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第五章 回帰 その6

回想シーンとなった第五章も次回で終了です。この小説は第七章で終了しますので、あと二章お付き合いいただけますと幸いです。

                      四


 昼下がり、仕事を終え、新公園駅で降りた俺を待っていたのは、難民の大群だった。郊外に住む人々が、大なり小なり荷物を抱えて、北四川路を埋め尽くしていた。行き先は租界か、そうでなければ俺たちの鉄道の駅舎だった。既に駅には大勢の人々が座り込んでおり、同僚の改札係は頭を抱えていた。


「戦闘が始まるらしい。今夜。」


 店頭で人波を眺めていた店長が、俺の姿を認めるとそう言った。


「戦闘って、誰がですか?」


「中国と日本だよ。」店長は肩をすくめてきびすを返した。「今晩にも南京から飛行機で上海へ爆撃しにくるらしい。それでこの有様だ。」


 俺は通りの方を眺め、店長の視線の向いていた方へ顔を向けた。幼子をつれた母の、小さな後ろ姿があった。細い手にはやかんが握られていた。俺は店頭に置いてある薬茶の甕に柄杓を差し込む。


 店長は店の中に入りながら、俺に尋ねた。


「夏君。君も逃げなくていいのかい。」


「どうして俺が逃げるんですか?」


「良君がいるじゃないか。それに、」店長は言った。「エキステンションは、君にはいたたまれないだろう。」


 人好きのする店長が、俺の顔に何を見ているのか、俺は分かっていた。また、戦争が始まるのだ。暑い陽光を浴びる俺の背中が、寒さで震えた。


「ローペイは」俺は大きな声で言った。「ローペイはどうされるんですか?」


「私かい?この店で家内と一緒に踏ん張る心づもりだよ。この前の事変のときもそうしたからね。」


 店長の声だけが、店の奥から届いてくる。俺は黙って、もう一度通りを見た。目と鼻の先にある日本軍の陸戦隊の歩哨の目付きは、おびただしい数の難民を前にしても、いつもと変わらない。向かいのアパートの俺の部屋では、カーテンが開け放たれた窓の外で揺れていた。龍山が帰っているようだ。俺は人知れず、ズボンのポケットから玉璽を取り出した。二、三度、硬度を確かめるように指で擦る。心は決まった。


「あっ!それって――」


 出し抜けに耳元で誰かに囁かれ、思わず持っていた玉璽が手から滑り落ちた。


「・・・っ!」


 急いでしゃがみ込む俺より先に手を出したのは、透き通った声の持ち主だった。


「うわあ、やっぱり同じでしたね。私も持っていますよ。」黒髪を頭の後ろで結んだ女性は微笑んで玉璽を指の間に挟み、俺に振って見せた。


「ほら。」女性の顔に笑みが咲き乱れる。開いた女性の右手には、驚くべきことに、左手に握られた俺の玉璽とよく似た型の朱色の印綬があった。


 俺は我に返るや、女性の左手から乱暴に玉璽をもぎ取った。


「ちょっと、雑に扱っちゃだめですよ!」


「そう言うお前は…」


「まさか私が悪いって言いたいんですか?驚いたのは私の方ですよ。だってあなた、人波がの中で白昼堂々と、それ、出しちゃうんですもの。」


「ああ、もうだから…」 


 陸戦隊に見られていないか、俺ははらはらしながら、急いで女性の両手を掴んで下に下ろさせた。


「…それで、お前は誰なんだ?」


「何だか不躾ですね。まあ、良いです、慣れていますから、私。」

 女性は円な瞳を丸くして、俺の両手の間からこっそり自分の手を抜き出してから、笑顔を見せて言った。


「尚朱音です。あなたが、玉璽の持ち主の方なんですね?」


 気さくな女性の言葉に、俺は間髪与えずに聞き返した。


「ショウ?」


「私、あなたが初めて会う『使徒』なんです。上海に来るのが遅くなってすみません。沖縄の両親をなかなか説得しきれなかったんですよ。」


 女性の言葉は、上の空で聴く話のように、俺の耳には届かなかった。俺はただ一点、向かいのアパートの自室を見つめていた。目の前で尚と名乗る女性が俺の名前を尋ねているようだった。俺はわき目もふらず、波の中へ飛び込んでいった。


