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第一章 轟音 その2

                     二              





「再履修決定、オメデトウ!」


 チンと湯呑みが軽くなり、中の緑茶がしばし揺れる。八重歯を見せてあかりはいたずらっぽく笑い、顔にかかった茶髪を手で払った。


「南条研究室」。あかりが食堂代りにしている部屋の正式名称である。普段は院生を交えて賑やかな研究室も今日は人気がなく、俺達二人の前で、部屋の主の南条先生が、急須からパックを取り出すのどかな光景があるのみだった。


「気にすることないよ。春日井先生はスパルタ教育で通っているからね。解けなくて当たり前。来年は好きな先生を選べるんだし、かえって好条件じゃないか。」


励ましに遠い南条先生の励ましに、俺は力なく頷いた。


「南条先生は春日井先生を目の敵にしてますもんね。」


 こっそりとあかりが付け足すと、小柄で恵比須顔の先生は若干眉を寄せて、


「それは違うよ」とたしなめた。


先生の豊かな腹部のあたりには、読みさしの中国史の論文集が整頓されていた。ほほえましい家族写真の掛った壁には木製の棚がもたれかかり、日本語や中国語や英語、その他に俺の知らない言葉の本がずらりと並んでいる。南からの穏やかな陽光が、三人の手許に陽だまりを生み出しており、俺には先刻の試験場よりずっと温かく感じた。今日も南条先生の口調は穏やかだった。白い湯気の立つ旨い茶を、俺は口に含む。


「春日井先生と僕は、学部時代の同期でね。」南条先生は俺に向かって話し始めた。「実は僕も一時は言語学を専攻していて、それから今の東洋史に転向したんだけど、あの頃の学生は今よりもっと元気があってねえ。僕と春日井先生は互いの研究にいちいち難癖をつけたり言い争ったり、時には組みかかったりもしたんだよ。」


 やわらかく白い手で教授は急須を脇に置いた。初孫の知らせで、元々少なかった角がさらに取れたこの教授が、あの老教官と取っ組むのはおろか、激論を交わすことさえ、俺には想像できなかった。


「だから目の敵とは言い過ぎだよ。ちょっと熱っぽい議論も、僕たちにとっては旧友どうしの挨拶みたいなものだからね」と、あかりの方を見て、教授は笑った。


「それで、先生方が学ばれていた先生っていうのは、どんな方だったんですか?」


 あかりの言葉に、俺は思わず大声を出して会話を遮った。


「あの、ちょっといいですか。」


「何だい。」口を開けたまま教授は俺を見た。出鼻をくじかれたあかりも――というよりも今の質問はわざとらしいに程があるのだが――若干悔しそうに睨んでいる。


 改めて考え直して見ると、言うも馬鹿ばかしいことに思えてきた。だが、言わなくても馬鹿ばかしいので、どの道同じだと思い、俺は声に出した。


「さっき――試験中に、列車の音、聞いたんです。」


「列車の音?」


「はい、轟音みたいな。」


 それから、俺は極力落ち着いて、事の始終を南条先生とあかりに伝えた。俺なりに結構順序立てて、難しい漢字も横文字も使わずに説明したつもりだった。なのに言い終わると、あかりは真顔で、


龍也(たつなり)・・・あんた、病的だね。」


と切り捨てて、口直しに緑茶に唇を浸した。それから膝の上の本を睨みつけながら、紙を結んだゴムの位置を修正し始めた。


 あまりに冷たい。


「お前なぁ・・・」


「あーそういうウジウジしたの、すっごくダメでさ。死ななきゃ治らないなら、いっそポックリいっちまったほうがましね。話しかけないで。感染(うつ)りそうだから。」


 俺はあかりに話したことを後悔した。


 南条先生は、中立的な溜息をつき、教師らしい助言を模索しているふうだった。決して俺の話を軽率なものとは考えてはいませんよと言いたげに、京阪は遠いから違うね、だとか、そもそも閉め切った三階で聞こえるのは不思議だし、どうして葦原君だけに聞こえたのかな、と疑問や感想を述べてくださったが、どれも俺に新鮮なものではなかった。結局この話は、あかりの、


「試験中、寝てたんでしょ。それで列車の夢でも見たんよ、龍也は。」


 という、俺にとっては全く不名誉な結論で幕切れとなってしまった。


 白けた場を取り繕おうと、南条先生がにじり寄って話し始めた。


「そうそう、(しょう)さんにはもう話したんだけどね」尚さん、とはあかりのことだ。「実は来週から中国に発掘に行くんだ。」


「・・・こんな寒い時に、ですか?」話題の転換に幾分傷つきながら俺は訊き返した。


「うん。ちょっと都合で早めるしかなくてね。どうやらそろそろ王都の中心部分を突き止めそうなんだ。」


「あの夏王朝の、王宮、ですか?」


「まあ、そんなところだ。去年と同じ場所なんだけど、今回も、どう、尚さんと僕とこの院生と来ないかい?今回は外国からも研究者がたくさん来るんだよ。」


 外国からと聞いて、即座に俺は、すみません、と断った。そうかい、残念だなと惜しむ先生にもう一度頭を下げたが、顔を上げる頃には、先生とあかりは発掘の話で大いに盛り上がっていた。どうやら完全に取り残されたようだ。


