第四章 出立 その6
水滴の浮き出る腕を上げ、手首の黒い時計を覗きこむ。まだ一時間半しか経っていない。俺は白日を恨めしそうに睨むと、力なく土の畦道に座り込んだ。
よほど皆さんの日ごろの行いが素晴らしいのだろう、発掘調査をするにはあまりに気前の良すぎる日光が俺の腕を首を赤銅へ焦がしていく。しびれてきた脚を放り出し、うつろな目でペットボトルの蓋を浸る。揺れる液面の向こうに、腰を屈めて発掘に勤しむ熱心な研究者たちの姿が映る。
「あのさ、ムヨン。」
「何?」
「これから残り一週間の予定が全部、『発掘』なんだけどさ。それだけやればかなりの物が出てくるんじゃないのか?」
「いや、一日掘ってみても何も出てこない時だってあるよ。徒労に終わる発掘なんてしょっちゅうだし。だけど、この場所から何か出てくることを信じて、黙々と掘り続けることが大切なんだよ。」
殊勝なムヨンの言葉が、冴えていく俺の脳裏に蘇った。どうやらムヨンの話は本当のようだ。各人が握っている袋の中には、まだめぼしいものは何も入っていない。それでも、学生も学者も、何一つ文句を言わず、自分の持ち分の発掘をしっかりと続けていく。ムヨンも、あかりも。俺は、周囲と自分の温度差に、幾分白けてしまっていた。こうやって日がな五メートルの正方形の中で発掘をするのに何か意味があるのだろうか。同じ一週間を過ごすなら、殺風景ながらも、少なくとも流れる時間を自分のものにできた、上海南京路駅の「隔離病棟」の方が良かった。水面が徐々に下がっていく。俺はその辺でペットボトルから口を離した。後先考えず飲みすぎたようだ。
バスは昼食の時刻になるまで戻ってこない。そのバスの停車していた方に、若干小高くもりあがった砂利道が広がっているのに、俺は今気づいた。ずいぶん長い間整地されていないらしく、雑草がのびのびと生えそろい、一見したところではただの草地と見まがうほどだ。また見つけた周囲の自然との奇妙なコントラストに、俺は眉間にしわを寄せて暫し興味を向けていた。
「龍也。」
後ろを振り返る。二つ向こうのグリッドに手を振るムヨンの姿があった。
「もう休憩?」ニッと白い歯を見せてムヨンは言った。
大きい声で言うなよ、と俺は口と眉を動かして合図を送った。
「適度に休んだ方が良いよ。今日、すごく暑いし。」
そう言い、ムヨンは首にかけたタオルを額へと伸ばした。
「何か出た、そっち?」
「ううん、何も。龍也は?」
俺は肩をすくめた。
「だろうね。まだ二時間もしていないし。」ムヨンは言った。「手伝おうか?」
「いや、いいよ。俺、一人でやるし。」
「そっか。」ムヨンは口元からタオルを離し、顔を別の方向へ向けて。「じゃあ、ちょっと尚さん手伝ってくるよ。」
「嫌がるよ、あいつ、絶対。何でも一人でやりたがるし。」
俺が口を尖らせると、ムヨンは笑って、
「まあ、じゃあ少しだけ様子見てくるよ。」
と言い、畦道に脚をかけ、端の方でしゃがんでいるあかりの方へ歩いて行った。
改めて見渡すと、遺跡はかなりの面積があった。グリッドもただの平地の正方形ではなく、礎石の跡らしい穴の空いたものもあり、さまざまだ。そして、左手に向かって若干広い道が遠くへ続いている。南条先生によると、宮殿へと向かう通りではないかという話だった。
土を丁寧に掘るはずの手が適当に動き始めたころ、ようやく昼食休憩の合図がかかった。研究者や学生たちがぞろぞろとバスに乗る。肌に当たる涼風がすがすがしい。暫くバスを進んだ後、ある小さな食堂に案内される。そこでは地元の方が手料理を準備して待ってくださっていた。
バスでは俺の隣はムヨンだったが、俺が手洗いに行っている間にムヨンとはぐれてしまった。食堂に戻ってくると、ムヨンが手を振って俺を呼んだが、ムヨンと同じテーブルにはあかりが座っていたし、俺より先に院生が座って埋まってしまった。仕方なく、いいよ、とムヨンに合図して、俺は手前のテーブルに腰掛けることにした。手料理を準備してくださった地元の歳を召された婦人が同席していた。
手料理は、すっかり空になっていた俺の胃を優しく満たした。俺のテーブルにはたまたま研究者の方が多くいたので、どの人も流暢な中国語でその地元の方と親しく会話をしていた。幸いにも、このテーブルでは俺は中国語が分からないと認識されているようで、自分たちの会話を親切にも一つひとつ研究者の方が日本語に訳してくださった。
そのうち、話題が地元の昔の話になってきた。地元の老婦人は、古い時の情景を眺めるように目を細めて、しみじみと話を始めた。
「私がまだ子供だったころです。この付近に、四人の若者がひょっこりやって来たんですよ。一目見て地元の人間ではないことは分かりました。地図も持たずにきょろきょろと不安そうに歩きながら、四人で固まって歩いていましたから。四人のうちの一人でも勝手に走り出してはいけないかのように、四人一緒になって歩いていました。物心がついてまだ間もないころでしたが、よく覚えています。地元の者でないどころか、中国人でもないかもしれないという話も聞きました。こんな場所に、若者が四人、何の用で来たのかと、村の者はみんないぶかっていました。でも、皆さん本当に親切な方でした。」
「その話は、私も以前別の方からお伺いしたことがあります。」ある日本の研究者が言った。「確か、今から七十年ほど前のことですよね?」
「もう、そうなるんですかねぇ。」老婦人は懐かしそうに笑った。
「何をしにきたんですか、その若者たちは?まさか、考古学者とか?」別の研究者が眉をひそめて尋ねた。
「分かりません。今皆さん方のいらっしゃっている発掘現場の近くへ向かったということは聞いたことがありますが。ただ、その場所から帰ってくるときは、あれだけ団結して歩いていた四人が、まるで他人かのように、一人一人別々に、別々の方角へ帰っていったらしいんです。私に流暢な中国語で話して下さった方に、一緒に来た人はどこへ行ったのかという尋ねたのですが、なんとその人は、私の言っている言葉の意味さえ分からなくなってしまって。私の分からない言葉で、しきりに何かを叫んでいました。その言葉を分かる人は私たちの村にはいなかったので、何とか身振り手振りで通じ合おうとしたところ、どうして自分がここにいるのか、帰り道はどこなのか、全く分からない、というようなことが分かったのです。」
