第五章 回帰 その4
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俺は、今見た光景を暫く信じることができなかった。
なぜだろう。
どうして龍山が、チャンの記憶に出てくるのだろう。
それが分からなかった。
でも確かに、先程俺の前に立っていたのは、俺が写真でのみ見たことのある葦原龍山の面影を残した青年だった。
あんなに、屈託のない笑みを浮かべて。
あんなに、邪気のない口調で言葉を紡いで。
サングラスを通して見た男の心は、危なっかしいほどに澄んでいた。
この人が、そうなのだろうか。
本当に、俺がその名前の重圧にあえぐ張本人が、この男だというのか。
俺と曾祖父は、図らずも、他人の記憶の中で、同じ時期の年齢で、初めて相まみえることになったのだった。
・・・・・
俺が仕事を終えて上海駅を出ようとすると、改札口の近くの椅子に腰かけていたパナマ帽が、ひょこりとこちらを向いた。黙って俺が改札を通り抜け、駅の裏にある倉庫へ自転車を取りに向かうと、書生姿にパナマ帽を被り、下駄をひっかけて、その男は楽しそうに俺のあとをついてきた。
そうやって乗り気のない鬼ごっこをほどほどしてから、俺は男の方を振り返った。俺の背中には倉庫の扉があった。
「まだ列車は動いている。お前は列車で帰った方が良いぞ。」
「帰るって、どこへですか?」
「知らねえよ、俺は。」倉庫から自転車を抜き出すせいで、手だけでなく言葉にも力が入る。「俺は自転車で帰る。残念だが自転車は一台しか無いんだ。」
「夏さんのご自宅はどちらなんですか?」
「どうしてそんなことを訊く。」
「まだ話し足りないじゃないですか。」龍山は明るく言った。「他の仲間をどうやって見つけるかとか、今後の計画について。」
「今はそんな気分じゃない。」
「それなら、いつならお会いできますか?」
「いつでもない!」
俺は自転車を地面に落とし、龍山を睨んだ。男の顔から笑みが消えた。
「いいか。頼むからもう会うのはこれきりにしてくれ。」俺は言った。「鬱陶しいから。」
その言葉を聞いて、ようやく男もこちらの虫の居所が分かったらしかった。初めて会った時のような不安な目つきが男の顔に蘇る。
「ついでだから言っておく。」俺は男に向かって静かに言った。「俺は、神宮を守るとか、中原に平和をもたらすとか、そんな大仰な理由で継承者になったんじゃない。ただ、生きていたい。それだけだ。生き延びるために必死だから使徒を引き受けた。だから、危機なんてものが都合よくやって来て、俺の任務が早く終わってしまってほしくはない。使徒なんかを名乗るお前にも会いたくない。俺は、お前と会うべき人間じゃないんだ。」俺は言った。「逆も然りだ。」
真夏の太陽は、地に沈むまで頑強に俺達を焦がし続ける。言いたいことを言えるだけ言うと、俺は自転車にまたがった。龍山の様子から察するに、今の俺の言葉が随分利いたようだった。光の消えた男の瞳は、俺から焦点を話し、肥えた西洋人たちの歓声に湧く競馬場へと、頼りなげに向いていた。享楽と怠惰にまみれたその声が、余計に俺の癇を刺激してくる。俺は当たるように足をペダルに内置くと、そこに重心をかけようとした。
「あの・・・」
エドワード路の間に立つ、夕闇に暮れなずむ駅の前で、弱く不安定な声が俺の背中に触れた。
「まだ何かあるのか。」俺は振り向いて龍山を見た。
「その・・・」龍山は言葉を音にすることをためらっていた。
「どうして、夏さんは、使徒の任務を引き受けたんですか?」
「俺に同じことを二回言わせるのか。」