 南条先生は、古代中国の王朝、殷王朝よりもさらに古い、夏王朝についての研究で一躍有名になった教授だった。何でもウとかいう聖人の建てた王朝とかで、その実在については未だに賛否両論があるらしいが、あかりに引き連れられているだけの俺には、特に関心のない話である。


 俺は侘びしく茶を飲みながら、ふとあかりの手許の本が目に止まり、いっそう陰鬱になった。


『普遍言語の源流』


 黄ばんで、くすんで、糸が出て、挙句の果てにはカビ臭い、言語学の本である。


 初版が出たきり絶版となった、いわくつきの、あの(・・)論文である。


 はれやかに微笑んでいるあかりの顔が、急に妬ましく思えてきた。




            三




 せっかちに冬の太陽は沈んでいく。俺はオレンジ色の空を背景に、朱い鳥居をくぐった。大小様々な砂利の感触を確かめながら、本殿への階段まで静かに歩いていく。


 長い二人の会話がようやく終わり、研究室を出た後、俺はあの試験監督の研究室に呼び出された。「春日井研究室」の重たい扉を開くと、うず高く積まれた本の中から、白髪頭がぬっと突き出た。


 内容はほぼ予想した通りだった。君は一年間めっぽう顔を出さなかった。それで試験はこの有様だ(春日井教授は「下線部の意味を説明しなさい」という問題文の下に、「京阪遠い」とか「音の正体?」などと書きなぐられた惨めな解答用紙を差し出した)。これでは致し方ないが君を二回生に進級させることはできない。悪く思わないでくれ給え君の為を思って言っているんだからね、何せ英語が身についていないとこれからの研究で辛い思いをするだけだよ・・・等々。


 それから老教官の春日井教授は、葉一つない外の枯れ木を見ながら、湿っぽく呟くのだった。


「君は、私が気に入らないのかね。」


「俺を留年させて下さるのは先生の優しさだと思っています。」


 試験を落したくらいで人を憎む俗物じゃない、ハナから俺はあんたが嫌いなんだよ。そう言ってやりたかった。


「いや――そうではない。」春日井教授は言う。「いずれ、私の手を借りる時が来るんじゃないかと思ってね。」


「どういう意味ですか、それ・・・」


 年を召されたこの教授は、諦観した口調で、余韻を残して言う。


「君には、継いでもらわなくてはご遺志があるからね・・・」


 俺は、またか、と苦々しい気持になった。


 この春日井教授と、南条先生の師匠は、葦原(あしはら)龍山(りゅうざん)という名の言語学者だった。俺の曾祖父だ。そして「普遍言語の源流」の著者でもある。春日井の教授は、恩師である俺の曾祖父を尊崇しており、君のひいおじいさんは幅広い言語を研究するだけでなく、語学にも堪能だったと言ってはいつも、「それに比べて君ときたら・・・」という、決して言葉にされない愚痴が言外に滲み出ていた。鬱陶しいのもほどほどにしてほしい。俺と葦原龍山とは血の繋がりこそあれ、全くの別人なのだ。葦原龍山に出来て俺には出来ないことがあってむしろ自然である。なのにこの老教官を始め、世の中の奴らは、こんな簡単なことも分からないようだ。全く以てどうしようもない。


 しかも、自分の手を借りる時が来るとは、何と傲慢な物言いだろう。まるで俺の運命は手の内にあるかのようだ。そんなこんなで今日は教授の言葉に好い加減腹が立ち、心無い言葉を二、三教授に浴びせたら、老翁も血が上ったらしく、手許にあった論文集を無差別に俺に投げつけて追い出した。廊下を踏みつけながら、これが原因で退学になったらどうしようとやけに不安になったものの、今更あの屈辱的な研究室に戻りたくもなかった。きびすを返し、俺はエレベーターのボタンを押した。


 吉田神社の本殿の前に立ち、賽銭を投げて、手を合わせる。それが終わると、吊るされた絵馬の下に寄り、自分の掛けたのを探してみた。アホみたいにバカでかい字で、「文学部合格葦原」とあるから、すぐ分かる。受験前にこの神社に参拝すると必ず落ちるという物騒な噂が流れていたが、少なくとも俺は恩を受けている。その恩を俺は仇で返したことになるが。


 鳥居を抜け、そのまま道を上へ進んで行く。右手には大学の赤茶色の建物が離れて見える。下宿への道すがら、俺はふと葦原龍山のことを考えていた。


「あんたって、本当に自意識過剰やね。邪推も大概にしなよ。」


 正門の近くで俺の名前を読んでやってきたあかりに思い切って、さっきの本は嫌味かと尋ねてみたのだ。するとあかりは玉を転がすような手軽さで俺を笑い、別に龍也の前であえて読んでいた訳でなく、単純にあの本が面白いからだと答えた。あの分厚く汚い専門書の何が楽しいのかと怪しみ、その本の内容を要約してくれるように頼んだ。