「帰り道が分からない?」
「不思議ですよね。」最初の研究者が、隣の研究者の顔を覗いた。
「結局、何とかして洛陽への道を教えたのですが、それ以来その人とは会っていません。その人が結局帰る道を見つけたのか、ここに来たわけを思い出したのか、残りの三人に出会うことができたのかは分かりません。村ではこの四人のことがずいぶん噂になったのですが、時が経つにつれて記憶も曖昧になってしまい、今ではそんな人たちが訪れてきたことさえ不確かになってきています。当時を知る人が少なくなってきましたから。」
「それでも、ご婦人は、幼い頃の記憶ながら、しっかりと覚えていらっしゃいますね。その四人の若者のことを。」
「それはもう。」老婦人は美しく微笑んで。「その中の一人のお兄さんに、私、贈り物を頂いたんです。忘れるはずがありませんでしょう?」
「贈り物ですか?」
「ええ。一枚の絵を。」
「もしかして・・・ツバメの絵、ですか?」
日本語訳を待たずに、思わず俺は老婦人の方を向いて問いかけていた。気づいて訂正するにはもう遅い。誰もが驚いた顔で俺を見てくる。ただ、老婦人は、細めた目をやや大きく開き、嬉しそうに答えた。
「ええ、その通りです。一羽の、若いツバメの絵でした。」老婦人はしわの刻まれた手の甲をいとおしむように撫でながら続けた。
「その人に言われたんです。『この絵を見て意味が分かる人がいれば、僕たちは先に行っているって伝えてください。待っていると』って。それで、言いつけどおり、絵を大切に持って、そのお兄さんの待つ人の来るのをここで待ち続けていたのですが、そのお兄さんにも、その人の待つ人にも、結局会えずに、もうこの歳になってしまいました。」老婦人は寂しそうな影を、かすかに顔に落とした。
「・・・ですが、あの絵に、今ではたくさんの思い出が詰まっています。あのお兄さんに会って話をしたのはほんの短い間でしたが、あれだけ心の清らかな方は後にも先にももほとんど出会いませんでした。本当に、素敵な方でしたよ。」
老婦人はそう言い、静かに微笑んで俺を眺めると、黙って茶を口に含んだ。
午後も引き続き発掘調査が続いたが、南中し強さを増す太陽の日差しと裏腹に、俺のモチベーションは急降下していった。結局夕方まで発掘調査を続けたが、俺はなけなしの欠片を数個見つけただった。帰りのバスでは、俺の隣の席は空いていたが、早くも一日目にして疲れきってしまった俺は、座席に座るや眠りについたので、特に気にもしていなかった。
「明日はもう少し涼しかったらいいのにね。」
そろそろ寝ようか、とムヨンが机の上を片付け始めた。
「ムヨンは何か収穫あった?」
「大したことは無かったけどね。」ムヨンは言った。「でも、尚さんが大活躍したんだよ、今日はね。」
俺は読んでいた中国語の教科書から顔を上げて。「あかりが?」
「新たな通路の跡らしい場所を発見してね。南条先生もすごく喜んでいたよ。尚さんには、きっと、そう言うのが分かる勘みたいなのがあるんだよ。」
「ふーん。」俺は生返事をして。「たまたまだろ、どうせ。」
「尚さん、まだ一回生なのに、かなり考古学のことを勉強しているみたいなんだ。教えて欲しいところがあるからって言われたから、明日から俺、ちょっと部屋に戻ってくるのが遅くなるかもしれないけど、大丈夫?」
「うん。」
「また明日も何かやってくれそうだよ、尚さん。楽しみだな。」
「だといいね。」俺は教科書をポンと閉じた。その拍子に、あることをふと思い出した。
「そう言えばさ、ムヨン。」
「何?」
「遺跡の近くに砂利道があったんだけど・・・あれ、何か知らない?」
「砂利道?あったっけ、そんなの。」ムヨンはきょとんとして言った。
「ほら、バスの停車していた方にさ、草が生えていて見えにくいけど。」
「ああ、あれか。」ムヨンは言った。「バスの中で先生たちが話していたよ。鉄道用地なんだって。」
「鉄道用地?でも、線路も何もなかったけど?」
「うん。線路を敷こうとして、途中で予算がなくなってとりやめにしたんじゃないのかな。でも、一応、鉄道用地だから、中に入っちゃいけないらしいよ。世界鉄道の用地なんだって。」
「世界鉄道・・・。」
俺はチャンを思い出した。イチローの顔が浮かんだ。それから、ワンさん。俺が中国に来たのは研修旅行のためだったのに、思えば世界鉄道にいた時の方が充実していた。少なくとも、知っている人につれなくされるより、まだ知り合って間もない人に優しくされる方が、今の俺には嬉しい気がした。
「それじゃあ、明日も早いし、今日は寝ようか。」
「そうだな。」
音がした。光を闇が吸いこむ。黒い部屋の中でムヨンが言った。
「じゃあ、お休み。」
「お休み。」
そう言い、中国語の教科書を枕元に置き、目を閉じた、次の瞬間。
「龍也。朝ごはん、食べに行こう。」
世界は気のりのしない新しい朝を迎えていた。
この日も昨日とは大して変わらない退屈で億劫に過ごさねばならなかった。俺の割り当てられた部分が悪かったのか、周囲の学生や研究者たちは次々に興味を引く欠片や遺構を見つけていくのに、俺はただ恨めしそうに眺めるだけ、左手に握る袋は昼時前の俺の胃袋のようにげんなりと小さくなっていた。俺がよっぽど下手なのか、見る目がないのか、何が原因なのか、さっぱり分からない。羨望と焦燥だけが、暑さとともに募ってくる。起き上がり、ムヨンに手伝ってもらおうかと顔を上げると、隣にいたはずのムヨンの姿がなかった。ぼんやりした目で周囲をゆっくり見回すと、仲良く寄り添ったポニーテールとハンチングが目に留まった。それでどういうことなのか大体予想がついた。俺はため息をつくと、引力に引かれるままに、どっかりとグリッドの中に腰を下ろした。
ムヨンは、あかりが昨日発見した新たな通路の発掘を手伝っているようだった。ムヨンのみならず、研究者や院生たちもあかりと一緒に発掘に励んでいた。南条先生も嬉しそうな顔で畦道の上から眺めている。昨日と相変わらず容赦のない日射しの下、調査は順調に進んでいる。この暑さに気づいているのは俺だけなのだろうか。俺は遠くに広がる砂利道を、呆然と眺めていた。
「葦原君、ここ。」