「もう、これっきり」龍山は俯いて言った。「僕たちとは会わないつもりなんですよね?」
俺は黙って自転車を降りた。龍山の方へ身体を向けると、叱られた子のように龍山は小さくなって俺を見上げた。
「僕だって、正直、僕たちに託された『任務』の重みが、よく分かりません。杞憂と言えばそれまで、迷信と言えばそれで終わりです。でも、秘めたる真実として、代々使徒にだけ受け継がれたものなのなら、僕のような平凡な人間が一見怪訝に思う『ありえなさ』があっても当然だと思うんです。」
「何が言いたい。簡潔に言え。」
「つまり・・・」龍山は言った。「この危機を乗り越えるためには、夏さんの力が必要なんです、絶対に。」
歯切れよく言った龍山の言葉が、俺の胸の弱いところを突いた気がした。
「危機か・・・知った風な口ぶりしやがって。」俺は静かに言った。「・・・誰のせいだと思っている。」
「・・・それは・・・」龍山の視線は落ち着きなく散らばる。脱いだパナマ帽を握る手に、出口を失った言葉達が力となって乗りかかっていく。
「別に、初対面のお前に対して特別因縁を吹っ掛けるつもりはさらさらない。」俺は言った。「俺がムシャクシャするのは、お前が、『お前たち』の中の一人だからだ。それだけだ。」
「・・・・」
俺の視線は龍山を離れ、『上海站』と書かれた駅舎の向こう、イギリス租界に向いていた。「お前たちが北の地に足を踏み入れなければ、まだ信じ直すことが、俺にはできたかもしれない。・・・あの時の銃声の記憶を超えてでも。」
俺は、強くハンドルを握る俺の拳に目を落として。
「でも今となっては、使徒に課せられた掟があてこすりにしか聞こえない。『神宮を侵入者の足跡で汚してはならない・・・』。傑作だな。俺の言いたいことが分かるだろう?」
龍山は俺の方をまっすぐ見ていたが、暗い顔から返事は聞こえなかった。
「今の俺には、お前の帽子が兜に見え、お前の靴が軍靴と映り、お前の背後に銃剣を感じるんだ。」
列車が駅に到着する。中から乗客が改札口に向けて歩いてくるが、そのほとんどが、租界に住む西洋人や日本人たちで占められている。
「何となく・・・おっしゃりたいことは分かりました。」雑踏の中で、俺は龍山の言葉を耳にした。
「危険は外から来るのではなく、仲間の中から来る・・・そう言うことなんですよね?」
「・・・お前がその言葉で俺の言ったことを表現したと思うなら、つまりそういうことなんだろう。」
「確かに夏さんの気持ちは分かります。僕たちが動くことで、かえって神宮に侵入者を誘いこんでしまうかもしれない。それを夏さんは怖がっているんですよね。」遠慮がちに龍山は上目遣いで俺の顔を見据えて言った。「でも、僕は、僕たちが動かないことで、神宮が汚された結果起こることの方が、もっと怖いです。」
「神宮はもう汚された。」短く俺は言った。「二度も・・・二人も取られてしまうのに、俺は耐えられないんだ。」
龍山の澄んだ眼の中に、俺は誰かの残像を浮かべていた。
「これで良いだろう。」龍山から俺は目をそらして言った。「良くないとしても、もう俺に話すことはない。」
俺はそう言い、再び自転車にまたがった。今度は、龍山は俺を呼び止めることはなかった。白いシャツは汗ににじみ、西日とともに俺の背中にすりついている。走りながら、俺はかけていたサングラスを胸ポケットにしまった。龍山が最後に顔に浮かべた問いかけを払い落としてしまおうと。
次に記憶が映った時、その日は休みだった。何の気なしに俺は北四川路を北上し、つきあたりにある外山書店へ手伝いに行くことにした。自転車を店の前に止め、サドルから降りると、兵士が入り口を守る近くの建物の上に赤い太陽がはためいていた。首に巻いた手ぬぐいで汗を拭きとると、俺は店の中へ入った。
