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第四章 出立 その7

 南条先生と数人の院生は、夕食のあと、鉄道用地内の立ち入り調査の許可の説明を受けるために、世界鉄道の最寄り駅まで車で向かうことに決めた。その一団の中にはあかりの姿もあったが、ムヨンはいなかった。俺は朝から夕まで続いた発掘作業に疲れ果てていたので、宿舎に残ることを即断した。


 宿泊部屋の室内で俺を迎えたのは、旅行用の荷物と干された洗濯物だけだった。二段ベッドの一段目には、寝転がっているはずのムヨンが見当たらない。その理由も見当たらない。とにかく、ベッドで横になって、持ってきた中国語の本でも読みながら眠りにつこうかと思って梯子に手をかけたが、大幅に増えた夜の自由時間を寝転がって過ごすのは有意義でない気がして、俺はスリッパを履くと、部屋の扉を開けた。


 長い廊下を独りで歩いた。女子の部屋の方では残った院生たちが酒盛りを始めたらしく、笑い声や叫び声が廊下まで届いてきた。明かりをつけ、便所で歯を磨くと、俺は両足の思うに任せて、階段を昇り、徘徊を続けた。


 不思議なことに、この時俺の頭には『ツバメ』だの印綬だのという事柄が一切巡っていなかった。肝心の宮殿遺跡を本体が世界鉄道の用地の底に埋もれている。それに、大学教授であっても、世界最大の鉄道の私有地への立ち入り調査許可を得ることはどだい無理な話だろうと感じていた。こんな確信のこもった安心が、神宮の封印が解かれれば世界が破滅に向かうかもしれないという非現実的なものへの危機感を、淡く些細なものへと変えてしまったのだと思う。


 足は三階で階段を昇るのに飽きたようなので、俺は爪先を廊下に向けてやって散歩を続けた。三階には教授たちの部屋がある。しかし、明かりは消えている。中国側の研究者や俺たちに随行している大学の教員の部屋も、闇の中で静まり返っていた。その静寂が不気味だったので、小心者の俺はここでも明かりをつけた。


 何かが動いた。


 見えたわけじゃない。聞こえたわけでもない。ただ、俺が明かりをつけたことに、誰かが驚き焦った、そんな気配が俺の腕に触れたのだ。周囲は光で満たされたのに、俺は不安感を拭い去ることができなかった。


 その気配の正体は、すぐに俺を襲ってきた。


「・・何だ、タツナリだったのか。」


「何だ」の「な」の時点で、俺の足は思わず跳び上がった。


「・・ムヨンかよ。」


「驚いたろ?」


 黒いハンチングを被ったムヨンは、俺の蒼い顔を見て、したり顔をして笑った。


「タツナリも、説明を聞きには行かなかったんだね。」


「ムヨンも?」


「俺、疲れちゃったから。」


 ムヨンはシャワーを浴びてさっぱりした顔で言った。その肩にはナップサックがあった。


「・・でも、今から出かけるところじゃないのか?」


「どうして?」


 俺はムヨンの肩を指さした。


「ここに戻ってきて、そのままシャワーを浴びに行ったんだ。」


 Tシャツではなく黒のタンクトップを着たムヨンが言った。


「着替えは持って行ったのか?」


 俺は、明かりのついていなかった南条先生の部屋の扉に、隙間があることに気付いた。


「部屋に帰ってから行ったんだよ。」ムヨンは少し顔をしかめ、ハンチングに手を当てた。


「施錠係は俺なのに?」


 俺の言葉に、ムヨンは眉をひそめて言った。


「・・・どうしてそんなにしつこく訊くんだ?」


 ムヨンの目つきに、俺は答えに窮した。ムヨンに睨まれたのはこれが初めてだ。


 妙な考えにとらわれてしまったのかもしれない。俺は反省を示すように目を伏せた。


 まだムヨンの視線を感じていた。黒いハンチングに、黒いタンクトップ、そして黒のナップサックのムヨンは、光の灯る廊下に置き去りにされた影のかけらみたいだった。視線を反らし、俺はムヨンの足元を見ていた。


