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第五章 回帰 その2

                       

                       二


 

 しばしの無音のあと。

 

 山にかかった霧が晴れていくように、ぼんやりと俺の前に、情景が姿を現し、音が響き始め、匂いが漂ってきた。

 

 大河が流れている。


 大河を漂う手漕ぎ舟が見える。 


 黒いボディの旧式の行き交う音が聞こえる。


 見上げる空は青空で、白日は、黒く焼けた俺の肌を、恨みでもあるかのようにじりじりと照らす。大河を臨んで立ち並ぶ、いかめしく手強い西洋建築が、俺を上から見下ろす。風が遠くの霧笛を連れてくる。質素な服を着た男たちが荷物を担いで河畔を歩いている。誰もが赤銅色に肌を焼いている。

 

 俺は、暫く茫然と景色を眺めていた。生命の音を大河に聞いた。雑踏を胸に刻んだ。そして大きく肩を上げて息を吸い、同じだけ息を吐いた。きびすを返し、「俺」は欄干に立てかけていた自転車を起こしてまたがると、黒い鉄筋の物々しい姿をした大橋を背に、船の霧笛を耳に残しながら、大通りに向かってペダルを踏みしめた。看板には「呉淞路」とある。


 俺の向かう場所は、どうやら最初から決まっていたようだ。つまり、この直前の場面で、何か転機となることがあったのだろう。台本通りに演技を進める役者のように、俺は意思とは無関係に歩を進めていた。

通りに走る漢字の文字列。仄かに日本語の香りが焚きこめられている、文字列。


 通りを行き交う人々。以前チャンが教えてくれた、長衫という、中国人のよく着るワンピースをまとった人も見えたが、大方は地味な背広にこげ茶や灰色の帽子を目深に被り、せわしげに歩いていく人々。

つまりは、日本人たちだ。


 そして「俺」自身は、汗に汚れたカッターシャツに黒ズボンという、良くも悪くも平凡ないでたちだった。おそらく、どこかの工場からの仕事帰り、ということなのだろう。


「海寧路」という大通りと交わる道で左折し、しばらく自転車をこぎ進めると、一層賑やかな通りに差し掛かる。美しい洋館の町並みには中国語の文字列が並び、フォード車の黒い影の間を縫うように人力車が走っている。俺は海寧路とこの大通りとの交差点で一度片足を地に着け、休憩がてらに、頭の上にある通りの看板を見上げた。「北四川路」と書いてある。暫く通りを行く人々の往来を眺めてから、俺は北四川路に沿って海寧路を右折した。


 そう言えば、この中国旅行に行く前、あかりが、昼寝しそうな俺に、上海の歴史を延々と話してきたことがある。


 確か、昔、上海には西洋諸国や日本の人間が定住していた「租界」という場所があった。そして、「北四川路」つまり今の「四川北路」は、日本人のたくさん住んでいた、「共同租界日本居留民区」とかいう場所のメインストリートだった、とか。


 そしてその耳学問に違わぬように、今、目の前には、和服を着た女性を乗せた人力車が走り、パナマ帽を被った日本人が歩いている。つまり、俺は今、上海の日本人街を、錆びた黒い自転車にまたがりながら走っているということだ。


 ・・・どういうことなんだ?


 この鮮やかなほどのカラーで映しだされる「映像」を見せられながら、俺は驚きを隠せなかった。


 これが、チャンの記憶ということなのか。だが、チャンはどう見ても三十は超えない男盛りだ。この「記憶」と実際のチャンとの間には、優に七十年を超えるギャップがある。


 ただ、大通りの割には、いささか活気が足りないような気もしなくはない。通りに面した店には看板を下ろしたものも少なくなく、行き交う人々の顔もどこか不安げだ。時々カーキ色の軍服を着た、いかめしい顔の憲兵も通りに現れ、そんなときは反射的に、相手がこちらに気づく前にさりげなく通りの逆側に進路を変えた。一礼をせずに通り過ぎると、難癖をつけられ中国人なのかとあれやこれやと詰問し、身分証の提示を求めてくる場合もなくはない。小川にかかった横浜橋を渡り、さらに自転車は進んでいく。


 このとき、ようやく俺は、日本人と思われる人々が、誰もかれも中国語で話していることに気がついた。いや、この表現は少し適切ではないかもしれない。俺の耳には中国語のあの耳につく抑揚が響いているのに、その意味はすべて理解できるのだ。そして、サドルにまたがりながらさりげなく彼らの口元に目を移すと、彼らの話す中国語に口が追いついていない。まるで、今まで俺が、話される全ての言葉を日本語として聞いていたように、この「記憶」の中の俺――チャンは、全ての言葉を中国語――厳密には上海語かもしれない――として聞いているのだ。


 ・・・どういうことなんだ、チャン・・・?


