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第五章 回帰 その5

 新公園駅で俺たちは下車した。自分で列車の扉を開け、ホームに足を億斗、列車は静かに出発した。混雑する階段を降りて改札を抜けると、左手には公園が広がっていた。どことなく公園の広さに見覚えを感じる。ここが後の魯迅公園となるところのようだった。


 このとき、ふと俺――「葦原龍也」のとして俺――は、夏文命という男の身体に違和感を覚えた。先ほどまで夏の目を通して見ていたはずの夏の記憶の情景が、不思議なことに、現実となって俺の目に映っていたのだ。両手を見比べ、俺は思わず声を上げた。その手は龍也としての俺のものであり、俺の意志に従って動いたのだ。


「どうかしましたか?」


 俺の声に気づいて、龍山が振り返った。俺に取り繕う暇は無かった。


「――・・・夏さん?」」


 龍山はきょとんとして俺を見ていた。この空間には俺と龍山の二人が存在していた。俺は何と答えたら良いものかと考えあぐねた末、愚にもつかぬ返事をした。


「俺・・・誰か分かりますか?」


「何言っているんですか、夏さん。」龍山は笑った。どうやら龍山には俺の姿はまだ夏文命という男の姿として見えているようだった。だが、それに俺はそれに構わず、思い切って尋ねてみた。


「俺、あなたの曾孫で、葦原龍也って言います。諸般の都合で、夏文命という男の昔の記憶を追体験していて、今、この男の中にいます。信じてもらえないかもしれませんが・・・」


 俺は龍山の反応を確かめた。龍山のあどけない顔は先ほどから特に変わっていなかった。だが、疑っている様子は無かった。


「――信じる信じないは私が決めるものではなくて、むしろ信じないといけないようですね。」龍山は考えてから答えた。「夏さんは私に、そんな丁寧な言葉で話しませんから。」


「そうですか――」


 龍山の返事は意外だった。この状況に戸惑っているのは、むしろ俺の方だった。


「曾孫ですか。僕みたいな偏屈にも、嫁さんは来てくれるんですね。」


 龍山の人懐こい笑みを見て、俺は肩の強ばりがすっと消えたのを感じた。夏の記憶を通したとき以上に、龍山の邪気のない笑みは、心を和ませる力があった。


「あの――葦原さん。」そう龍山を呼ぶのは何だか変な気分だ。「葦原さんの将来のこと、俺が言うのは問題なのかもしれませんが・・・葦原さんは将来、学界で誰もが認める言語学の権威になり、文筆家としても社会からの広い支持を得る大学者となります。すごく完璧な人生だと、俺個人としては思います。」


 龍山は澄んだ目で、黙って俺の話を聴いていた。


「でも、取るに足らない俺には、あなたの築き上げた『葦原』の名前が、正直言って重すぎるんです。あなたに名前を取られたような気がして、ずっと、自由じゃなかったんです。」自分でも不思議なくらい、俺は次々に言葉を紡いでいた。「でも、有名人の子孫の悩みなんて、分かってくれる人は多くないですよね。・・・俺って、わがままなんですかね。」


 俺は数歩先にいる龍山を見ていった。写真でしか目にしたことのない曾祖父が、俺と大して年の変わらない姿で、俺の前に立っていた。


「なるほど。」今度は龍山の話す番だった。「今の私は一介の書生にすぎませんから、龍也さんの言う将来が事実だという前提で話すことはできません。」龍山は言った。


「でも、龍也さん、私と龍也さんは違う人間です。私と違って、龍也さんにしかないものもたくさんあるでしょう。むしろ、私よりもたくさん持っているはずです。だから、『葦原』は何種類あったって構わない。龍也さんが私の『葦原』に染まる必要なんか、全く無いんですよ。だって、単色の名前よりも、色彩豊かな名前の方が、味があると思いませんか?」龍山は再び、あどけない笑みを浮かべて答えた。「少なくとも、私はそう思います。」


 龍山の笑みはあまりに清らかだった。それを卑怯だとさえ俺は思った。この人は、生まれながら背負うものは何も無いからだ。だが、龍山の言葉は、俺の心の中に、小さな波紋を広げた。何かをかき乱すための波紋ではない。俺は龍山につられて笑みを浮かべた。そうやって顔を崩さないと、何かがこみ上げてきそうだったからだ。