「・・・バレバレなんだよ、お前。」ムヨンの表情が変わった。静かにムヨンは俺に笑って見せた。


「・・・何が?」思わず顔がこわばる。


「龍也。お前さ。」


 そこには、昼間に垣間見た、決然とした表情のムヨンがいた。淡泊な笑みを浮かべて、ムヨンは続けた。


「俺のこと・・・疑っているんだろう?」


 沈黙が俺とムヨンの間を制した。俺は唖然とした顔でムヨンの顔を見つめていた。


「――行くぞ。」


 いきなりムヨンの足が俺の後ろへ向かって動き出した。


「――俺も?」驚いて俺は顔を上げた。


「こうなったなら、ちょうどいい。一緒に来い。」


 普段のムヨンの声ではなかった。幾分低く、押し通すような意思の強さがこめられた声が、険しく暗い表情に合っていた。襟首を強引に掴まれ、俺は倒れそうになり、急いで右足を後ろへ引きながら、


「ごめん・・疑うとか別に悪気はなくて――」


「そんなんじゃない。早く行かないと、時間がない。」


「・・ちょっと、離せ。独りで歩けるから。」何とかして俺はムヨンを振り切った。


「走るぞ。」


「――え?」


「いいから走れ!静かにだ。」


 そう言い、ムヨンは忍び足で階段を駆け下りていく。訳も分からないまま、俺もそのあとをついて一階まで下りていった。俺の知らなかった裏口からムヨンは星空の外へ出た。街は寝静まり、通りには車も通っていない。


「おいムヨン。」俺は背中に向かって小さく言った。


「・・・どこ行く気だよ?」


 俺の数歩先で立ち止まったムヨンは、考え込むようにうつむいてから、ためらいがちに俺の方を向いた。


「・・ヴァンランが、俺たちを待っている。」


 ムヨンは静かに、しかし明瞭な声で言った。「こう言えば分かるか?」


「ヴァンラン・・・?」


「――そうだ。」


「ヴァンラン、か・・?」


 さらにもう一度、俺はその名前を繰り返した。ムヨンの表情は、辺りが暗すぎて見えなかった。俺はムヨンに近づいた。ただこの時、自分でも思わなかった言葉が口を突いて出てきた。


「・・じゃあ、盗んだのかよ、それで・・・」


 先ほどとは違う意図で、俺はムヨンの肩を指さした。


「盗んだんじゃない。」さらにはっきりとした声でムヨンは言った。「取り返したんだ。」


 俺の返事を待たずにムヨンは続けた。


「俺は韓国人。黒の陰綬を継承された者。俺に継承されるべき物を手に入れただけの話だ。」


「待てよ。だめだ。危なすぎるって。」俺は慌てていた。「先生たちがいつ帰ってくるか分からないし、それに、使徒は五人必要なんだ。ヴァンランを入れて俺たち三人じゃ何も出来ないだろう?」


「そんなの分かってる。」暗い声でムヨンは言った。「だけどな、仲間が集まる前に危機が訪れるなら、それはたとえ三人でも俺たちの手で止めなければいけない。先代様がそうなさったように。」


「・・じゃあ、どうすればいいんだ?」


 俺の問いを聞いてかそうでないのか、ムヨンは前に歩みだした。


「つまり、現状で役目を遂行できる使徒は、青の陽綬のタツナリと、白の陰綬のヴァンランと、黒の陰綬の俺の三人だけということだ。玉璽の継承者が役目を全うできないのは前回と同じ。試しても無意味かもしれないのは分かっている。だけど、万一南条先生が用地の発掘許可を得て調査を始めたら、その後結末はどうなるか、龍也も知っているじゃないか。」


「でも、待てよ。」俺は足を止めた。「ここから歩いて発掘現場まで向かう気か?」


「いいや。」ムヨンは振り向き、俺の方へ近づいてきた。


「知ってるか、龍也。」そう言い、ムヨンは二つに割れた黒い印綬をナップサックから取り出した。街灯の明かりに照らされて、その印綬は幻想的な輝きを放った。


「この印綬には持ち主の記憶が収められている。そして、この印綬の記憶をたどることで、使徒たちは時間をさかのぼることができる。陰刻の印綬は過去へさかのぼることができ、陽刻の印綬は未来へ下ることができる。」