「あんたのひいおじいさんはね」まるで春日井教授のような口ぶりであかりは言った。


「その言い方やめろ。『言語学者の葦原は』でいいから。」


「あ、そう。」あかりは続けた。「・・で、言語学者の葦原(・・・・・・・)って人はね、世界の全ての言語は、『神の(のこ)()』でつながっているって言ったんだよ。」


「残り香?」耳慣れない言葉に俺は眉をひそめた。


「あのね」あかりは言った。「ずっと昔、太古の昔、人間は、一つの言語だけを用い、平和に暮らしていたの。」


「何だよ、いきなり。」


「でも、人間は自身の力を過信し、無謀にも自然に挑戦しようとしたため、神の怒りに触れて、人間の言葉は、多種多様、バラバラになってしまった。互いに言葉の通じない人間は理解不足から戦争を始め、世の中から争いが絶えることはなくなってしまった・・・。」


 何かと思えば、『バベルの塔』のもじりのようだ。(たちま)ち俺は懐疑的になる。


「でもね。」ここからが大切とばかりにあかりが語気を強めた。「神様は、人間の言葉をバラバラにしたとは言え、全く新しい言葉を創り出したわけじゃないの。だから、どの言語も、どこか神代の時代の人間の言葉に似ている――つまり、言葉が一つだった頃の言葉の名残があるわけ。それを『神の残り香』って呼んでさ。今の言葉は、クッセツゴやコウチャクゴ、コリツゴってうグループに分かれているけど、それは言うなれば、神の残り香の濃度の違いで分化していったってわけ。」


 脳裏であかりの言葉をぐるぐる巡らせながら、俺はただ、うちの家系にクリスチャンはいなかったよな、とだけ確認した。


「まだ生まれて間もない赤ちゃんは、神に近い存在でさ、神の残り香を『利き分ける』ことができるから、言葉を習得できる。でも俗世の汚れにまみれた大人達には、残り香に気付く能力が少ししか残っていないから、成人後の言語習得は難しい。そういうこと。」


「それが、その本に書いてあること・・・?」


「うん。」軽くあかりは答えた。「――分かった?」


「全然。」素直に俺は首を振る。


「だろうね。」


 期待通りの俺の返答に、あかねは意地悪く笑った。それでも、俺の留年を歓迎してくれた時よりも、幾分悪意の少ない笑みだった。


「そんな嘘みたいな話、本当に学者たちが信じてるのかよ?」


「さあね。」短く言ったあと、あかりは妙に湿っぽくなって言った。「信じなきゃダメな人だけ信じればいいんだし。この話をしたの、南条先生と、あんたくらいだよ。」


 そろそろ染め直しの時期の前髪を、鬱陶しそうにあかりは払った。


「そんで、結局、発掘――行かないの?」


「おう。」


「旅費は全部出してくれるってのに?」


「そんなんで釣られる俺じゃねえ。」語気を強めて俺は言い返した。


「あ、そ・・・」仏頂面は髪を撫でた。「じゃ、次会うのは新学期かな。」


「かもな。」忽ち語気が沈んでくる。「少なくとも授業では会わねえけど。」


「だろうね。」


 あかりは満面の笑みで俺を見上げ、お土産はあんまり期待するなよと言い残し、北風に乗って足早に去って行ったのだ。


 葦原龍山。俺の眼前に浮かぶ、忌わしき文字列。念願の志望校合格を果たした後、俺の命運は尽きていた。「葦原」の名に周囲の注目度と期待感は高く、俺が葦原龍山の曾孫だが全くの無能であると知った時の失望感はその比では無かった。俺の所為ではないのに。勝手に注目され、期待され、失望され、無視された。俺は龍山と龍山の話をする奴が、憎かった。


 それにしても、何と荒削りな理論なのだろう。|神代〈かみよ〉の言語?「残り香」を利き分ける?いくらでも反証のできそうな、おそらく「理論」と呼ぶにはあまりに稚拙な主張が、どうして本になり、世に出て、龍山を一躍有名にしたのだろうか。いや、あの本は初版で絶版になったのだ。やはりあの本は学会では見向きもされず、別の研究で龍山の株を上げたのだろう。少なくとも、親から聞いた龍山の話では、こんな夢想みたいな学説は発表していないのだし。


 どうも馬鹿ばかしくなり、龍山を一笑してやろうと思ったら、冷気に凍えて、くしゃみが出た。


 試験が終わり、春休みが来る。


 試験は終わり、俺は留年である。


 下宿に戻ると、ふと耳に、再びあの轟音が小さくこだましていた。しかし、それは単なる耳鳴りに過ぎなかった。萎えた気分のまま、俺は敷きっぱなしの布団に倒れこんだ。



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