「――俺も、そう思います。」


 俺は小さく答えた。龍山は徐に俺に近づいてきて、俺の肩に静かに手を当てた。


 再び、俺は夏の気配を感じた。俺の手が、再び夏の物へと変わりつつあった。


 もしかすると、夏は――チャンは、龍山と会わせるために、俺を記憶の中へ誘ったのかもしれない。


 目の前の情景が滲んでいく。そして、キャンパス一体が不透明なオレンジ色に染まると、静かにその場面から俺は消えていった。



                      三



龍山と出会ってから、一週間近くが経った。その間、龍山との出会いが全ての幕開けであったかのように、不思議にも俺たちは次々に「使徒」に出会っていったのだった。


 上海に寄る辺のない龍山のために、俺は書店の直ぐ向かいにある俺のアパートを紹介した。店長が昔親しくしていた小説家が使っていた部屋の隣に、俺と息子のリアンは住んでいる。窓を開ければ目と鼻の先に日本の陸戦隊本部があるのが気に入らなかったが、兵隊の姿を別にすればなかなか良い眺めと悪くない住み心地だった。俺が上海駅へ向けて自転車を漕ぎ出し、夕闇を手土産に持って帰ってくるまで、龍山は外山書店の椅子に座って、来るべきあと三人の「使徒」の行方をつきとめる方法を思案したり、良と一緒に粽を買いに北四川路を散策したり、文字通り天賦の才能を存分に駆使して、書店にある本という本を濫読したりして過ごしていた。そして、龍山がいつも座る壁際の椅子の後ろに、流れる筆致で描かれた水墨の燕の絵が掛けられていた。


 暑い日が続いた。新聞に踊る文字の流れは、激しくなりこそすれ、かつての穏やかさに戻る気配はないようだった。北四川路の人波も、永遠に途切れないように感じる。そんな中でも、「変化」は確実に俺たちのもとに歩み寄ってきていた。


 最初に書店に顔をのぞかせたのは、ヨ=ヒョンウンという男だった。ある日仕事から戻ってみると、何故か龍山がこの男に茶を出していた。眼鏡をかけて神経質そうな表情のこの男は、産声を上げたときには既に失われていた祖国の復活に人生を捧げ、フランス租界にある亡命政府に足しげく通っていた。外山書店を訪れたのは、最近の内地の動静にかかる書籍を探すためだった。その代わりに見つけたのは、壁にかかった燕の絵と、店頭で子どもと遊んでいた風変わりな日本人だった。龍山はヒョンウンの顔を見てすぐに悟ったのか、店の中に駆け込むと、ヒョンウンのために自著を取ってきて、彼の手のひらに載せた。その屈託のない笑顔に、ヒョンウンは拍子抜けてしまった。


 ヒョンウンは責任感と使命感が人一倍強く、その分文句も多かった。


「断じて言うが、俺はこの計画には不満がある。」


 それがヒョンウンの口癖だったが、具体的に何が不満なのかへの言及は避けていた。だが、言われなくても何となく見当はついた。ここは日本人街にある日本人の経営する店だし、すぐそこには日本軍も駐屯している。そんなことろで訳の分からない言葉をしゃべる男が三人、定期的に会合らしきものを開いているのだ。


 ヒョンウンは壁の絵を見て、あれ誰が描いたんだと口を尖らせた。俺が、俺だ、と答えると、何であんな目立つところに置くんだ、変に思う奴がいたらどうする、と続けた。葦原の提案だ、と付言すると、ヒョンウンは眉を潜めて暫く考えてから、不機嫌そうに咳払いをして、青錆の付き始めた自分の黒色の印綬を黙って磨いていた。龍山はヒョンウンの予想外の人間だったようで、口を聞かないことを決め込んでいたらしいヒョンウンも、龍山の全く世間慣れしない、人を信じやすい危なかっしさには我慢できず、面倒くさがりながらも龍山に二言三言注意するようになってきた。そうして気づけば、ヒョンウンは俺たちに心を開くようになっていった。


 ヒョンウンは、俺たちに、「任務」に対する所見を尋ねることはなかった。俺たちにも分からなかったからだ。幾千年と続いていると言われるこの「任務」に、よりによってどうして平凡な人間の俺たちが選ばれたのかも、この任務にどれほどの信憑性があるのかも。ただ、龍山のあっけらかんとした態度が、俺たちの救いになっていた。龍山のように今の状況を楽しむことは俺とヒョンウンにはできなかったが、少なくとも余計なことに頭を悩ます時間は格段に減っていった。