「印綬の記憶を通して・・・?」俺はムヨンの話の意味がよく分からなかった。「それ・・・タイムスリップじゃないのか?」


 ムヨンは二つに割れた黒の陰綬の片方を、俺の前に差し出した。「三日目の調査の間、この印綬をポケットに入れて発掘現場に行った。つまり、その記憶を辿れば、時間をかけないで過去に戻ることができる。ヴァンランには前もって話しているから、先に過去に戻っているはずだ。あいつの印綬も、陰刻の印綬だから。」


「ちょっと待てよ。」ムヨンの締まった腕が俺の額に伸びるのを、俺は急いで呼びとめた。「もしかして、それを持ち歩いたことがあかりに・・・」


「準備はいいか。」ムヨンは俺の声を制して続けた。「目を閉じて。印綬から流れる記憶に耳を澄ませるんだ。俺が数えるタイミングに合わせて。」


「ちょ・・・ムヨン・・」


「時間がないんだ。早くしてくれ。」


 有無を言わせず、俺の額に、冷たい印綬の欠片があてがわれた。俺は諦めた顔でムヨンを見た。街灯はムヨンの顔を半分だけ照らしていた。ムヨンも俺をじっと見つめていた。そして、ムヨンの右目が、徐々に閉じられていく。



「三、二、・・・・」


 ムヨンの低い声の秒読みに合わせるように、俺は瞳を閉じていく。


「一、・・・・」


 それ以上、ムヨンの声は聞こえなかった。


 突然、脚が宙を泳ぐような感覚に襲われる。


 目を見開いていないのに、頭上の街灯が俺をめがけて落ちてくるのが見えた。通りに並ぶコンクリートの無機質な建物も、大きくしゅう曲して、大胆に湾曲して、俺とムヨンの頭上に降りかかってきた。悲鳴は出なかった。喉が震えなかった。俺は目を閉じたまま、ムヨンを見た。ムヨンも目を閉じたまま、歯を食いしばって、流れる記憶の波に耐えていた。そして、いつの間にか、闇夜の漆黒は風に流されるように消え去り、俺たちはセピア色の光に囲まれて、消えていった―――



 ・・・・・


 ガソリンの燃える臭い。


 立ち上る黒い煙。


 そして、バケツをひっくり返したように飛び散った、赤黒い水たまり。


 重たい瞼を、ようやく自分の意思で開くことができた。


「おい・・・ムヨン。」俺の喉に声が戻ってきた。うつろな表情で俺はムヨンを捜した。視界は霧の中にいるようにまだ不確かだった。


「・・・ここ、どこだ?」


 俺の隣にはムヨンがいた。ちょうど俺と同じような反応を顔に浮かべていた。目を大きく見開いて、用心深く前後を確認している。


「・・・発掘現場じゃ、ないよな?」


「・・・ああ。」ムヨンは短く答えた。「多分、時代も・・・」


「時代も?」俺は目を丸くした。「おい、冗談はよせ――」


 視界が徐々に明瞭としてくる。それから、最初にアスファルトの地面に見つけた人の右腕に胴体が繋がっていないのを認識し理解するのに、俺は暫くの時間を割かねばならなかった。


「ムヨン!」俺は悲鳴を上げてムヨンの背中に飛びついた。「おい・・・何だよ、これ・・・どういうことだよ・・・」俺は叫びに叫んだ。とにかく、混乱しなければやっていけない状況だった。「俺たち・・・どうしてこんなところにいるんだ?」


「・・落ち着け、龍也。」肩に載せた俺の手に、ムヨンは自分の手を重ねた。震えている。それでも、ムヨンの二つの目はしっかりと目前の光景に向かって開かれていた。


 俺は恐ろしくて目をつぶった。瞳を閉じる瞬間に目に入ったもの―――骨だけになった車、奇怪な形に変形した人間の頭部、肉体のどこかの欠片、爆風で魂が吹き飛ばされたように、茫然と空を見つめるボーイ姿の男――の一切がっさいを、俺は記憶の履歴から消去したかった。不快な臭気が、垂れ流された揮発油に混じって立ち込める。これが、死体の焼ける臭いなのかどうなのか、そんなことを俺は考えたくなかった。