「いらっしゃい。」俺は店長と目があった。「お、夏君じゃないか。今日は仕事は?」
「休みです。」俺は言った。「何かお手伝いすることがあればと思いまして。いつも良がお世話になっていますから。」
「ありがたいけど、人手はもう充分足りているよ。」店長は皺の刻まれた顔に笑い皺を重ねて言った。「まあ、奥のテーブルでゆっくりお茶でも飲んでいきなさい。今日は先生方もいらしていないし、夏君、気兼ねなくいられるだろうからね。」
俺は日本式に礼をし、徐に顔を店の壁に向けた。多くの書籍の並ぶ書棚を抱く壁には、引っ越す前の書店の店先で撮った写真や、近くのアパートで撮った写真が並んでいた。その写真の多くで、店長は、小柄で髭を蓄えた中国服姿の男性と一緒に写っていた。俺は目を細めて、その写真の一つひとつを眺めていた。そして壁の終わりへと視線を送った時、俺は妙な絵がそこにかけられていることに気がついた。
「そうだ、夏君。」
店長の声に俺は振り向いた。
「この前、君にあげた本。あれを買って行った人がいるんだよ。」
「本と言いますと・・・・」
「ほら、君にしか読めない文字で書いてあった本さ。」
「・・・そんなのありましたっけ?」
俺の言葉に、店長は手元にあった本を取り上げて指差した。それでようやく俺はその本のことを思い出した。同時に、その本を置いて行った男のことも。
「どんな人が買って行ったんですか?」
「背丈が結構あって、髭を蓄えた紳士だよ。といっても君の二つか三つ上くらいだったろうか。」
「国籍は。」
「それが一言も話さなくてね。黙って店に入って来て、この本を手にしたかと思うと、また黙って店を出て行った。一瞬のことさ。ずいぶんと急いでいた感じだったね。背丈が高いのは朝鮮人にも思えたけれども、目が大きいところをみると中国人にも見えるし。この界隈で見る日本人ではないようだったね。」
「そうですか。」
俺は眉をひそめて、店長のたなごころにある本を睨んだ。五人の使徒の一人だとすると、朝鮮か沖縄、あるいは仏領インドシナの人間のだれかということになる。店長が俺のことをその人物に伝える隙がなかったのは幸いだが、近いうちに出し抜けに俺のもとへ向こうからやってくるかもしれない。俺は小さくため息をついた。
「それで、店長。あんな絵・・・以前からありましたっけ?」
「どれだい?」
「あの、壁の右側にある絵です。」
「ああ、あれはね、この前の青年に頼まれて私が掛けたんだよ。」
「誰ですか?」
「葦原龍山君という青年さ。」店長は言った。「そうだ、結局君たちは会わなかったのかい?」
「さあ、俺はすっかり忘れていましたけど。」
「どうも、捜している同志がいるそうなんだけれども、その人たちの目印として店にこれを飾ってほしいと言ってね。うちの店は人がたくさん出入りするもんだから、そのうち目当ての人間も現れるんじゃないかと思ったらしくてさ。彼の自筆らしい。」
俺は目を凝らして。「・・・何なんですか、あれ・・・」
「ツバメとか。」
「・・・どこがです?」
「この本みたいなもんだろう。」店長は微笑んで。「見える人間には見える。」
「どうだか・・・」俺は呆れて絵を睨みつけた。「鳥くらい、ましてツバメなら俺の方がずっと上手く描けますよ。俺が描き直したのを飾った方が、店を訪れる人の目にもつくでしょう。あのざまじゃあ、捜したい相手も見つかりっこないですよ。」
「そうなのかねえ。」店長は言った。「まあ、君の好きなようにしなさい。壁にツバメが二羽飛んでいても、私は構わないからね。」