 もう一人は、尚忠義という沖縄人だった。ヒョンウンとは正反対に寡黙を貫き、残りの三人の会話を眺めているといった風だった。たまに口を開くと、忠義は上海語で俺に話しかけてきた。俺には全ての言葉は上海語にしか聞こえないし、ヒョンウンも龍山もそれぞれ自分の母語で聞く訳だから、忠義が神代の言葉で話しているのか、上海語か、それとも日本語なのかは実のところ分からなかった。それでも、俺には、忠義が俺に気を遣って俺の口に慣れ親しんだ言葉で話しかけてくれているような気がした。忠義は一番気のつく男で、黙って俺たちの身の回りの世話をしてくれた。悪い気はしなかった。


 一方で、毎日のように外山書店の一隅を借りて、四人の若者が謎の言語で話していると、当然のことながら噂は広がる。わざわざ俺たちを見物しに書店まで足を運ぶ客たちも来るようになってきた。そうなると、俺たちの「任務」上あまり芳しくない影響が出てくる。何となく俺たちの集まっている理由がただならぬことを察していた店長の勧めで、俺たちは店の奧、店長たちの住まいに場所を移すことにした。

 

 龍山が上海に着いて二週間が経ち、酷暑が猛威をふるい始めても、五人目の使徒にはまだ出会わなかった。俺たちの話し合いの方も、なかなか前に進まない。誰もが、早く動きたかったし、動くべきだとも考えていた。ただ、神宮の場所がどこかも分からなかったし、いつが好機なのかも分からなかった。俺たちはそれぞれの持つ「予感」により出会ったが、誰一人して任務の具体的な内容を携えて来たものはいなかった。そのうち、フランス租界に通いつめていたヒョンウンを筆頭に、俺たちは帰路の背後に不穏な気配を感じるようになってきた。


「またか。」

 

 共同租界を黄浦江沿いに歩いているとき、うんざりした表情でヒョンウンが声を漏らした。俺は後ろを振り返らないでヒョンウンに尋ねた。


「工部局の奴らか?」


「知るかよ。別に書店にたむろしたくらいで目をつけるなんてどこの暇人なんだか。」


「日本軍かも。」龍山が小さい声で付け加えた。


「ならどっちにしろ、フランス租界まで行ってしまえば問題解決だな。」


「駆け込み寺か。」俺は言った。「どのタイミングで行くか?」


「まあ・・・」ヒョンウンは面倒そうに言った。「俺たちが気づいているってことを気づかれると厄介だから、次の交差点でさりげなく別れよう。再会の場所は、エドワード路を越えた、上海駅ということで。」


「了解。」俺は頷いた。


 俺たちは交差点に来ると、互いに目配せをして分かれた。ヒョンウンと忠義は東、龍山と俺は西へ向かった。


 南京路は租界の路面電車の走る通りで、言わずと知れた繁華街だ。堂々と歩いた方がむしろ雑踏を成す一人の人間となる身を隠すことができる。そうタカをくくって、俺は龍山を連れて悠然と通りへ入った。


 追っ手を流し目で確認するまでは。


「車だ。」思わず俺は声を漏らした。驚いて、龍山も後ろを振り返った。俺たちを分散させるのを予め目論んでいたかのように、工部局の車が二台、後ろから走ってきた。


「おかしくないですか?」龍山は言った。「さっきは人が後をうけていたはずなのに。」


「仲間の奴らかもしれないな。」俺は舌打ちした。そうこうするうちに一台の車が河沿いの黄浦灘路を加速しながら走っていった。ヒョンウンと忠義が走って逃げていたとしたら、とても逃げ切れない。俺は緊張して南を眺めたが、続いてくるもう一台の姿を認めると、急いで南京路を西へ向かった。

 

 南京路は平常通り人と車がわずかな隙間を縫うように往来していた。この日はさらに荷物を抱えた中国人たちの姿も見える。風に乗って上海中を伝わった不吉な噂が、上海人たちを租界へとひきつけていたのだ。租界は安全だと言われていた。


 工部局の車は、南京路の入口で止まった。中から四、五人の人間が降りてくる。やはり租界警察だった。租界の行政や治安維持を統括している工部局の中で、警察の機能を担っている奴らだ。通りの空気が強ばるのに敢えて気がつかないかのように、工部局の人間たちは散らばりながら俺たちの後を追った。


