついに出発の時間になった。俺はまだ汽笛を鳴らさないで、ホームに立ち、何ども腕を組み直しながら、南出口の改札を睨んでいた。やがて、乗り込んでいた客たちから、出発を促す苦情が聞こえ始める。もはや三等車は飽和状態で、乗り切れない乗客たちは二等車の通路に身体を押し込み始めていた。
ふと、誰かの足音が耳に届いた。俺は直ぐにその方向を振り向いた。
「どうしたんだい、ウェンミン。」
「・・・社長。」
「列車の出発を君が遅らせていると、部下が話していたんだがね。」
俺は、どう取り繕おうかと迷いながら、言葉を紡いだ。
「すみません。一等車に乗るべき客がまだ到着していないようで、暫く待つことにしておりました。」
「しかし、この列車が出ないと、次に駅に入構する列車が新公園駅を出発出来ないでいる。あちらの駅も、租界へ逃れようとする難民たちで溢れかえり、もう対応しきれないところまで来ているそうだ。」
「存じております。存じておりますが・・・」
「君の待っているのは、使徒の誰かなのかい?」
意外な言葉が社長の口から飛び出した。
「・・・はい?」
「そんな顔をすることもないだろう。私は君の前任者なのだから。このことを知っていても当然だ。」
「・・・ですが、社長・・・」
「あのノートを拾ったのは、私だ。」
社長の言葉に、俺は返す言葉を失った。
「ノートを拾ったのは私だ。君の仲間の書いた、文法書を私は拾った。」
「どうして・・・」俺は言葉を探しながら尋ねた。「どうして、そのことを、社長は・・・」
「何度も言う必要はないだろう。君の顔にそう書いてある。」社長はそう言って、血の気の失せた俺を見て微笑んだ。
「一つ、君には嘘をついた。」社長は言った。
「使徒のことだ。使徒は、任務が終わると、任務に関わる一切のことを忘れてしまう。そうと私は言った。」
「はい。」
「だがそれは、正確には、任務の終了した際に、四人を率いる玉璽の持ち主が、全員の持つ記憶を抜き取って初めて成り立つことなのだよ。・・・言っていることが分かるかい?」
「・・・あの。」
「私は玉璽の持ち主として、全員分の記憶を抜く義務があった。だが、自分の記憶は抜かなかったのだ。ある目標があったからね。」
社長は鋭くなった俺の視線を交わすように、間を置かずに続けた。
「もちろん、悪意を持った目的ではない。神宮を守るにはどうすれば良いか。それを考えてのことだ。」
「どういうことですか。」
「私は昔、外国の親しい友人たちとともに、いつか世界に跨る大鉄道を作り上げることを誓い合った。その鉄道は平和のために利用されるもので、その鉄道の敷地は国家であっても立ち入ることができない。そんな中使徒の任務を引き受けることになり、私は、今自分の持っている鉄道を、神宮の隠れ家にしようと思ったのだ。」
俺は黙って、社長が続けるのを聴いていた。
「君も知ってのとおり、私たちのこの鉄道は、まだ延伸計画中の路線がたくさんある。その中に、実は神宮のある場所のそばを通る路線も含まれている。それを、私は故意に、計画中のままにして、線路を敷設することは棚上げにした。計画用地は砂利が敷かれたまま、今まで放置されている。しかし、そこに神宮があるということ、そのために私が線路の敷設をしていないということは、私が使徒としての記憶を失ってしまうと、それと同時に消えてしまう。それは避けたかった。私は今更神宮の場所を公開しようとするつもりは毛頭ない。むしろ、自分の手元に置くことで、神宮を守りたかった。国が立ち入る前に私有地にしてしまいたかった。将来的には、国からの干渉を一切避ける、国際的な機関の管理下に置かれるようなものが良い。敷設不可にもっともらしい理由をつけて、自分以外に真意を知る人がいないように。」
「だから・・・葦原の文法書を拾ったんですか?」
「あれは本当に偶然だった。」社長は言った。「何の意味も分からずに車に載せて走っている車夫を、たまたま私が見つけてね。車夫は仕事が終わってから捨てるつもりだったらしい。それはそれでも良かったのだが、見つけたからには、誰かの手に渡ることなく、自分の手で処分したかった。だが、惜しくてね。彼の汗の滲んだあの小冊子が。」
