第五章 回帰
第五章 回帰
一
血のような朝日が東の空に昇った。上海への列車を待つ俺とムヨンの脚に投げかけられた、一筋の陽光。嫌がるように、ムヨンは脚を長いすの下にしまいこんだ。
不運な同行者である俺たちの大学側の教官は、一晩かかった荷造りに力を使い果たしたのだろう、努力の証の詰まるボストンバッグに頭をうずめ、一時間前から隣で鼾をかいていた。
発掘調査への参加を拒まれた俺たちは、残された滞在時間を少しでも有効に使えるようにとのことで、上海の復旦大学へ戻されることになった。南条先生の温情と言ってよいだろう。こんな何もない片田舎で発掘調査を続ける残りの院生たちの方が、発掘調査という本来の目的を忘れて、大都会に行けるということで俺たちを羨ましそうな顔で見ていた。けれども、俺たちは沈んだ顔をしていた。当たり前だ。引率の先生はいるとはいえ、見知らぬ土地の見知らぬ大学で、よそ者扱いされながら、ただ流れゆく時間を、何の目的もなくホテルや大通りや河畔でつぶさなければいけないのだ。檻はなくとも監獄に変わりない。
俺とムヨンは、宿舎を出て、車に乗って世界鉄道の偃師駅へ行くまでも、それから切符を買ってホームの長いすに腰を下ろしてからも、一言も言葉を交わさなかった。俺とムヨンの間にある沈黙は、ある意味では暗黙の紳士協定のようなもので、容易に破ることが出来ないというよりは、他愛ない話題で軽々しく破るべきではないもののようだった。どちらの胸中にも、ほぼ確信に近い疑念が浮かんでいた。それについて言及することは簡単でも、どのように切り出すべきであるかというところでお互いに迷っていた。それなのに、顔は意地悪いほどに冷淡で、まるで何も悩みなどないかのようなそぶりをしていた。そのせいで、余計に会話を切り出せない。そんな沈黙の悪循環が何重にも輪を描いていた。
「・・・これから、どうしようか。」
言葉は、口に出してしまうと、あまりに些細で貧相なものになってしまった。
ムヨンは向こう側のプラットホームを眺めながら、一分くらい経ってから返事を返した。
「どうするかも、どうなるかも、言っても仕方がないだろ。」
ムヨンは両膝の上に両肘を載せ、両手で顎を支えたまま、また暫く沈黙に浸っていた。
「そうは言っても・・・」
「なあ。」ムヨンは起き上がり、教官の頭がボストンバッグに埋没しているのを確認すると、小さい声で俺に言った。「・・・龍也は、持ってないんだよな、あれ(・・)。」
「・・黒のやつと一緒に、南条先生が保管していると思う。」頷いてから俺は答えた。「両方とも、ムヨンが持っていたから――」
ムヨンは返事をする代わりに、デクレッシェンドしていく溜息をついた。
「あのさ――」ムヨンは言った。「俺がいつ、龍也が仲間だって分かったか、知りたい?」
俺が黙っていると、ムヨンは続けた。
「俺の耳には、どの言語も韓国語にしか聞こえない。中国側の先生が話している言葉も、南条先生たちが話している言葉も、全部。だけど、龍也と俺が話しているとき、あかりが、俺は日本語で話しているのにお前は韓国語で話している、って言った。こんな奇妙なことが、無意識的に起こるのは、『ツバメ』の奴ら以外にいないだろうって思ったのさ。」
「でもよ・・。」俺は口を開いた。「『ツバメ』の仲間って言ったって、世界のどこにいるか分からなかっただろ?俺と会ったのは、かなりの偶然だったってことか?」
「そうか、お前、聞いていないんだな。」ムヨンはグレーのハンチングを脱ぎ、両手でいじりながら、徐々にに話し始めた。
「俺の先代様から伺ったんだ。そのお人はもうかなり高齢でいらっしゃるけれど、若い頃、臨時政府の活動場所に出入りしていた時に印綬を継承されたらしい。詳しいことはおっしゃらなかったけれども、どうやら前回の封印は失敗したらしくて、そのせいで今回は厄介なんだそうだ。」
次第に、周囲に乗客の影が見えてくる。
「でも、先代様のお考えでは、新たな使徒は、前回の活動が途中で失敗に終わった場合、その活動の途切れた場所に集合することになっているとのことだった。当時の臨時政府があったのは、上海のフランス租界。」