「何なんですかね。特高課の人たちだったらどうしますか?」


「振り向くな。」俺は短く龍山に言った。「こっちの居場所をばらすようなものだ。」


「路面電車に乗った方が良くないですか。」


「自ら退路を絶つようなものだ。」


「じゃあ、建物に潜り込むのは。」


「右に同じ。」俺は横をすり抜ける車のバックミラーに目をやった。追っ手とはまだ距離がある。「とにかく、共同租界の警察なら、エドワード路を越えれば大丈夫だ。あそこには俺たちの上海駅がある。」


 ただ、安全にエドワード路までたどり着くには、どこかで尾行を撒く必要があった。東西を走る南京路とエドワード路の間には、九江路に漢口路、福州路、そして広東路がある。そのうちのどの通りに新たな尾行が潜伏しているとも知れずに、一途に無邪気にエドワードへ向かうのは容易ではなかった。


「仕方ない。」俺は目の前で客を下ろしたばかりの車夫に声を掛けた。汗だくの車夫は二つ返事で黄包車に俺たちを乗せ、南北を結ぶ江西路を南に下った。座席の隙間から後ろを確認すると、追っ手もこちらの動きに気づいて、黄包車を二台雇い、一台をさらに南京路を西に走らせ、もう一台で俺たちのと同じ方向へ向かってきた。今や、俺たちが標的だということはまがいもない事実となった。


「挟み撃ちですかね。」龍山が不安げに俺に尋ねた。


「どのみち後ろの奴らに追いつかれたら終わりだな。」


「終わりって、何がですか?僕たち、何も悪いことしていないじゃないですか。」龍山は言った。「それに、行動さえもしていないのに。」


「あのな。」俺は言った。「ああいう奴らは、俺たちの意図じゃなく、噂や兆候を嗅ぎつけて狙ってくるんだ。良い子にしていてところであいつらは諦めてはくれないさ。」


「車夫さん、あとどれくらい走れそうですか?」


 龍山は息を切らす車夫の、汗でぐっしょり濡れた背中に声を掛けた。車夫は走りながら、息が上がったまま答えた。


「あと、どれくらい、ですか?お客、さんの、足元が、地につくまでは、いくらでも走り続けられま

すよ。」


「そう言われましても、僕たちそんなにお金ありませんし、無理しないでください。」龍山はそう言って、鞄から水筒を出した。「次の筋を左折したところでお願いします。お代、ここに置いておきますね。それと、これは後で飲んでください。お礼です。」


「ちょっと待て。」身軽に黄包車から飛び降りる龍山を見て、俺は驚いて言った。「どこ行くつもりなんだ?」


「良いから早く降りてください。」龍山の声は、先ほどとは打って変わって、真剣味を帯びていた。


「でないと本当に挟み撃ちですよ。」


「何だって?」俺は地面に降り立つや、前方に目を送る。それで龍山の言葉の意味を悟った。


 前方から男が数人、ゆったりした足取りで、こちらへ近づいてくる。


「あいつら・・・中国の警察じゃないか。」俺は目を疑った。「どうして租界内に入ってこれるんだ?」


「工部局と上海警察が結託したのかもしれませんね。」


「何だって?」俺は動転して。「俺たち何か悪いことしたか?」


「それはさっき僕が夏さんに訊いたじゃないですか。」龍山はやけに冷静だった。「とにかく、ここから先は二手に分かれた方が良さそうですね。」


 龍山の言葉に、俺は改めて後方を見た。日本人らしい工部局の人間を乗せた黄包車はすぐ目前に迫っていた。二の足を踏む暇も隙間もない。


「お前はこのまま道を左折して行け。俺は右折するから。上海駅まで行けば大丈夫だからな。」


「了解です。」龍山は頷き、身軽に通りへ向けて駆け出していった。その細い背中はやはり頼りなげに見えたが、俺も立ち止まっている暇はなかった。


 俺たちが二手に分かれたのに気づくと、工部局も警察もさらに二手に分かれた。相手は黄包車を乗り捨て、代わりに道端に立てかけてあった自転車に跨る。通行人はただならぬ雰囲気に気づき、走る俺と追う自転車を、訝しげに交互に眺めていた。黄包車の車夫で鍛えたとはいえ、俺の体力にも限界がある。仕方なく、俺は路地裏へと駆け込んだ。自転車は勢い余って通り過ぎてしまったが、追っ手はすぐに引き返してきて、とうとう自転車を放り捨てて俺を追いかけてきた。俺は、路地裏の終着点に新たな追っ手が待ち構えていないことを願った。路地裏が終わる。眩しい光に目を反らす。大通りがまた現れた。人通りが多い。これなら紛れられる。俺は通りに飛び込むと、あえて胸を張り、悠々と通りを南に向かって進んだ。