「それで、今、そのノートは、社長の手元にあるんですか?」
「そうだ。」
社長は頷き、自分の抱えた旅行カバンの留め具を外した。中から出てきたのは、俺がよく龍山の机の上で見かけた、色のあせた大学ノートだった。
「もう一つ、君の仲間の書いた論文も頂いたよ。」社長の手には、龍山が外山書店に置いていた小冊子があった。
「これを、その仲間に返して欲しい。処分は彼に任せたい。」
社長の手を離れて、俺の掌に載せられた二冊の薄いノートと本は、重かった。
「・・・ありがとうございます。」俺はうつむいて礼を言った。
「すまない。私がもっと早く気づいていれば、すぐに渡したのだが。」
「とんでもありません。」言葉と裏腹に、味気ない声で俺は言った。「それより、葦原を直ぐに読み戻さなければなりません。あいつ、社長が持っていらしたなんて、想像だにしていないでしょうから。」
「それはどうだろうね。」社長は言った。「不思議なことに、価値あるものは、価値の分かる者のところに舞い降りてくるものなのだ。仮に、この冊子の持つ価値が私たち以外の存在の他に知られていないとするならば、彼は私のことを思い出したかもしれない。」
「おい、尚、レ・ヴァン・ラン!」
俺はわき目もふらずにホームを走った。二人の名前を叫びながら、俺は二人の乗っている車両の窓を叩いた。朱音が顔を出した。
「今すぐに葦原とヒョンウンを呼び戻してくれ。小冊子が見つかった。」
「本当ですか?」朱音は驚いた顔をして。
「二人のいる場所は、この鉄道の本社の社長室だ。ここから北西の、新世界にある。いそいでくれ。」
「了解しました。私たちもすぐに戻ります。」レ・ヴァン・ランはそう言って、朱音を誘導して車両から降りた。
朱音とレ・ヴァン・ランの姿が小さくなっていく。それとともに、胸騒ぎが徐々に鳴りを潜めていくのを俺は感じた。
俺は後ろを振り返った。社長は既にその場を去っていた。社長のいた場所には、柱が影を落としていた。俺は目を凝らしてその影を見た。影は次第に太さを増して行き、どこからともなく高い音が聞こえてきた。構内が急に慌ただしくなってきた。誰かが駅舎の天井を指さした。次々に、構内の人々が表情を強ばらせて、太陽を見上げていた。根が生えたように、誰も動けなかった。俺は顔を上げた。
時間は走るのをやめた。
俺たちは、運命の作り上げた陥穽の中に、否応なしに吸い寄せられていく。
そして、空が、弾けた。
俺の身体は体重を失って、軽やかに跳ね上がった。
手に焼きつくような痛みを感じた。
熱した鉄の臭いの中に、命の終わりを告げる多くの叫びを聞いた。
脚は飛び散ってしまったかもしれない。むせるような鉄の匂い。身体から流れ出る水滴の重み。それが深紅なのか、鮮やかな赤味を帯びているのか、それともどす黒く濁った色をしているのか、俺にはもはや目で確認することができなかった。判断する意識が吹き飛ばされたのかもしれない。それ以前に、目が俺にはもうついていなかったのかもしれない。
いや。
井戸の底から曙光を仰ぐように、無に帰した黒い世界の上に、小さな光を見つけた。脚を動かしたわけでもないのに、俺の身体は徐々にその光へ近づき、白光も俺を飲み込もうと勢いよく膨らんでいく。俺は手を伸ばしたが、伸ばした手は俺には見えなかった。詩集の漂う熱風が心地よい南風に押し流されると、俺は暗黒の地から白の世界へ踏み出していた。
踏み出していた。そう。俺の腰には、再び両の脚がついていた。自分を見下ろすと、差し出した手には傷一つ無かった。焼け焦げたはずのシャツは新調のブレザーとなり、胸を走った鮮血は黄金の箒星に姿を変えていた。
・・、・・・。
・・、・・・。
・・、・・・。
白い世界に現れたのは、一人の人間の足音だった。