 視界から意識を遠ざけようとすると、俺の耳には背後で交わされる群衆たちの会話が入ってきた。


「さっきのはバンドの方に落ちたな。」


「ああ・・・パレス・ホテルの方から煙が出ていた。」


「何なんだ・・・租界に爆弾なんか落として・・・」


「見ろ、こっちもひどい有様だ。」


「早くけが人を助けるんだ!」


「おい、見ろ!」


 突然、後ろに構えた群衆の中から誰かが叫んだ。「あいつが落としやがった!見ろ!」


 ほとんど反射的に俺は顔を上げた。場違いに晴れた青空のもと、悠々と一機の飛行機が飛び去っている。ニュースや本で見るような、本物の戦闘機だった。パナマ帽の白人紳士、汚れた服を着た鼻の低い男たち、包帯を巻かれた婦人たち。さえぎるもののない空を飛ぶ戦闘機を見上げる人々の顔からは、一様に血の気が引いていた。


「なあ・・ムヨン・・・帰ろうよ。」俺は泣きそうになり、ムヨンの両肩にしがみついた。「俺たち、戦場に飛ばされたんだよ、きっと・・・その印綬のせいで!」


「待て。」恐ろしいほどにムヨンは落ち着いていた。「・・・聞こえるか?」


 彼の肩からは、既に震えは去っていた。


「え・・・?」


 俺はムヨンから離れ、放心したまま、とりあえずムヨンの言うとおりに耳を傾けた。


「リュウザン!リュウザン!」


 男のせわしない叫び声が聞こえた。


「リュウザン、もう遅い―――これ以上は危険だ。もう諦めよう!」


 黒い帽子を目深に被った背の高い背広の男と、細身の私服の男の体が、追い抜きざまに俺の体にぶつかった。そのことに一切気が付かずに、男たちはどす黒い煙の元へ向かって進んでいく。


「また次の空襲があるかもしれない。それで俺たちが死んだら元も子もないだろ!だから、もう、あいつのことは―――」


「諦めろって・・・ヒョンウンさん、正気ですか?せっかく大世界まで来たんですよ?」前方の男が不意に振り返った。「それに、ヒョンウンさんも、シアさんがいないと役目は果たせないこと、知っているじゃないですか?」


「それは・・俺だって分かってるさ。」切れ長の目をした男は落ち着きのない調子で続けた。「でも、この状況で生きている可能性は皆無だ。爆弾はちょうど上海駅の真上に落ちたんだ。遅刻して俺たちは命を取り留めたんだ。正気じゃないのはお前の方だ、リュウザン。」切れ長の男は帽子のつばを上げると、大きな空を眺めながら呟いた。「・・・この様子だと、ウェンミンだけじゃない、おそらく他の仲間も・・・」


 前方の男は黙って男の話を聴いていた。しかし、不意に決然とした表情を顔に浮かべると、全速力で再び煙の中へ走り始めた。


「おい、聞いているのか、リュウザン!」


「・・・リュウザン・・?」


 耳慣れた言葉に俺は思わず反応した。


「・・・これは・・・」二人の姿を呆気にとられて眺めていたムヨンが、小さな声で呟いた。「・・・先代の、記憶・・・?」


「ちょっと俺、見てくる。」


 ムヨンの返事を待たずに、俺は二人に続いて走り出した。その行動に、ほとんど俺の意志は伴っていなかった。


 死体の山々に焦点を合わせないように、やや上方を見つめながら、俺は男の背広を追いかけた。後ろから俺を追う足音が聞こえてきた。やがて二人は、通りの両脇の洋館が開けた場所で立ち止まった。彼らに合わせて俺とムヨンも左方に目をやった。一際壮麗な洋館が、真っ黒な煙に包まれ、紅蓮の炎にあぶられていた。