「だから、上海に寄ることになっていた、今回の研修に参加したのか。」
「それもある。でもそれだけじゃない。」ムヨンは言った。
「他にもあるのか?」
俺が尋ねると、ムヨンは横に置いていたリュックサックを膝に載せて、ノートパソコンの入ったソフトケースを取り出した。パソコンを取り出し、起動する。メニュー画面が表示されるまで、俺たちは黙って黒いディスプレイを眺めていた。やがてスタート画面が表示されると、ムヨンは手早い操作で、あるフォルダに入った画像ファイルをクリックした。画像が拡大表示される。
「これは・・・」俺は思わず呟いた。
世界鉄道の路線図の上に、一羽の若いツバメが飛んでいた。
「これは写真で、現物はここにはない。」ムヨンは静かにそう言い、俺が画面をのぞいているのを感じ取りながら、ゆっくりと話を続けた。
「以前、東京にいる友達に会いにいくついでに、神田の書店街に行ったことがあるんだ。そこには中国関連の書籍を扱っているので有名な本屋があってね、その昔、まだ中国に列強の租界があった頃、上海でお兄さんが本屋を開業したんだって。神保町にあるのは、弟さんの方。」
「その本屋、名前は?」俺は尋ねた。
「外山書店だよ。」ムヨンは答えた。「知っての通り、俺は中国古代史の専門だから、中国語書籍でそういう本もあるかなと思って、興味本位で行ったんだ。そうしたら、この絵が壁に飾ってあった。」
俺は、ムヨンのパソコンのディスプレイをしげしげと眺めた。
「偶然にしては出来すぎているだろう?中国、上海、そしてツバメ。俺、店長に伺ったんだ、この絵の来歴を。そうしたら、店長はこうおっしゃったんだ。これは、上海にいるときに、ある若者から、店の一番よく見えるところに飾っておいてほしい、仲間が気づくようにって頼まれたものなんだって。」
「仲間・・・か。」
「外山書店は、『エキステンション』って呼ばれた、租界の外にはみ出た領域があったんだけど、そこにあった書店だったんだ。上海租界に初めてくる日本人は、とりあえずここに来れば会いたい人間や情報に触れることができるから、日本人はもちろん、中国人や西洋人も出入りしていたんだ。」
「それで、その本屋に行ったのか?」
「ううん。書店自体は二回目の上海事変の時に閉店して、もう残っていないんだ。」ムヨンは俺の方を振り向き、いつものような柔らかい笑みを浮かべた。「だけどさ、きっと先代様方はそこを集合場所にしたんじゃないかと思ってさ。ツバメの仲間を集めるには、充分すぎる場所だろう?」
ムヨンの言葉に続くように、構内にアナウンスが流れだした。俺たちの列車が来るようだった。
「もしかして・・・そこでタイガーさんと会ったのか?」
ムヨンはパソコンをシャットダウンすると、それを畳み始めた。
「ヴァンランのさ、あの余裕っぷりに時々怖くなるんだよな。ならない?」
「いや・・・むしろいつもそう思ってるけど、俺は。」
「魯迅公園で初めてあいつを見かけたときも、何故か飄々としていてさ。今からちょっと博物館に印綬を取りに行ってくるって、まるで家に忘れ物を取りに帰るような口ぶりだったもんな。」
隣の引率者の鼾がぴたりと止んだ。あらかじめタイマーをつけておいたように、列車が入場する直前に、教官はむくりと重たい体を起こした。
「・・あのさ、やっぱり気になるんだけど・・・」俺は、寝ぼけている教官に聞こえないようにムヨンに言った。「三つの印綬を置いたままにして、俺たち、帰っていいのか・・・?」
「だから、言っても仕方がないって、最初に言ったじゃないか。」声量を無視して、ムヨンが相変わらずの大きな声で答えた。「とにかく、ヴァンランに出会わなきゃいけない。次の作戦を、ヴァンランは考えていると思うから。」
重装備の長距離列車が、唸り声とともに、堂々とした足取りでホームに入ってくる。機械音を立てて、列車の扉は、俺たちの目の前に停止した。
「じゃあ・・・乗りますか。」
引率者が瞼をこすりながら言った。欠伸には真夏の朝の熱気がこもっていた。