その人が一歩踏み出すたびに、新たに別の人の足音が耳に伝わり、それが素早く連鎖して、いつの間にか俺は目に見えない数多くの人の雑踏に囲まれていた。突然、白の世界が消え、豊かな色に満ちた空間が出現する。そこは駅だった。
通勤客、旅行客、乗務員、従業員。無数の人が、俺の前後を行き来する。俺に向かって前進してくる人は、俺の身体をすり抜けて通り過ぎていく。俺は上を見上げた。視界に広がったのは、青空ではなく、鉄筋コンクリートの重たく沈んだ灰色の天井だった。
俺の耳を、無心な子供の声が駆け抜けた。
「チャン、ほら、ねえ見て、チャン!」
ちょうど到着した列車から降りてきた乗務員のもとに、小さな少年が駆け寄っていく。俺から離れたところにいる乗務員は、表情は見えないが、面倒くさそうな口調で少年に言った。
「危ないだろ、一郎。目が見えないのにそんなに走りまわると。」
「大丈夫だよ、チャン。」少年は元気に言った。「それよりこの眼鏡、見てみてよ!」
「それはサングラスだ。眼鏡じゃない。」男は興味なさげに低い声で言った。
「この眼鏡のおかげで、僕、チャンの顔が見えるようになったんだよ。本当だよ?」
男は立ち止まり、後ろをついてくる少年の方にかがんで、首を傾げ。
「・・・空しい冗談はよせ。それか本当に俺の顔が分かるのか?」
「うん、分かるよ。髪の毛がツンツン短くて、顎にチクチク髭を生やしていて、ギロッとした目をしてる。それがチャンなんでしょう?」
男は目を丸くした。それでも平静をよそおって立ち上がり、
「・・・もう少しましな描写はできないのか、お前は。」
「僕、チャンの顔も見えるよ。それに、チャンの心も。だってチャンの顔にみんな浮かんでるんだもん。」
「気味の悪いことは言うな。」短く男は言い、もう一度少年の顔のサングラスを覗き込んだ。「・・・にしても、何の変哲もないグラサンだな。どこで拾ったんだ、こんな妙な物。」
乗務員の言葉に、少年は後ろを振り返り、指を差した。
「あっちだよ。」少年はそう言い、俺の方を指さした。「あの人に、もらったの。」
顔を上げた乗務員と、俺は目があった。
まるで鏡を通したように、チャンが、チャンをを見ていた。
乗務員は目を凝らし、胡散臭そうな表情で、俺の方を睨んでいた。
「・・・全く、下らない冗談はやめにしろ。」
乗務員のチャンは眉をひそめ、腑に落ちない顔をして少年に言った。
「・・・誰もいないじゃないか、お前。」
―――・・・
静かに響く、警笛の音。
木目の美しい車掌室の壁。
チャンは俺と目が合うと、目尻に皺を寄せ、黙って俺の額から玉璽を離した。立ち上がるとき、チャンはそっと俺の頭の上に節くれだった手を置いた。
「・・・見えたか?」
空気の中に沈みこむようなチャンの声に、俺は何も反応できないでいた。
チャンは、俺と同じように床に座り込んでいたムヨンやヴァンランに向かって言った。
「これが、俺の記憶だ。俺が七十年間、時間の狭間に置き忘れてきた、生温かい記憶。任務を遂行できず、死ぬことができなかった俺は、自分の過去も名前すらも忘れてしまっていたが、この玉璽はしっかり覚えていてくれた。
「チャン!」
俺の口に言葉が戻ってきた。俺は急いでチャンを呼び止めた。けれども、チャンは振り返らない。
「俺、まだよく分からないんだけどさ・・・別にお前、このままいてもいいんじゃないのか?」
「それは無理だ、龍也。」振り返って、チャンは笑った。その目には名残惜しさが浮かんでいた。
「俺は七十年前に死んだ人間だ。使徒は任務を遂行する間は、死ぬはずのことにであっても生き続けるが、任務を終えれば死ななければいけない。それがあるべき歴史を作るためには必要なんだ。自然の摂理なんだよ、龍也。」
「でも――でもよ、でもよ!」自分でも分からないくらい、俺は慌てていた。
「おかしくないか?ワンさんのことはどうするんだ?イチローのことも。チャンのことを知っている人間は一杯いるだろう?お前に世話になった人間はもっとたくさんいる。皆、お前がこの時代をちゃんと生きていることを分かっている。なのに、いきなり消えるって、それ、ちょっと勝手すぎないか?」