「これ以上は入ってはいけません。」俺たちはいきなり現れた男にそう制止された。男はターバンを頭に巻きつけている。隣を振り返ると、俺たちと少し距離の置いた場所で、先ほどの二人も同じように警官に呼び止められていた。


「現在消火活動を行っています。危険ですからここから離れてください。」


 警官の説明に重なるように、私服の男は大声で尋ねた。


「列車は・・・列車は、どうなっているんですか?乗員は?」


「頼むから落ち着けっ・・・リュウザン・・・。」背の高い背広の男が腕を男の脇に回して、懸命に引き戻そうとしている。その二人に、警官はいたく冷静に次のように答えた。


「現在、あまりに火力が強いために、救出作業が滞っています。爆弾の投下されたのは、長距離列車が出発して十分ほどしてからだったようですが――」


「違います。」男は警官の言葉を遮って。「僕が列車の発車時刻を十分遅らせたんです、運転士に頼んで。だから、まだ列車は出発していなかったんです。」


「そうですか――」警官は色の無い声で言った。「なら、乗客乗員を含めて、生存は絶望的でしょう。火の手はどうやら機関車から出ているようですから。」


「お願いです。入らせてください。仲間と待ち合わせしているんです。」男は背広の男を振り払い、ちょうど日本人がそうするように、警官の足元に跪くと、刈り上げた頭を何度もアスファルトに打ち付けて土下座をする。「お願いします・・・どうか・・・どうか・・・!」


 警官は黙ったまま、男の前を立ち去ろうとしない。そのうち、男の額が血で赤く染まってきた。慌てて後ろの背広の男が私服の男を立ち上がらせ、振り向きざまに、右のこぶしで男の頬を豪快に殴りつけた。男の体が宙に浮いた。これには警官も驚いたらしく、俺も思わず駆けつけようと体を動かしたが、ムヨンの力強い右手が俺を引き留めた。


「・・・なっ・・?」


「いい加減、お前も落ち着け。龍也。」静かにムヨンは言った。


「落ち着けって・・・この状況でよく落ち着いていられるな、ムヨン。」


「これは記憶だ。」


 その言葉に、俺はムヨンを見上げた。「・・・は?」


「今男を殴った背広の人。あれが、俺の先代様だ。」そう言い、ムヨンは手許の黒い印綬を俺に見せて。


「俺たちは、今、この印綬を通して、あの先代様の記憶を追体験しているんだ。だから、俺たちは何もするべきじゃない。ただ、この有様をしっかり見るべきなんだよ。」


「先代の記憶って・・・」俺は倒れた男を起こす背広の男を見守りながら。


「じゃあこれ・・・七十年前の・・・」


「いい加減馬鹿な真似はするな、リュウザン!」背広の男は、私服の男の両肩を掴んで叫んだ。


「もう、受け入れるしかないんだ。ウェンミンのことは、諦めるんだ。・・・生き残った俺たちだけでも、しっかり使徒の役目を果たそうじゃないか。それが・・・」怒鳴る男の声が、次第に上ずってくる。


「・・それが、今、俺たちのすべきことなんだ。・・・だから、頼む・・・もう、自分を責めるな。充分だ、リュウザン・・・。」背広の男は、そこまで言い終わるや否や、周囲の目を全く気にせず、嗚咽を交えて大声で泣き出した。


 私服の男は、緩んだ男の腕から体を抜くと、力なく振り返り、燃え盛る駅舎を、茫然とした瞳で、放心したように眺めていた。


「・・・・シアさん・・」男の口からひとひらの言葉が零れ落ちた。


「どうか・・・僕を、許さないでください・・・。」


 それが幕切れの合図だったのかもしれない。


 ムヨンの手に載せられた青の陽綬が、鮮やかな光沢を放って光り出した。再び轟くような音を立てて、目前の情景が俺たちの前を目にも止まらぬ速さで飛び去り始めた。そして俺の視線の先にいる二人の男も、台風の突風に吹き飛ばされるかのように、俺たちの後方へと物も言わずに消えていってしまった。