南条先生やあかりたちは、許可が出るまで、遺跡の別の発掘調査を進めるらしい。駅舎を出たときに、あかりたちのいるホテルが窓辺に映った。俺たちは朝日に染まる町並みを眺めながら、乗り換え駅である洛陽駅に到着するまでの時間を潰していた。ムヨンと俺は再び黙り込んでしまい、ただ二人して、振り返って、背中に流れる風景を眺めていた。
洛陽駅に到着する。ここから、援蒋ルート線に乗り換えて、上海へと帰る。上海に着くまでは一日以上かかるから、その分、上海での自由時間も減ることになる。教官は良くも悪くも俺たちに大した興味を持っていないらしく、長いすにゆったり腰掛け、持ち合わせた中国語の本を開き出し、俺たちが乗り換え列車の到着するまで構内をうろつくことを全く気に留めていないようだった。
十五分ほどして、菓子類を適当に買った俺が教官のもとに戻ってくると、まだムヨンは来ていなかった。十六連の列車が音を立てて入場してくる。列車の停車時間は五分ほどあるが、その間に果たしてムヨンは帰ってくるのだろうかと気をもんでいると、階段を駆け下りてくるタンクトップ姿の男が目に入った。俺たち三人は、行きに乗ったのと同じ、木目の美しい内装をした六号車の車内へ足を踏み入れる。俺とムヨンの部屋は一緒で、教官はその隣だった。列車は定刻どおりに洛陽駅を出発した。
「・・・遅かったな。」
何の気もないふりをして、俺はさりげなく言った。
すると、ムヨンは左手を前に出して、
「少し待て。」と短く言った。
「・・・何を?」
ムヨンは手招きした。俺は椅子に腰掛け、ムヨンの方に顔を近づけた。
「ヴァンランに、さっき会った。俺たちがこの列車に乗ること、伝えておいた。」
「本当か?」
「もう暫く経ってから、全部の荷物を持って、車掌室に行こう。」
「・・・車掌室?」俺は顔をしかめて。「何でだ?タイガーさん、世界鉄道の服を着ていたのか?」
「いや。」ムヨンは言った。「けれど、そうあいつに言われたんだ。次の駅を出てから、検札が来る。それが終われば、なるべく早く、三号車の車掌室に来てほしい、ということだ。」
「・・・分かった。」
腑に落ちるものは一つもなかったが、俺はとりあえず頷くことにした。
列車が次の駅に到着した。小停止の後再び出発すると、やがて検札のために車掌が入ってきた。俺たちが机に置いていた切符を手渡すと、車掌は丁寧にスタンパーの間に切符を挟んた。洛陽からのお客様ですか、洛陽はいかがでしたか、と、女性の車掌はにこやかな笑みを浮かべて感じの良い口調で俺たちに尋ねかけた。ムヨンと俺はそれぞれ適当に返事を返した。そう言えば、この車掌は何語を話しているのだろう。そして、何語を話しているのであれ、俺はそれを日本語の響きで、ムヨンは韓国語の響きで聞き、理解している。何だか不思議な気持ちだった。
車掌が部屋を出て行く。二人で考えただけの間を空けて、ゆっくり部屋の扉を開けると、車掌がちょうど隣の車両へ入っていくところだった。三号車は逆の方向にあり、複数人の車掌が乗っているとはいえ、あの車掌が検札を終えて車掌室に戻ってくるまではまだ十分に時間がありそうだった。俺はカバンを、ムヨンはスーツケースを持ちながら、あたかも今の駅から乗ってきた客であるかのようなそぶりで、すれ違う客の視線を無視して、三号車へと足を進めた。
三号車の客室の終わりに、丸窓のある幾分小さな扉があった。中は何も見えない。客室との作りの違いからして、どうやらここが車掌の使う乗務員室らしかった。客の往来の流れが途絶えるのを見計らって、俺はノックをした。反応がないので、ムヨンを見上げたが、ムヨンは表情を変えず、ただ、俺を見ていた。俺はドアノブに手をかけると、ゆっくりと奥へ向かって扉を押した。
暫く、中の様子が見えなかった。俺は思い切って扉を全て開けることにした。恐る恐る、足を踏み入れる。ムヨンもその後に続いて入ってきた。扉が閉まる。車輪が線路を叩く音が、吸い込まれるように扉と壁の隙間へと消えていった。
「タツナリ君。」