今日の発掘は無事終了となり、俺たちはバスに揺られて、駅前の宿舎に戻っていった。昨日に比べてだいぶ収穫があったようで、バスの中で交わされる会話には熱気が満ちている。行きにはムヨンが座っていた俺の隣の席は、帰りは空いていた。斜め後ろの方からムヨンの声が聞こえたが、俺は振り向く気もなく、シートに頭をもたれかけながら、緑とオレンジに塗り分けられた窓辺の風景に目を移していた。
バスを降りると、部屋に戻る間もなく夕食となった。手洗いに向かってから、足取り重く食堂に入ると、手招きする南条先生に呼び止められた。少しの間俺は迷ったが、あの二人が別のテーブルで談笑しているのを見て、黙って俺は先生の隣に座ることにした。
「大丈夫かい。元気がなさそうだけど。」先生は茶を手にしながら心配そうに言った。
「いえ、大丈夫です。ただ、発掘って、初めてなので・・・。」
「そりゃあ、最初は大変だよね。無理しなくていいからね。あくまで研修だし、葦原君はまだ一回生なんだから、発掘って大体こんな感じなんだっていうくらいの気持ちで参加してくれたら大丈夫だから。」
「はぁ。」俺は生返事をして、冷茶で喉を潤した。
「そうだ。」先生は握っていた箸を皿に立てかけて、後ろに置いていた鞄をまさぐり始めた。「まだ、葦原君には見せていなかったよね。」
「・・・何をですか?」
「ちょっと、いいかな。」
そう言い、先生は俺を手招きして、食堂を出ると、宿舎の三階に上がって行った。そこには先生たちの宿泊する部屋と、多目的室があった。多目的室の鍵をポケットから取り出し、電灯を先生はつけた。そして、足元の大小さまざまな箱に気を配りながら、中央に置かれた大きな机の上の茶色いケースに手を伸ばした。中には、黒い巾着のようなものが入っていた。慣れた手つきで白い手袋を両手にはめると、先生は巾着の中へ大事そうに指を挿しこんだ。
「黒の、陰綬だよ。これが。」
何も食事中に出さなくても、と思いながら、俺は初めてみる黒の印綬をしげしげと眺めていた。黒曜石のように、滑らかな、光沢のある表面をしている立方体だった。立方体の上に蹄鉄のような形をした盛り上がった部分があって、そこに紐が通されていた。紐は擦り切れてしまい、色は褪せて目立たなかったが、ほのかに紫色を残していた。
「綺麗、ですね・・・。」
俺が顔を伸ばして見つめていると、先生は満足げな顔をして、印綬を支えていた左手の指を離した。途端に、黒光りする立方体は、断層のように斜めにスライドして、二つの欠片に割れてしまった。
「あっ!」思わず俺は叫んだ。
「大丈夫。もともとこうなっていたんだよ。」先生は右手の手の平に載った二つの欠片を指差しながら、話を続けた。「ちょうど、立方体の真ん中あたりを通るように、斜めの切り込みが入ってるだろう?どうしてこういう風に分かれたのかはまだ研究中なんだ。」
「最初から、こうなっていたんですか?」
「いや、最初はおそらく完全な立方体だったと思う。ただ、私たちがこの遺跡の調査を始め、この印綬をここで発見したときには、既にこの形で発見されていたんだ。それからね。」
そう話してから、先生はまた静かに印綬を黒い巾着の中にしまった。
「もっと不思議なことがあるんだ。ここだけの話ではあるけれど・・・」
「あの・・・何なのでしょうか?」俺は囁く先生の声に耳を澄ませた。どれほど小さい声で先生が話しても、何も音のしない部屋の中では、先生の声は大きく響いた。
「この印綬はね、どうも最近まで誰かの手に握られていた可能性があるんだ。『手に握られていた』は、文字通りの意味だ。」
「ということは・・・誰かが持っていた、ということですか?」
「そのとおり。」先生は続けた。「最近と言っても、七十年ほど前のことになるけれどね。遺跡自体はこの印綬が見つかった場所よりももっと深い地層から発見されている。だけれども、この印綬の製造年代自体は、この遺跡と同じくらい古いんだよ。つまり、どういうことか分かるかな?」
「ええと・・・」俺はしばし口ごもり。「誰かが、七十年ほど前に、遺跡と同じ地層から、この印綬を見つけた・・・。」
「そうだ。」先生は満足げにうなずいた。「じゃあ印綬と遺跡は何も関係がないと言いたくなるだろう?でも、この印綬の素材の成分などを調べてみると、やはりこの遺跡の近くで作られた可能性がかなり高いんだ。なぜある人が七十年ほど前にこの印綬を見つけたにもかかわらず、この印綬を再び遺跡のある場所に戻したのか。そして、印綬はなぜ二つに割れてしまったのか。充分に議論の余地のあるところだ。そして、今回の発掘調査で、その真相に一歩でも迫ることができれば、と私は思う。」
「そう言えば・・・」
「何かな。」
「朴さんから伺ったんですけれど、印綬はあと四つあるんですよね。あとの四つもここで見つかったんですか?」
先生の顔が若干曇った。あるいは、電灯の影に入ったからかもしれない。
「・・うん。確かにそうなんだけれども・・・。」先生は続けた。
「ただ、葦原君も知ってのとおり、上海博物館に所蔵を委託している間に、白色の印綬は何者かによって盗まれてしまってね。結局まだ上海博物館からの連絡は来ないんだよ。それから青色の印綬と赤色の印綬についてなんだけれども・・・これは、我々の大学に所蔵されている。今回の件もあったから、また盗難されるのではないかと心配なんだけれども、調査は予定通り進めなければならないから、所属している先生方に強くお願いして、しっかりと管理していただくことにしたんだ。」
そう言い、先生は茶色のケースをもとの位置に戻した。
「つまり、五つある印綬の中で、まだ見つかっていないのは、五つの中心にある、黄色の印綬だ。黄色は中国皇帝の色。これを見つけることが出来れば、遺跡調査も大きく前進するんだけれどね。いまだそれは見つかっていないんだよ。・・・まあ、まだ二日目なんだから、見つかるわけもないけれどね。」先生は笑った。
「・・・尚さんが、何か発見したとか聞いたんですけれど。」
俺はさりげなく先生に尋ねた。
「そうなんだ。」たちまち先生の顔は晴れやかになった。「どうも、宮殿の本殿へ通じる道を見つけたようでね。発見してからまだ一日しか経っていないから、十分な調査はできていないけれども、あれはかなり規模の大きな道だと思うよ。もしかすると、本当に夏王朝の宮殿跡なのかもしれない。葦原君も見ただろう?」