「あの…ちょっと?」


 女性を対岸に残し、難民の激流を辛くも横断した俺は、その足でアパートの階段を駆け上がっていった。


「葦原!」


 返事をしたのは、むせかえる熱気を連れた風だった。机に寄り添ったむしろの凹みが、主がまだ遠くへ行っていないことを伝えていた。


 俺は机の前でひざまずき、机上にあるものに目が止まった。俺が描いた若ツバメの絵と、上海の市街図だった。俺は暫くツバメの絵を眺めていた。すると、ツバメの嘴の先、市街図の中に、丸印が一つあるのが分かった。


 突然、階段を駆け上がってくる音がする。俺はすぐに振り向いた。


「…びっくりした。どうしたんですか、そんな表情で。」


 顔を出したのは、さっきの女性だった。俺は顔をしかめて。


「勝手に部屋にまで上がり込まないでくれないか?」


「すみません。」女性はすぐに扉まで引き下がって。「…でも、私でよければ手伝いますが?」


 俺は黙った。黙って、机の上にある地図とツバメの絵を手にとり、しげしげと見比べた。 


「お前は…本当に俺たちの『仲間』なんですか?」


「もちろん。その証拠を見せたじゃないですか。疑いの余地はないと思いますが…。」


「お前と同じ苗字を名乗る人物に、俺は既に出会っているんだ。」


 朱音は訝しげな表情で俺を見た。


「邪魔をしないならついてきましょうか?その男のいるところに。…その方は、どちらにいらっしゃるんですか?」


「よく分からない。」俺は短く言い、朱音の目の前に地図を差し出して言った。「よく分からないが、見当らしいものはついている。ついて来るか?」


朱音はぼんやりと俺を見つめていた。朱音が答えるより先に、それは階段を駆け下りた。


走りに走る俺たちの影は長さを増し,目的地に着いたときには,辺りは夕闇に包まれていた。手に握っていた地図は,汗を吸って柔らかくなり,赤いペンの丸が滲んでいた。

 

「ここ・・・」息を切らしながら朱音は後ろを振り返った。


「この近くに,お前と同じ苗字の男が来ているはずだ。」俺は地図を広げた。「青の印綬の持ち主と一緒にな。」


 朱音は俺に近寄り,横から地図を覗き見た。徐ろに顔を上げた朱音は,小さく声を漏らした。俺も同様に前方を見た。


 復旦大学の一角で,俺たちは,龍山と忠義を見つけた。


 二人は植え込みの前で何か話をしているようだった。龍山がベンチに腰掛けた忠義に何かを話しかけ,忠義はいつものように,物静かにそれを聴いていた。


「お前は…」俺は二人に近づいて言った。「何者なんだ?」


「夏さん?」龍山は目を丸くした。


「どうしたんですか,いきなり…」俺たちの存在に気付いて立ち上がった忠義に,しらを切っている様子は全く見えなかった。


 俺は二人の前で,隣の朱音の肩を叩いて言った。


「尚朱音という奴だ。沖縄から来た。俺たちの仲間だと言っている。」


 ネオンも遠く,辺りは暗かったが,少しばかり忠義の表情が固くなるのが見て取れた。


「本来なら,お前が偽物だと直ぐに決めつけられるはずだ。だが,お前は俺たちの誰とも話が通じる。つまり,使徒にしか分からない神代の言葉を知っているということだ。」早口で俺は言った。


「・・・それで訊きたい。お前は誰だ?」


 忠義と俺たちとの間に、張り詰めた沈黙が流れた。


「ご推察の通り、使徒ではないのは確かです。」潔く忠義は答えた。「今まで皆様を騙していたのを,どうぞお許しください。」


「なら,誰なんだ?」


「語学官です。」と忠義は言った。「今は,陸軍士官学校で語学の指導をしております。」


「語学官…?」俺は眉をひそめた。「なら,神代の言葉はどこで…」


「学びました。」忠義は即答した。「私の仕事は,神代の言葉の教育ですので。」


「神代の言葉の,教育者…?」


 俺は忠義の言葉をにわかには信じられなかった。忠義はあざ笑うわけでも怯えるわけでもなく,ただ穏やかな表情でそこに立っていた。


「その言葉を,どうやって学んだんだ?まさか,お前が先代の――」


「いいえ。上司から冊子を頂いたんです。」忠義は言った。「それは,殷墟で発見された,ある年代の古い甲骨文字の写真と,その解読法について書かれた,メモ書きのようなものでした。」