「あ、それと。」俺は店長の手に紙幣を置き。「この前のご本の代金です。お納め下さい。」
「いや、あれは君にあげた本だから、代金なんて。まして値段すら分からない代物なんだからね。」
「その紳士って人は、ちゃんと代金を置いて出て行ったんでしょう?俺だけただで頂くのは後ろめたいですから。」
俺はそう言って店長の手を店長の胸に押し戻すと、描画という暇つぶしができたことを喜びながら、店先へ飛び出した。その時、あの能天気な声が耳に入った。
「・・・夏さん?」
龍山だった。
いや、多分、龍山だ。しかし以前見た時よりも活気がなく、口元には無精ひげが垂れ、服は乱れて汚れていた。
「何やってんだ、ここで・・・?」
思わず俺は言った。
「いえ、特に何もないんですけれど。」龍山は笑って。「お腹がすきました。」
「お前・・・家はどこだ?」
「京都です。」
「そうじゃなくて、上海で下宿してる場所だ。どこなんだ?」
「追い出されました。払えなくて。」
「・・・どういうことだ?」
「一週間前、長崎丸で来たばかりなんです。」
「・・・旅行だったのか?」俺は顔をしかめて。「その格好で。」
「夏休みですから。」龍山は平然と答えた。「船着き場に降りたその足で外山書店に向かって、夏さんに会いにあの駅に行ったんです。それで今は、仕方ないので上海駅のホームで過ごしています。それより、あの駅の売店、高いですね。租界の英仏人が目当てなんでしょうかね。」
「払えないと言ったが・・・金は・・」
「あまり残っていないんです。このパナマ帽、思わず買ってしまったのと、あとは出来心で画材道具を買うので使ってしまいました。魔都はやっぱり怖いですね。」
屈託ない笑みを浮かべる龍山を、俺は空恐ろしい思いで睨み返した。
「・・・何てやつだ。」俺は肩を落として。「何のために上海へ来た?まさか俺に会うためなんじゃないんだろうな?」
龍山は首を振らなかった。
「・・・もし俺があのままお前と会わずじまいになり、帰りの船賃も食いつぶしていたら、どうするつもりだったんだ?」
「それは大丈夫です。」龍山は短く言い、つぎのあてられた和服の袖から、小さな塊を取りだした。「生きることに関しては、僕にも保証がありますから。ね?」
龍山の出した左手には、南中する太陽の光に蒼くきらめく印章が挟まれていた。俺は思わずそれを両手で覆い。
「周りの目がある。めったなことでそれを出すな。」
「大丈夫です。冗談ですよ。」龍山は気の抜けた笑みを浮かべ、印章を袖の中に戻すと、静かに視線を俺の後ろ側に向けた。俺もそれにつられてゆっくり振り返った。
粽売りが、書店の前に立っている。周りには腰をおろして一服する黄包車の押し手がたむろしていた。
俺は龍山の方をもう一度振り返り。
「・・・あれが、食べたいのか?」
とたんに龍山は目を大きく開いて。
「あれ、僕でも食べて大丈夫なんですか?」
「まあ・・・腹をすかせた客を拒む粽売りは聞いたことがないが・・・」
俺は懐に手をやり、財布のふくらみを確かめてから。「・・俺が払ってやるよ。」
「いいです、悪いですから。」
「遠慮なんてするな。食べたいくせに。」
そう言って俺は迷惑そうに咳払いをすると、不安そうについてくる龍山を無視して、粽売りに近づいて行った。
先客の黄包車の車夫は、杓子から湯気の立つ茶を音を立ててすすっている。その横に粽の売り子が立ち、使い古した布きれで覆った薬缶とバケツを抱えていた。車夫は杓子を提げ、日焼けし節くれだった手の甲で口を拭うと、ブリキのバケツに放り込まれた粽を弄繰り回して物色し始めた。