 ・・・・・


「朴君。」


 俺の前に、ムヨンがいた。ムヨンの前には、俺がいた。

そして、唖然として顔を見合わせる俺とムヨンの肩に、二本の手が重くのしかかった。


 南条先生だった。その後ろには院生や研究者たちが構えていた。


 俺はすぐに我に返った。ムヨンの手には、斜めに切断された黒の陰綬と、立方体の形をとどめた青の陽綬が、誰の目にも明らかなほどしっかりと握られていた。


 俺は返事をするより先に思わずムヨンを見た。ムヨンも驚くほど早く状況の危うさを把握したようだった。ムヨンは黙って斜め下を見たまま、硬い表情を崩さなかった。


「君たちの握っているもの―――確認させてもらえないか?明かりがなくて、見えにくくてね。」


 いつもの恵比須顔からは想像すらできない、南条先生の険しい顔、低い声。俺は心臓が止まりそうだった。南条先生の右手は俺の肩を離れ、ムヨンの右手に移ろりかけた。ムヨンがその手を払ったのはその直後だった。


「――嫌です。」


 静かな闇夜の通りに、ムヨンの声は一段と大きく響いた。


「・・・今、何と?」


 南条先生はいささか眉を上げた。そして、ムヨンを強く睨みつけた。南条先生の手はムヨンの右手こぶしを掴んでいる。ムヨンの右腕に血管が浮き出てくる。


「――嫌です、と言いました。」


 ムヨンは南条先生を正面から見据えたまま、冷たい口調でそう答えた。


 その瞬間、南条先生の右手がムヨンの頬を強く打った。


「ふざけるのもいい加減にしろ!」


 場の空気が一気に凍りついた。先生の後ろに控えた院生や他の研究者は、俺たちに向けていた疑心の目をやめ、驚いたように南条先生の方を一斉に振り向いた。


 ムヨンは、それでも、握った右手を放そうとしなかった。むしろ以前より一層強い意志で、その印綬を握りしめているように思えた。


「渡しなさい。朴君。」先ほどとは打って変わって、落ち着き払った南条先生の声が、俺たちの耳に届いた。「もう、これ以上、君に失望したくない。」


「嫌です。」


「まだ分からな――」


「これは俺の物です!」ムヨンは顔を上げた。


 ムヨンは大きな声で叫んだ。


「俺の物なんです。いや――俺たち(・・・)の物です。」それから、ムヨンはこう続けた。、「あなたたち(・・・・・)の物ではない。」


 ムヨンの一重が、この時ばかりは鋭い眼光を放って南条先生を射ていた。いつも優し気な空気を載せたムヨンの肩が、この時ばかりは上下に震えていた。感極まったのかと、俺は不安げにムヨンの目を見た。

きつい眼差しには、意志の強さ以外のものもあるということを、今のムヨンの言葉から俺は気づいていた。


「俺たち」の中に、俺はいないのだ。俺は、雑多な「あなたたち」の一人だった。


 そしてこのムヨンの目は、南条先生のみならず、俺にも向けられてしかるべきものなのだ。


 南条先生は驚いた様子を一つも見せず、感情の起伏を見せない暗く硬い表情のまま、睨みつけるムヨンを見ていた。


「『あなたたちの物』ではない・・・」ようやく先生は重たい唇を動かして。「確かにそうだ。だが、同時に君たちのものでもないだろう。これは人類全員にとっての宝だ。私たちは人類の歴史を探求する研究者として、この貴重な印綬を独り占めしようとするつもりは毛頭ない。要するに、朴君、君の今の回答は、研究者として言語道断の考えなんだよ。」


「先生、ムヨンはそんなつもりで言ったんじゃ」


「葦原君は黙っていなさい。」冷たい言葉が俺を無慈悲に刺した。


「・・・朴君。君には失望したよ。」顔色一つ変えず、南条先生はムヨンを見据えて言った。「学業優秀の君が、これほど独りよがりな人間だとは思わなかった。私の見込み違いだったようだね。すまないが、残りの日程の間は、現場には立たずに、宿舎で座学をしてもらえないかな。それと、葦原君。」