 忠義の口調には,人を欺く気配が全く無かった。思わず俺は,隣にいた龍山の顔を見た。龍山は強ばった表情のまま,黙々と忠義の言葉に耳を傾けていた。


「冊子の作成者の努力も常人の域を越えたものでしたが,それを見て学ぶ私たちに求められた覚悟も相当なものでした。」忠義は言った。


「その言葉は,漢字に似た文字を使っていましたが,文法は全く異なっていました。古代中国語だと予想した学者たちが解読できなかった理由もここにありました。それぞれの字に当てられた発音も研究途上のもので不正確でした。それでも,私たちはその言葉を学ぶように迫られた。大きな使命を負った身でしたから。」


 まるで思い出を懐かしむように語るがごとく,忠義は瞳を閉じ,ゆっくりと話を続けた。


「ただ,あるとき気づいたのです。この言葉には,発音などは重要ではない,ということを。」


 忠義は続けた。


「必要なのは意味だけ。意味さえある定められた秩序に従って並べれば,現代人でも,当時の音が分からなくとも,自分の母語の語句をもってして全く異なる言葉の話し手とも意思を交わすことができる。しかも不思議なことに,話者は母語に少し手を入れて話しているだけのつもりなのに,母語話者には全く理解されず,自分の触れたことのない言葉を母語として持つ人間同士であっても,その定められた秩序に意味を載せて話せば,互いに意思を通い合わせることができる。そのような非科学的な現象が,ある日私たちに訪れたのです。」


 忠義は言った。


「私たち語学官の話す神代の言語は、ですから、姿かたちは神代の言語とは全く異なります。その意味で、私たちは完全な神代の言語の話し手にはなれません。ですが、神代の言語の完璧な使い手にはなれる。その鍵となる定められた秩序を,貴方がた燕五使徒は『神の残り香』と呼んだ。人間の脳に生まれながらにして宿った,言葉を解する不文の文法。母語の文法へと分化する前の,精緻で完全なその文法を呼び覚ますことで,誰しも使徒の代役を果たすことができるのです。」


 忠義の言葉の一枚ひとひらが,力んだ俺の肩を緩めていく。忠義の瞳は,真理を掴んだ者の瞳の色をしていた。その瞳の裏に隠された,想像を絶する努力に思いが至ると,この男の中に底意を探すことに呵責を覚えるほどだった。


「驚きましたか。無理もないですよね。」忠義は優しく微笑んで言った。


「じゃあ,お前なのか,葦原のノートを盗んだのは…」


「私ではありません。今回のは,ですけれど。」忠義は答えた。「日本にいらっしゃるときに,葦原君の教授を通じて,我々の機関に,ノートの写しが届けられたのです。」


「なら…他の奴らの仕業だと?」


「おそらくは。」忠義は答えた。「あの冊子の有用性を知っているということは,おそらくは神宮にも印綬のこともある程度知識があるということ。つまり,この秘密を握っているのは,貴方がたと,我々の組織だけでは,もうないということですかね。」


 忠義は遠くに不穏に光るネオンを見つめて。


「考えてもみてください。この上海には、我々日本軍の他に、国民政府も、共産党も、朝鮮の亡命政府も、西洋の列強も顔を並べている。混沌としたこの大陸の縮図です。新たな秩序をもたらす指導者になろうと機会を窺っている者はごまんといるんです。」


「確かに…」龍山が不意に口を開いた。「確かに,印綬を受け継いだあと,自分の興味から,僕はあの文字を解読しました。神代の言語を話す人間には内省的にこの言葉を研究することはできませんが,文字を通して僕は神代の言語の神聖たる所以に気づくことができました。でも,神宮は別です。神宮は,僕たちしか入れない。」