その動作一つひとつを、俺の隣で、好奇心と空腹に満ち満ちた目で龍山は舐めるようにじっと見つめていた。
「何見てんだ?食べないのか?」
俺は見入る龍山の肩を軽くこついた。はっと、龍山が我に返る。
「食べたいですけれど・・・これどうやって取るんですか?」
「・・・まあ、そうだわな。」俺は言って。「ちょっと見ておけ。俺が探してやるから。」
俺は一歩前に出て、車夫の脇から車夫と同じように手をバケツに挿し込んだ。一つ二つ、葦の葉にくるまれた粽を掴むと、軽くバケツの底に向かって押し込んでみる。手ごたえは今一つ。バケツの側面にたけかけ直すと、隣の粽を掴み、同じように押してみる。悪くはなかったので、今度は指で麻糸の上から粽を押してみた。軽い力で粽が横に延びたので、俺はその粽を諦めると、他の粽をまさぐり始めた。車夫の手は確かなようだった。そんな掴んだり押したりすることを何度か試したあげく、ようやく俺は中身の詰まった大きめの粽を二つバケツから取り出し、売り子である少年に手渡しした。少年は手にした粽を器用に麻糸からほどくと、茶碗の中に粽を並べ、湯茶とともに俺たちに差し出した。
とぼけた顔の龍山が俺の横に並んでいたので、俺は少年から受け取った茶碗を見せながら龍山に話しかけた。
「同じ金を払うなら、中身の詰まった柔らかい粽が食いたいだろう?だからさっきみたいに押したり掴んだりしたんだよ。」俺は茶碗を龍山の胸元に差し出して。「俺の選りすぐりだ。」
粽を手にした後も龍山が学者の目つきで粽を観察しているのを見て、俺は粽を食いちぎり、大げさに咀嚼しながら、ほら、と龍山を急かした。俺の意図がようやく通じたみたいで、龍山は慌てて粽を喉までつめこんだ。よほど急いだのか、むせて目には涙がにじんだが、茶ごと粽を飲み干した後の頬には満足げな笑みが浮かんでいた。それを確認すると、俺も手元の粽の欠片を口に押し込もうとした。
「どこの若造かと思えば、お前だったのか、ウェンミン。」
日焼けした喉から出る枯れた低い声に、俺はびくりとして顔を上げた。書店の前の段差に腰かけていた車夫の細く鋭い目が俺を捉えていた。俺は、粽をほおばる車夫に聞こえないほどの小さな声で、ぽつりと彼の名を呼んだ。
「チャン・・・――」
「あ?もう俺のことを忘れちまったのか?」車夫は最後の串をしゃぶると、それをそばのバケツに放り込んだ。「恩知らずな奴だな。」
「そうじゃない・・チャン、久しぶりだな。」
「久しぶりだな、か。目方だけでなく心までも上からの目線になっちまったのかい。」
背後に龍山の視線を感じた。俺は車夫の言葉に沈黙で応えた。
「俺がいなけりゃ、今頃お前は家族ともども乞食にでもなって上海の通りをさまよっているに違いなかったってことをな。全く、劉社長に気に入られたからっていい気になって、昔の恩人に何の報せも届けないとはなあ。」
「それは違う。チャンには挨拶しようと思っていたんだ。だけど・・・」
「仕事が忙しくて会えなかった、か?」チャンという名の車夫は俺に向かって大きなため息を吹き付けた。「ありていな言い訳しか言えなくなったんだな、お前も。」
俺は、車夫の言葉が空気の中に消えていく間、しわの刻まれた車夫の髪に降りた真夏の雪に目を止めていた。前よりも多くなり、前よりも不健康に色あせたように思える。
「良い服着やがってな。俺ももう少し手を抜けばそんな格好もできるのかな。」
俺は後ろを振り返り、行くぞ、と龍山に告げた。龍山は今一つ状況を飲み込めない顔をしていたが、俺の語気を察して、こくりと頷き、茶碗を少年に返した。チャンという名の車夫は、チャンの身を借りた俺に目をくれながら、老け込んだ左手で茶碗を握り、余った湯茶を、音を立てて啜り上げていた。