 北四川路が終わりに近づくと、突き当たりにある二階建ての建物が目に入ってきた。白い立て看板がいくつか立てかけられ、筆で何やら書いてある。どうやら書名のようだった。二階のガラス窓の下に掲げられた大きな横向きの看板には、左から「店書山外」と書かれている。


 書店だった。


 その書店の前で俺は自転車を止め、サドルから腰を離し、遠慮深げに上目遣いに中を覗いた。そこに見慣れた人間を認めたのか、俺は自転車を書店の外壁に立てかけると、自転車に注意深く意識をおきつつ、書店の中へ首をつっこんだ。


「お、ウェンミンじゃないか。」


 長衫を着た店員が俺に気づき、持っていたはたきを上下に優しく揺らした。


「リァンを預かりに来たんだが――ローペイは?」俺は尋ねた。


「ちょっとそこで待ってな。呼んでくるよ。」


「いや、二階にいるなら俺が行くから、大丈夫。」


 俺はそう言って一度書店を出ようとしたが、店員は俺を呼び止めた。


「そうじゃない。ローペイがお前に会いたいっておっしゃっていたんだよ。」


「・・・俺に?」


「そう。新しい本が入ったからちょっと見てほしいとかで。」


 俺は返しかけたきびすを元に戻し、眉をひそめて店員を見据えた。そして、所在なさを埋めるように、櫛比と並べられた本に目をやった。キリスト教系の本、世界文学全集、革命家の本、その他もろもろの思想家の書。本棚に長居しすぎて色を変えてしまったものもあれば、新しい装丁に身を包み自信ありげに顧客を待つ本もある。


 俺は面白いことに気が付いた。一瞥したときは日本語で書かれていた書名の文字列が、次に見たときには中国語の文字列に代わっているのだ。それでいて、俺にはその中国語の文字列の意味がよく理解できていた。これはどういうことなのだろうか。


 店員が裏口へ去った後、俺は書店の入り口に一歩入ったところで、そうやって佇んでいた。奥の大きな本棚の前に広いテーブルが置かれており、それを囲むように三四人の人間が茶を飲みなら談笑をしていた。俺の入店に気づいた人間もいなくはなかったが、とりたてて気にも止めていないようだった。なのに、会話をする人々の背中を見て、俺は自然と体がこわばるのが分かった。それ以上足を前に進められなかった。まるで、そこから先が自分のいてはいけない場所のように。


「やあ、シア君。待たせてごめんね。」


 暫くして、髪の短く、背の低い男性が書店の奥から現れた。この人が、どうやらここの店長らしかった。初老に近づき髪が雪のような白髪に変わろうとしている店長は、見るからに人の良さそうな好々爺で、俺に優しく会釈をすると、くるりと後ろを振り返って。


「彼が夏文命シア・ウェンミンくんだよ。どんな言葉でも理解してしまうという青年だ。」


 店長の言葉に、テーブルの衆は話を中断し、改めて関心を俺に向けた。挨拶の言葉の後に、お噂はかねがね、とか、君が例の夏君か、実は今読んでいる洋書で分からないところがあるんだが、ひとつ手を貸してくれないかいなどという言葉が続いたが、俺はそのただの一つにも答えることなく、終始むっとした顔で相手を睨み返すだけだった。特に何か因縁のある相手でもないのに、どうしても強張った顔をほぐすことができなかったのだ。


 店長は彼らから俺に目を戻し、穏やかな声の調子で話した。


「良くんなら今ちょっと家内と出かけていてね。もう少し待っていてくれないかな。」


「それは分かりましたが」俺は言った。「ローペイ、渡したいものって何ですか?」


「うん。それなんだけどね。」店長は俺の右手に回り、カウンターの横に並べられた紙の素朴な装丁の本を手に取り、俺に丁寧に差し出した。


「ある人がこの本を携えてこの店を訪れてね。この本を読める人が現れたら自分に教えてほしいと言って、連絡先とこの本だけを残して帰ってしまったんだよ。君のことを話したらとても興味を持ったみたいで、もう少しここで待っていれば来るからと行ったのに、結局君の職場の方に向かってしまったんだ、さっきね。」