 そろそろ追っ手が路地裏から顔を出す頃だ。俺は路面電車に乗り込む人の後ろに隠れるように車内に入り込んだ。車内は混んでいた。むやみに辺りを見回す訳にも行かない。暫く佇んでいると、いきなり後ろの男に手を掴まれた。とっさに、振り向きざまに男を殴った。男はのけぞって、勢い余って窓に頭を強く打ち付けた。追っ手の人間ではない。普通の中国人だった。騒然とする車内の乗客を掻き分けて、俺は走行中の路面電車から飛び降りた。怪我はしなかった。立ち上がったときに、追っ手の姿が目に入った。俺は走った。走る俺に気づいて、追っ手も力一杯駆けてくる。人波をすり抜けて走るのは生易しいものではない。強い日差しに晒されて、次第に俺の体力も限界になってくる。走る。走る。走る。やがて、前方に、街並みに不似合いな高架線が見えてきた。俺たちの鉄道だ。俺は満面の笑みを浮かべて、追っ手が目を離したすきに、路地裏に再び飛び込んだ。追っ手たちは消えた俺に気がつかずに、先へと走って通り過ぎていってしまった。


 追っ手の足音が遠のいていくにつれ、俺の息遣いも徐々に穏やかになっていった。路地裏の向こう側の通りへ向かい、慎重に顔を覗かせる。追っ手らしき人物は誰もいなかった。洋風の石造りの建物には、夏の暑い日差しが無言で照りつけているだけだった。俺は落ち着き払って通りの日なたへ出た。


「お疲れ様です。」


 俺はぎょっとして振り向いた。誰も見えなかった通りに、今、一人の男が立っていた。如才ない笑みを浮かべて。


「おっと、怪しい者ではありません。ちょっとお声をかけてみただけですよ。」


 そう言う男は警官の服を着ていた。


「怖がらないでください。捕まえたりしませんよ。工部局の連中もここまでは追ってこないでしょうから。」


 男は笑顔でそう言いながら、すっと路地の入口に回り込み、俺の退路を断ってしまった。言葉と行動が喧嘩をしている。俺は恐れで高鳴る胸から注意を反らそうと、男の顔を睨みあげた。


「・・・何の真似だ?」


「ここには、共産主義者や植民地の独立運動家、その他諸々の活動家も多く出入りします。さらには、アヘン吸引をはじめ、英米租界でご法度の行為もお咎め無しの自由世界。」歌うように男は言うと、人懐こい笑みを浮かべて警棒を軽く振った。「フランス租界に来たからには、もう安全ですよ。先ほどの警官は英米租界の工部局の者たちです。ここでは逃げ道を求めなくても大丈夫です。」


「フランス租界・・・?」


 俺はもう一度街並みを眺めた。確かにそうだ。先程走ってきた通りとは建物の趣きが異なる。そう言えば、先ほど高架線が目に入ったが、知らない間に上海駅を通り過ぎてしまっていたようだ。上海駅のあるのは、英米租界とフランス租界とを分けるエドワード路だ。おそらく俺は、そのエドワード路からさらに南へ走ってきたのだろう。