「人々の俺に対する記憶は、俺の消失とともに失われる。だから心配ない。」チャンは俺の顔を優しく眺めて言った。
「イチローは一人でやっていける。あいつは元々一人だったからな。華華のことは、使徒として、お前に頼んだよ。お前を見込んでの、俺の頼みだ。」
そう言い、横にいるワンさんの頬にチャンは手を回した。
「お前に会えるのも、もうこれで終わりだな、華華。俺がまた使徒に選ばれでもしたら、もう少しお前と一緒にいられるけど・・・それはあり得ないからな。」チャンは肩をすくまて笑うと、ひざまずいたまま、ワンさんの長い黒髪に手櫛を入れて。
ワンさんは悩まし気な眉にしわを寄せて、暫くチャンの手櫛に身をまかせていたが、急にチャンの首に両手を回し、強くチャンを抱き寄せた。チャンは目を閉じ微笑んで、いとおしむようにワンさんの背中に手を当てた。
「さて――」チャンは立ち上がり。「華華に印綬を託し終えたし、俺の存在理由ももうない。そろそろお暇を頂かないと、時間の都合で色々と面倒くさいだろうからな。」
チャンはヴァンランを認めると、右手を差出し。
「白の陰綬の持ち主――グエン・ヴァン・ランと言ったな。華華も龍也もまだ使徒の役目をしっかり自覚しているわけではない。手助けをしていただけれるとありがたい。」
「分かりました。」ヴァンランは頼もしく微笑み、チャンの握手を右手で受けた。
「それから、黒の陽綬の使徒の君も。」
「・・・はい。」ムヨンも右手を差し出した。
「それから・・・青の陰綬の、龍也。」
俺はそれ以上チャンを正視できなかった。晴れやかすぎるチャンの顔は、死期を悟った人間が最期に見せる、あらゆるものから解き放たれた、優しく穏やかなあの表情と何も変わらなかったからだ。
「お前には礼を言いたい。ありがとう、龍也。」チャンの声が耳に響いた。俺は顔を上げなかった。「葦原の奴は本当に良い曾孫を持ったよ。後であいつに自慢してやっとくよ、俺はお前と違って龍也とこの世で過ごせたんだぞ、ってな。」
チャンはそう言い、笑うようにため息を漏らした。
俺は我慢できずに顔を上げた。
「チャン・・・」
裏返る俺の声に、チャンは一瞬、いつも通りの無愛想な顔で俺を睨んでみせたると、すぐに元の優しい顔に戻った。チャンは俺の肩を父親のように優しく叩くと、口と声を一致させて、一つ一つの母音に思いを込めるように、かみしめて俺に言い残した。
「さようなら。」
俺が最初で最後に聞いた、チャンの日本語だった―――
手に滴り落ちる雫に気づき、俺は顔を上げた。
俺は薄暗い部屋の床に座っていた。
隣には武勇がハンチングを持って腰を下ろし、その横では文郎が腕組みして立っている。そして、窓際の椅子には、華華が髪に手櫛を入れて、佇んでいた。
何なのだろう。
おかしなところは一つもないはずなのに。
心のどこかに、視界の片隅に、俺は空白があるのを感じていた。
「――え?」
隣を向くと、武勇も俺の方を向いていた。
「え、って、何だよ。」
「今何か言わなかったか、龍也?」
「いや、別に。」
「そうか・・・?」武勇は不満そうに天井を睨みつけて。「何か言われた気がするんだよな・・。お前じゃないとしても、他の誰かに。ていうか、何でお前、泣いてんだ?」
「俺が?」急いで俺は目に手を当てた。手の甲が冷たく湿る。何でだろう。
「俺じゃなけりゃ、多分、ワ・・・」
「華華です。」
俺の言葉を絹糸のように柔らかな口調で包み込み、華華は微笑んで見せた。その笑顔のためなのか、俺は紡ぐはずだった言葉を忘れてしまった。
「・・・ここって、どこ?」
「列車・・・の中だろ?」
「そりゃ分かるけどさ。」俺は立ち上がって部屋の扉を開いた。『列车员室』と書かれた札が俺を見下ろしていた。
「八月十三日、午後四時四十五分・・・と。」
部屋の方を振り返ると、壁にもたれた文郎が携帯電話とスケジュール帳を見比べながら何かを呟いていた。