 俺は店長からその本を受け取った。インクの匂いが鼻につく。新刊本らしい。


「何の意図があってこんな本を私に託したんだろうね。それにしても、こんな見たこともない文字、見たこともない言葉、私にはさっぱり分からないし、そこでお話し中の先生方も検討が付かないそうなんだ。でも、夏君ならおそらく読めるだろうって、その人はしきりに言っていてね。いかがかな。」


 そう言って店長の大きな手が差し出した書籍を見て、俺は思わず店長の顔色を確かめた。


「こんな見たこともない文字」で書かれているはずの、粗末な装丁の本の表紙には、はっきりと読める楷書の漢字で、こう書かれていたのだ。


『关于普遍语言的起源』


「・・・普遍言語の源流について・・・」俺は右から左へ流れる文字列を声に出して読み下した。


 目の前に立っていた店長が目を見開いて。


「・・・やっぱり、分かるのかい?」


「あの・・」むしろ俺は当惑して店長を見た。「これ・・・ローペイは、読めないんですか?」


「私どころか、ここにいる誰も読めなかったよ。それで、何が書かれているんだい・・?」


 店長の浮き立つ声を聴きつけて、後ろのテーブルに腰かけていた数人の人々も一人また一人と立ち上がり、どうしたんですか、本当に読めたんですか、と俺と店長の周りを囲み始めた。俺は耳元で交わされる野次馬の声を聴き流し、うつむいて本のページをめくり始めた。


 本に並んでいるのは、漢字の羅列。俺には読めないはずの文字が、音色の聞こえないはずの言葉が、今、諭すようにとうとうとした調子で俺に語りかけてきた。


「人類がどのように言語を習得することができるのか。それは、神代の時代にさかのぼる必要がある。現在、インド・ヨーロッパ語族、アルタイ語族・セム語族・ハム語族のように、さまざまなグループに分類されている言語も、もともとは一つの言語であった。それを私は『普遍言語』と呼ぶことにしたい。


 この言語の形態については、現在誰もそれを知ることは不可能である。それは二つ理由がある。一つは、文書による記録が殆ど存在しておらず、話者の数も極めて少ないからである。そして二つ目は、実存する数少ない文書記録も、言語の使用者も、自分たちが話している言語がどのような響きを持ち、どのような文法構造を持ち、どのような正書法によって筆写されるかについて、何も伝えてくれないし、自覚もしていないからである。


 しかし、この『普遍言語』の名残を、我々は現代においても確認することができる。それは、我々が幼少の時にどのようにして言語を習得するかに見出すことができる。すなわち、世界中のすべての言語は神代の言語、『普遍言語』の子孫であり、それゆえ、どの言語にも『普遍言語』の名残が存在しているのである。私は以下で、この「名残」を、「神の残り香」と定義して議論を進めていこうと思う。・・・・」



 俺は次々に文章を読み進めた。不穏な文脈を前にして、俺の指は荒い手つきでページをめくっていく。


 かつて、世の中の言語は一つであり、人間は神と意思を疎通させることができたこと。


 しかし、言語が一つであるゆえに、人間が協力し、神を凌駕するまでの技術と奢りを身につけてしまったこと。


 そして、神の怒りにふれた人間たちは、統一した『普遍言語』を奪われ、代わりに多種多様な言語を手にすることで、誤解やいさかいに身を投じ、神に対抗する巨大な団結力を手にすることは二度となかったこと。


 一方、神は、人間世界の状況をコントロールするために、彼らの中から忠実かつ賢明な者たちにのみ、『普遍言語』を操る能力を伝えたこと。


 彼ら選ばれし人間たちは世界の六つの地方で別々のグループを組み、『普遍言語』の継承と神との連絡を行い、その六つの地方を中心にして世界の秩序が形作られていくこととなったこと。


 また、雑多な言語の使い手となった大多数の人々は、それでも神の与えた言語能力、すなわち「言語の香りを利き分ける力」を保持し続けたことにより、たとえ両親の話す言葉と全く異なる言葉に触れることになったとしても、すべての言語に共通して存在する『残り香』を利き分けることで、その言語を身につけることができたということ。


 そして、『残り香』を利き分ける能力に長けた人物、あるいは利き分ける力が成人になっても鈍くならない人物は、多数の言語を習得することができ、そして、彼らのことを人々はポリグロット――多言語話者――と呼ぶようになった、ということ。


 俺は黙ってページをめくり続けていた。頭上のざわめきはもはや意識の外にあった。この文章を書いた人物が誰なのか、なんのために書かれたのか、俺には理解できなかった。ただ、一つ大きな不安が胸の中に生まれ、うずき、大きなしこりになろうとしていた。