「いえ、僕は、まだ・・」
「それなら、一度見ておいたほうがいいよ。明日は是非そっちの発掘にも参加してごらん。」
「ああ、まあ、はい・・」
「きっと良い刺激になると思うよ。」
先生は部屋の扉を閉めると、ごめんね途中で立たせてしまって、じゃあ帰ろうかと言い、俺を連れて食堂へと戻っていった。俺は三階から階段を下りる前に、もう一度だけ部屋の方を振り返った。うっすらと白い電灯が、物陰もなく物音もしない廊下を照らしていた。
食事を終えると、俺は一人で宿泊部屋へ帰った。部屋の明かりはついていたが、ムヨンの姿はそこになかった。朝には置いてあったはずの論文や書籍の山が、勉強机から消えていた。手持ち無沙汰で、俺は何となく部屋の中を歩き回り、窓辺に腰かけた。それでも落ち着かないので、向き直り、窓の端にあるレバーを押してみた。案外軽く窓が外に向かって静かに開いた。
列車の音が聞こえた。構内アナウンスも聞こえてくるが、遠くて何を言っているのか分からない。煌々したヘッドライトで黒い世界を照らす自動車の数々。そしてまた、列車は闇へと向けて警笛高らかに走り出す。やがて、通りの建物の裏側に、細く長い黄色の線が延びていくのが見えた。その線の中に、何人もの人々が浮かんでいる。あの列車はどこへ向かうのだろう。
「タツナリ君。」
既に二、三回、そう言われていたのかもしれない。二階にいる俺の部屋の真下で、囁くような呼び声がした。驚いて見下ろすと、漆黒の通りの中に、うっすらと白い人影が浮かんで見えた。
「よくここだって分かりましたね。」
「宿泊場所はこの前君から教えてもらったからね。」白い影が揺れた。「今、大丈夫?ちょっと出てこられるかな?」
俺は扉の方を見た。ムヨンは当分部屋には戻らなさそうだった。
「俺、そっち行きます。」
「了解。」
俺は隣の院生が部屋から出てこないことを確かめ、後ろから誰にも見られていないことを点検してから、ほとんど音を立てないように、ゆっくりと階段を降りていった。フロント係の前を、外に買い物でも行くかのような顔で通り過ぎ、ホテルの入り口を出ると、右手にヴァンランの姿があった。
「・・・やつれた?」
俺を見るなり、ヴァンランは珍しく心配そうな顔をして言った。
「いえ、別に前と変わっていませんけれど。」
「そう?ならいいけど。発掘大変でしょう?」
「まあ、そうですけれど。」俺は後ろを振り返りながら、あまりはっきりしない声で言った。「タイガーさんは、仕事、大丈夫なんですか?」
「うん。今日は休み。」
俺たちは、ホテルを離れて暫く通りを歩いた。特に行く当てもなかったが、研修に参加している誰かに見られるのが嫌だったのだ。
「何か、結構進んでいますよ。」
「何が?」
「発掘です。」俺は言った。「宮殿へ続く道らしいものを発見した奴がいて、先生方も今はそっちに興味津々で・・・。」
背中に気分悪くシャツがくっついている。俺は白い長袖シャツにジレを重ねたヴァンランを横目で見ながら、さらに声のトーンを落として言った。
「・・・大丈夫なんですか?」
ヴァンランは颯爽と俺の隣を歩いている。
「先生は、五つあるうちの四つの印綬を、全て見つけたらしいです。その一つは、今、タイガーさんが持っているわけなんですが・・・でも、あの遺跡、本当は、夏王朝の遺跡じゃないんですよね?その・・・俺たちの探している、神宮が、そこにあるんですよね?」
俺は立ち止まった。数歩先へ進んでから、ヴァンランも立ち止まり、俺の方へ振り向いた。前から来る自動車の前照灯で、ヴァンランはパナマ帽をかぶった男のシルエットになっていた。
「残り一つは、黄の玉璽ということ?」
自動車が走り去ってから、ヴァンランはそう尋ねてきた。
「はい?」いきなりの質問返しに、一瞬俺は戸惑い。「・・・あ、はい、多分。」
「そうか。まだ見つかっていないんだね。良かった。」シルエットは横を向き、穏やかなため息をついた。
「・・・どうしてですか?」
「黄の玉璽の持ち主が、前回の集まりの時に、集合場所に来なかったことは話したよね?」
「・・・はい。」
「持ち主の行方もそうだけれど、黄の玉璽自体の行方も、未だに分かっていないんだ。つまり、この印綬は、まだ継承されていない。」
「・・・そうなんですか?」
後ろから来たバスが、歩き出すヴァンランの背中を映し出した。
「タツナリ君も、青の印綬を渡されているわけではないから、青の印綬も継承されていないことになるけれど、一つタツナリ君と違うのは、おそらく黄の玉璽の場合は、継承者どころか持ち主でさえ、自分が当事者であることを自覚していないらしい。」
「『自覚していない』・・・?」俺は急いでヴァンランに追いついた。
「ちょっと待ってください。どうしてそんなこと、タイガーさんが知っているんですか?」
街灯がヴァンランを照らした。ヴァンランは微笑んで。
「勘だよ。僕だって、まだ彼らには会っていないんだから。」そう言い、彼は話を続けた。「何でそう思うかというとね。本来なら、燕五使徒の中心人物である黄の玉璽の持ち主が、最初に自覚をして、残りの仲間を探しに回るはずなんだ。」
「本来は、ですか?」
俺とヴァンランは、ホテルがある通りを左に曲がった。
「もともと、この印綬の持ち主は、中国を治める者とその人物を補佐する者たちだったということは、前にも話したよね。」ヴァンランは続けた。「『燕五使徒』の『燕』は、北京のことを『燕京』と呼ぶことに由来しているんだ。つまり、中国が明の永楽帝の治世になったころに、定着してきた名称なんだよ。永楽帝は『燕王』と呼ばれていたからね。黄色は、中国皇帝の色。昔から、ここ、中原にある神宮が侵される危険が迫るたびに、中国の皇帝は残りの四人の仲間を連れて、封印の任務を全うしてきた。それが変わるのが、辛亥革命の後。つまり、清朝が崩壊してからのことだ。」
「皇帝が、いなくなった、ということですか?」
「うん。」とヴァンラン。「どういうわけか知らないけれど、前々回の黄の玉璽の時点から、持ち主は皇帝一族ではなくなっていたらしいよ。そして前回は、一介の庶民が継承者に選ばれた。つまり、海外に何の人脈も持たない人物が、四人の仲間を探さざるを得なくなってしまったんだ。」