「・・・おかしいな。今日の昼の間の記録が一つもない。・・記憶の中に入っている間も、現実世界での時間は進行するということなのかな。つまり、過去にさかのぼったその時点ぴったりに、戻ってくることは難しい、というわけか・・」
「・・・何の話ですか?」
「うん?ううん、気にしないで。独り言。」文郎は笑って言った。「とにかく、僕の役目は果たせたみたいで良かったよ。」
「役目?」武勇が眉をひそめた。
「印綬の記憶を辿れば、過去と現在を自由に行き来できることは知っているだろう?印綬のこの特性を使って、僕は来年の冬から今年の夏へ遡ってきたんだ。過去をあるべき姿に直すためにね。」
「・・・どういうことだ、それ?」俺も武勇に並んで怪訝な顔をしてみせた。
文郎は静かに俺の方を見た。開け放たれた窓からそよぐ快い風が、文郎の茶髪を揺らしていた。
「一度目の今年の夏、タツナリ君は世界鉄道で出会うべきある人物とすれ違ってしまった。
その人物は現代をさまよう前回の使徒の一員で、その人が自分の過去を取り戻さない限り、華華さんは玉璽を継承することができなかった。今回の使徒の任務は前回以上の致命的な失敗を犯す寸前だった。だから君にもう一度今年の夏を過ごしてもらうことに決めたんだよ。そして僕は君の誘導役としてこの季節に戻ってきたんだ。」
「過去に戻った・・ってことか?」
そんなことありえるか、と言おうとした俺の持つリュックには、厚地の脳裏に、黒煙を上げる上海駅とその前でむせび泣く男の映像が蘇った。確かにあの時、俺と武勇は印綬の力で過去に飛ばされた。隣の武勇を見ると、武勇は黙って俺に頷いた。
「致命的失敗って・・・何があったんだ、一体?」
「君にとっては想像に難くないはずだよ、武勇君。」
文郎の言葉に、はっとした顔で武勇は文郎を見た。
「ってことは・・印綬が、このまま、俺たちに戻らず―――?」
「とにかく僕らは一刻も早く未来に戻らなければならない。」文郎は俺たち三人に向かって言った。「事態が動くのは来年の冬からなんだ。それまでの時間を漫然と過ごすのは無駄としか言えない。だから、僕の印綬の記憶を使って、皆一緒に来年の冬に戻ってほしい。」
文郎の言葉に、華華と武勇は黙って従い、文郎のもとに集まった。文郎が胸ポケットから出した白色の印綬は、傾き始めた夏の太陽を浴び、金色に輝く。なぜか俺には、その輝きが、美しいというよりも悲愴に感じられた。
「タツナリ君も、こっちへ。」
文郎の催促に、俺は何故か足を踏み出せないでいた。
「――どうしたの?」
「タイガーさん。」
「うん。」
「もうこの季節に、置き忘れているものは、何もないんですよね?」
「そうだね。もう、やるべきことは全て済ませたよ。」
「本当に、誰も、忘れてしまった人はいないんですよね?」
言いながら、愚問であることは自分でも意識していた。忘れ物は何もないと分かっているのに、あえて玄関先で何度もカバンの中をかき回すように、俺はきちんと片づけられた自分の記憶を再び散らかし始めていた。何も忘れていないのに、何かを忘れている。気がする。
俺の不安さを察してか、文郎は落ち着いた表情で言った。
「君は誰も忘れてなんかいないよ。ただ、思い出せないでいるだけなんだ。しかるべき時が来れば、君は思い出すから。今は君の頭の中から離してあげておいたらいい。」
文郎は静かに瞳を閉じ、自分の額に印綬を押し付けた。そして、印の面を俺たちの方向に向けると、目を閉じたまま続けた。
「いいかな。今から五つ数えるから、みんなも僕と同じように目を閉じて、印綬に心を集中させるんだ。他には何も考えなくていいから。いいね?」
俺たちは瞼を下ろした。不思議と、視界をふさいだのに、目の前に印綬の存在がはっきりと感じられた。
「五・・・」
文郎が秒読みに入る。
「四・・・」
開け放たれた窓から、列車の警笛が軽やかに入ってきた。レールの継ぎ目と車輪の織り成すビートが、徐々に俺の耳元から離れていく。緩やかな速度で俺たちは無音の世界へ回帰していく。文郎の声以外には、無音の世界に。
「三・・・二・・・一・・・」