「そうではないのではないでしょうか。」すぐに忠義が切り返した。「考えても見てください。どうしてあなた方五人しか任務を果たせないのか。神代の言葉です。神代に生きた人なら,庶民でも使っていた言葉です。発想はむしろ逆。神の方が,永遠不変の真理を連ねた神代の言葉を,たった五人の人間にしか継がせなかった。ですから,五人に託された印綬をひとところに集めて神代の言葉で封印を解くには,この五人しか適任者がいないようにさせただけなんです。」


「なら…印綬はどうなる?」俺は静かに尋ねた。


「三つの機能があるでしょう。」忠義は言った。「一つは神代の言葉の知識の全く無い所有者に,一定期間恍惚状態にさせ,その人物に宿る神の残り香を麻薬のように『覚醒』させること。二つ目は,使徒全員の目に見える結束の証。いま一つは,神宮に散りばめられた封印を解く機能。我々に必要なのは,三つ目の機能だけでした。これについては,皆様の印綬を暫し拝借して,型を取らせて頂きました。それに,あなた方しか入れないと葦原さんは言いましたが,現にあなたは,そうではないということを知って,ここに来ている。」


 忠義の透き通った瞳に,龍山は心を見透かされたように怖気づき,赤くなってうつむいた。


「…どういうことだ?」俺は尋ねた。


「あなた方燕五使徒は,先代からの指示に従い集合することはできますが,肝心の神宮の場所についての情報は引き継いでいない。実は,燕五使徒の間では,玉璽の持ち主にのみ,神宮の場所を伝える碑文が承継されてきたそうです。」


「どうしてそんなことをお前が…?」


「その碑文にそう書いてあるんです。」忠義はそう言い,龍山に視線を送った。


「ただ,その碑文は,アロー戦争時に破壊された円明園から持ち去られ,それから50年程たった後に,西洋人の古美術商の売り物にされているのが偶然見つかったのです。まあ,その間中国の権力者は変わらなかったので,碑文が無くても神宮の場所は見失わずに済んだわけですが。」


「それが…お前が上海に来た理由なのか…?」


「私だけではありません。葦原さんもこの地に来ました。」忠義は答えた。「京都帝国大学に残されていた碑文の写真は,碑文の一部しか映しておらず,情報も限られていた。ただ,その碑文が現在どこに保管されているのかは分かっていました。それが葦原さんの来た理由であり,貴方たちが魔都に集った理由なのです。」


 忠義の語りが続くうちに,徐々に俺の拳に力が蘇ってくる。


「無論,この広い大学で私一人が探しても見つかるはずがありません。そういうときは,大きな力に頼れば良い。一度目は,確信がなく手探りの状態でした。でも,二度目の今回は,目標をはっきりと見定めている。」


「こいつ――…」俺は忠義に飛びかかり,大きく振り上げた拳を忠義の左頬にねじ込んだ。忠義の身体が綿のように軽く浮き上がり,茂みを騒がせて落ちた。


「夏さん…!」龍山は色を失って俺の右腕を押さえつけた。伸ばそうとした左腕を力ずくで下ろしたのは,朱音だった。


「私に当たられても困ります。」忠義は身体を起こして。「私はただ,上の命令に従っただけです。」


 忠義は唇の切れ具合を指で確かめながら,なおも静かに言った。「あなたたちだって,先代の言葉に盲従しているだけではないですか。互いの間に違うことなどありはしない。なら,少しでも上手く立ち回れる方が,この場合正しいと言うべきではないでしょうか?」


「お前の…」俺は荒れる息を整えもせずに続けた。「お前の言う大きな使命ってのは,何なんだ?人の土地に土足で踏み入ることか?呵責を感じないのがそんなに楽しいのか?」


「そんな冷酷無残なものではないですよ,使命とは。」忠義は立ち上がり,手の甲で口元を拭いながら言った。「我々の求めているのは,我々の時代の平和です。混沌のはびこるこの大地を,血ではなく平穏と秩序で潤すのが目的です。そして,それを遂行するに足る自覚と責任を持った民族は,目下このアジアには,日本人しかいない。それは瞭然たる事実であり,我々の明白なる運命です。」