目の前に立っていたのは、ヴァンランだった。いつものパナマ帽を頭に載せて、相変わらずの如才ない笑みを顔に浮かべていた。
「少し遅かったね。今から呼びに行こうかと思っていたんだ。」
ヴァンランの他に、その部屋には二人の影があった。俺はヴァンランを見て。
「どうして、車掌室に・・・?」
すると、ヴァンランは後ろを振り向き、暗い車掌室の中にいる二つの影の方に手を差し伸べて答えた。
「それは―――こちらの方のかねての依頼だよ。」
「こちら・・・?」
俺はヴァンランの手の指す方を、目を凝らして見つめた。徐々に目が慣れてくる。先にムヨンが声を漏らした。やがて、俺もその影が誰のものかに見当がついた。
「チャン・・・」
そこに立っていたのは、紛れもなく、大柄の世界鉄道の制服を窮屈そうに身を包んだ、あのチャンだった。
ただいつもと違うのは、グラサンをかけていないということだけだった。それだけなのに、チャンの表情は、今まで見たよりもずっと穏やかなもので、本人かどうか自信を持てなかったのもそれが原因だった。
「・・・と・・」
チャンの隣には、もう一つの影があった。
「・・・ワンさん・・・?」
「・・そうか。『チャン』か・・・」静かにチャンは呟いた「そんな名前で呼ばれていたんだっけな、俺は。」
そして、寂し気にヴァンランの方に目を向けて。
「・・もう、この記憶も、戻ってこないんだろうな。」
「・・そうでしょうね。」静かにヴァンランは頷いた。
「この制服・・・」チャンは紺地のブレザーに走る箒星の尾を眺めながら。「これが、今の俺には、最後に残った記憶になるんだろうな。・・お?」
チャンは顔を上げて、俺の方を見ると、柔らかに笑って言った。
「心配するな。お前のことも、まだ覚えている。龍也。」
「・・・ちょっと、待ってください、タイガーさん。待てよ、チャン。」俺は慌てて口を挟み。「何言っているか・・・俺、さっぱり分からないんだけれど。」
「俺もだ。」ムヨンもヴァンランを見て。「この人たちは・・・誰なんだ?」
するとチャンは、目力の和らいだ優しい眼差しで、俺たち三人を見下ろして。
「龍也。そして、他の使徒のツバメたち。」
そしてこう続けた。
「俺が、前回の黄の玉璽の持ち主の、夏文命と言う者だ。宜しく。」
「・・・ウェンミン?」
訳が分からなかった。俺は訳が分からなかった。
目の前にいるのは、どう見てもチャンなのに、その男は違う名前を名乗っていた。そして名前が変わったのに合わせるかのように、心なしかその男からチャンの特徴が一つひとつ消えていく気がした。
「夏、文命・・・」ムヨンは独り言のように呟いた。「そんなこと、先代様もおっしゃっていた気がします。でも、なぜ貴方が俺たちと同じ時代に、それほど若い姿で生きていらっしゃるんですか?」
ムヨンは、この状況において、俺には真似できないくらい冷静な口調でそう尋ねた。
「それはだな――」
「『印綬を託された者は、その任務を果たすまで、その一生を終えることができない。』」
チャンの代わりに、ヴァンランが訥々とした調子で答えた。
「夏さん以外の使徒は、封印をするという役目を一応は果たしたので、今はどなたも年を召され、ある方はすでに故人となられている。しかし夏さんは、使徒の任務を帯びているさなかに事故に遭い、命を落とすことになった。」
「そうだ。」その後はチャンが引き継いだ。「だが、印綬を持った以上、俺は任務を果たすまで死ぬことはできない。そこでどういうわけか、俺は印綬のもたらす記憶の力によって、俺のいた時代から五十年ほど後の時代――つまり、俺の記憶がないはずの時代――に、飛ばされることになった。永遠に、時を刻まない身体とともに。」
「記憶の力・・・?」
「印綬が一種のタイムマシンになりうる能力を持っていることは、二人は昨日実践したことから理解できるよね。」ヴァンランは言った。「僕の印綬は過去にしか戻れないから、君たちと過去で会えなかった後、三日間僕は時間を潰さなければならなかったんだよ。」