「それで・・・」俺は端正な顔立ちの警官に言った。「お前は、何なんだ?」


「租界で雇われた安南人の警官ですよ。」男は言った。「イギリス租界のインド人のようなものです。」


「なるほどな。」俺の視線は尚も通りに向いていた。先程から俺たちの他に、この通りには人影が全く見えなかった。


「でも、どうしてここなんだ?他にもっと警官が必要なところがあるだろう。ここはわりかし治安が良いようだし・・」


「ごもっともです。」警官は言った。「ただ、私には私独自の用件が別にございまして。」


「そうか。」


 もうこの辺で会話を切り上げて良いだろうと、生返事を残してその場を去ろうとした俺に、警官は胸から出した塊を見せて呼び止めた。


「これが何か――貴方にはお分かりですよね?」


 俺は暫く、答えに窮した。あまりに唐突だったのと、奴が警官の服を着ていたせいで、まるで俺の心を見透かされたような気分になったのとで、俺は何とも返せなかったのだ。


「・・・それで?」そう言うので精一杯だった。


「これを見せれば全てお分かりかと。」


「いや、それはそうだが――」俺は言葉に窮し。「その・・どうして、俺が、『そう』だと?」


「私は安南の言葉で貴方に話しかけましたが、貴方はそれを理解し、また同様に安南の言葉で返して下さいました。ただ、口の開き方は全く別の言葉のものでしたが。」


「なるほどな・・・。」


「レ・ヴァン・ランと申します。」警官は右手を差し出して。「白色の印綬を継ぐ者は皆ヴァンとランの名を持つことになっています。」


 俺はなりゆきで右手を差し出した。「シァ・ウェンミン。」


「貴方みたいな若いツバメとこんなところでお会いできるなんて光栄です。」


「ツバメなところはお前も同じだろうが。」


 ムッとした俺の言葉に、レ・ヴァン・ランはひるむ様子なく、そうですね、と笑顔で答えた。


「知らないうちに随分と敵を作ってしまった。」


「のようですね。」レ・ヴァン・ランは言った。


「工部局に上海警察・・・それからさっき、路面電車で男に手を掴まれた。」


「気を付けたほうがいいですよ。」レ・ヴァン・ランは人気のない通りを眺めながら言った。「私たちのことは、針小棒大に上海中で噂になっているようです。工部局や上海警察ならまだ生易しい方ですよ。国民党だって、共産党だって、日本軍だって・・・とにかく、上海には種々雑多様々な潜在的勢力が跋扈しているんです。路面電車で会ったという男も、そのどれかの一人かもしれませんね。」


「国民党か、共産党か、日本軍か・・・」俺は素読でもするかのように、レ・ヴァン・ランの言葉を繰り返した。「そんなにたくさんの奴らが、俺たちを狙っているのか・・?」


「ウェンミンさん。今の中国に足りないものは何だと思いますか?」


 レ・ヴァン・ランは俺に顔を向けた。俺が黙っていると、彼はそのまま話を続けた。


「覇権ですよ。」レ・ヴァン・ランは言った。


「古来、中国では、求心力のある強権帝国が衰退し、その支配の手綱を緩めたとたん、中小の勢力が分裂し群雄割拠する、不安定な戦乱の世になりました。前代に匹敵するほどの求心力を持つ帝国が現れるためには、それだけ長い過渡期と犠牲が必要だったというわけです。そして現在、清が退いた台座は、民国にはいささか大きすぎるようで、北では軍閥が覇を求めて争っている。南ではご覧のとおり、この上海がまさに、覇権争いの主戦場になっているではありませんか。」


「すまんが、政治には興味がないんだ。」俺は溜息をついて。「政治を語っても饅頭は食えんだろう。」


「失礼。少し話しすぎてしまいましたね。」レ・ヴァン・ランは、決まり悪そうに帽子のつばを掴んで。「要するに、今、私たちの力を利用しようとする人間は、この中国には山ほどいるということです。私たちには、世界を支配する力がありますからね。」


「全くの厄介事だけどな。」俺はそう言って、気になって辺りを見回した。車が一台通り過ぎる。通りにようやく人気が感じられるようになってきた。


「ちなみに、お前は、他のツバメとは、もう会ったのか?」


「いいえ。貴方が初めてですが。ウェンミンさんはもう会われたのですか?」


 俺は頷いた。「あとの三人とはもう会っている。これでようやく全員揃って活動が出来るな。」


「ちょっと失敬。」不意に、レ・ヴァン・ランは右ポケットの中に手を突っ込んだ。取り出したのは、サングラスだった。それを掛けて、まじまじと俺を見てくる。警察の制服のせいで、余計に良い気がしない。


「失礼しました。」すぐにレ・ヴァン・ランはサングラスを取り外した。「念のため、恐縮ながら、本物かどうか確認させていただきましたよ。」


 その言いぶりに、俺は顔を上げて。「その色眼鏡・・・お前も、持っているのか?」


「もちろん。先代からの授かり物ですからね。」レ・ヴァン・ランは笑って。「了解です。次回お会いするときは、私服で現れるようにします。」


「シァ・ウェンミン!」


 俺の後方で誰かが大声で叫んだ。振り向けば、通りの向こう側でヒョンウンが手を振っていた。忠義も一緒だった。


 「そっちは何とも無かったか?」俺は走って通りを横切りながら言った。


 「ええ。」忠義は頷いた。


 「俺たちはそう簡単に捕まりはしないよ。」ヒョンウンは澄んだ白い歯を見せて笑った。だが、俺の後ろに警察の姿を認めるや、慌てて口を閉じ、怪訝そうにレ・ヴァン・ランを睨みつけた。