歩く先に、まばゆい光が見えてくる。駅前広場のようだった。
「確かに、俺のこと教えてくれたのは、白の陰綬のタイガーさんですもんね。まだ、黄の玉璽の持ち主には会えていない。」俺はヴァンランを見上げて。「だったらなおさら、発掘調査を止めた方が良いんじゃないんですか?このまま見ているだけで、もし本当に神宮が見つかったら・・・」
俺は、冗談でも言うかのようなヴァンランの軽い口調から零れ落ちた、あの言葉を思い出した。
世界の、破滅。
その言葉を伝えた当の本人は、ネオンの映える街明かりの中に、すぐれない表情を浮かべていた。
「僕たちには何もできないよ。特に海外での発掘調査には、その国の許可が出るまでに複雑で時間のかかる手続きを経なければいけない。」ヴァンランは言った。「こう言うと酷かもしれないけれど、君のようなまだ大学に入って間もない一介の学生の一言で、今までの計画と努力を軽々しく放り捨てるほど、度量が広くて常識のない人間なんて、現実にはそうそういないんだ。」
「それは分かっていますけれど、でも・・・」俺は声を大きくして言った。「じゃあ俺、何で中国まで来たんですか・・?」
駅前は何やら人で混雑していた。手に肩にテレビカメラや三脚を載せている姿も見受けられた。慌しい会話を交わしながら、その人たちは車に荷物を積み込んでいた。
「そのうち分かるよ。大丈夫。」ヴァンランは、いつもの優しい口調で答えた。「今日はそれを伝えるために来たんだ。もうすぐ、僕たち五人が集まると思う。」
「・・・本当なんですか?」
「うまく間に合えばね。まあ、僕の勘だけれど。でも、結構可能性の高い勘だよ。」そう言い、ヴァンランは目を細めて笑った。
「・・・信用して、良いんですか?」
同じような質問を、以前に誰かに投げかけたような気がする。そのときと同じくらいの無意味さが、発した俺の言葉に漂っていた。
けれどもヴァンランは、その無意味さを覆い隠すほど、頼りがいのある笑みを浮かべて、俺をじっと見ていた。
「信用するか、信用しないか。」
ヴァンランはそう言うと、静かに駅の方へ歩んでいった。
「僕らには、その選択肢、あってないようなものだと思うけれどね。」
俺はヴァンランと別れて、一人ホテルの方へと歩いて行った。何食わぬ顔で二階の宿泊部屋に戻ってきたが、電灯や窓は俺が出て行った時と何一つ変わらなかった。窓を閉める時、俺は世界鉄道を走る長距離列車の警笛を耳に聞いた。
結局その晩、ムヨンは部屋に帰ってこなかった。
七
三日目の朝が来た。
今日は俺の隣の席に、ムヨンが乗っていた。
「発掘調査には慣れてきた?」
「・・・まあまあね。」
俺は手の甲に肘をあてがい、窓辺の風景を睨みながら答えた。思えば一日ぶりのムヨンとの会話だった。
「暑い日が続いているからね。疲れてきたんじゃない?」
「どうだろう。昨日はよく眠ったから。」俺は欠伸を返事代わりにして言った。
「その割には、あまり元気ないな。」
俺は黙って外を眺めていた。緑の畑が、舗装されていない道路の脇にどこまでも続いている。
「なあ、龍也。」
「ん」
「今日は、あかりの見つけた道の発掘、一緒に手伝いに行かないか?何だかどんどん大きな道が出来上がってきて、すごく面白そうなんだ。」
俺は手から頬を離し、顔をムヨンの方に向けた。「『あかり』?」
「ああ・・・」途端にムヨンは気まずい顔をし、それからはぐらかすように続けた。「いやさ、前に尚さんにそう呼んでほしいって言われていたからさ。」
「いや、まあ、それは別に良いんだけど。」俺は再び窓辺に顔を映した。「何か面倒くさそうだから、俺、やめておくよ。」
「・・・そうか。せっかくの機会なんだけどな。」残念そうに言うムヨンの声が耳を通り過ぎる。
俺は、畑から舞い上がった数十羽の黒く小さな鳥たちの群れを、瞳の中に映していた。その群れが気になって、俺はムヨンの話から意識を遠ざけていた。鳥たちは俺たちの乗っているバスの上を大きく旋回すると、バスの行き先へ向かって飛び去って行ったのだった。
「気が向いたら行くよ。」話の文脈を全く無視して、俺は口を挟んだ。
「え?ああ――うん。」ムヨンが言った。「じゃあ、待っているから。」
バスはいつもの発掘現場の前に止まった。隣に白いワゴン車が止まっているのが目に留まった。中には機材を抱えた人が乗っており、俺たちのバスに気がつくと、忙しそうに車外へと出てきた。
「誰?」俺が尋ねると、
「報道陣だと思うよ。」ムヨンが答えた。「もともとこの遺跡の発掘の取材をする約束をしていたんだけれど、新たな発見があったとの報告で、約束の期日を繰り上げて、今日から参加することにしたみたいなんだ。先生が話していたよ。」
「へえ。」バスの外で南条先生と握手を交わす報道陣のリーダー格らしい人物を眺めながら、俺は言った。「随分と大事になってきたな。」
三日目の発掘調査の始まりは、以前の二日間と大して変わらず、俺は不思議なほどに何も出てこないグリッドの中にもぐりこみ、ただ土を掘り続けていた。畦道の上では落ち着きなく報道陣のビデオカメラのレンズやカメラのシャッター音が行き交っていたが、大体はあかりの見つけた新たな通りの発掘状況に関心があるらしく、俺の周りには誰もいなかった。おかげで俺はのんびりとメリハリのない退屈な発掘作業を続けることになったのだった。
ムヨンは既にグリッドの中にはいなかった。報道陣が壁になって見えないが、おそらくあかりと一緒に先生の指導を受けながら発掘を続けていることは容易に予想ができた。今朝目覚めたとき、俺の下のベッドは、ルームサービスの後のまま、シーツにしわひとつつくことなく整えられたままだったが、食堂では既にムヨンがいて、南条先生と話をしているのが見えた。特に寝不足のふうにも見えなかった。結局、昨日は部屋で寝なかったようだ。
三日も収穫なしに作業が終わるのでは不安を抱えながら、疲労する体を灼熱の太陽に焼かせていると、不意に手に硬い感触が伝わってきた。俺は思わず手を引っ込めた。周囲を見ると、他の研究者たちは相変わらず黙々と作業を続けている。誰も気づいていないようだった。俺は背中に水気を感じながら、今度はいたく丁寧に土を掘り進めた。しかし、かなりの期待をかけて掘り出した「遺物」は、あまりに意外なもので、驚嘆も失望も超えて、俺は怪訝な顔でそれと向き合っていた。