「選ばれし人間たち」が、「世界の秩序を形作る」。


 彼らは、神代の言語を話すことができる。


 この本は、あろうことか、燕五使徒の存在を公に広く知らせているのだ。


「・・・読んだかい?」


 顔を上げると、店長と目が合った。


「いえ・・・」俺は本を畳むと、店長の胸元に本を突き出して言った。「何が書いてあるのか、俺でも分かりませんでした。」


「本当か?むさぼるように読んでいたじゃないか。」野次馬の一人が口を尖らせて言った。


「顔色が悪い。大丈夫かい?」もう一人は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。俺は迷惑そうにその男から顔を反らし、店長を見て。


「あの・・・これ、返します。リァン、どこにいますか?」


「まあ、待ちなさい、夏君。」


 店長は、俺の差し出した本を手に取り、上下を逆にすると、再び俺の両手のなかに収めた。店長の重ねた手のひらは温かかった。


「話したくないのなら、話さなくて良い。私は気にしないからね。だけれど、この本は間違いなく君にとって必要な本だろう。それは誰よりも君が一番気づいていることだ。持って行きなさい。」


 俺は目を丸くして。


「いや、でも・・・それは悪いです。」


「タダがいやなら、ツケ払いでも構わんよ。」店長は微笑んで。「それか、私からの贈り物として、受け取ってくれないかい。」


 俺は戸惑うように店長の表情を確かめた。店長は相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。邪気もなく他意もない、ただ人を和ませるためだけの真心の笑みに、俺の高ぶる気持ちは次第に解けていった。


「・・・・お代は、払わせて下さい。」


「いつでも構わんよ。」店長はそう言い。「それから、夏君。」


「はい。」


「先程も言ったけれど、この本を置いて行った青年は、今、君の職場に向かっている。今からいけばまだ追いつけるかもしれない。手間をかけてすまないが、一度彼に会ってみてはくれないかね。どうも何か事情があるようなんだ。」


「・・・・」


「好青年で、とても感じのいい男だ。きっと君とも馬が合うと思うよ。」


「・・・・」


 俺ははばかるように周囲を見上げた。俺たちの会話に飽きたのか、野次馬はやれやれとつまらなそうに解散し、何人かは再び奥のテーブルの席に腰掛け、新たな文学談話に花を咲かせていた。店員は忙しそうに客の応対をしたり、本の整理をしている。そんな、音に満ち溢れた空間の中に溶け込んでまぎれるように、俺は、そっと、店長に尋ねた。


「日本人・・・・なんですよね?」


 店長は俺を見た。そして、少し沈んだ声の調子で、こう口を開いた。


「私も日本人だよ、夏君。」


「・・・・ローペイは、別です。」


「どうしても、会ってくれないのかい?」


「すみません・・・」俺はうつむいて。「もう少し、時間が欲しいです。」


「でも、待っているんだよ、今、君のことを。」


「そんなの、相手の勝手な事情です。俺も俺なりの勝手な事情で動きたい。」


「・・・少し待ちなさい。」店長はそう言うと、カウンターの方へ向き、レジスターを開けると、また俺の方へ向き直った。手には一枚の紙切れがあった。


「連絡先、と彼は話したんだがね。私には落書きにしか見えないが、きっと君には読めるんだろう。」店長は、俺の両手にある本の上に、優しく紙切れを載せた。


「まだ、上海で会えると思う。その本を読んで、じっくりと考えてごらん。」


 俺は、紙切れに書かれた文字列を、さりげなく一瞥した。


 おそらく上海での宿泊先の住所が書かれた下に、律儀に形の整えられた漢字が四文字、並んでいた。



 葦原龍山



「あ、良くんが帰って来たよ、夏君。」


「あの・・ローペイ。一つ伺っても良いですか?」


 書店の裏口に向かおうとする店長を俺は呼びとめた。


「何かな?」


「その・・・この本、その人は、何冊置いて行ったんですか?」


「ええと、そうだね。少し待っておくれ。」


 店長は後ろに置かれた本の山から、俺の持っているものと同じ本を数え上げて、答えた。


「・・・君のを入れて、四冊だね。」


 奥から、中年を過ぎた女性に手を引かれて、髪の毛を短く刈った目の大きい少年が現れた。


「・・・ありがとうございます。」


 その子を片腕に抱き上げると、俺は店長に礼を言い、店を出た。来た道を戻らずに。

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