 「…何かあったのか?」


 「いや。レ・ヴァン・ランだ。安南から来た、俺たちの仲間だよ。」


 「以後、お見知り置きを。」


  レ・ヴァン・欄は微笑んでヒョンウンに手を差し伸べた。その手の平には、乳白色をした印綬が載っていた。まるで関所の役人かのように、ヒョンウンは印綬を手に取り、丹念に調べ上げてから、ようやく納得して、レ・ヴァン・ランに握手を返した。


 「ヨ・ヒョンウン。」


 「尚忠義です。」忠義もそう言って、レ・ヴァン・ランに手を差し伸べた。レ・ヴァン・ランは、印綬を胸ポケットにしまってから、品の良い笑を浮かべて、忠義と握手した。「よろしく。」


 「おい、龍山のやつはどうしたんだ?」ヒョンウンが尋ねた。


 「途中で二手に分かれたんだ。上海駅で待ち合わせをしている。」


 「大丈夫か、あいつ。」ヒョンウンは眉をひそめて。「いつものんびり文法書を眺めているから、逃げ切れたかどうか。」


 「とりあえず、行ってみましょうか、上海駅に。」忠義は言った。


 「そうだな。」俺は頷いた。

 

  ヒョンウンの心配とは裏腹に、龍山は無事だったどころか、ホームのベンチに腰掛けて、俺たちが声をかけるのにも構わず、黙々と本を読んでいた。俺が苛立って、どうして俺たちを捜そうとしなかったんだと問い詰めると、龍山は平然として、待ち合わせ場所を離れるとお互いにはぐれてしまいそうでしたから、と答えた。そして、俺に練習問題の解説を求めてきた。龍山の手にしていた本は、上海語の教科書だった。俺が唖然としていると、レ・ヴァン・ランが笑って龍山に近づいてきた。


 「貴方が葦原龍山さんですね。語学の虫というお噂はかねがね。あの論文を神代の言語で書いたのも?」


 「私です。」龍山は嬉しそうに答えた。


 「実は私も読ませて頂いたんですよ、外山書店で。」


 「お前、あれ読めたのか?」ヒョンウンは目を丸くして。「俺にはただのインクの塊にしか思えなかったんだが。」


 「それは、ヒョンウンさんが、全ての言葉を耳にし口にすることができる能力を持っているからですよ。私の場合、役目は全ての言葉を読み書きすることですから。」レ・ヴァン・ランは言った。「レ・ヴァン・ランと申します。」


 「どうもよろしくお願いします。」龍山はレ・ヴァン・ランに会釈をして、俺を見て嬉しそうに言った。「やっと揃ったんですね。」


  俺は黙って残りの四人を眺めた。確かに、五人は偶然にも出会うことが出来た。だが、一方で俺たちの存在も、俺たちが集まらなければならない理由もどうやら把握しているらしい連中もいることも分かった。


 「どうすんだ、ウェンミン。」ヒョンウンが眉を潜めて、俺が心に抱いた言葉をそのまま口に出した。「今日みたいなことが続くと、いずれ誰かが捕まるぞ?」



 その日を境に、俺たちの会合は、外山書店から上海駅に移ることとなった。そこは租界の中でも一層治外法権の利く場所で、国際法という見えない壁に阻まれ、どの行政機関も入ることのできない聖域だったからだ。


 日取りは早く決まった。八月の中旬にあたる、二週間後だ。各自の都合もあったが、それよりも可能な限り早く出発すべきだという意見が考慮された結果だった。


 しかし、神宮の場所はなかなか確定しなかった。中国の歴代王朝は、北京や中原、南京、開封など、様々な地に都を築いたからだ。もっとも、俺たちには推測するだけの充分な中国史の知識が無かった。世代を超えて再び出逢った印綬たちからは、何の示唆も得られなかった。


 そのうち、俺は龍山の様子にぎこちなさを感じるようになった。思い返してみれば、追っ手から逃げていた日から、俺の視線を怖がる素振りを見せていた。あの日以来、工部局の奴らは、俺たちを狙ってくることは無くなっていた。