「アスファルトだねえ。どう見ても。」
自分の目に狂いはないか、思わず隣の院生を呼びつけて確認してもらったが、その院生も俺と同程度の観察眼の持ち主だったようだ。その院生が快く発掘協力に応じてくれたので、それから先俺たちは二人で周囲の土を掘り下げ始めた。
すると、やはり、出てくるのはアスファルトの表面だった。いや、アスファルトという表現は適切ではないかもしれない。おそらく大地を舗装するために敷かれたものであることには間違いはないのだろうが、それは都会の道に敷かれたものとはだいぶ違っていたからだ。つまりは、妙に表面が滑らかで、妙に黒光りして、妙に質が良さそうに見えたのだ。
「昔、この道、アスファルトで舗装されていたんですかね?」俺が尋ねると、院生に呼ばれてきたある研究者は眉をひそめて、
「いや、この辺りは昔から原っぱか畑が広がっている場所だったらしい。それに我々のバスが通ってきた道は、ごらんの通りアスファルトで舗装されてはいないからね。それにしても、アスファルトと呼ぶには少し上等すぎないかい?」
「地層的には、夏王朝にもさかのぼれる物だとは思いますが・・・」
院生の呟きに、研究者は、
「地層的には確かにそうだが、まさか夏王朝の時点でアスファルト舗装がなされていたはずはないだろう。可能性は低いが、あり得るとすれば、かつての都市計画の残存物かそこらということだろう。でないと説明がつかないからな。」そう言って、その研究者は立っている俺を見上げて話した。「ここの調査は私に任せてくれ。君は、他の場所を手伝ってくれないかな。」
他にも不思議なことがあった。昼食を済ませてバスが再び遺跡に到着した時、遺跡が一面黒と白に染まっていたのだ。アスファルトのこともあったので、俺はまさか遺跡が一面舗装されてしまったのかと思い、野次馬に連なって急いでバスを出た。その瞬間、いきなり遺跡を埋めていた黒と白の粒が、跳ね起きるように舞い上がった。数百羽にもなる鳥の群れだった。
「何だ何だ?」先ほどの研究者は大声でわめきながら、空を見上げた。
「あれ・・・ツバメですね。」南条先生の声がした。
「ツバメ?」研究者は南条先生を振り返り、もう一度眼鏡に手を当てて鳥たちの群れを凝視した。「確かに・・・そのようですが。でも、この真夏にツバメですか?」
「それも遺跡の中にだけいましたよ。周りの草原には一羽もいなかったみたいですし。」先ほどの院生が話に加わった。
「環境の変化か何かかもしれませんね。遺跡の中にいたのは偶然でしょう。」南条先生は至って落ち着いて。「思いもよらない歓迎を受けましたね。」そうして、南条先生の恵比須顔に如才ない笑みが浮かんだ。「では、作業を続けましょうか。」
結局、その日の俺の収穫は、一面アスファルトになったグリッドだった。あかりの方の発掘はだいぶ進んできたらしく、終わるころに何気なく足を運んで見てみると、遺跡の大きさはかなり広がっていた。土気のこもる一本の大きな道が、一直線に野の緑を貫いていた。
「今日はお疲れ様でした。」ホテルの前でバスを降りる際に、南条先生がマイクを取って俺たちに向かってアナウンスをした。「特に今日は報道陣の方も参加されて、色々と気を使うところがあったかと思います。明日がちょうど発掘調査の中日で、それからはいよいよ後半戦です。学生諸君はくれぐれも体調に気をつけて、明日からの作業に向けて、しっかりと休養をとってください。それでは、今日はこれで解散とします。」
そして夜が明ければ、先生の話にもあったように、発掘調査の中日、四日目となる。
退屈な発掘調査に下がる俺のテンションと反比例して、あかりとムヨンの距離は次第に近づいていった。以前までは晩ごはんに誘ってくれたムヨンも、今はあかりと談笑を楽しみながら箸を進めるのに専念するようになり、俺に会うのは朝起きて歯を磨きに行くときくらいになった。
夜は夜で、ムヨンはあかりと談話室で会って話をしているらしく、俺が寝ている間にこっそりと部屋に戻ってきているらしかった。そんなだから、別に仲違いしたわけでもないのに、自然とムヨンとの会話も少なくなる。あかりには意図的に避けられている。院生は親切に俺を話に加えようとしてくれるけれど、なにせ話が専門的なもので、二往復もすれば会話が途切れてしまう。その上、院生たちはムヨンとあかりとの関係を俺と結びつけてか、時々同情するような目でご覧になることさえある。
こうして俺には発掘調査に対する熱意はおろか、研修旅行での居場所も特に見当たらなくなってしまった。
別にあかりの誘いに嫌々ついてきたわけではない。俺だって発掘調査にはいささか興味があった。それでも、あかりがムヨンに体全体で笑みを振りまいているのを見ると、なぜか目の前の土を掘るのが無性にくだらなく非生産的に思えてきた。一緒にいてもどうせ荷物持ちか食器運びを押し付けられるだけだが、それでも、つまらなく感じている俺を否定することはできなかった。
やれやれ。
・・・俺、何やっているんだろうな。
しかし、俺がいい加減に土を掘り始め先生や院生に目をつけられるようになってきたこの日を境に、寄り添う二人の後姿はどこにも見られなくなってしまうのだった。
その夜も、俺は一人だけで宿泊部屋を占拠していた。いつもなら発掘調査で痛んだ腰をいたわって早々に消灯するのだが、その日は夜に飲んだ緑茶のせいで眠れなくて、仕方なしに読んでも意味のない中国語の会話集を睨みながら、調査の資料の裏にシャーペンで最初の例文から書き写していた。
突然、宿舎全体に悲鳴が聞こえた。俺は落としたシャーペンを拾おうと机にもぐりこんで、後頭部を強く打ちつけた。声の主はすぐに分かったが、それがおよそ悲鳴と縁遠い人間だったので、俺はいぶかしげに部屋の扉を開けた。隣の部屋から首を出した院生と目があった。
「あ、どうも。」
「葦原君も聞いた?」
「ええ、まあ。」
「今の、尚さんだよね。何かあったのかな?」
「どうでしょうかね。あいつ、ヒグマが出てもあんな声出さないと思いますけれど。」
そう言ったものの、やはり心配なので、俺は院生と一緒に階段を上がり、上にある談話室へ向かった。