「車夫を、されていたんですね・・・」
足の先は四川北路を南へ向いていた。和服や背広姿の行き交う中、カッターシャツの俺と書生風情の龍山は、立ち止まるのをためらうがためだけに、並んで昼下がりの越界路を歩いていた。龍山が沈黙を破ったのは、外山書店の入口が、すれ違う人の掌ほどに小さくなった時だった。
俺は顔を龍山の方に向けた。平然とした表情の裏に、躊躇と不安がないまぜになっている。軽く小石を蹴飛ばすと、俺は龍山から目を離し、独白のように呟いた。
「この土地のことは何も知らなかった。けれども連れが身重だったのもあって、何とか食いぶちを家に入れる必要があった。チャンにはそのとき助けられた。」
俺はそこまで言って、ふと八百屋の軒先に立つ中国服の若い女性に目を止めた。だがその女性の足元には、だだをこねる幼子がしがみついていた。すまん、行くか、と俺は無理やり歩き始めた。龍山はただ黙って、その女性から目を離して、俺に歩調をあわせてついてきた。それ以上話を続ける気はないようだった。横浜橋を渡ると、俺たちは大河のある方へと向かっていった。
ガーデン・ブリッジと呼ばれる鉄橋を渡ると、そこから先は大河に沿って洋館が立ち並んでいる。河には大小いくつもの船が浮かび、鉄橋はバスやタクシーの排気ガスが漂っている。橋の欄干に清楚な西洋の観光客が身体をあずけ、岸には日焼けした荷物運びの中国人の男たちが、腰を降ろし、痩せた身体を覆う疲れを暫し癒していた。
「夏君。」
橋の上でしばし立ち止まる俺の背中に、車道から声がかかった。俺は振り返って。
「社長。」
「調子はどうかな?」
「お陰様で。」俺は会釈した。「今日は非番なんです。」
気品のある老紳士は、その穏やかな眼差しを龍山に向けた。
「これは失礼いたしました。夏君のお知り合いでいらっしゃいますか?」
「あ、はい。」まごつきながら龍山は言った。「葦原と申します。お初に、お目にかかります。」
「私は劉衛と申します。」社長は微笑んで。「中国語がお上手ですね。」
「あぁ・・・」龍山は一瞬真顔になって、すぐに笑みを取り戻した。「お褒めの言葉を頂きまして、大変光栄に存じます。」
「ここで話しているのも何だから。君たちはどこに向かうところだったんだい?」
劉社長の言葉に、龍山と俺は顔を見合わせて。
「いえ・・・特に予定はなかったのですが。」
「私は今から上海駅に向かうところなんだが、どうかな?」
結局、俺たち二人は、社長の車に乗り込み、上海駅へ同行することとなった。上海駅は、エドワード路という、共同租界とフランス租界の境界線になっている通りをまたぐように駅舎を構えており、フランス租界側に広州行きの列車が、共同租界側に西安行きの列車が発着していた。中央口はフランス租界側にあり、壮麗なレンガ造りの西洋建築は、始発駅にふさわしい威厳と風格を備えていた。
「私の鉄道は初めてですか?」
劉社長は親しげに龍山に尋ねた。
「はい。まだ乗ったこともなくて・・・」
緊張した面持ちの龍山の隣で、劉社長は、屋根のない駅舎の上にだけぽっかりと空いた大きな青空を見上げて、話し始めた。
「ここは私たちの夢の始まりの場所でもあります。」劉社長は言った。「租界を管轄する欧米や日本の政府とも、この鉄道の施設を何らの攻撃や接収の対象としてはならない旨、約束をしております。中国政府側にもそれは伝えております。鉄道が世界中をつなぎ、今以上に様々な人々が東洋と西洋を行き交い、交流する。それが私たちの長い長い夢なのですが、それを正夢として見ることができるのは、私ではなく、あなたやウェンミンのような、若い方々になることでしょう。世界はまた少し、回り道を選ぼうとしていますから。」