「葦原。」


 黙々と机に向かっている龍山の身体が、一瞬震えた。振り向きはしないが、俺の声に反応して、龍山は手を止めた。


「お前…何か、俺に隠していること、無いか?」


 龍山は返事をしなかった。俺が立ち上がり、龍山に近づくと、龍山の肩がみるみる硬直していくのが分かった。


「別に…」


「『別に』って言うときは、大概何かあるんだよ、お前は。どうした、具合でも悪いのか。」


 俺はそう言って龍山の顔を覗き込んだ。


 暫くの間があった。


 遠くで線路の軋む音が響いていた。


「やっぱり…顔に出やすいんですよね。」


 消え入りそうな声で龍山は答え、黒光りする俺のサングラスを見上げた。


「どういうことだ…?」俺はなるべく穏やか問うた。「あの日は、お前、何の変哲もなく駅にいたじゃないか。」


 龍山は目を伏せた。



「文法書をなくした?」


 プラットホームのベンチに寝そべっていたヒョンウンが跳ね起きた。


「もしかすると、あの時人力車から飛び降りたときに落としたのかもしれないらしい。」俺は当番である次の列車が来るのを待っていた。


「馬鹿言うな。落としたら音がするだろう、バサッ、って。」


「でも俺と別れてから、葦原の奴、一度も追っ手に追いかけられなかったらしい。それで余計に不安だとか。」


「要件は済んだから、追う必要もなくなったと。」忠義が呟いた。


「だったら、どうしてウェンミンを追いかけるのさ。俺たちだって追いかけられていたし。」


「めくらましでしょう。あなたがたを遠ざけたかった。ある場所から。」傍で聴いていたレ・ヴァン・ランがヒョンウンの言葉に続けた。


「…あの、本屋か?」ヒョンウンは顔をしかめた。


「というより、文法書からだな。」俺は言った。「そんな大事なものなら、あいつ、むしろ自宅にしまっておくだろうし。」


「ところで、その文法書とは、どういったものなんですか?」レ・ヴァン・ランが尋ねた。


「文法書と言うより、正確には、大学ノートだ。あいつが文字を解読するために書きなぐったメモがたくさん書いてあるんだと。」


「それじゃ文法書なんて代物じゃないだろ。」ヒョンウンは呆れた声で言った。「体系立ってさえもいないんだろうし。」


「確かに、まあ、そうかもしれないが…」


 口ごもる俺の横で、颯爽とした風姿のレ・ヴァン・ランが、諭すように話し出した。


「願わくば、その文法書の真価を知らない人の手にわたって欲しいものですね。」


「どういうことだ、ラン?」ヒョンウンが顔を上げた。


「そのノートに何の情報が秘められているかわかる人が持ち去ったとするなら、もはや『秘密』は私たち五人だけのものではなくなってしまったということですから。」


「…新たに『任務』を知る奴らが出てきたってことか?」ヒョンウンは口を尖らせて。「どうやって?俺たちだって、この任務が済めば、神宮も残り香のことも全部きれいさっぱり忘れてしまうんだろう?」


「お前、この国に欠けているものは、覇権だと言ったよな?」


「ええ。」レ・ヴァン・ランは頷いた。


「なら、その覇権を得ようと暗躍する連中の中に、文法書を持ち去った奴もいるということか…?」


「あり得ますね。」


「おいおい、そんな簡単なことなのか、あの文字の解読は?」ヒョンウンは声を荒らげて。「他の奴らがたやすく真似できるものじゃないぞ?」


「主要国の情報機関の暗号解読は相当高い水準を持っていますから、文字の買得も全くの夢想というわけでもありませんね。」


「ありませんね、って…ラン、お前本当に真剣に危機感覚えているのか?」


 ヒョンウンは口角泡を飛ばしながらレ・ヴァン・ランを睨みつけた。


「そう言えば…」一人静観していた忠義がふと呟いた。「話題の本人はどうしたんでしょうか。」


「龍山のことか?」俺は言った。「さあな、暇つぶしに列車に乗ってどこかに行っているのかもな。」


「良いのか、野放しにしていて。」ヒョンウンは訝しげに俺を見た。「余計なことに巻き込まれないとも限らないぞ。」


「大丈夫だ。」俺は時刻表に視線を落としながら言った。「少なくとも、この鉄道では。」







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