 南条先生の暗い瞳は、次に俺を睨んだ。


「この期に及んで朴君をかばおうとする君が私には理解できない。ということは君も彼と一緒にこの印綬をどうかしようと考えていたということかい。『俺たち』の言葉通り。君も朴君と同じようにしなさい。発掘現場にはもう、来なくていい。」そうして、聞こえよがしに、俺の一番聞きたくないことを、先生はひとりごちだ。「・・・君のひいおじいさまの顔に泥を塗りたくないのならね。」


 思わず俺は顔を上げていた。多分、すごい形相で南条先生を睨んでいたんだと思う。先生の目に、一瞬戸惑いが浮かんだからだ。南条先生に対する信頼と敬意が、その一言を引き金に崩れ去る音を俺は胸の内に聞いた。この人だけはと思っていた先生も、所詮は俗物に過ぎなかったのか。曽祖父(あいつ)と今の俺のしでかしたことは、何の関係もない。なのに今南条先生(こいつ)は・・・勢い余って目の前の小太りに掴みかかろうとしたのを、今度はムヨンの太い腕が止めた。


「・・・やめとけ。」


 ムヨンはハンチングを目深にかぶり、唇を真一文字に結び、うつむいたまま、それ以上何も言わなかった。


 その一言で、俺は急に熱が冷めるように正気に戻った。そしてどう見ても逆恨みにしか見えない今の俺の行動を恥じて、今度は素直に、南条先生に対して頭を下げた。


「・・すみません。もう少しよく見てみたかっただけなんです、印綬を・・・。」


 南条先生、あかり、その他俺たちを取り巻く院生の視線が冷たくて、表情が怖くて、俺は下げた頭を上げられなかった。


 ・・・お前も謝れよ。な、ムヨン。


 そう言うつもりで、頭を下げたまま、肘でムヨンの腕をこついたのに、ムヨンはうつむいたま微動だにしなかった。月明かりが、ムヨンの顎に伝う無念の雫を照らしていた。


 俺の謝罪が効いたのか、それとも南条先生自身も言葉ほどに事態を深刻に受け止めていなかったのか、南条先生はようやくいつもの穏やかな表情に戻り、もう分かったからもう頭を上げなさいと言い、こう続けた。


「まあ、今回のことは見逃そう。皆もそうしてあげよう、ね?結局、世界鉄道から許可は下りなかったから、発掘は今までの現場をさらに掘り下げるにとどまるし、残りの日程を暗い雰囲気で過ごしたくはないからね。ただ――二人に関しては、先ほどの通り、今回の発掘調査にはもう関わらなくていい。これで見逃してもらえるだけ良かったと思いなさい。」


 ・・・俺、いつ頭を上げれば良かったんだろう。結局、先生たちの一行が宿舎に入り、腰が痛くなるまで、俺は下ろした頭を上げることができなかった。


 最後まで、同じ誰かの視線を背中に感じていた。きっと、あかりだと思う。その誰かがきびすを返し、宿舎に入り、その足音がだんだん縮小していくのを耳にしてから、ようやく俺は頭を上げた。


 月が無性に、そして無情に明るかった。次々と灯る宿泊部屋の明かりで背中を照らしながら、俺はただぼんやりと中原の空に散らばる星々を眺めていた。何も考えていなかった。何も考えたくなかった。蒼穹が白み、赤い太陽が昇るまで、俺たちはそうやって立っていたかもしれない。


 突如、耳元に嗚咽が聞こえた。我に返って横を振り返る。


 ムヨンは泣いていた。


 ムヨンが、泣いていた。


 普段の姿からは想像出来ないくらい、激しい嗚咽を交えて、ムヨンが泣いていた。


 優しげな眼を真っ赤にして、ぬくもりの感じる眉をしかめて、お気に入りのハンチングを、腕の血管が浮き出るほどに握りつぶして、ムヨンが泣いていた。


 そこに居合わせたのは場違いかもしれない。いるべき人間は俺じゃないのだろう。普段とはムヨンの様子が違うのなら、きっとムヨンの内面も普段とは違う男になっているのだろうから。


 それでも、俺はそうするしかなかった。そうすることしかできなかった。


「・・・入ろうか。」


 俺より背の高いムヨンの揺れる肩に手を置いて、俺は呟いた。



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