劉社長の白いヒゲに、入道雲の陰がかかった。
「この大志を担えるほど、私の双肩はもはや強くはありませんから。」
帰り道に俺たちは、上海駅から蘇州行きの汽車に乗った。新公園駅までわずか一駅の短い旅だったが、南京路から高架を走り上から眺める魔都の夕暮れを、龍山は子供のように好奇の目を輝かせて見つめていた。
「劉社長の鉄道は、ほかと違う。」俺は龍山の背中に話しかけた。「租界の路面電車は列強のものだし、俺たちは欧米や日本の奴らと同じ席には座れない。この鉄道は、ほかでは普通ではないことが、普通とされている。」
「でも、それが普通なことなんじゃないですかね。」
車掌から目を離した龍山の言葉に、俺の気が止まった。
「妙なことを言う奴だな。お前は。」
「社長が、前任者、なんですよね。」
出し抜けに龍山が尋ねた。俺が黙っていると、龍山は話を続けた。
「もう『任務』のことは覚えていらっしゃらないようでしたけれど、何だか直感でそう思ったんです。あの人が、愛新覚羅家から印綬を授かった、初めての民衆の代表だったわけなんですね。」
俺は龍山の話に相槌をうつかわりに、こう聞き返した。
「お前は・・・葦原、は・・この任務について、どう思うんだ?」
「僕、ですか?」
俺は黙って龍山の返事を待っていた。龍山は,素直に答えずに俺に聞き返した。
「夏さんは、この任務、上から決めつけられたものだと思っているんですか?」
「そういう決めつけた言い方は、気分が悪いな。」
図星なのだからなおさらだ。
「すみません、わざとじゃないんです。」龍山は慌てて言葉を続けた。その表情には、人一倍の優しさが伺えた。「そうではなくて・・・」
俺は溜息をついて、向かいの窓を流れる魔都を眺めた。
「五人の使徒が集まって、あるかも分からない神宮の、あるかも分からない扉に封をするために、中原に赴く――あ、僕たちの言葉は周りには分からないから、こんな話をしても大丈夫ですよね?――なんだかそんな大それたことをするのに、自分は不向きだって考えていらっしゃるんじゃないかなって思うんです。あくまで、しがない僕の私見ですけれど。」
「お前の俺論評はどうでも良い。お前の葦原評が聞きたいんだ。」
「僕の葦原評、ですか・・・。」龍山はやっと俺の質問の意味を見つけたような顔をして、少し考えてから、ようやく答えをくれた。
「僕は、楽しみですよ。すごく楽しみです。」
「楽しみ。」
「きっかけはどうであれ、目的は何であれ、遠く離れた五つの場所から同世代の人と『仲間』として出会えるんですよ?目的は綿々たる歴史の中で変わらなくても、僕たちの力でいくらでも結果は変えることができる。なんだか、そういうことに対して、僕は自ずと武者震いがします。ものすごく楽しみですよ。」
「・・・」
俺は龍山をまじまじと見つめた。龍山は、政治の動きには興味がないようだった。六歳下の、世間知らずのこの男は、その分、俺とは違う方向を見て、違うものを見つけているのだと、今更ながら実感した。そしてそれが、その時の俺には無性に羨ましく感じた。
「そう能天気に考えるものじゃないだろ。」
そうでないと思う希望が、一層語気を強くした。
「やっぱり、そうですかね。」龍山は笑った。俺はその言葉に返事をしなかった。
「葦原。」
「はい?」
「うまそうに食ってたな。」
「何をですか?」
そう尋ねてから、龍山は自ら答えを見つけて、顔を明るくした。
「美味しいものって、初めて食べても美味しいんですよね。」