「俺の持っているのは、黄の玉璽。」そう話すチャンの右手には、黄金にきらめく印綬があった。「この印綬は、五つの印綬の中心を占めるもので、それゆえに四つの印綬の全ての能力を備えている。すなわち、全ての言語を読み、書き、聞き、話せる能力と、過去と未来を自在に移動することのできる能力。時を支配したという中国の皇帝にふさわしい印綬だろう。」
チャンの落ち着き払った様子に、俺は言いようのない恐怖を覚えた。
「待て・・・じゃあ・・チャンも、『ツバメ』だったってことか?」
「そういうことになるな。」
「じゃあ・・・どうして今まで言わなかったんだ?」俺は続けた。「あれだけ『ツバメ』のこと気にしていたのに・・・俺がその一員だってことも、チャンが一員だってことも、一切言わなかったのはどうしてなんだ?」
「・・・落ち着け、龍也。」チャンは俺の肩に手を置くと、静かにこう続けた。「・・・それから、俺はチャンじゃない。存在しない奴の名前だ。」
「・・・イチローには・・?」
「上海を出る前に、奴からは、俺に関する一切の記憶を抜いておいた。だから今頃は、あの駅の部屋に一人で住んでいることだろう。それに何の疑問も抱くことなく。」
「そんな・・・」言葉が続かなかった。何かが、喉につっかえて。
「夏さんは、『ツバメ』のことを知っていて、あえてタツナリ君に言わなかったわけではないんだ。」ヴァンランは言った。「自分がツバメであるということを、忘れてしまった、ということを、忘れてしまっていたんだよ。」
「・・・忘れたのを、忘れた・・・」いつかチャンに言われた台詞だった。
「タツナリ君。君が中国に来た理由、以前に少し話したよね。」ヴァンランは続けた。「この時代の夏さんに出会い、夏さんに、忘れた記憶をよみがえらせてもらうこと。それが、君がここに来た理由なんだ。」
「忘れた記憶を、よみがえらせる・・・?」
「ああ。」チャンは言った。「俺が使徒であることを自覚していなかったせいで、使徒の司令塔たる黄の玉璽が次の使徒に継承されることができなかった。そのため、次の継承者は、印綬の持つ能力を、不完全にしか享受することができなかった。・・・つまり、話す能力を失い、どの言葉も読み書きできる能力だけ得ることになってしまった。」
「・・・それが・・・」
「そうだ。」チャンは、腰かけているワンさんの肩に手を差し伸べながら言った。「次期継承者である、夏華――俺の曾孫――に、この玉璽を渡すこと。これが、封印という任務を果たせなかった俺が果たすことのできる唯一の任務であり、これをもって、俺はこの時代から消えることができるんだ。」
「曾孫・・・?ワンさんが、チャンの・・・・?」
ワンさんは、いつもの円らな瞳で、静かに俺を見つめていた。
ワンさんから手を離すと、チャンはため息をつき、ヴァンランの方を見た。
「白の陽綬――ということは、お前はヴァン・ランという名前なんだな。」
「ええ。グエンと申します。」
「どうやらいささか話しすぎたようだ。龍也はかなり混乱している。」
「そのようですね。」
「それで、時間があれば、俺が消える前に一度だけ・・・お前たちに俺の記憶を見てもらいたい。その方が話が早いだろうから。」
「分かりました・・・」ヴァンランは腕時計に目をやりながた。「・・大丈夫です。過去にさかのぼってから、また今この時間に戻ってくれば、車掌が帰ってくる前にこの部屋を出ることができると思います。」
「了解した。」
黄色い印綬を持ったチャンは、向き直り、動揺する俺の前に屈みこむと、印綬を握った右手を静かに俺の額の前に差し出した。
「見ろ、龍也――これが俺の記憶だ。」
印綬と俺の額との間のわずかな隙間に、かすかに、心地よい冷気が流れていった。俺は瞳を閉じた。額に印の部分が触れた。その時、熱を帯びた俺の頭に触れた印綬が、溶けていくのを感じた。ひんやりと冷たい印綬は、硬い金属から姿を変えて、水銀のようなものに形を変えて、俺の頭の中へ染み込んでくる。それと同時に、瞳を閉じた俺の目の前にあった暗黒が、徐々に光を帯び、やがて話し声や機械の音とともに、色のある世界へと変わっていくのが、ありありと分かった。
・・・・。