 俺の拳に,もう一度力を入れることはできなかった。忠義の言葉は,忠義の心に源を発するものではないのだ。そう信じたい気持ちが,俺の激高に水を差した。


「夏さん。あなたは賢明な中国人だ。」忠義は静かに言った。「なら,あなたの拳がいくら唸っても,機関の堅い壁を突き破ることはできない。使徒の五人が集まっても難しい。それを説明するには及ばないでしょう。」


「…俺は,牛の尻について回る奴には成り下がらねえ。」


「なるほど,あなたはニワトリの方ですか。」忠義は爽やかに笑った。「その意気込みには頭が下がります。現実を考慮しなければ,という留保つきですがね。」


 忠義は龍山を見て言った。


「あなたの天賦の語学の才は,世界八方の民を,繁栄という一つ屋根のもとに導くことができる。後世の歴史家は,あなたを必ずや偉人と記録することでしょう。」


 龍山は先ほど俺が手を挙げた時から泣き出しそうな面をしていた。しかし,その涙ぐんだ目は,意外にも忠義に微笑みかけていた。


「…だと良いですけれど。」龍山は言った。「僕,見てのとおり,そそっかしい人間ですから。」


 そう言って,龍山は,懐から巾着袋を取り出した。中身には,淡い月光を浴びて,紺碧に明るく輝いた。


「葦原…お前…」俺は自分の目を疑った。


「多分,印綬の役目は,嵌め込むだけではないと思うんです。ですから,良ければ,どうぞ。」


 この言動には,俺や朱音はもとより,忠義も驚いた様子だった。


「本当に,良いのですか…?」半信半疑なのが見て取れる。


「尚さんは,決して僕たちからノートも印綬も盗みませんでした。盗んだのは,型と技術だけ。何だか,とても『僕ら』らしいですけれど,これは文字通り,感謝の『印』です。」


 そう言い,龍山が印綬を忠義に差し出した。


「おい…待て…葦原っ!!」


 俺が叫んだとき。



 それはほんの一瞬のことだった。

 

 俺は呆気に取られて,龍山の背中をただ眺めていただけだった。


「何やったんだ,お前…?」


 龍山は一息ついて,虚空に向かって伸ばした右手を懐に戻した。手のひらでは青の印綬がきらめいていた。


「先代も,許してくれますかね。」龍山は呟いた。


「まさか…あいつの記憶を?」


「ざっと二十年ほど頂きました。」龍山は重さを確かめるように印綬をたなごころの上で転がした。転がしながら,表情がどんどん崩れていく。「…尋常小学校から,また,やり直しですね…。」


「葦原…」俺は気が抜けて,膝に両手をついた。安堵と少しばかり残った腹いせとで,俺は軽く龍山の頬を殴った。手の甲が湿る。龍山は泣いていた。


「…」


「夏さん…」龍山は言葉にならない声で呟いた。「…すみません。」


「お前の所為じゃない。」俺は言った。「言葉だって,人を傷つけるために使われるものと知って,天が俺たちにくれたわけじゃないだろう?」


「でも,まいた水は盆には戻せないですよ?」


「だから何だって言うんですか?」


 龍山と俺は思わず声の主へ顔を向けた。朱音が不機嫌そうに,先ほどまで忠義のいたあたりにしゃがみこんでいた。


「他の誰かよりも,先に神宮に行けば良い話じゃないですか。ね?」


 俺たちは朱音に駆けよった。地面に置かれていたのは,カーキの背嚢だった。その中に入っていたのは,丁寧に布で包まれた小さな鋳型と,几帳面に閉じられた書類だった。そこには,甲骨文字に似た神代の文字が所狭しと連なっていた。


「これは…」龍山のつぶやく声を背に受ける。俺の心に,澄んだ風が吹き込んできたように感じた。


「うかつ,というわけではないだろう。」俺は静かに言った。「忠義の奴,そつがないからな。」


「わざわざ,持ってきてくれたんですね。」朱音が答えた。「私たちのために。」


 龍山は潤んだ目で俺を見た。そして,小さく,しかししっかりと,頷いて見せた。



             

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