俺は階段に足を載せながら、先ほどの悲鳴を耳に蘇らせていた。幾分長かったが、特に差し迫った危機というわけではなかった。それでも、足運びは速くなっていく。四階の談話室に俺と院生は駆け上がってくると、すぐにあかりの後姿が目に留まった。そしてその向こう側には、当惑した顔のムヨンが立っていた。
「おい・・・」
それ以上言葉が続かなかった。あかりは俺の声にはじかれるように振り返り、俺を見ると、あからさまに顔をしかめて、俺たちの降りてきた階段を降りて行こうとした。
「ちょ、おい、待て!」あかりの両肩を引き止めるのには力が必要だった。
「放して。」冷たく短くあかりが言った。「邪魔。」
「さっきの悲鳴、お前だろう?何かあったの」
「そこ、邪魔。あんたと話したくない。通して。」
「とは言われても」
「いい加減放して!」
不意にあかりが顔を上げた。しかし青くなったその顔は、俺の顔を見ているわけではなかった。
「・・・南条先生。」
俺は後ろを振り返った。小太りで恵比須顔の南条先生は、不思議そうな面持ちで、のんびりとした口調であかりに問いかけた。
「何か、あったのかい?」
「・・・・」あかりは黙っていた。俺の腕の力が緩んだ隙に、すぐにあかりは二、三歩後ずさりをした。
あかりから回答が得られないと悟ると、南条先生は次に立ち尽くしているムヨンの方を見た。
「その・・・」俺たちの視線に気づいて、ムヨンはためらいがちに口を開いた。「僕が尚さんに、今回の遺跡についての資料を見せて説明してほしいと頼まれたので、ここで毎晩、尚さんと勉強会を開くことにしたんです。」
「毎晩かい?」南条先生は穏やかに尋ねた。
「・・・はい。二日目の、夜から、です。」ムヨンの視線はうつろに動いている。
「それで先ほどの悲鳴は尚さんのものなんだよね?」
「・・・はい。」
「何があったか私に説明してくれないかな。」
ムヨンは顔を上げ、南条先生を哀願するような目で見た。初めて見る、動揺したムヨンの顔だった。「それは・・・」
「すみません。私が悪いんです。」
不意に目の前のあかりが口を開いた。「私、リアクションが大げさってよく言われて。ちょっと虫が出ただけなんです。本当です。それで先生までご迷惑をおかけしてしまって・・・本当、すみません。」
目を伏せたまま頭を下げるあかりを、俺と院生はきょとんと眺めていた。
「じゃあ、あの、私、もう寝ます。お先に失礼します。」
階段を降りようとするあかりの横顔に、南条先生は声をかけた。
「・・・本当に、何もなかったのかい?」
あかりは暫く黙ってから、南条先生の方を向き、穏やかな笑顔を浮かべて言った。
「何もありません。驚かせてしまって、申し訳ありませんでした。」
速いテンポで足音が天井を叩いていく。俺たちすべての言葉から逃げるように、あかりのポニーテールは一階へと下って行った。
「あの・・・すみません。こんな遅い時間に・・・。」
ムヨンの小さな声に、俺たちはようやく後ろを振り返った。俺たちとムヨンとの間には、幾分の距離があった。
「いや、尚さんが何もなかったと言っているんだ。私も彼女の言葉を信用するよ。」南条先生は笑って言った。「君も、毎晩勉強会では疲れるだろう。早く部屋に帰って休みなさい。」
そう言われた後も、ムヨンは暫くその場を動こうとしなかった。彼の視線の先には、打ち捨てられたように散乱した先行研究の論文やノートがあった。
「朴君。」
優しく南条先生が言った。
「・・・はい。」
そう言うと、ようやくムヨンは脚を動かした。俺と院生も協力して、床に散らばった論文のコピーを集め始めた。ノートや論文を整理しながら、ムヨンは俺の耳元で、小さく、ありがとう、と呟いた。
それから俺たちは、一緒に二階まで階段を降りていった。部屋に入ってからもムヨンは口を開かなかった。俺はムヨンの好きなようにさせることにした。論文とノートを勉強机に置き、ベッドに入るムヨンの顔は、いつになく暗い表情をしていた。単なる暗さというよりは、諦めか恐れのように、何か別の感情の要素と合わさってできたような、重層的な暗さだった。お休みと言って、俺は部屋の電気を消した。下のベッドからは返事がなかった。それでも、俺が夜中に目を覚ましたとき、まだ下のベッドからは起きている気配を俺は感じていた。
結局、二人の間にその夜何が起こったのか、あかりが何で悲鳴を上げたかについては、はっきりしたことは何も分からなかった。発掘調査団の雰囲気に支障をきたすのを恐れてか、南条先生はこのことを大きくは取り上げず、あくまであかりの説明をそのまま受け入れるつもりのようだった。
「・・・昨日は、ごめんな。」
土から顔を上げると、ムヨンのはにかんだ笑顔があった。
「何が?」
「いや・・・びっくりさせたから。」
「別に気にしてないよ。」俺は腕で額の汗を拭いながら答えた。「今日はあかりの発掘の手伝い、しなくていいの?」
「・・・そうだね。」ムヨンは複雑な表情で後ろを振り返って見た。「急で悪いんだけどさ、今日、龍也の手伝いしてもいい?」
「それは助かるけど。」
俺の言葉に、ようやくムヨンは安心した様子で、畦道からグリッドの中へ降りてきた。その時、遠くの方で人々の不満の声が上がった。
「何だ?」俺が怪訝な顔をすると、ムヨンが答えた。
「・・・あの道の発掘現場の方だけど。何かあったのかな?」
俺たちが畦道に上がり、報道陣をよけて、人だかりの中へ向かうと、中国側の先生と南条先生が、一人の男を相手に議論を交わしているところだった。
「・・・どうしたんですか?」俺は近くにいた院生の一人に尋ねた。
「ああ、実はね。」院生は顔をしかめて答えた。「この道の発掘なんだけど、中断しなきゃいけなくなりそうなんだ。」
「どうしてですか?」
「ほら、そこに砂利がたくさん敷かれているのが分かるでしょう?」院生は指で雑草の生い茂る砂利道を指差して。「どうもこの道はこの砂利道の向こうまで続いているらしいんだけど、ここが世界鉄道の敷地内らしくて。中国とは別に世界鉄道の許可を取らなきゃ発掘は出来ないんだって、先生たちに話しているあの人、世界鉄道の社員さんらしくて。」そう言いながら、院生は、紺地に金色の制服を被ったサングラスの男を、あごで指した。「どこから急に現れたんだかしらないけれど、俺たちが敷地の近くで遺跡発掘していることを上から聞いて、勧告を伝えに来たとか、なんとか。」
俺は男と先生たちのやりとりをよくよく眺めていた。見慣れた紺地に金色のほうき星が流れた制服。痩せぎすで背の高い体躯に特徴的な丸いグラサンから、俺はそれが誰か直ぐに分かってしまった。
「イチロー・・・・」名前にこもる懐かしさが口元に広がる。
「え?」ムヨンが振り向き。「あの人・・・知り合い?」
「あ・・・」俺は慌てて。「ああ、上海の駅を出るときに、俺に菓子くれた人。世界鉄道にいるときにちょっとお世話になった人で。」
「へー、そうなんだ。じゃあさ、龍也が話したら言うこと聞いてくれるかもしれないね。」ムヨンは無邪気な笑みを浮かべて言った。
「どうだろうね。世界鉄道って何だか難しそうな組織だし。」
イチローに向かって、南条先生は毅然とした態度でこう話しかけた。
「我々は中国側から正式に発掘許可を得ているんです。ですから、無断でしているという先方の意見には首肯しかねます。」
南条先生の言葉に、イチローはすぐにこう答えた。
「何も中国領土内での発掘について、とやかく言っているわけではないのです。問題なのは、ここから先が世界鉄道の敷地内だということです。」
「世界鉄道だろうがなんだろうが、中国の土地には変わりないでしょう。」
「大違いです、先生。」イチローは答えた。「いいですか、世界鉄道に関する関連諸条約によって、世界各国は世界鉄道の敷地内に関しては、自国の主権を及ぼすことができないんです。簡単に言えば、ここから先の砂利道は、中国ではないんです。」
「私は今あなたがおっしゃった条約については寡聞にして知らないのですが、ここから先の砂利道を調査することで何か問題が発生するのですか?」
「勿論です。つまりは他人の土地を許可なく掘り返すことになりますから、重大な国際法違反です。ともすれば貴方がた研究者たちの手には終えない国際問題にも発展しかねません。」
「いいですか。」南条先生は諭すように続けた。「この遺跡の発掘は、学術的にも価値の高いものなのです。目下我々が発掘を行っている道の発掘いかんによっては、中国史が塗り替えられる可能性だってある。それだけ重要度の高い遺跡なんです。」
「仮にそうだとしても、我々の敷地内を調査するのならば、我々の側の調査許可を別個に得る必要があります。」全く動じない様子でイチローは続けた。「まずそれをしてからでないと、話は先に進みません。」
「では、今すぐにその許可を申し願いたい。失礼ですが、許可はどこに問い合わせれば良いのでしょうか。」
「無理だと思いますよ。」イチローは肩をすくめて言った。「世界鉄道の総本部はパリにあります。原則的には、あらゆる発掘調査の許可依頼はすべてパリの本社の許可を得る必要があります。短時日で許可が下りるとは到底思えません。」
「パリ・・ですか・・」さすがの南条先生も唖然とした様子だった。「中国に支部とか、そういうものはないのですか?」
「中華支社の本部が北京にあります。この近くだと洛陽駅に中原支部の分局がありますが、先ほども申し上げましたように、最終的な許可を下すのはパリの本社ですから、発掘の許可が出るのは数ヶ月、ともすれば一年近くかかる可能性だってありますよ。」
「失礼ですが、ご冗談をおっしゃっているわけではありませんよね?」
「勿論、至って真剣です。」グラサンをかけたイチローは如才ない笑みを浮かべた。
「・・・どうしましょうか。」南条先生は隣の教授に困った表情で助けを求めた。
「とりあえず、許可を依頼するとしても、どのような手順を経るべきか、鉄道側に問い合わせる必要があるでしょう。どのみち今回の調査日程では発掘許可は下りないのですから。」
「・・・そうですね。」先生は小さくため息をついた。そして再び男の方に向き直り。「分かりました。それでは、突然で申しわけありませんが、できれば今晩、遅くとも明日、洛陽駅で発掘許可に関する説明を受けたいのですが、大丈夫でしょうか。」
「ご説明だけでしたらいつでもお受けいたします。それでは、私から洛陽駅に連絡をしてみます。」男はそう言い、上着のポケットから携帯電話を取り出した。それで、議論は一応の決着を見たようだった。
南条先生たちを囲む輪には落胆の空気が重く漂っていた。誰の顔にも浮かぶ失望の表情を、興味深そうに報道陣のビデオカメラが覗きこんでいた。
「さあさ、皆、持ち場に戻った、戻った。」俺のグリッドを引き継いだ研究者が手を叩いて院生たちを散らばらせた。
「・・・どうするんですか、これから?」俺は尋ねた。
「さあ、どうだろうね。」研究者は荒々しく不満な息をついて。「とにかく、さっきの人物の説明によれば、この砂利道から先の調査は、今回の日程中には出来ないようだ。やれやれ・・・・」研究者は毒吐くような目つきで雑草の生える砂利道を睨んだ。「どうみても使っていないのに、こんなときだけ規則原則がうるさく物を言うんだからな。全く。」
俺は研究者とともに、暫し砂利道を眺めていた。やがて研究者が持ち場に戻った後も、俺とムヨンはそこに立っていた。
「久しぶり。」
肩を叩いたのは、イチローだった。
「あ――」
俺が思わずムヨンの視線を気にすると、イチローは小さな声でこう囁いた。
「大丈夫。特に何も話さないから。元気そうで良かったよ。」
それだけ言うと、イチローは莞爾と微笑み、止まっていた車の方へ歩いて行こうとした。
「チャンは」俺はイチローを呼びとめた。「・・・どうしてる?」
「え?」イチローは振りかえり、困ったように眉を上げて見せた。
「チャンって・・・・誰のことだい?」
そのイチローの言葉に、俺は声が出なかった。再び俺の喉が震える前に、イチローを乗せた車は去っていってしまった。
・・・今、イチローは、何て言ったんだろう。
信じるには、あまりに信じられない言葉を言った。イチローは。
「龍也。」後ろからムヨンの声がした。「行こうか。俺たちも。」
「・・・そうだな。」
俺は振り向いて、ムヨンが鋭い目で砂利道を眺めているのに気がついた。穏やかな笑みの似合うムヨンの顔に似つかわしくない、思いつめたような、そんな張りつめた表情だった。